すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ビデオ編集の反省覚書

2013年06月28日 | 雑記帳
 ビデオ編集についての反省を書いておこうと思った。作成頻度が高くないので似たようなミスで時間を割いていることを感じた。性格によるもの、技術的に積み重ねがないことの二つの理由なので、後者を改善するために今わかっていることを書き記す。作成に取り掛かるときにこのページを見直すことにしよう。


 まず、撮り方である。カメラの性能は仕方ないこととして、ソニーハンディカム(もう今は販売していない縦型)はレンズが小さい分だけ、手ぶれに気をつけねばならない。基本中の基本だが、そのための片手による肘支えを意識的に使うことが大切だろう。またスナップを撮る場合の前後の余裕をしっかりとること。


 次に編集場面だが、画像と画像をつなぐトランジションは色々あり、あまり多種類にすると見づらくなる。いくつかに絞ること。そしてつなぎ目ではディスク作成の段で音声に影響がでることも頭に入れなければいけない。音楽を強調する時など、画像の大胆な切り替え変化を入れないこと。ソフトの機能次第なのかな。


 一番時間とお金のかかったディスク作成(DVD焼きつけ)である。これはPCや書き込みソフトとの相性があるのだろうか。DVD-Rは5枚以上使ったが全て画像がストップする場面があった。結局今回一番よかったのはDVD-RWのビデオ仕様のものだ。しかも2回目の書き込み。単なる偶然だったら泣く。

強欲爺さんのつぶやき

2013年06月27日 | 雑記帳
 一年生の研究授業は「おむすびころりん」。図書室にいって本を探してみた。数種類あるかと思ったら意外に少なく見つかったのは、松谷みよ子作の一冊だけ。隣の強欲な爺さん婆さんが登場する話でオチがいい。穴に入り真っ暗やみの中で婆さんがモグラになってしまい地面に顔を出したとたん、爺さんがポカリ。


 六月もあと残りわずかだが、こんなに天気に恵まれた日が続いたのは記憶がない。写真も結構溜まっていたが、フォトブログに移す作業にはなかなか取り掛かれなかった。今朝、5枚ほどピックアップして載せてみた。樹木や花、風景が中心だが、久々に子どもの(後ろ)姿の入っているショットも入れてみた。
こちらから。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-1b03.html


 学校菜園の植物も育ちは順調のようだ。今年は私も一つと思い、知り合いからいただいた「綿」の苗を植えてみた。水をかけていると「何?」と一、二年生が声をかけてくる。「うん、これはお札がなるんだよ。千円札とかね」というと「えっ」と驚き会話が弾む。しかし考えてみると品がない。まるで強欲爺さんだ。


 最近、物欲が薄れてきた気もするが、それは収入減への不安?で警戒しているだけで、実は淡泊になったわけではないのだろう。また新しいカメラを…などとアマゾンを漁ったりしているから。趣味嗜好品の購入の基本は「楽しめる」ということに尽きるはずだ。そうやって見渡せば、本当に残るのはわずかしかない。

半読者は怖れ,居直る

2013年06月26日 | 読書
 『自分の頭で考える』(外山滋比古 中公文庫)

 一応、読書をメインにしてブログを続けている者にとっては手痛い言葉と出会ってしまった。

 半読者


 著者の造語である。
 セミ・リテラシー(読み書き能力の半分)しか身につけていない読者を指す。文字は読めているのだが、その先は…という状態にあることだ。
 著者はこう書いている。

 半読者は、未知を知るための洞察、想像の能力に欠けているか、不充分です。すこし難しいことが出てくると、自分のことは棚にあげて、これはおもしろくない、難しいと言います。


 そして、わかりやすい表現、書き方が奨励されている現状がこれに拍車をかけているという。もちろん出版業の発達も絡んでくることだろう。
 結果、本を読む行為の意義づけの弱体を、こんなふうに斬ってみせる。

 本を読むことがかならずしも知性を高めたり、思考力をのばしたりすることに結びつかないのは、半読者層の存在のためです。


 「層」と名づけられるほど、強い影響を及ぼしている自覚など誰が持ち得るだろう。

 では、半読者の一人としてはどうするべきか。
 ・・・・何も思い浮かばないまま、ひょっとしたら「ゆっくり読む」「くりかえし読む」といった向き合い方しかないのでは、そんなことを考えてみた。

 確かに、難解さや文字の細かさなどに対する抵抗は人一倍強い自分だが、もしかしたら「時間枠」のようなことをとっぱらってみればもっと洞察なり想像なりが膨らむのかな、いやそれじゃ続けてきた「読書記録」は全く逆に働いたということか、それは寂しいなあ…

 半読者なら半読者なりに、単なるたし算の発想で増やしていくしかないだろう。いやひょっとしてかけ算だったら、益々読者レベルが下がっていくではないか。怖い。

 しかし、間違いなく我が国の賢者の一人に数えられるだろう著者の文章は、今回も読みどころがたくさんあった。
 自分なりに言い切れば、世間でいいと評価されていること、また常識的と言われる知識などを疑ってみることが、視野を広げ、思考力に通じていくと諭している内容だ。

 半読者は半読者程度のこの収穫をどこかで生かし、そこでまた何かを得よう、それでいいではないか。居直ってしまった。

指差せば,言葉

2013年06月24日 | 雑記帳
 土日は修学旅行のビデオ編集にかかりきりだった。動画が重いせいかトラブルが続き進まなかったが、どうやら目処がついた。何回も画像を見ていて、子どもは頻繁に指差すものだなあと今さらながら思う。面白い、珍しい事物を見つければ、周りの子に向け「ほらほらっ」と指差す。まっすぐに腕を伸ばして指差す。


 大崎善生の恋愛小説を久しぶりに読む。このジャンルはあまり好みでない。きっとそういうセンスがないからだろうが、話としてはふふんと思うだけで、ふううっという読後感をあまり得た経験がない。で、今回も全くそうだが、様々な知識は得た。知らなかった言葉…「系統維持」「ハンガリアン・ブルースカイ」


 「系統維持」は熱帯魚グッピーの飼い方に関わって、「ハンガリアン・ブルースカイ」は東西ドイツ統一の歴史に関わって、登場した言葉だ。浅学を棚に上げるが、こうした少し専門分野的な言語は、知らない者の想像力をかきたてる。教育界はあるかなあ…ぱっと思い浮かばないのは、どっぷり漬かっている証拠かな。


 いや普通の人からみたら、「言語環境」「教育相談」など私達がごく普通に使っている言葉でも、あれっと思うかもしれない。こうした出来方の熟語は教育分野で一般的な理解があっても、突き詰めれば本質論となっていく。例えば言語環境の範囲をどこまで考えているのか、学校現場でカバーできるのはどこまでか。

指させる星がいくつあるのか

2013年06月21日 | 読書
 『眺めのいい人』(伊集院静 文春文庫)

 途中から、なんだかこの本は読んだ気がするなあと思い始めた。

 週刊誌の連載でありそれを目にしたのかなと考えたが、手を伸ばす分野のものでもないので…改めて後付けに目を通すと、たしかに「文春文庫」としては初だが、「ゴマブックスの二次文庫です」という但し書きがついているではないか。買ったような気がする。

 年に1,2回はそんなこともあるようになった。
 好きな作家は決まっているし、範囲の狭い読書をしている身ではまあそれもそれ、出版業界へ貢献していると思えばいいか。

 さて、本の中身だが、二度読んでも、きっと三度読んでも、この本に書かれてあることは都会暮らしをした人でなければ、そしてちょっと「やさぐれた」ような経験を持つ人でなければ、わからないのではないかと思った。

 「眺めのいい人」と題されて各回に登場する人物がそうということではない。
この作家自身が無頼派と称される人だからそんなイメージをもったのかもしれないが、それだけではない。

 「とてもこの人にはかなわない」という言い切りの見事さ、人物の住んでいる世界、空気を切り取ってみせる洞察の鮮やかさ…こういったものは、天性と同時に、辿ってきたぬかるんだ道で喘いだ経験がもとになっているはずだ。
 その意味で伊集院という作家は、こうした肩の凝らないエッセイ風の文章をさりげなく書いても、他とは違う自分自身のワールドを展開させて、読み手を惹きつける。

 「眺めのいい人」とは、「あとがき」から拾うと「星明かりを持ったまぶしい人」だ。
 無数にある星の輝きに多くの人は目を向けている。しかし、その眩しさを放つ輪郭までしっかりとらえられるかと言うと、それは凡人の目ではできはしまい。
 星明かりを感ずることはできるが、それは「見えている」とは明らかに違うだろう。

 「あの星は、○○だよ」と指させる星がいくつかあるのか。

 つまり、自分にとって「眺めのいい人」は何人いるか。

 その人のことをどれほどの親愛を持って語れるか…歩んできた道が問われることになる。

「田中当番」から「はつがしら」

2013年06月20日 | 雑記帳
 去年の日記(といってもメモ程度)を開いたら,「田中当番」と書いていた。えっえっと思ったが3秒後解決。修学旅行でクリネックススタジアムにいったことだ。つまり「当番」は「登板」の誤記。線を引いて直そうとして,ちょっと「登板」という字がひっかかる。マウンドのプレートに登っていくことなんだあ。


 「登板」のように「登●」という熟語は結構ある。「登山」「登頂」「登用」「登場」それに「登録」「登記」などもある。まあ職業上一番身近なのは「登校」。なぜ学校へ登るのかと言えば,昔,学校は高台などにあったからという理由を聞いたことがあるが,その信憑性は?「登城」の類であるのは確かだろう。


 さて「登校」に対して「下校」,これは「登山」の「下山」と同類だが,「登板」は「降板」だし,「登場」は「退場」だなと考える。一つ一つを詳しくみると結構面白そうだな。しかしやはり学校は「下」でいきたい。「退校」はある言葉なので認めるが「降校」ではイメージが違う。降ろされるか,下りるか,だ。


 「癶(はつがしら)」という部首は「字解」によると、両足をそろえる形で出発しようとする意味をもつ。「豆」が脚の高い器やふみ台の形を表わしていて、その上に両足を揃えるから、「登」はのぼる、あがるという意味につながった。「登校」とは学校へ向けて出発してくることだ。登りがいのある施設でありたい。


 それにしても「癶(はつがしら)」を部首とする漢字は少ないものだ。「発(發)」と「登」それに「癸」。この三つしかない。しかしそれに比べて、いやそれだからと言おうか「発」のつく熟語はかなり多い。学研漢和辞典によれば「●発」は37個「発●」はなんと70近くある。新しさを求める心の発露か。

痛っ

2013年06月19日 | 雑記帳
 昨日はプール清掃の日。子供たちの様子を撮ろうと,カメラを持って外に出た。非常階段からのアングルがいいはずと,鉄製のその階段を昇ろうと踏み出した一歩目で,右足をぶつけてしまう。たいしたことないなと思ったが,数時間後,なぜか中指だけが青く腫れ,ずんと痛みが増してくる。この冷やし方は難しいぞ。


 いつもより若干早く帰宅できたので,修学旅行のビデオ編集に取りかかる。この作業は長い時間を要するので,ちょっと覚悟している。ぶっ続けで2時間半。画像が重いせいか時々「応答なし」がでるのを気にしていたら,繰り返しの慣れで集中を欠き,痛恨のクリックミス。今日の分の作業データが消失した。ああ痛っ。


 「痛い子」という表現がある。自意識過剰とか空気が読めないとか,そんな雰囲気?を持つ子に対して使うらしいが,きっともともとは「痛々しい」だろう。子どもたちの「ふりかえりアンケート」を今集計していて,一人一人の回答を見て,おっと思うことがある。その多くはなんとなく「痛い」に近いと気がついた。


 最近のテレビで「痛い」と感じるのは,NHK『あまちゃん』!天野アキではなく,その母春子である。どうしてこんなに怒るのか,自分の若い頃の感情をまだ持て余している部分があり,それをぶつけてしまうような…種類は違っているが似たような人も多いか。この役を小泉今日子にやらせた?クドカン,見事。

悪循環を直視して語れ

2013年06月18日 | 雑記帳
 良くも悪くもここ数年は、彼の言動から目を離せないだろう。
 いや離してはいけない。
 某大阪市長である。

 例の従軍慰安婦問題をめぐる発言は大きな批判を浴びた。
 個人的にマスコミが取り上げた程度のことしか見聞きしていないが、どうも今一つつかみきれない気分が残っていて、ちょっとモヤモヤしていた。

 ところが、昨日の朝刊に掲載された「論考2013」を読み、なるほどと納得がいった。
 萱野稔人(津田塾大准教授)という方の文章である。

 つまり「日本だけが非難され続けるのはおかしい」という主張のもっともらしさは「愛国」であり、それは日本社会の中で必ず一定の支持を得る。
 しかし同時に、その「愛国的」主張は、国益を損ねてしまう。
 主張のなかみが、従軍慰安婦のようなデリケートな問題においてはなおさらである。

 萱野氏はこう書く。

 まずは慰安婦問題において、某氏の発言を理解し共感するような「日本の味方」は、国外には誰もいないということを肝に銘ずるべきだ。


 愛国者として真っ当(に見える)な主張をいくらしたところで、他からは認められるばかりか、なんとか免れたいという姿しか伝わらないのである。

 喩えた文章がわかりやすい。

 スピード違反で捕まったドライバーが、警察官に「ほかにもスピード違反をしている人がいるのに、なぜ自分だけが捕まるのか」と抗議すれば、当然ながら「反省していない」と見なされるだろう。

 交通違反後の一言の影響でさえ想像すれば結構シビアなのに、外交や国家間の利害が絡む問題における不用意な発言は、あまりにも重く圧し掛かってくるのではないか。
 萱野氏は「逆説の構図」と括り、その悪循環を直視するべきだという。

 問題なのは、某市長の支持、不支持に関わらず、そういう自己弁護の感情は少なからず誰にもあるということだろう。
 それは国際情勢の中で明らかに抑圧されていて、そのやり処を無意識のうちに多くの人が求めている。

 しかし、酒場における駄弁であっても感情のまま語ってはいけない弁えるべき事柄だと思うし、まして民を代表する者が、それを幼稚に代弁するのか、コントロールしながら対話を重ねようとするのか、その姿の見極めは本当に大事だと言わなくてはいけない。

 もうこの言い回しも古いが、「劇場型」に身を委ねてはならない。

警句を吹き込む「大人」の著

2013年06月17日 | 読書
 『清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ』(阿久悠 新潮社)

 著者は「はじめに」をこう締めくくる。

 ぼくら民族の子どもたちは替えられない。とすると虚無の心に警句を吹き込む努力は全大人がすべきである。


 この著は、平成16年4月から亡くなる直前の19年6月まで産経新聞に連載された文章が再構成されている。
 稀代の文筆家の一人といってもいい阿久が、おそらくは余命の少なさを感じつつ、言っておきたいことを書きつけた印象がある。

 最近、これほどページの端を折った本はない。

 新聞連載であるので、政治や事件、世情のことが取り上げられ、そういえばあの時こんなことがあったっけなと多くのことが思い出される。
 しかし、それ以上にそれらの内面、心底をずばりと描いてみせる筆力の凄まじさを感じた。


 例えば、この表現の的確さである。

 この国の失敗は引き算ではなく、マイナスの掛算であるから、持ち点が如何に多い人もマイナス点になってしまう。

 例えば、この比喩が教えてくれる切実な実感である。

 いつの間にか必要以上の酸素を幸福と思うようになり、息苦しくなっているのが現代である。人間は酸素の量を確認するためにも、懐かしい時代を持つ必要がある。

 この教育論が指摘する内容は、今現場で大切にされているだろうかと思う。

 推理とは謎解きだけでなく、迷うことを楽しみに変えることでもある。答えが出ないことに苛立つのではなく、その謎の深さとつきあうことである。この習慣がたぶん子どもたちを救う。



 流行歌の世界に君臨した著者の視線は、多様であり上下左右を行き来しながら、人間の心情にある機微を見事に描いたのだと思う。そうでなければ、あれほど多くのヒット曲を、あれほど広範囲の歌手に提供できるわけがない。

 それを支えたのは「感」をどこまでも失わない覚悟なのかなと、読みながら思った。
 意識しなければ、どうしようもなく「感」が削がれていく現在と未来。
 阿久はずっと前からしっかりと見つめ続けていた。


 さて、野球ファン、高校野球ファンと知られる阿久だが、その時期にワールドカップがあったこともあり、サッカーにも触れている。
 いやはや見る人は見るものだと恐れいった言葉がある。
 どうしても世界に追いつけない日本サッカーがまず自覚すべきは、ここかと思わされた。

 恵まれた環境で「蹴る」で始まったか、恵まれない場所で「運ぶ」でスタートしたかでは、違うスポーツになる気がする。

鳥瞰は図に示されるからこそ

2013年06月16日 | 雑記帳
 修学旅行の引率で訪れた博物館で行われていた特別展示が面白かった。

 美しき東北の街並み  鳥のまなざし~吉田初三郎の世界~
 http://www.thm.pref.miyagi.jp/exhibition/detail.php?data_id=477

 よく目にする鳥瞰図ではあるが,一挙にいろいろな図に接する機会がなかったので,興味深く覗き込んだ。
 吉田初三郎という名前も初めて聞いたし,こうした地歴的なことに詳しいわけではない。こういういわばまったく素人をも惹きつけてしまう力が,この展示(鳥瞰図という方法が大きいだろうが)にはあったように感じる。

 吉田の手法は「ランドマーク的なものを目立たせる」とあった。他の製作者たちにもそれぞれ何かしらの手立てがあったのかもしれない。
 そんなことをつらつら思っていたら,この鳥瞰図を実際に描くときにどんなことに気をとめていくのだろう,原則はあるのだろうか,とまたいつものように頭の中で指を折っていくような感じになった。


 まず,鳥瞰と鳥瞰図は違うということ。
 つまり,実際に空中から見た景色そのものが描かれているわけではない。
 視点は定まっていても,実際に見えていないはずの部分も描き込まれている。それが図としてのわかりやすさになっている。

 実際に鳥瞰図で最初に決めていくポイントは,線路,道路,川…というところだろう。これらが,どんなふうに街を取り囲んでいるかをアウトラインとして示す。直線的,そして環状的なラインを作る。
 それからランドマーク的なポイントを置いていくことになろうか。


 これはやはりデザインなんだなと思う。
 となると,様々な計画づくりと共通するし,学べることも多い。
 大事な要素がみんな詰まっている。

 鳥瞰を図に表す時に,一視点のみではいけない。
 鳥なのだから動いて見た事物も,その位置にあることをしっかり示さねばならない。

 そして,何が基準になるのか,全体を取り巻いているものは何かを見定めて輪郭を示さねばならない。そして重点となるポイントが置かれる。

 さらにこの東北各地を描いた鳥瞰図の多くに,隣市や仙台,東京,北海道などが遠くにぽつんと,しかし確実に示されていたように,何にどこにつながっているのかも明らかにしておくことだ。

 そして何より,鳥瞰は図に示されるからこそ人を惹きつける。