すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

問題は再生の仕方にある

2010年07月30日 | 読書
 『脳はなにかと言い訳をする』(池谷裕二著 新潮文庫)

 「脳はなにかと○○をする」という形で章立てされていて、全部で25章。いやあ、面白かった。
 中味は、大雑把に言えば「無意識の世界を皆さんと一緒に探検」といったことである。
 
 ○○の中味で特に目を惹かれたのは、「脳はなにかと思い込む」「脳はなにかとウソをつく」そして「脳はなにかと念押しをする」あたりだった。

 「思い込み」に関しては、外部情報によって人間がいかに踊らされているかがはっきりする。脳はそういうふうに反応するのが自然で、そうでなくいちいち疑っていたら日常生活に支障が出るということも納得。
 見かけ、スタートの印象…その影響は本当に大きい。

 「念押し」で出てきた記憶のメカニズムは、前からいくらか知っていたこととはいえ、興味深い。
 脳の記憶のステップを大まかに「獲得」「固定」「再生」と三段階あることはまあわかるが、ポイントは次だ。

 「再固定化」…記憶を再び記憶しなおすということなのだが、「再生」がそのための重要なステップであるという件である。
 自分の仕事でいえば「復習」ということに関連が深いわけだが、再生することが必ずしも固定を強化するものではないらしい。
 つまり何回も復習したからしっかりと覚えられるとは限らないという衝撃の事実?があるようなのだ。

 メモリー(記憶)にアクセスすることによって、メモリーは不安定になるのです。
 
 きちんと元のファイルに戻さずにかえって迷ってしまうような状態を作る可能性があるということだ。

 問題は「再生」の仕方にある。
 「復習が不十分だとかえって学習が悪化する」「時間を掛けて丁寧に行う習慣」…このあたりがヒントになりそうだ。

投票した読者に幸あれ

2010年07月29日 | 雑記帳
 「日本史上最高の教育者は誰だ」とは…またずいぶんな特集を組んだものだな、と半分は感心し、半分はあきれた感じを持ってしまった。
 小学館編集部の方針が今年は何か違うようですな。
 ↓
 http://www.shogakukan.co.jp/magazines/detail/_sbook_0300108110
 ともあれ、このランキングを見て、まさか「私の思った通りだ」などと思う人はいないはず。いわゆる歴史上の人物から現在活躍中の諸先生まで、本当に多彩な顔ぶれになった。

 このランキングを私のように単純にヘェ―と眺める人も、フムフムと分析ふうに語る人も、くだらん!と一笑する人も、まあ教育関係者が誌面を見たならば、そこに書かれた内容は目を通してみたくなるだろう。

 教育者という大きな括り、時代の限定もなし、そしてたった336人の読者投票によって決められたランキングの意味づけは難しい。
 しかし票を投じた多くの人(教員だけ?)は、歴史的な存在の大きさを加味しながらも、自分にとっての影響の度合を振り返ったことではないか。
 「3人を選んで」と言われた限定の中で、自らの学生時代や教師人生を振り返って、あれこれと思案できたらそれは結構豊かな時間だったのではないかと想像する。

 今、自分がここに在ることを、そうした人の関わりで位置づけてみることは価値があると思う。
 「授業づくりネットワーク」が推進しているライフヒストリーという手法は非常に面白く、メールマガジンも楽しみに読んでいるが、語る人は自分を再認識しながら、きっと何か発見していることがあるのだと思う。

 一見ミーハーなこのランキングも、そういうとらえ方をするといい材料と言えるのかもしれない。
 投票した読者336人に幸あれ。

 と言いながら、自分だったら3人には絞れないで、悩むなあ。

父の夢、母の歌を想う

2010年07月28日 | 雑記帳
 昨夏に続いて、夏休み開始すぐの4年生の交流会に参加した。
 (学校ブログへ)

 宿泊する施設は、今は廃校になった小学校の校舎を利用したものである。何度か訪れた場所ではあるが、改めて見直してみるといろいろなことに気づく。

 今回目にとまったのは、校歌である。
 どこの学校でも体育館に校歌が大きく書かれて掲示してあるが、ここでもそのままそっくり残っていた。

 ああ、いい歌詞だと思った。以前にもそう感じたことはあったはずだが、改めて見直してみてさらにそう思う。
 廃校になったといういくぶん感傷めいた気持ちになっていることも確かだが、それ以上に言葉の力がある詞だ。

 廃校になったこの地区の子どもが通うのは隣校であるが、その学校の校歌も実に素晴らしい。両方とも作詞された方は、若い時分から国語教育関係でいろいろと指導していただいた大先輩である。今は一線を退いた感があるが、本県を代表する詩人でもある。

 二番の歌詞を引用する。

 手のひらを ひらけば
 ひろがってくる 故郷の地図
 父の山 母の川 胸にかよう

 手のひらを かざせば
 つたわってくる 故郷の声
 父の夢 母の歌 胸にもえる
       父の夢 母の歌
 
 幼い声で歌われた「父の夢 母の歌」は、今どのあたりにあるものなのか。

対象を喜ばせてやる

2010年07月24日 | 雑記帳
 競馬の騎手が、「教育マガジン」に登場するようになったのは、ギャンブルというよりスポーツとしての認知度が上がったということだろうか。
 ある教材社の配布する冊子の巻頭特集として、騎手武豊へのインタビューが載っていた。

 騎手と馬との関係を、教師と子どもに置き換えるのはかなり無理があると思うが、次の点では関連付けられるものがある。

 わたしが一番大事にしているのは「馬を気持ちよく走らせる」ということです。いやいや走らされるのとは違って、自ら走りたいと思う馬はやはり強い。 

 「自ら学びたいと思う子」に育てたいと誰しも考えるだろう。
 そのためには「気持ちよく」つまり関心を高め興味を持たせて学ばせることが大事であることは納得できる。

 しかし、その点だけを強調していけないのも現実の世界。
 気持ちよさの種類もあるが、いつもいつもそれだけを求めるには無理がある。

 天才ジョッキーはこうも言っている。

 「きちんとやる」ということは、やろうとすることでもあるんだなと思いました。 

 この場合はもちろん対象は人間であるが、難しい課題にあたっても逃げださず向き合うことが、成長を考えるうえではとても重要になる。
 成否に関わらず「与えられた課題をやるかどうか」は決定的なポイントになるとも語っている。

 馬の調教では、能力面だけでなく気性面を考えながら一つ一つ課題をクリアしていく過程がある。むろん、安易な比較はできないが、「与えられた課題をやる」子どもに育てるためには、あれこれと手管を操る必要がある。

 結果、一番大事なことは「喜ばせてやる」ことなんだなという結論になる。
 そのためのずいぶんと細かいことを騎手は、そしてもちろん調教師と周囲の方々もやっているのだと思う。

学ぶ目が美しい

2010年07月23日 | 雑記帳
 「2009 AUTUMN」とあるから、もう一年近く経つわけか…そんなことを思いながら、またその表紙を見つめた。

 「共済だより」という、まあ一読したら後は捨てるだけの小冊子。しかしどうもこの表紙が気になった。撮影した写真家は沼田早苗で本文の方に若干の解説がある。

 場所はタイ国境近くにあるミャンマー難民キャンプである。
 その「分教場」の様子を、おそらく教師の横から子どもたちの様子と表情をとらえた写真だ。

 一列10人ほどの子が5列。およそ50人の子が教師の方を向き、何か声をあげている(読んでいる?歌っている?)瞬間だ。
 その視線の真剣さとともに、ほとんどの子が腕組みをしている姿が印象的だ。

 たぶん教師の話を聞くときのルールだろう。後方でやっていない子が少し目立つのは、やはり注意の視線が届かないからか。
 それにしても腕組みとは。
 手遊び防止のための手段だとは思うが、私たち日本人?大人の感覚では、腕組みはある意味傍観、批判的なサインでもあり、何か不自然な感じを抱いてしまう。

 子どもももちろんそれは感じているはずで、注目する眼差しが強く、口を大きく開けているような子は、どうしても腕がほぐれているようだ。
 当然のことである。
 それが身体で反応するということだから。

 難民キャンプではスタッフも足りず、80歳の老婦人が教鞭を執ることもあると書いてある。
 そういう困難さのなかで、おそらく満足な教材もないなかで、そしてきわめて原始的?なルールがあるなかで、かくも子どもたちの学ぶ目は美しいものだなあ、とまた思ってしまった。

格好のいい男の条件

2010年07月21日 | 読書
 この三連休に二つの小説を読んだ。
 
 『氷結の森』(熊谷達也著 新潮文庫) 

 『羊の目』(伊集院静著 文春文庫)

 どちらも文庫にして500ページ近い長編である。

 共通しているのは、主人公の男の格好よさ。

 『氷結の森』の舞台は樺太、ロシアであり、秋田出身のマタギが仇に狙われて逃亡するという設定である。
 一方の『羊の目』は、ヤクザ、博徒の世界を描いている。

 たまたま読んだ二編をもとに、かなり俗っぽく男の格好よさを考えてみた。

 まず、長身で身体が丈夫なことだ。

 次に、そういうことだから当然、強い。めっぽう強い。

 『氷結の森』の柴田矢一郎は、力仕事であれば何をしても人の何倍もの力を出すし、腕力が相当だ。そして天才的な鉄砲の名手である。
 『羊の目』の神崎武美は、幼くして人を刺し、それからいわば不死身の殺人者として、裏社会に君臨する。

 三つ目は、寡黙ということか。
 べらべらとしゃべらない。したがって「………」という台詞も目立つ。
 これはつまり自己アピールしないということに通ずる。
 そして、訥々と自分を語り出すのはきまって、その男を丸ごとに理解してくれそうなキャラクターに向かったときだけだ。

 格好がいいから当然もてる。しかし、多情ではない。
 どちらにもヒロインぽい女性が登場するが、その情を受け入れる場面は極めて少数。ただし、必ずあるということだ。
 だからこそ、格好いいのである。

 「約束」を守るということ。
 これが筋を作っていく最大のポイントとなるわけだが、愚直なまでにそれを実行していくからこそ、物語を感じその中に没頭してしまうといってもいい。

 まだ、ある。
 人工的なもの以外への思い入れを強くもっている。大自然であったり、野辺に咲く花だったりするが、そうした描写が目につく。
 もっともこれは小説を書こうとする多くの人に共通していることなのだろうが。それに対する接し方や思いをどう描くかで、格好よさのランクが決まったりするものだ。

 まだ詳しく見ていけばあるが、おおよそは言い得ているだろう。

 最後に肝心なことをいえば、描かれた時代である。

 『氷結の森』は大正年間から始まっている。
 『羊の目』は昭和初期から高度成長終了時までを描く。そこで主人公の姿は見えなくなる。

 つまり、男の格好よさは、なかなか現代では描けない。

 今は、そんなふうに男が過ごせなくなった時代という言い方もできる。

待て!転びの浅

2010年07月19日 | 雑記帳
 友人から送られた地域の文芸誌をめくっていたら、町内に住む方のある回顧録が載っていた。

 町議を経験された方が、この「政争の町」の歴史を振り返っているわけだが、小さい町ゆえ色々に見知った方の名前もあって、実に面白い。もっとも苦々しく感ずる部分もあることはあるのだが…。

 ある議員が対立する?グループの議員たちを揶揄して表している部分があった。その中に自分に近い親類筋の名を発見して驚いた。

 「転びの浅」

 ああ、これは「浅」という名前からして間違いない。私の祖母の弟にあたる人だ。どう転んだかは昔のことであり定かではないが、ずいぶんと皮肉られたものだ。
 私にとっての大叔父は、いかにも田舎の政治家であり、豪放磊落に見えて、反面人を信じやすく騙されやすいようにも見えたのだが…。

 父も祖父も小さいときに亡くなった私にとっては、一つ何か重石のような存在でもあっただろう。
 大きな身体で自転車の車輪をつぶしながら、毎日のように隣地区から我が家へやってきていた。
 二十数年前の結納の席で、酔っ払いながら当時流行っていた演歌「さざんかの宿」の歌詞の中味を非難して結婚の正しい意義を?唱えた姿が未だに忘れられない。

 その大叔父も亡くなって二十年近く経つが、今朝久方ぶりに夢の中に登場してきた。

 それは何かの宴会の場面であった。折り詰めの数やら値段のことで揉めていた場面であり、揉め事を作った当人のような気配になっていた。
 結局、何も語らず奥に引っ込んでいこうとするところに、私がかけた一言は
 「待て!転びの浅!」だった。

 いやいや大叔父の配役には失礼してしまったが、ネーミングの持つ強さにほとほと感心してしまった。
 転びの浅か。今さら知ったことを冥土からどんなふうに眺めているだろうか。

「考えない」は、よく考えるために

2010年07月18日 | 読書
 『考えない練習』(小池龍之介著 小学館)

 タイトルを見た瞬間に「いったい考えないことが練習できるものか」という疑念が浮かぶが、その惹きつける力はなかなかである。グッドネーミングだと思う。
 本の帯には「休脳のススメ」とあり、巻末にある脳研究者池谷裕二との対談で、「私としては、この帯はいかがなものか、と言うほかありません(笑)」と指摘されていた。それも真なりである。

 さて、考えないことなど出来ないに決まっていると思いながら、最初からページをめくってみたら、単純なものだからすぐ著者の考えに同調してしまう自分がいた。

 大きく方法は二つだろうか。

 一つは、五感を使うこと。つまり、考えることより感じることを優先してみよう…
 もう一つは、考えている自分のことを俯瞰すること。メタ認知などと言ってもいいのかしらん…

 そんなに新しい提言ではないのかもしれないが、実に具体的でそれも穏やかに書かれてあるので、何か引き込まれるように読んでしまった。

 結局、この本は「考えない」ことを売りにしている?が、本当は「よく考える練習」を書いているのだと思う。

 例えば、こんなふうに太字で書かれている箇所がある。

 「ありがとう」と言わずに感謝の気持ちを伝える工夫
 
 たしかに「ありがとう」はいい言葉であるし、それをさらっと言える人はいい習慣が身についているといってもいいかもしれないが、実は、考えもなく言っていないかという見方もできる。

 そんなふうに脳が使われている、一人歩きをしているとしたら、と疑うことができたのは収穫だ。

 言葉選びぐらいは(ぐらいではないだろうが)、しっかりと考えたい。
 そのために、すっきり思考できる習慣づくりが必要だ。
 脳は刺激を求めてあちこちさまようので、歯止めをかけること。

 「思考のノイズ」という言葉がやけに身にしみる。

逃れられない二百万人

2010年07月17日 | 読書
 馴染みの書店に寄ったら、『東京タワー』の文庫本が並んでいた。これももう文庫で読めるんだと何気なく思った。
 家へ帰って、たまたま手にとった『波』(新潮社)の7月号に、「『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』文庫化記念対談」と銘うった企画があるではないか。

 著者のリリー・フランキーと対談しているのは、かの茂木健一郎である。タイトルが奮っている。

 「ムラ社会」をぶっ飛ばせ!
 
 ムラ社会とは?なんとなく意味はわかる。でも…と思い、ないだろうなあと電子辞書を引いたら、案の定。
 それではネットで。  
 さすがの「はてな」である。
 ムラ社会=村社会
 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BC%BC%D2%B2%F1

 さて、茂木が冒頭に言いだしたことが面白い。

  『東京タワー』の良さをわかる人が二百万人以上いるのなら、日本は救われるんじゃないかと思っていた。ところが、救われなかったんだよなあ。どうしてだろう。
 
 自分も、その良さをわかったつもりで、以前のブログにも書いた。
 今はネット上にその文はないのだが、2005年の9月に書いていた。
 それを読み直してみて、一つ気づいた原因がある。引用した文章の中の言葉である。

 自分の個性や判断力を埋没させている
 
 かつて東京タワーに象徴された豊かさの中に、そういう姿があるということなのだ。
 もっと現状に即して言えば、「日本自体がムラ社会化して」いることを人々は気づかずに右往左往しているとでも言えばいいだろうか。
 そうした二百万人では力を発揮することはできないのかもしれない。

 正直、ムラ社会から逃れることなど簡単にはできない。そんな力量も度胸もない。では、どうするか。

 逃れられない自分は、そのムラを取り巻く壁に向きあい、ほんの少しずつ削って向こう側を見ようとしている。そこに小さな風穴を作ることだと、言い聞かせてみる。

 「陥穽から風穴をさがす」というタイトルは変えなきゃ駄目か。

コミュニケーションへの様々な道

2010年07月15日 | 読書
 『間の取れる人 間抜けな人~人づきあいが楽になる』(森田雄三著 祥伝社新書)
 
 題名だけを見ると、ありがちな会話術やコミュニケーション技法などのマニュアル的な内容を予想するだろうが、そうした類の本とは言えない。

 著者は、イッセー尾形の一人芝居の演出家である。30年以上のコンビであることから、もはやもう一人の「イッセー尾形」であると言い切っても間違いではないだろう。

 素人を集めた演劇ワークショップをやっていることは知っていたが、そこで行われていることを書きながら、コミュニケーションとは何か、人づきあいとはどうあるべきかを語っている。

 この本の表記には特に目立つことがある。
 それは尋常ではないほどのカギカッコの多用である。
 私も他の人と比べると、カギカッコを多く使う方だと思っている。その訳は強調であったり、通常の意味と少し距離を置いたり、という用い方と言える。
 だから、その部分は注意して読むべきであり、若干の立ち止まりが必要なわけだが、あまりにも多いとちょっとぎくしゃくするかなというイメージをうける。

 そういう表面上の問題はあるにしろ、一歩書いている中味に立ち入ると実に興味深い。
 第一章の副題はこうある。

 コミュニケーションの極意は「しゃべらないこと」にあり
 
 この逆説的な言い回しがどういう意味か、ワークショップのこと、イッセーの芝居のこと、近代小説家の書いた文章の分析などを折り込みながら、じわりじわりと理解できるようになる。

 総じて言えば著者は、「正」や「動」や「積極性」に対する「負」や「静」や「消極性」のエネルギーに目を向けようと言っているのだと思う。
 みんなが同じ方を向いて、明るく積極的に表現することばかりではいけない、「話し方」を学ぶことがコミュニケーションへ通ずるわけではないという。

 深く心に残ったのは、次のフレーズ。

 人の理解の仕方は、「やるタイプ」と「見るタイプ」に分けられる。
 
 様々な子どもと接してきて、一面的に「理解が遅い」などと決めつけてはいないか。
 ちょっとびくっとした気持ちで読んだ。