すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

コトバの片付けしたら…

2024年03月31日 | 雑記帳
 図書館でのエントランス掲示は2020年春から始めた。コロナ禍黎明期(笑)の頃だ。詩の掲示は学校に勤めていた頃によくしていた。担任外になっても階段の踊り場にコーナーを作ったりしたものだ。図書館でするとなれば、当然読書紹介的な意味合いが強くなるし、詩に限らず「強いコトバ」を様々な本から探した。


 その年は毎月4つずつ掲示していた。児童用から一般まで並べている。ちなみにスタートの4月は「せいのび」(武鹿悦子)「今日はきのうの続きだけれど」(みつはしちかこ)「瞬間が生まれる時」(加藤登紀子)「幸運な言葉たち」(木島始)というラインナップだ。見返すと少しぎこちない。悩んだ割に統一感がない。


 5月の筆者だけ挙げてみると、中江俊夫、星野富弘、むのたけじ、樹木希林である。よく言えばバラエティに富んでいる。しかし、星野富弘の詩句はわかりやすいが、他は今読むと難しく思えたりする。反面、6月は明快な内容が多い。例えば、次の小池一夫の文章の一節も、語りかけ口調の文体とあいまってすうっと入る。

 本当に残念なお知らせですが、あなたが今経験している「苦しみ」は最後の「苦しみ」ではありません。
 その「苦しみ」が解決しても、生きている限り、形を変えて次の「苦しみ」がやってきます。
 でもね、僕はそれでもいいと思っている。学び、成長し、次の「苦しみ」の耐性ができていきます。
 死ぬまでそうです。それでいい。





 全部見直したら複数回登場している方が数人いる。星野富弘、村上春樹そしてなんといっても一番多いのがまど・みちお。村上春樹の記す雑文集の一節「小説家とは世界中の牡蠣フライについて、どこまでも詳細に書きつづける人間のことである」は傑作だなあ。そしてまどさんの詩句は、何歳になっても沁みてくる。

今日の中にいて思うのは
明日のこと昨日のことだが
その明日にも
昨日にも出会うことはない
出会えないからこそ思うのだろうか

たしかにあるのは今日だけなのか
今日こそ昨日であり明日でもあるのか
今日こそ生きてさわれる全部なのか
今日こそが
これしかない一生なのだ 

    「メロンの時間」より

使用期限 2024.3

2024年03月28日 | 雑記帳
 勤務最終週となった。5年前に思いもかけず、心の隅に興味を残していた図書館勤めが非常勤ながら始まった。振り返るとそのうち3年半ぐらい「コロナ」の背景があり、ぼんやりと望んでいた姿には影響があったと思う。しかし、やはり自分にとって貴重だったのは、「本に囲まれている」という環境そのものだった。


 質はともかく読書量だけはある程度こなす生活を心がけてきた。教育書を手始めとしながら年間100冊以上読了を25年以上は続けてきた自負もある。ただ、図書館という場で書架を巡り眺めるとき、それが地方のこうした小さな館であっても、いかに自分が部分的で矮小な存在であるかを頻繁に思い知ることになる。


 そして「今となっては遅い」と言い訳がましく思う。実際のところ、これが半世紀前であっても同様だろうが…。人が一生に読める冊数など、仮に一日一冊80年間読んでも3万冊には届かない。本館蔵書が8万近いことを考えると実に途方もない。だから無駄、とはならない。結論は「読まなければ出逢えない」のだ。


 そういう志向を多くの人が持てるようにすることが使命であり、公務だった。その一助になったかは甚だ心許ない5年間であった。幼児から高齢者まで多様な生き方、興味関心、嗜好等が認められ許されるなかで、紙の本というメディアの存在は軽くなり、消費的になる一方である。どんなアプローチが必要だったか。


 整理下手の机の中は、今までのプランと課題の紙であふれている。ワークショップ、読み聞かせ講座、羽後学、掲示資料等々、そのどれもが緩かったけれど思い入れはある。2020年秋に始めた公式ブログも継続できて、愛読している方が少なからずいた。ただ、順調に拡大発展させるよう引き継ぐほどの自信はない。


 ともあれ、大きな不祥事や突発事項がなく乗り切れたことは素直に喜びたい。机の右2番目の引き出しに、何かの時にと思い買って置いた一本の高価なユンケルが箱ごと残っている。しんどいけれどやり抜かなければという事態に遭遇しなかった証拠か。使用期限が2024.03と打たれていた偶然に、思わず頬が緩んだ。


「人生の材料」を問う時

2024年03月25日 | 読書
 トイレ内の愛読書『秋田のことば』は刺激的(笑)な冊子で、なかなか読了しないが、いずれメモしておきたい一冊だ。何気なく見た書棚にRe25『秋田人は本当に<ええふりこぎ>か?』(日高水穂 無明舎)を見つけたので再々読してみた。秋田弁は自分なりに興味が強い分野で、時々読みつつ「現況」と照らし合わせている。


 今回のメモは「しったげ」。自分では使わないし周囲でもあまり聞かない。しかしTVではよく「代表的な秋田弁」のように出てくる。先日もNHKの「方言川柳」のお題となった。本が語るには「秋田市以北の沿岸部」の言葉で由利本荘周辺でも年配者の使用率は低い。となると、これを秋田弁と認知させた者がいる。


 メディアでもTV出演が多いとすると…たぶんモデルから女優となったS、アイドルから独り立ちしたIあたりではないかと予想した。仙北当たりの某有名俳優Yや女性歌手Fも使っている気がするが、もともと県南部では使われない。メディアに使われた方言が、逆輸入のような形で県民に入ってきたと解釈できそうだ。





 新聞コラムでの紹介をみて、初めてこの有名作家の小説を読む。Re26『悪魔の種子』(内田康夫 幻冬舎)。プロローグに西馬音内盆踊りの場が取り上げられている。いわゆる浅見光彦シリーズで内容はTVドラマでよく観られるパターン。文体や展開は少々諄いと感じた。それでも一つ「縁」が出来て、良しとしよう。


 Re27『一日の終わりの詩集』(長田 弘 ハルキ文庫)。90ページほどの文庫は薄っぺらで軽い。しかし、手に負えないほどの重さが詰まっている印象。「一日がひとの人生をきざむもっとも大切な時の単位だ」とあとがきに記されている。深く実感できる。それは冒頭の詩「人生の材料」を探す時を過ごしていくことだ。


乗組員引退間近?

2024年03月23日 | 雑記帳
 今週、精を出したのは、ある川柳集の書き写しである。以前も読み込んだことがあるのだが、もう一歩自分の中に沁み込ませたいとキーボードで叩いてみた。全部で357句。しょぼつく目が気になり短時間ずつ数日かけて、打ち終えた。大概は読み下せたが、調べなければいけない語もあり、辞書片手も久しぶりだった。




 中でも「」は今もどう読むか迷っている。「青田の涯」とあるので意味はつかめても「みぎわ」で良いのか、「きし」なのか、「きわ」と読みたい気もするが…。「鰐(わに)」も浮かんでこなかった。句に「インド洋」という語があり、魚をイメージしてしまったからだ。しかし調べると「わにざめ」の意もあると知った。


 辞書のドラマ「舟を編む」が面白い。映画版も観たがあまり記憶にない。前回は子どもたちの「辞書引き大会」という場面もあり、国語辞典実践に一肌脱いだ(笑)自分として、実に心惹かれた「辞書を読む子に育てたい」は内なる願いの一つだった。取り組んだその痕跡は定かでないが、きっと何かの種になったはずだ。


 ドラマに名台詞がある。「辞書はことばの入り口」だ。意味を求め、正解を求めるために引くのではなく、辞書の文章からその世界へ入っていく…素敵なことだ。この齢にしてはよく辞書(紙版も電子も)を引くほうだと思う。でも、あまり立ち止まらなくなったなあ。つまり表札だけ見て帰るような…入ると怖いからか。


 ちょっと前だと、語釈にある言葉をさらに調べてどんどん深みにはまっていくような時もあった。そんな辞書が喜んでくれそうな使い方は、やはり「言葉の海」を渡っていくイメージだ。だから辞書作りで「編まれた舟」の乗組員としては既に相応しくないか。「やる気優先、年齢不問」とは思うが、足がおぼつかない。


それにしても昭和。「卒論」…

2024年03月20日 | 教育ノート
 学校に勤めた者にとっては、やはり三月は特別な月だ。離れてしばらく経ってもこのシーズンは連日TVで卒業式などの話題になると心が寄る。今朝もニュースを見ながらコーヒーの準備をしていて、画面を観つつ、妻と一言二言話していたら突然思い出したことがあった。そういえば「卒論」を書かせたことがある。


 採用され3年間受け持った小学生13名に、卒業間近の三学期にテーマを決めさせ原稿用紙20枚ほどを目途に、一つのテーマで文章を書くことを課した。それに厚紙で表紙をつけさせた。たしか教室ではない別室の黒板に出来上がった冊子を並べた。その映像がふと浮かんできたのである。きっと発表会だったろう。


 「卒論」実践はきっと先行された資料があり真似したと思う。四年生のときからずっと日記を続けてきた学年であり、書くことは厭わなかったし、難儀した記憶も浮かんでこない。町で一番標高の高い場所にある、いわゆる僻地の小規模校。子どもたちは個々の問題を抱えつつも純朴であり、素直に鉛筆を走らせた。





 どんなテーマを選んだのか。探してみればあるだろうか…それにしても昭和だ。思い入れもたっぷり。小中併設校だったからか、経済的事情か覚えてはいないが卒業アルバムを作らなかった。それで離任する時に一人一人にアルバムを贈った。撮りためていた写真を既成の台紙に貼りつけたオンリーワンのものである。


 そのアルバムには生意気にもこんな一節が記されている。

「写真は『真実を写す』ということです。ここに写されたものは、その時その時のあなたの真実でしょう。真実に目をそむけないで、生きていってください。真実があるからこそ、そこに希望も夢も生まれてくるのですから… (以下略) 1982.3.30 沼」

 明確に分かるのは、自分用にも一冊作ったからである。かなり格好つけているが内容なし、という感じが可愛い(笑)。誰かそのまま残しているものか。あの子らも50代後半を迎えようとしている。

弥生三月ブギウギ万歳

2024年03月16日 | 雑記帳
 日曜に落語を聴きにいった。当初は笑点メンバーに柳亭小痴楽の予定だったが、楽しみにしていた小痴楽が変更になり、少しがっかり。それでもたい平や昇太は個性と確かな技を見せてくれた。なんでも「笑点」はTV番組として視聴率トップらしい。その理由を昇太は「変わらないこと」と語った。偉大なるマンネリ




 マンネリズムが受け入れられるということは、新鮮さがなくとも安心感が高いといった解釈でいいだろう。視聴者の世代的傾向は予想できるが、観続けられる魅力があることに違いない。NHKの朝ドラも似たようなものだ。しかし今週の展開(というより演出)はなかなか妙があったと思う。事件の刑事役の登場だ。


 内藤剛志と言えば、民放では刑事ドラマ主役の常連。ちなみに私と同齢だ(笑)。サスペンスがあるわけではない朝ドラに配役され、少し驚きがあった。さらに観た人は知っているだろうが「取調室のカツ丼」には、笑ってしまった。犯人より先に刑事が食べる展開を誰が予想しただろうか。これは一種のコントだったな。


 『ブキウギ』もそろそろ最終盤。個人的にはやや薄味なストーリーのように感じている。ただ随所に歌がいい役割を果たした。同時代ではないが「東京ブギ」「買物ブギ」は耳に残っているし…そういえば学生の頃、一つだけブギのリズムを刻んだ曲を作ったことを覚えている。そう、曲名も忘れない。「万歳ブキウギ」


 書棚の古い箱を掘り起してみたが、そこに残ってはいない。♪〇〇したぞ!万歳! 〇〇できた!万歳!……と続いて♪万歳ブギウギ♪で締める流れだった。替わりに?出てきた歌詞は「ヤケッパチのブルース」。どうなってる!?昭和50年代初頭のオイラよ…ともあれ一昨日は孫の「卒園式」。ああ万歳!弥生三月、実にお目出度い。

ゆっくり捲る、間をもつ

2024年03月14日 | 読書
 天気が乱れていると感じるのは、やはり穏やかな冬を過ごしたからだろうか。
 周囲に振りまわされずに、と思っても、お天道様にはかなわない。ゆっくりページをめくろう。


 Re23『俳句的生活』(長谷川櫂 中公新書)。こうした書名の本を手に取りたくなるのは、憧れである。しかし読み進めると、その奥深さにとてもとてもと手の届かぬ未熟さを感じるのが常で、今回も全くその通り。ただ、今さらながらに得た知識もあり書棚に留めおきたい一冊となった。冒頭の「切れ」は納得だった。

 切れ字は強調を表わす程度は覚えていたが、「切る」という根本すらあまり深く考えを巡らせていなかった。「や」「けり」「かな」を使う、使わないに限らず、よい俳句には「切れ」があるという認識である。それが生み出す「間」こそ、想像力の出発点となる。たくさんの句を知らない初心者にも読む手がかりが出来た。

 メモ帳に書かれていた句も引用されていた。数年前の野口塾講座の教材だ。「灰汁桶の雫やみけり蟋蟀  凡兆」…蟋蟀(こおろぎ)はここでは「きりぎりす」と読む。発問は「蟋蟀の声はいつから聞こえているか。やむ前か、止んでからか」…「けり」という切れ字が作りだす間によって合理的推理と重なるのだ。


 2024.3.10 初めて県都の施設「ミルハス」へ。これが噂の…と思ってパチリ

 Re24『ことばの果実』(長田 弘  潮文庫)。「果実」と「花実」をモチーフにした小文集。ここ数年、折にふれ読み続けている、また絵本の読み聞かせでも取り上げている詩人が「ことばの魔術師」と称される訳が、わかる気がした。それは言葉の遣い方ではあるのだけれど、経験の重みなしに為し得ない表現なのだ。

 旅、読書の質量はもちろん、思い出や暮らしに対する目の付け処が違う。そこに生み出す詩的表現に憧れてしまう。TVの食レポの陳腐さに食傷気味の我々に、さわやかな果実を提供してくれるようだ。あんぽ柿、柿シャーベット曰く「柿の味の深さは、うつくしい秋のきれいな空気だけがつくることができるのだ

共感する心理に目を向け

2024年03月08日 | 読書
 先月下旬から読み進めた本は、それぞれに刺激的だった。常識とされている事柄を疑う習慣を忘れずにいたいと思ってきたが、ついつい流されている日常を省みる。


 Re20『街場の読書論』(内田樹 太田出版)。10年以上前のブログ記事などがもとに編まれた本。多くは既読のはずだが、理解不明な箇所も含めて読んでいて時折覚える心地良さがいい。文体が好きなんだろうと思う。中2国語教科書のために書き下ろした「学ぶ力」は、初読の頃に自分にとっての大きな示唆となった。




 天童荒太の小説はあまり読んでいない。Re21『君たちが生き延びるために』(ちくまプリマ―新書)。は高校での講演を基に、質問に応える形で文章化された内容だ。「ともかくまず生き延びよう」を核に置いて、高校生や教師、保護へ向けてのメッセージは、大方共感できるものだった。おっと感じたいくつかの考えがある。

 AI参入に不安を覚える問いに「AIが、労働の末端ではなく、社会の中枢、ことに政治や企業の意思決定の現場にこそ、どんどん入っていくべき」という考えを述べる。これは歴史を踏まえた人間の判断の愚かさに対する危惧だ。何度も繰り返す惨事を冷静に見つめれば、この潔さこそが大多数を救うのかもしれない。


 Re22『自粛するサル、しないサル』(正高信男 幻冬舎新書)。2020年から21年のいわゆるコロナ感染第3波までの社会の様子を、サル学の大家が解き明かした。覚えてはいても記憶の彼方に追いやられている出来事が多かった。それにしても「志村けん効果(イフェクト)」による自粛行動とは、納得の分析だった。

 学者の目から見た人間の行動分析は、やはり社会現象そのものを鋭くとらえ、広範囲に情報収集をしている。自分も若干の憧れを持つ『徒然草』を、先行資料をもとにこれほど暴いた(笑)のには気持ちよさを覚えるほどだ。そのものの批判ではなく、そこに共感してしまう人間心理を突く。そして次の一言に深く頷いた。

「共感は、社会に多様性を認めるうえでは、あまり助けになりません。」

だらだらと18歳の半世紀

2024年03月05日 | 雑記帳
 町広報の出生児欄「お誕生おめでとう」に3月は10人も並んだと、家人が驚くように言う。町内の新生児数は年度で50人前後に落ち込んでいるはずだから、一ヶ月分の届け出としてはかなり多い。率直に嬉しい。隣市ではかつて一町だった矢島が4人、東由利1人(どちらも年度内)と衝撃的なデータが出た


 調べものをしていたら、本町で新生児数が200人をきったのが1992年だった。それから30年以上の時が経ち、少子化打開は待ったなしの声は大きく聞こえる。しかしそれは、ずっと前から繰り返されてきたはずだ。犯人探しは意味を持たないが、中央と地方の格差(隔差)進行経済優先志向は確実に下地にある。


 見事にめでたい誕生日前日の雪模様2023.3.4


 と理由づけし、ではオマエは何を…と自問すれば、そこに加担していないと断言はできない。結局、先に生きてきた者の姿の反映が今を作りだしたはずだから。明るく思えた未来の方へ向かった者は、その光の先に何が待っているのか考えなかった。いや、向かう足取りが浮かれていた、慎重でなかったと言うべきか。


 実際「明るい未来」なんてものは、いつの時代も誰一人保障することができなかったはずだ。そこには煽った者がいてそれに多く従って…。今、天災やウィルス感染は予断を許さないし、近隣諸国への侵攻さえ現実味を帯び、不透明さだけが募る。株価の上昇もどちらに振れる予兆なのか、見えてこないのは私だけか。


 何だか訳も分からず駄弁を書き連ねた。さて、かつて教頭として務めた隣市の学校で給食を一緒に食べる2年生と会話を楽しむのが常だった。その時「18歳です」と生物学的年齢を30歳も偽ってお相手したのだが、あれからさらに20年が経とうとしている。それにしても全然進歩しない「18歳」だと苦笑している。


 半世紀前、進学で実家を離れるひと月前ほど、いったい自分は何を思っていたか朧げだ。希望も不安もあったろう。その意味では今も同様。手にした天童荒太の新書にこんな一節がある。「人生は長いのではなく、長くするもの」…もはや十分に長いか。いやもっと長くすればきっといいことがある、と信じたい誕生日。