すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

それにしても昭和。「卒論」…

2024年03月20日 | 教育ノート
 学校に勤めた者にとっては、やはり三月は特別な月だ。離れてしばらく経ってもこのシーズンは連日TVで卒業式などの話題になると心が寄る。今朝もニュースを見ながらコーヒーの準備をしていて、画面を観つつ、妻と一言二言話していたら突然思い出したことがあった。そういえば「卒論」を書かせたことがある。


 採用され3年間受け持った小学生13名に、卒業間近の三学期にテーマを決めさせ原稿用紙20枚ほどを目途に、一つのテーマで文章を書くことを課した。それに厚紙で表紙をつけさせた。たしか教室ではない別室の黒板に出来上がった冊子を並べた。その映像がふと浮かんできたのである。きっと発表会だったろう。


 「卒論」実践はきっと先行された資料があり真似したと思う。四年生のときからずっと日記を続けてきた学年であり、書くことは厭わなかったし、難儀した記憶も浮かんでこない。町で一番標高の高い場所にある、いわゆる僻地の小規模校。子どもたちは個々の問題を抱えつつも純朴であり、素直に鉛筆を走らせた。





 どんなテーマを選んだのか。探してみればあるだろうか…それにしても昭和だ。思い入れもたっぷり。小中併設校だったからか、経済的事情か覚えてはいないが卒業アルバムを作らなかった。それで離任する時に一人一人にアルバムを贈った。撮りためていた写真を既成の台紙に貼りつけたオンリーワンのものである。


 そのアルバムには生意気にもこんな一節が記されている。

「写真は『真実を写す』ということです。ここに写されたものは、その時その時のあなたの真実でしょう。真実に目をそむけないで、生きていってください。真実があるからこそ、そこに希望も夢も生まれてくるのですから… (以下略) 1982.3.30 沼」

 明確に分かるのは、自分用にも一冊作ったからである。かなり格好つけているが内容なし、という感じが可愛い(笑)。誰かそのまま残しているものか。あの子らも50代後半を迎えようとしている。

「虚構」を参照せよ

2023年01月16日 | 教育ノート
 文藝春秋古本(2011.8)の特集が面白い。1990年前後の講演記録で、松本清張から司馬遼太郎まで大物がずらりと10人並んでいる。なかでも、作家藤本義一の話が心に入って来た。藤本は「日常の言葉というのは、三種類あるんですよ。それは事実の言葉と嘘の言葉そして虚構の言葉、この三つです」と語っている。



 授業参観に行って帰ってきた母親が子どもに声がけすることを例に、その三通りと説明していた。「一番多いのが嘘つきのお母さん」で、教師から言われたことにしてもっと頑張るようにはっぱをかけるのだと言う。そういう場合、子どもの心理としては先生から親への告げ口と受けとめ、徐々にやる気をなくしていく


 「次は、事実ばかりのお母さん」で、そのまま教師の様子に関しても良くも悪くも思ったままに口にする。大人の見方や感覚を押し付けられたままに、子どもは真似ていくという。率直な物言いの良さはあるとしても、好悪の感情のままに評価した先生の様子をそのままこどもに伝えることは、大人はしてはいけない。


 藤本は「虚構でいいんですよ。子どものために文章を、物語を作ってあげたらいい」と語る。古い時代から詩人は「虚構の下に事実はないけれど、虚構の下には真実がある」と歌い続けてきたという。実際の場面であまり言葉はいらない。にこやかに帰ってくる。そして授業参観に行って良かったということを伝える。


 「この頃、とても頑張っている」と先生が肯定的に評価してくれた様子を、さりげなく伝えることによって、子どもの中に物語が生まれ、進むべき道が示される。そこからまたコミュニケーションが深まり、広がっていく。もちろんこの話は親子関係だけでなく、教師と子どもの場合もそっくり当てはまるのだと思う。

単純に測れない姿を見よ

2022年06月15日 | 教育ノート
 昨日の朝刊文化欄に久しぶりにK先生の文章が載った。数年前にかつて勤務した学校の職員等による集まりがあってお会いした折は、多少足腰が弱っていたように見えたが、相変わらずにこやかにお話をされていた。今回のエッセイも非常に淡々としてはいるが、先生独特の観察眼を駆使され達意の文章になっている。


 プール清掃の季節…2009.6.16という日付がある

 K先生とは何度も作文の審査をご一緒させていただいた。印象深いのは、競技スポーツと作文審査の違いを語られたときのことだ。今、図書館ブログで続けている町文集作品紹介をしており、当時発刊代表だった先生の巻頭言も読み直す機会があり、懐かしく思い出した。同時にずいぶんと時代が流れたと改めて思う。


 先生は陸上競技の走り幅跳びの順位ならば、距離の測定は専門家でなくともできると書いたうえで、「子どもの詩や作文の審査となるとそうはいきません」と続ける。そして一篇だけ選ぶ「せり合い」になると、そこには選者の好みとともに「しっかり見分ける力量」が必要である旨を強調する。その「基準」は何か。


 公的な到達目標がありそれによって判断するのは表向きで、本当のところは「抽象的な枠の中におさまらないのが、子どもの作品なのです」と書き、結論として「子ども(作者)の姿がみえてくる作品」「その姿(よろこび、かなしみ、考えていること…))がよくわかるように表現されているかどうか」と作文の本質に迫った。


 もちろん、今も授業の中で「書く活動」は重視されているだろう。しかしいわゆる「生活作文」や「日記」のような文章を書かせる機会は激減していると予想される。文集作成の頻度は明らかに減っている。「自分のことば」をじっくりと文字表現させる場の衰退は、「単純に測ることのできる世界」の増殖を強化する。

今さら「総合」を語っても…

2022年02月19日 | 教育ノート
 昨年秋から何度か出向いた高校の、いわゆる「総合」の発表会があった。町の歴史をレクチャーしたが、自分にとって勉強になった点は多い。まあ、それより高校生の学びがどの程度だったかが肝心だろう。しかし短い発表であり何とも評価し難い。ただ、他グループを含め中身を概観し考えさせられたことがある。



 それは「総合的な活動の時間」そのものについてだ。現在の流れを知らぬまま書き散らそうと思ったのは、「総合」が始まった時代をリアルに覚えているからだ。その時間の創設を当初は批判的に見ていた。教科学習でできるという考えを持っていたのだ。しかし、担任を外れた自分が面白く取り組めたことも事実だ。


 小規模校に教頭で勤務した時に総合が始まった。その折はストレートに、「実態に即し」「児童の興味・関心」に照らし合わせた異学年コース別活動を行ったのだ。私は、「秋田弁・昔話」を担当した。当時はまだ手探り状態で「内容を明確に示せ」「福祉や国際理解は必須だ」等々様々な議論があったと記憶している。


 学んでいたネットワーク活動の実践家の影響もうけ、個人的には小学校では「ミニ総合」の繰り返しが一番効果的と考えるようになっていた。「テーマを決め、調べて、表現する」というユニットを、様々なジャンルで取り組ませ積み重ねれば有効に働くはずだ。活動スキルを身につけさせつつ、レベルを上げていく。


 発達段階に沿って、テーマを広げたり深めたりできるのではないか。こうしたことを小学校3年生から継続的に行えば、まとまった能力形成は可能だと…。この個人的な「絵に描いた餅」は、現状とあまりにかけ離れた気がする。今、高校生の発表を垣間見ただけだが、明確に言えるのは「問い」の連続性の薄さである。


 結局、大本である教育行政も揺らいでいるし、現場で指導する側の「総合」の捉え方がまちまちで、形骸化したといっていいだろう。総合の理念は、盛んに言われている「探求」から始まっているのに…。もし今自分が高校生を相手にするなら「一点突破!」。ポイントを絞りに絞って…あっ、また見果てぬ夢でした(笑)。


先が見えない現実を楽しむ

2022年02月11日 | 教育ノート
 アドリブということにまったく弱いと自覚しているからだろう。『AI支配で人は死ぬ。』の養老氏の語りで、もう一つなるほどなあと思わされた言葉がある。

 よく人は「クリエイティブ」って言うけど、でも、その本当の意味は個性的なんてことじゃなくてね、自分の前に「先が見える道」と「先が見えない道」があったら、「より先が見えないほうを選ぶ」っていうことなんですよ。生きるって、そういうことなんです。


 学校教育で、いわゆる「総合」が始まった時に重視された能力・態度に「見通しを持つ」があった。自分自身も実際に指導にあたるうえで、大きな位置を占めていたと思う。「計画的・意図的」という方向は疑いないものだし、初等教育のねらいとしてふさわしいと今でも考える。しかし、あくまで俯瞰的に捉えねば…。


 11年前つまり2011年の2月11日の夜。あの年、久しぶりに横手にかまくらを観に行っていました。

 大きく括れば、科学と文学の違いのようなものだろうか。再現可能性を求めていくか、一回きりの単発性に浸るか。「ああすれば、こうなる」は人間の多くを支える考えであり、行動習慣だ。乳児期から良くも悪くもそんなふうに躾けられ、学んで、生命やコミュニケーションを保っている。ただ、それは片面でしかない


 初めて経験すること、予想と違うこととの出会いによって、子どもは認識を広げ、深め、鍛えられていく。親や教師など周囲の大人は、そうした出合いに周到な準備をさせ、ソフトランディングをねらって動くのが常だ。その加減は難しいが肝心だと誰でも思うはずだ。だが、今明らかに「過保護」は進行している。


 「学校の本質は予防だ」とかつてわが師が言ったことを覚えている。だからこそ現場は、それを踏まえつつ幅や深さを意識しなければならない。事細かに準備させ、対策を立てることに慣らされた者は脆い。成功体験や自己有用感の育成ばかり積み重ねても、はたして心身に「免疫力」はつくか。自明のことではないか。


 今ほど「先が見えない」と強調される世の中はない。だから「先が見える方へすがろう」とするか。いや「先が見えない」現実を楽しむ(工夫をしよう)と思うのか。これはやはり大人が姿勢を示すべきではないか。PCやスマホ画面に情報は溢れていても、現実の体と言葉で働きかけられるのは、傍に居る者だけだ。

いつかページを開くとき

2022年01月30日 | 教育ノート
 今、図書館ブログの内容の一つとして不定期ながら地域文集紹介をしている。そんなこともあり、家の書棚の古い文集を引っ張り出す必要が出てきた。
 案の定、ページをめくり始め、懐かしがったり読みふけったり…。



 「平成9年度」だから、まだ(?)25年くらいしか経っていないが、勤務先の卒業学年文集に寄せた手書きの文章を見つけた。少し気どってはいるが、「文集の価値」について少し綴っている。
 以前から思っていたことであり、似たような思いの人も多いだろう。時代遅れのような形で文集に拘っている自分の原点でもあるかもしれない。

・・・・・

 文集の価値は、時を経てから読むことにあります。
 例えば三か月後…三年後…そして三十年後、皆さんがこの文集を手にして読み直す時、どんな気持ちを抱くでしょうね。
 「ナツカシサ」を越えたものを見いだせたら、とっても幸せなことです。
 いや、丹念に読み込めば、きっと全員が見つけ出せるでしょう。
 かすかな淡い光に包まれて、目を凝らしても輪郭はおぼろげだけど、胸に温かな流れを誘い、君を励まし続けてくれるもの…それは、今、1998年春の、君の心そのものに違いありません。

 卒業おめでとう!本当におめでとう!
 そして、三か月後、三年後、三十年後…の君に問いかけさせてください。
 私の好きな俳句です。
 ある言葉を伏せました。
 その時、君は、どんな言葉を入れますか。

 わが胸に住む人(      )冬の梅


・・・・・・・

 後半に何故か俳句を登場させたのは、この子たちと俳句作りの授業をしたせいかなと想う。
 ほとんど可能性はないだろうが、偶然にもこの文章に目を留める子がいたとして、今なら直ぐに検索などして、その語を見つけてしまうだろうか。

 「なんだろう」と、ひと時思いを巡らす楽しみ方を知っていたら、それで十分満足なのだが…。

発掘する手を休めない人

2021年10月27日 | 教育ノート
 古生物・恐竜学者の小林快次氏のインタビュー記事を読んだ。そうした分野に興味があるわけではないが、語る言葉に惹きつけられる魅力を感じた。発掘調査の実績が抜きん出ている氏は、その秘密を「他人と同じことをしない、同じところを探さないこと」と言う。視野・研究の幅を広げるためのポイントに唸った。

『「自分がやりたいと思うことはあえてやらない」のも重要です。自分で「やりたい」と思うことは、放っておいてもいつかやるんだから、自分で「やりたくない」と思っていることをあえてやってみる。』


 20年前いやせめて10年前に聴きたかったと密かに思う。もちろん同様の言辞を聴き逃した可能性がずっと多いはず…。発掘調査という仕事の本質を突く次の言葉も印象的だ。「そうやって『ない』エリアをひとつずつつぶしていけば、確実に『ある』に近づくことができる」そこに失敗はなく、成功のみが見える。



 教育関係の冊子なので、子どもたちに対するメッセージも載っている。それは「三日坊主」のススメだった。「いまの時代、夢を持つことは難しい。むしろ夢より先に『好きなこと』を見つけるべき。」と語る。軽い気持ちで興味関心を育む環境こそが、いつか憧れの対象と出会える素地になると考えている。


 そうでなければ、上掲した「やりたくないことをあえてやってみる」姿勢を持つまでには到らない。そこに性急さを求めてはいけない。発掘には目標達成志向は似合わない。氏はインタビュー等で「抱負を語らない」。それは歴史に対する深い洞察力でもある。古生物・恐竜学者が言うからこそ、次の言は重みを増す。

「大切なことは、この瞬間瞬間に、自分の足で一歩ずつ、興味のある方向へ歩みを進めていくだけ。それさえできれば。もう何もいうことはありません。」

スナフキンは励ましになるか(笑)

2021年07月29日 | 教育ノート
 最近気にかかっていることの一つに教師志望者の減少がある。全国的な傾向のようだ。我が県も小学校は競争率2倍を切っていた。職を退いた者があれこれ口を出すのは少し憚られるのだが…。端的にいえば「魅力ある仕事」に見えないのが原因だろうか。学校に通い、教師という仕事をずっと見てきているのだから。


 昔、こんな話を聞いた。ある児童が「大きくなったら、先生になる」と志望を口にしたので理由を聞いたら、「だって職員室に行けば、いつも先生たちが楽しそうだから」と答えたそうだ。それを第一に挙げることの意味は大きい。教室で個々の教師が見せる構えは様々だが、集っている場の姿が物語ることは大きい。


 学校を訪問する指導主事が「職員室の雰囲気でその学校のレベルが分かる」と語ることも少なくない。それは多くの教員も納得できるのではないか。もちろん単なる仲良しグループを指しているわけではない。いくつかの視点があるが、しいて一つ挙げれば「こども個人の話題が行き交う場」になっているかどうかだ。


 先週、図書館を訪れた児童たちの引率として、かつて勤めた学校の子(今は立派な女性)がいた。講師勤務していて、今夏採用試験を受けたと話してくれた。当時からの頑張りは出色であり、ぜひ教員になってほしいと強く願った。今はもう廃校になっている小規模校だったが、あの優しくも逞しい雰囲気は忘れられない。


  こんなことまでしてもらつて…幸せなときでした

 個性的で優秀な教員が複数居た。束ねる私は新米だったが、楽しく過ごせた印象は強い。そうした姿が足を進ませたとすれば嬉しい。彼女に何か励ましになるものをと思って机の中を漁り、使っていない新品のしおりを「合格祈願」と渡した。しかし図柄は「スナフキン」。これって自由人、副業のススメになるのか(笑)。


スマホでは脳の強みを生かせない

2021年04月21日 | 教育ノート
 先月読んだ『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン 新潮新書)は印象深く、二つメモを残した。先日珍しく買ったビジネス誌の表紙には「スマホ利用者9割は『使い方が間違い』『頭が悪くなる』」と大きな見出しがあった。それは最近の脳科学分野で著書を連発している中野信子氏が書いた切れ味鋭い論考だった。

 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/6f100d724738646178d1a6c21cc5e088

https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/70e23e9b24f60f1e26d897d2e37fce00

 「スマホ脳が奪う脳の強み」という箇所は特に興味深い。「脳の強み」を「遺伝子と認知を組み合わせて重層的に戦略を立てられる」とする。「外部記憶装置」の役割をもつスマホが与える「認知の仕方」は、はたしてその強みを後押しするか。現況では9割が無理であり、スマホによる「最適化」によって毒されていく。


 つまり、PCでも同様だが自分の過去の検索、表示履歴によって、興味のある事項へ誘導されるのが常だ。それは結果的に対立する意見、直接関わりのない重要な言説などを避けていることになり、自分の「知的空間」を高度にするには、よほどの意識化が必要になってくる。これはSNSによるつながりも同様と言える。


 個人にとって都合のいいように「最適化」されるスマホによって妨げられることは何か。多様な生き方、考え方を直接体験する場や偶然の出会いがもたらす価値、そういったことが予想できる。自分だけの「認知の殻に閉じこもる」危険性は限りなく高い。だから率直に使い方をもっと俯瞰し、是正する必要がある。


 重視する学び方は「覚える」から「考える」へと強調されてきた。それは確かに方向として正しい。しかし知識や情報を得ることなしに、認知を変えることはできない。スマホなどからの知識で自分の世界は拡がったのか、逆に狭まったのか。「考えるための時間とエネルギー」は大丈夫なのか、きちんと見直さねば…。

三年目にメモを見直す

2021年04月15日 | 教育ノート
 デスク周りの片づけをしていると、以前の資料が目に入ることがある。図書館勤めも三年目に入ったが、初年度には続けて研修機会があり、多くのことを学び、メモを残してあった。今までとは違う環境だったので新鮮に思えたのだろう。しかし、人は忘れやすい生き物で(と言い訳か)、いつの間にか散逸している。


 こうした公共施設にとって、昨年度からの特殊状況の影響はかなり大きく、すぐに踏み出せない点も多いが、そのメモの断片を見直し、改めてこの先を見据えたい。


 「図書館は、本を届ける仕事」…もちろん運送という意味ではない。「本を貸すではなく、借りていただく」…これは卑屈にとらえず、あくまでも税金の有効活用のためにPRを強めるという意味だろう。専門家が語る「多くの町では8割が利用しない」実態があり、この現状から一歩踏み出すことが求められている。


 「図書館自体が地域の活性化を目指すものではない」…おそらくは役割として下支えが本筋なのだと思う。法律の定める図書館の意義を改めて読み直すことで理解できる。しかし「社会教育施設」としての、機能のさせ方は待っているだけでは叶わないだろうし、自ずと人を引き込み、目を向けさせる動きが必要だ。


 今重きを置くのは、一つには町の「スケールメリット」を生かすことだ。他施設や団体との連携も見知っている顔でやれることの長所がある。もう一つは「アウトリーチ」という考え方を生かしたいと考えている。ハード面では困難が多いが、人的な面では小回りが利く。「本を地域の未来へつなぐ」ための仕事の幅は広い。



 これは昨春のお気に入り。町内の名所になりつつあるポイントだ。いいタイミングで撮れた。