すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

大きな存在を心に抱く意味

2014年11月30日 | 読書
 花巻の野口塾で,野口先生が「硫黄島」「栗林忠道」を話題として取り上げられた。
 もちろん「硫黄島からの手紙」という映画は見ている。
 そして何より,先ごろ読んだ佐々木常夫氏の新書『リーダーという生き方』に,数ページそのエピソードが引用されていて,印象に残ったので,先生の話がより一層響いてきた。


 家に帰って,改めてその本を探し部分を開いてみた。
 先生が紹介された本『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(梯久美子 新潮社)が載っており,史実など講座の折のデータになっていることがわかった。
 
 改めて佐々木常夫氏が,いわゆるこのリーダー本の最後に,栗林忠道を選択した部分を読んで唸った。

 私が買った新書はポケット版なのだが,単行本としての初版を執筆するときに,栗林中将のことを入れたいと考えたが,断念したというのだ。その訳をこう記している。

 そのあまりに壮絶なリーダーシップについて,適切に表現することが難しかった


 再チャレンジとして,新たに項目を入れて記したわけだが,その訳をこう書いている。

 この書き振りで語り尽くせるものではない。それにどう考えても,自分自身が成し遂げられるレベルのリーダーシップではない。しかし,それでも,栗林中将のような存在を心に抱いていることには大きな意味があると思う。


 佐々木氏は,栗林中将のリーダーシップとして三つのことを挙げている。
 「卓越した現実把握力」「的確なミッションの設定力」「断固としてやりぬく意志」…こう挙げてみれば,いかにもという表現になるが,実は「極限のリーダーシップ」の「根源」として次のように締め括っていた。

 他者に対する真摯で温かいまなざし

 自分にもできるかもしれないと思いつつ,それを徹底させることの難しさを噛みしめていくことが「心に抱いている」意味かもしれない。

マインドセットに効く本

2014年11月29日 | 読書
 「2014読了」127冊目 ★★★

 『14歳の子を持つ親たちへ』(内田樹・名越康文  新潮新書)


 以前,この二人の対談本は読んだことがある。
 『原発と祈り』である。面白い組み合わせだと思った。


 この新書の存在は知らなかった。初刊より9年ほど経つが,けして古さは感じさせない。
 取り上げられるのは親子関係だけではなく,幅広い世相だが,事態はそのときより深刻になっているだろうか。
 表面上は似たようなものでも,おそらく少しずつ確実に,由々しき方向へ動いているのかもしれない。

 しかし,この本の(というよりこの二人の)スタンスは,基本的にこの文章に表れていると思う。そこに共感できるならば,わずかな光明はいつでも見いだせるというものだ。

 教育制度や家庭制度そのものを改善するのはたいへんな手間と時間がかかるし,どう変えるかについての社会的合意の形成も困難である。しかし,学校や家庭にかかわる個人が自分のマインドセットを切り替えるということだけなら,誰にでも,極端に言えば,その日のうちにもできる。(内田)


 さて,話題は名越先生の臨床経験との随時付きあわせられながら,かなり広範囲で,興味深いものが多かった。

 特にディベートを例に,コミュニケーションのことについて語るところが,予想された論述ではあるが刺激的だった。

 ディベートなんて,コミュニケーション能力の育成にとっては最低の教育法だと思いますよ。

 ディベートという手法に一定の効力を感じる自分だが,内田教授のこの物言いにカチンとくるわけではない。
 おそらく内田教授などはディベートをやらせれば,日本でも屈指の存在なのではないか。それだけの幅の広さに魅力があるのだから。

 基本的に「ぐずぐず堂々巡り」していいんだ,言葉に詰まったり,わけがわからなくなったりする過程が大事ということを強調している。ところが,こんなふうにも言う。

 それと同時に,どこかでその終わりなき呟きを断念することも教えないといけない。

 つまりは,相反する二つの忠告を持っていなければならないということだ。

 「言葉を探してごらん」
 
 「言い切りなさい」


 コミュニケーションというものの広さ,複雑さを示しているようで象徴的だ。



 最終章で「一番大事なのは『ルーティン』」という話題が出てくることも,初等教育に携わる者にとっては,励みになる。

 きわめて限定的な場と時間の中で,しっかりルーティンを組み立てていくことが基本になる。「ルーティンという土壌」という表現は,家庭はもちろん,学校の根本的なことについて語っていると思う。

 だからこそ,毎日何をしているかが問われるのである。

確かなものを見抜き,愛でていこう

2014年11月28日 | 雑記帳
 某検定協会の情報誌を何気なく見ていたら、「グローバル社会を生きるために 何を学び、何を考えるべきか」という座談会があり、読み入ってしまった。

 鼎談であり、メンバーは大西泰斗氏(東洋学園大教授)鳥飼玖美子氏(立教大教授)そして成毛眞氏(HONZ代表)である。

 英語教育に関しての専門家二人と、稀代のビジネスマンという組み合わせだが、某協会であるから、なんとなく「母語重視」という結論の予想はついた。

 ただそこに収束する過程での話は、さすがにオーソリティとしての識見があふれており、興味深かった。


 英語教育の内容の改革を強く提言する大西氏。

 8年ないし10年を費やして現状の能力というのは、費用対効果を考えれば大きな疑問が生じます。


 かつて小学校への英語教育導入に強く異を唱えた鳥飼氏。

 今は英語が特殊な位置に上り詰めてしまっていて、日本人は英語に対して冷静でいられない。


 外資系企業に勤めた経験から、英語使用の現状を鋭く突く成毛氏。

 その知識なり専門能力を持つ人間でなければ、話す相手の外国人にとっては意味がないのです。


 こうした言辞は、以前からもあった気がするが、改めて私たち日本人が英語を学ぶ意味や意義を考えざるをえない。

 加えて語られる、母語のコミュニケーションの大切さは言うまでもない。そして、私たち自身が母語の豊かさに本当は気づいていないのではないか、と思わされる例も紹介されている。

 「区別」「分別」「峻別」を使いわける場面やニュアンスの違い、魚を「捌く」という語に込められる「分ける」という感覚など…。


 大西氏が言うように、結局のところグローバル化は「平板化・均質化」であり、見方によってはつまらない世界観である。
 その中で生きていくためには、他との違いに目をつけていくことこそ重要になる。

 それも個の違いばかりが強調されるが、個を支える家庭や地域や国の持つ独自性こそが初めにあることを忘れては何も育たないだろう。

 流行を追うことでなく、不易の部分にあるもの。
 成毛氏が言うところの「社会の変化に左右されない力」に通ずる確かなものを見抜き、家庭で、地域で、国家で見つめ、愛でる必要を強く感じた。

30万アクセス前史そして慣性へ

2014年11月27日 | 雑記帳
 このサイトを開設する前に、以前入っていたプロバイダーを利用して初めてのブログ「すぷりんぐ+α」を作ったのが、2004年の夏だった。
 初日のデータは残念ながら探し出せないが、翌月分からは投稿した原稿があった。
 台風接近に伴う臨時休校に関わり、「判断する機会」と題して、次のように結んでいた。

 そうした場面を自力で切り抜ける経験が必要なのではないか。
 守られた場だけの、判断する機会で何が育つというのだろうか。(2004.9.1)



 研修として、隣地域に住むある方を訪ねたことがあった。「自由人は語る」と題して4日間も続けてレポート風に書いたことがあった。
 その結論めいたことは、初日に既に書かれていた。

 自由を得るためには、仕込みが必要だ。
 自分のしたいことを実現しようとすれば、時代の流れを読む冷静な目と、暮らしを成り立たせる周到さが用意されていなければならない。(2005.1.31)



 正月に見たテレビ番組に、かつて同職した先輩教師の姿を見つけた。若い頃のエピソードを見ながら、時代の流れを噛みしめつつ、教師のありようについて考えてみたことがあった。「桜を相手に自問自答」と題した文章である。

 それは桜でなくても、鉢植えの小さな花でも、教室の黒板でも構わないのだが、放課後のそうした自問自答の中で、明日の学校の空気は作られていく気がしている。(2006.1.1)


 こんなことを書き連ねていたブログを閉じ、こちらへ統合したのは、正確な日付は特定できないが、2007年2月か3月だ。
 その頃は、読書と教育を、というように考えたのだが、いつのまにやらいわゆる雑記がずいぶんと幅を利かせてしまった。
 ピントのぼけた文章をそのまま載せてしまうことも多いと自覚しているので、そろそろと思ってはいるが…この決断力の無さが長続きさせたのかもしれない。

 とにかく30万アクセス超え(PVは3倍強)、訪問してくれた方々に感謝である。

「いのち」を喜ばす「食」がある

2014年11月26日 | 読書
 「2014読了」126冊目 ★★★

 『食といのち』(辰巳芳子  文春文庫)


 四人の識者との対談が内容であるが、巻頭に写真ページとレシピが載っている。
 その冒頭の文章に、少しどきっとした。

 いのちのしずまる方は、氷を欲しがりなさるときく。
 (略)逝く方への美味は、言葉の無力を補う。



 この文庫に収められている対談の話は、つまるところ、この文章の精神に収斂されていく内容にほかならない。
 つまり、「生」とは何か、「食」とは何か。

 生物学者、看護師、小児科医、そして倫理学者、どの方との対談も深く、広く、そして乱れている現実への問題提起にあふれている。

 「動的平衡」で著名な福岡伸一教授との対談は、特に得心がいくものだった。
 食べることほど、身体の「動的回転」を現しているものはないという。その意味で言えば、何を、どう食べるかという「質」の問題は、自分の「生」そのものであるとも言える。
 もっと単純に言えば、生はカロリーで計算できるものではないということだ。

 私たちは、口から入れているものの正体、歴史にもっと気を配る必要があるだろう。
 いわゆるファストフードに対するスローフードの考え方は、流行り言葉ではなく、生きるための本質を提起していることを思い起こしたい。

 福岡教授の言葉で、心したいものがあった。

「観」の一字は「観る」という意味で、ものごとをどう観るかですよね。
 で、その認識はどこから来るのかというと、たぶん「知る」より以前に「感じる」ということが先にある、と私は思います。



 これは、教育現場にとっても、重い言葉だと思う。
 出発点に「気づき」をおくという発想は、子どもを育てていくうえで、かなり優先度が高いということについて考えさせられる。


 川嶋みどりという著名な看護師の方との対談で語られた著者の言葉は、案外わかっているようで、医療の現場では実行されにくいものだなということがわかった。

 患者さんが召し上がるのは栄養じゃないんですよね。ものを食べるということは、人間が人間らしくあるための根源的な営みですから。


 そして倫理学者竹内修氏が、引用したこの著の冒頭の文章を、こう価値づけていることは、まさに「食といのち」の結論と言ってもよいことだ。

 この“よい食べもの”によって、“いのちの肯定”ができるからです。
 “いのちの確認”といってもいい。



 先月、路上の直売所で買ったササゲの美味しさには素直に感動した。
 たくさんの「いのち」、それは自分であり、生産者であり、ササゲそのものであり、それらが喜んだ出来事だったと思う。

 そういうことをきちんと表現していけば、もっともっと喜ぶ「いのち」があるはずだ。

饒舌さは,影を濃くするためだったか

2014年11月25日 | 読書
 「2014読了」125冊目 ★★★

 『影法師』(百田尚樹 講談社文庫)


 連休中に読む文庫本を、と思って馴染みの書店で手に取った。
 作者の文庫はたいてい読んでいるが、「時代物」だったのでちょっと躊躇っていた一冊だった。

 しかし読み始めると、そこはさすがの百田尚樹である。
 ぐいぐいと物語の中にひっぱりこまれてしまった。


 時代物は「蜩ノ記」以来だと思うが、比較するとずいぶん違うなと感じることがあった。
 こちらが「饒舌」であると感じたのだ。

 説明的とはいわないが、人物の心情なり、動作なりがより詳しく書き込まれている気がした。質がどうのこうのは評価できないが、これは作者のスタイルなのだろう。
 仮にこちらも映像化すれば、ずいぶんと「蜩ノ記」とは違った印象になるかもしれないとも感じた。


 ところが、ところが…と後半になって思ったことがある。

 この話の筋は、下級武士がその境遇や様々な出来事を乗り越えて、一国の家老まで上りつめていくまでの友や周囲との交わり、関わりと言ってもいいだろう。

 そこに、主人公とかけ離れた人生を歩んでしまった一人の武士が強く関わるのだが、それが最後にとてつもないほど意味を持つ存在であったことが明かされるのである。

 時代劇によくありがちな、対照的な二人を描いているようで、実はそうではない。
 これがまさしく百田マジック的なところで、饒舌に感じた話の展開も、実はその終末に向けられた布石だったと思わせる。


 あまり気にとめていなかった題名『影法師』の意味を、改めて調べてみると、実に趣が深い。

 光が当たって、壁・障子・地面などに映る人の影

 つまり、光がその人に強く当たれば当たるほど、影はよりその濃さを増していくことになる。
 二人の人生がそんなふうに象徴されていたわけである。

 「うーん、そうだったのか、百田尚樹」と、またその仕掛けに参ってしまった。

手はついてきているのか

2014年11月24日 | 読書
 「2014読了」124冊目 ★★★

 『”手”をめぐる四百字』(季刊「銀花」編集部編 文化出版社)


 「銀花」という季刊誌は書店で見かけたことがあった。
 自分には縁遠い世界かと思っていたが、著名人による肉筆でエッセイ等が書かれていることに興味を持った。
 「文字は人なり、手は人生なり」という副題も、なかなかそそられる。


 連載されたものの中から50人が選ばれている。

 最初は、かの白州正子。
 「手を合せる」と題された文章の中で、妙に響いてくる一節がある。

 心は心が思っているほどじっとしているものではない。

 夜半に目覚めてしまい、再び眠りにつけないときが続いているせいか、妙に実感がある。
 (「手を合せる」と落ちついてくる、とも書いていたが、残念ながら今日の未明も眠りにつけなかった)


 俳人永田耕衣が、自らの句を題名に掲げ、「掌」についてずばりと言い切っているのも見事だ。

 てのひらというばけものや天の川

 「手」の俳句といえば、啄木の「はたらけどはたらけど~」が思い浮かぶ。やはりあの場合も、「ぢっと見る」のは手以外考えられないような気がする。


 筑紫哲也は「手考足思」と、よく色紙に書いていたという。
 人間の脳以上の何かが、この末端には詰まっている気がする。



 まあそれにしても、肉筆は読みづらい。
 達筆なのか悪筆なのかわからないような字が躍っている。
 しかし、考えてみれば、それが肉筆であり、その読みにくさがその人そのものという気もしてくる。
 読みやすいということは、ある面で個性がないということ。
 それは文字もなかみも同じと言っていいかもしれない。

 そうすると、読みにくさと格闘することこそが、理解するという本質かもしれない。


 また自分をさらけ出して書くということは、他の読みやすさとは無縁であり、手はそのように動いていく…。
 お仕舞いの文章は、染織家の志村ふくみという方。この結びは、本全体を象徴している気がした。

 手はその人の願いごとに従いてゆくとも聞いた。
 こころざしかたく生きているその人に手はどこまでもついてゆくと。


冬の匂い,いい匂い

2014年11月23日 | 雑記帳
 先週の木曜は朝靄が深く,しばらく晴れなかった。金曜はぐっと冷え込んで地面にも霜が絡みついた。久しぶりに落ち葉などを撮ってみた。例年より遅いし,この秋は結構長く感じられ,少しは豊かな気分になれている。アメリカの寒波の映像を見たりすると,わあっと思うが,もうすぐここにも白いものはやってくる。



 土曜は朝から町内スポーツ少年団のレクリェーション交流会があった。「スーパー室内雪合戦」というゲーム。雪玉替わりの柔らかいボール,頭にはヘルメットと,安全対策はばっちりだ。それにしても雪合戦が競技になるとは…。本物の雪合戦は,どんなふうに結着がつくのだったか思い出そうとしたが,無理だった。


 開会式後の第一試合を見てから,コミュニティセンターで行われている「青少年健全育成町民大会」へ。作文が入選した子どもの表彰と発表がある。小学生から高校生まで十数人の発表を聞いた。ある学校の3年生が「〇〇(地区名)に生まれて,サイコ―」と題してベスト10を読み上げていく。この手もあると思った。


 もちろんそれは3年生なりに?カテゴリーが定まらず,結局繰り返しで人や行事や施設や自然に尽きるのだが,一つ面白いと思ったのが「いい匂い」と出したこと。匂いは,特に農村や漁村に生まれた子にとって,とても大切なものではないか。自然が好きとはよく言うが,そのバロメーターの一つはきっと匂いだ。



 勤労感謝の日の今日,午前に「佐藤信淵賞表彰式」があり,出席した。本校児童が大賞をいただいた。町の将来像を描く想像画には,子どもらしい夢を感じる。先行きの厳しさは大人の誰もが認識しているが,それに染めるのでなく,現実的にどの部分をどう実現していくか,話し合えたら素晴らしいだろうと感じた。

すべては「観を磨く」ことで

2014年11月22日 | 読書
 今月号の総合教育技術誌は、特集がまた「全国学力」かと少し呆れたが、それ以外に結構心惹かれる内容があった。

 まず巻頭インタビューの天野浩教授の言葉が本当にいい。

 学問とは人のために尽くすものである。

 このシンプルさ、力強さ。
 学校教育に携わる私たちは、もう一度噛みしめるべきではないか。
 大きく誌面が割かれているランキングの目的はいったい何なのか、深く考えてみるべきだろう。



 「アドラー心理学に学べ!」の特集では、上越教育大学の赤坂真二先生が、講演でよく言っている言葉として、下の名言?を紹介している。

 「勇気は人の為ならず」

 なるほど。「情け」だけではなく、行動は全て自分に返ってくるものだと考えると、どうあればよいか、どう声をかけるか、おのずと見えてくるのではないか。
 唾を吐くような行為であれば、それはいつも天を向いているということだ。



 ふだんはめったにページも開かないのだが「学校だより 文例と作成の要点」の文例エピソードが面白かった。

 自宅裏の工場の音が響いて眠られなかった女性作家が、夫に愚痴を言ったら、その夫がこう返したと書いている。

 「自分は聞こえる耳があって有り難いと思ったよ。また、一晩中仕事をしている人もいるのに、自分は蒲団の中で休んでいられることも有り難いと思ったよ」

 見事なまでの受け取り方の違い。筆者は「どちらが心豊かか」と問う。


 これは、野口芳宏先生の連載「道徳の授業『観を磨く』」と見事に重なる。

 前号は、針金のハンガーを見せて「見る角度によって、つまり見方によって見え方は違ってくる」ことから「観」のことを教えた文章だった。
 そして、廣池千久郎の伝記をもとに「善なるものへの憧れ」を持たせた後、自らの行動を振り返させて、具体的な反省を導いていた。
 こう結ばれている。

 望ましい観が持てるようにと自分を振り返りながら、自分の観を望ましく育て続けることを『観を磨く』と言う。

年の瀬に初めて知った流行語

2014年11月21日 | 雑記帳
 「新語・流行語大賞」のノミネートがあった。これも、年の暮れが近づいてきていることを感じさせる恒例のこととなった。しかし、50のうち四分の一ほどは聞いたことがない言葉だ。50代男性としてはどうなのかな?新語はともかく流行語と呼べるものはそんなに多くはないだろう。記憶に残るのは三つ四つだろう。


 そういえば、昨年は結構「豊作」だった気がする。「今でしょ」「じぇじぇじぇ」「倍返し」「おもてなし」…「あまちゃん」や「フナッシ―」も入るのかなと思う。ネット全盛時代ではあるけれど、今さらながらにテレビというメディアの強さを感じてしまう。ネットだけでは小爆発だが、テレビでどんどん膨れ上がる。

 ということで?

「2014読了」123冊目 ★★★

 『サラリーマン川柳 傑作選』(NHK出版 編)

 古本屋で見つけたわけではない。たまには笑ってみるか、と馴染みの書店で月刊誌などと一緒に買った。漫画家やくみつると、川柳作家らしいやすみりえという方が選者となっている。ベスト1は既に知っていた。「うちの嫁 後ろ姿は フナッシー」…作品としては平凡な気もするがペンネームが効いている。「段三っつ」。


 案の定、ベスト10には流行語が目立つ。5位「おもてなし 受けてみたいが あてもなし」7位「やられたら やり返せるのは ドラマだけ」9位「いつやるの?聞けば言い訳 倍返し」。五七調に合いそうな言葉だったと改めて思う。今年はどうかな。「ありのままで」「レリゴー」「ダメ―よダメダメ」…工夫が必要か。


 数多い入選作から、マイベスト3を選んでみる。近頃の存念にぴたりと当てはまるような作品ばかり。仕事編は「効率化 つるの一声 複雑化」。ネット編は「見せたいか 隠したいのか プライバシー」。うまい!と思った懐具合編は「除夜の鐘 税込価格で 108つ」。最後に「流行語 使いこなせず 年が暮れ」。