すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

真理をめくることわざ

2015年10月31日 | 読書
 【2015読了】109冊目 ★★★
 『発想法かるた』(板倉聖宣 仮説社)


 「例外のない法則はない」という法則には例外はないか


 この一文が実に的確に著者の考えを表してるように思った。
 「例外のない法則はない」は「ことわざ的真実」ではあるが、科学的真理だととらえると、それにも例外があることになる。
 実際に、近代科学は例外のない法則を求めることであり、つまり例外のない法則もあっていいという結論になる。
 こうした多面的、複層的な見方が、発想法を豊かにすることにつながっていく。

 典型的なことわざを一つ。

 「大は小を兼ねる」

 これはよく聞くことわざではあるが。著者は次のように続けて完成させる。(もともとあるのかも知れないが手元では調べられなかった)

 「大は小を兼ねる。といえども お玉は耳かきにならず」

 つまり「法則性の適用限界」である。
 こんな調子で83のことわざが提示されていて、
 昔からよく耳馴染んでいる句もあるし、著者が新しく作ったものもある。

 心に響いたいくつかをメモしておく。

 「争いの元に正義あり」

 戦争や喧嘩はすべて、自説の正当性や正義を掲げて行われる。
 しかしそのエスカレートは悲劇を生む。
 どこかの国の現状もそういう道を目指しているかもしれないとふと不安になる。
 著者はこう書く。

 正義がヒューマニズムを越えたらそれこそ悲劇です。



 「火曜日には火の用心」

 単なる語呂合わせなのだが、こんなことでも行動化を促すには役立つ。
 「きっかけの論理」だと著者は書いている。


 「体験しても社会は見えない」

 体験して見えるのは「社会の一部」だという。
 現地、現場主義は結構だが、それで何が確実なのか決定的にはならない。
 体験主義に毒されている面も確かにあると思うし、統計的なデータの生かしたかは大切だ。


 「イコールは等しくもあり等しくもなし」

 イコールという等号の意味である。
 「A=A」では当たり前のことで「A=B」の時に役立つわけだから、本当の意味とは「違うものが、ある点から見ると等しい」になる。
 その観点でイコールが使われる場を見ると、発想は確かに広がる。

ドッグで読書三昧

2015年10月30日 | 読書
 【2015読了】106冊目 ★★
 『助け合う魂を心に吹き込む』(船越準蔵  公人の友社)


 この夏に他界なされた大先輩の著書。いわゆる「可奈子シリーズ」の10冊目となる。あとがきに記されている出版社の社長の声がある。

 「『可奈子の本は、いまの教育風潮に反するもので現実的ではない』という評がある。だからこそ、この本は絶版にしたくない。」

 この本に書かれてあることを端的に言えば、助け合う人間性を大切にということなのだ。
 それが現実という壁に阻まれるような社会に私たちは生きているということか。

 教養に満ちた先生が繰り出すたくさんの言語は、子どもの幸せというただ一点に注がれている。
 現役時代の同僚マル先生が語るエピソードは、実に納得させられるものばかりだ。



 【2015読了】107冊目 ★★★
 『風が舞いあがるビニールシート』(森 絵都  文春文庫)

 9年前の直木賞受賞作。さすがだ、読ませると思った。
 収められている6編がまたバラエティに富んでいるし、一つ一つ念入りに背景が描かれている。
 一言で言えば「価値観」の対立や対比を軸に物語が動いていて、それらはとても現代的だ。
 個人的に印象に残るフレーズが二つ。前後の脈絡がないので、何の意味か想像もできないだろうが…。

 (犬の散歩) 「犬は、私にとっての牛丼なんです」


 (ジェネレーションX) 「何もかも投げ出すようなバカさ加減はキープしたいよな」




 【2015読了】108冊目 ★★
 『世界音痴』(穂村弘 小学館)


 自分にとっては衝撃の『本当はちがうんだ日記』を読んでから10年くらい経つ。
 それ以前のエッセイなどが集められている本だが、衝撃のもとになる要素がいっぱい詰まっている。

 書名「世界音痴」とは何かが、その要素を物語っている。
 勝手にその意味と捉えた二文を引用する。

 世界の「自由さ」の中に含まれた「自然なルール」がわからないと、人間は一言も口を利くことができなくなる。

 自分に向けられた優しさに対する、適正な喜びや感謝の度合いを、一体どうやって人は計っているのだろう。


 ある場面では「テンネン」に見えたとしても、それは対極にある性質だ。

10回目のベテランの声

2015年10月29日 | 雑記帳
 「ここの利用は10回目なんですね」と言われ、ああそうかと思った。「何か特典でも」と軽口をたたこうとしたら「ささやかですが…」と、どちらかを選ぶように差し出された。おうっ素晴らしい。来年度までは補助があるようなのでまた来よう。記念の品は万歩計か塩分計ということで、いかにも人間ドッグらしい。


 ここ数年は毎年同じ時期に来ているので、「あれから1年か」とこの人間ドッグでしみじみ思うようになった。健康管理センターという部署で、ほぼ同じ看護士さんなので、かなり顔馴染みだ。もっとも向こうは覚えていないだろうが。感心するのは必ず何かシステム(場所とか検査の流れ)改善がなされていることだ。


 多数の検診者をどうやったらスムーズに、しかも間違いなく診ることができるかを検討しているのだろう。慣れは効率化に結びつくが、漫然となる危険性も孕むし、その意味で変化を加えることは事故防止に役立つはずだ。この頃目立つのは、看護士からの声かけの頻繁さである。ただし個人差も大きいところである。


 今回のドッグメモとしては、最初の採血で看護士から「血管が立派です」と言われたことが一つ。なぜそんなことが言えるのか、疑問が浮かぶ。それから、胃カメラの医師から「毎年、カメラやる必要ないのに」と注意?されたこと。そうなの?バリウムが嫌いなこともあるが、こちらが確実だからやっているのに…。


 検査室で小さくクラッシック系の音楽が鳴っていることはあったが、今回は初めて歌つき。それも沖縄のビギン、曲はあの「恋しくて」である。意外性があって少し気が紛れた。持ち込んだ本は3冊、完全読了。なかなか充実した宿泊ドッグだった。いやいや肝心の検査結果はどうかって…体型見れば推して知るべし。

子規の笑いを読む

2015年10月28日 | 読書
 【2015読了】105冊目 ★★
 『笑う子規』(天野祐吉・編 南伸坊・絵  ちくま文庫)


(秋)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 あまりに有名なこの句を、いったいどれほど理解しているかと問われれば、ううむ半分ぐらいと答えるだろう。季語や話者の大雑把な位置、そして必然が内包されている偶然とでも言うべき一瞬のことを、頭ではわかっていても感動を掘り下げれるかと言えば、あまりに少ない知識、頼りない経験。その程度の読みだ。


(新年)蒲団から首出せば年の明けて居る

 家族と迎えた年明けであっても、一人の年明けであっても、少し「痛さ」の感じる句である。「笑う子規」とすれば、その状況を俯瞰的に見ているということか。「蒲団」が子規の人生のなかに占める位置は大きいだろう。そこから全て脱け出すのではなく、「首出せば」である。その新年もそう迎えざるを得ない年だった。


(春)春風や象引いて行く町の中

 見世物としての象は、人々に大きさという驚きだけでなく、ある面の安らぎのようなものを感じさせてくれる。それはその動作や鼻の特徴から来るのだろうか。足の運びの緩やかさや大きな耳の揺れ、そして鼻がとるリズムに一番合う季節は春なのだと思う。ほのかに暖かい空気の中で人々の華やいだ声が聴こえる。


(夏)えらい人になったそうなと夕涼

 誰と語りあっているのか。「えらい人」とは『坂の上の雲』のあの人を指しているのか。特定の場面があって出来上がった句ではあるが、ある意味では一般庶民が話している縁側なり、庭先なりが想像できる。今日の暑さは万人に共通するが、そこから大きく飛躍した人に想いをはせる。まだセミの鳴き声が聞こえる夕刻。


(冬)人間を笑ふが如し年の暮

 人の心に慌ただしさの粒や泡をまくような時間的な表現が「年の暮」である。今年も、また今年も…と思ってしまうこともある意味こっけいである。災害などを考えると自然にしっぺ返しされている人間様だが、何事もスピード化しようと精いっぱい頑張る人間もまた、時間にしっぺ返しされているのかもしれない。

解決できない自分を解決する

2015年10月27日 | 雑記帳
 ミニマリストという職業?を始めて知った。やや気まぐれに、ではなく自称「ペーパー整理整頓好き」が久々に、その手の雑誌を購入した。「掃除 片づけ 捨てる」がテーマで、冒頭にミニマリストを名のる佐々木典士なる方が7ページにわたって書いている。ミニマリストとは直訳すると「最小限主義者」だそうだ。


 佐々木氏による定義では「自分にとってほんとうに必要なモノ、大好きなモノだけで暮らしている人」ということだ。よくありがちな整理術かも思えるが、なぜこのミニマリストが注目されるようになったか、という理由が納得のいくものだった。言われてみればもっともなのだが、そうだよなあと呟かざるを得ない。


① 手に負えないほど増えすぎた情報とモノ
② モノを持たないですむ、モノとサービスの進化
③ 震災が常に身近である


 ①は誰しも感じていることだ。しかし①と②は深く関わり合っているし、その点をうまく活用しなければ、どうにも収まりがつかなくなっている現実をどれほど把握しているか。手に負えないものに真正面から向かうのではなく、手に負える程度に抑えるため、進化しているモノ、サービスを利用することが必要だ。


 忘れそうになるが③は頭に入れなければならない。大きく二つ観点がある。増えているモノが「凶器」になる可能性があること。避難、脱出等を考える場合の「足枷」になることだろう。増えすぎるモノは当然自己責任ではあるが、ある面、人為的な災害という捉えかたもあるか。片付けは大事な防災、減災行為である。


 「片付ける」は、整理整頓の意味だけでなく、物事の解決ということにも一般的に使われる。モノを欲望のままに溜めこめば、何か解決するかと言えば、ちっともそんなことはない。その点に関して人は数多の経験をしているだろう。その解決できない自分そのものを解決するために、まず目の前のモノを片付けろ。

メタ落語を聴く

2015年10月26日 | 雑記帳
 週末に秋田市で開かれた柳家喬太郎の落語会に出かけた。もう何年前になるのか定かではないが、寄席で「松竹梅」を聴いて笑いが止まらなくなってからのファンである。県内に「愛喬会」という名称の組織があり、その主催で年に2回ほど公演がある。春は都合があって行けなかったので今回は楽しみにしていた。


 なんといっても新作落語の名作と評判の「ハワイの雪」が演目である。この落語は、「三題噺」という形で生まれた。客席から三つのお題をもらい、それを入れ込んで即興でつくるという。「八百長」「ハワイ」「雪」で作られたこの新作は、確かに噂に違わぬ噺であり、だからこそ、喬太郎の特徴がいっぱい詰まっていた。


 田舎に住む軽い落語ファンの戯言と断って書く。まず一つ目は「突飛さ」である。例えば会話しているときに急に語り口を変える、古典落語に突然登場させる現代的表現、場面のデフォルメの加減(今回は飛行機に乗っているシーンを立って手を広げるという幼児的表現をした)。これらのインパクトが他に比して強い。


 次に「アドリブの巧みさ」。これは多くの噺家に当てはまるのかもしれないが、喬太郎の場合はアクシデントなどを積極的に使う。おそらく、全員がそれを見ている共通地盤を意識している。それも一つのポイントをそれなりに語る。例えば次回公演のチラシが懐から出てきたのを幸いに、宣伝に仕立てあげたりする。


 喬太郎を「メタ落語」と称する表現を見つけた。うまいこと言うなあ。まさに客席を俯瞰しながら噺を構成していくという感じがする。どこを繰り返せば笑うか、どこを引っ張ったほうが構成的にまとまるか、反応を即座に判断、評価してそれを笑いに変換する。表現上の誇張はあるが、実に念入りに客席を見ている。

閉じる学校の傍には

2015年10月25日 | 雑記帳
 町の学校再編計画に伴い統合される学校の閉校式典が始まった。勤務校も含め7校が閉校し、2つの小学校と1つの中学校になる。今担っている役目の関係もあり、全ての式典に参加することになる。皮切りであった昨日は、仙道小学校。現任校を除けばこの学校だけが唯一勤務した経験がある。それも6年間だった。


 結婚した翌年に赴任し、時代が昭和から平成に移るときだった。初めは5,6年を受け持ち、卒業させた後に3年生の担任になった。その子たちをな、なんと4年持ち上がりという…めったにない体験をさせてもらった。職員の年齢層ということもあったろうが、2年目から研究主任を5年間務めることにもなった。


 思い出は数々ある。プールが出来て数年目、ドル平実践に磨きがかかった頃だった。若さにまかせて水温が上がらないなかでも入っていた。おかげで泳力は確かにあがったが、自分が寒冷蕁麻疹になる苦い顛末もあった。町の一番高い山への登山もスタミナ切れをして、子どもたちに押されて頂上へついたこともある。


 三年目だったと記憶しているが、夏休み中に百周年行事があった。式典前日、降り続く雨で川が決壊し、峠道も土砂が崩れたので、別ルートを先頭車として帰った。冠水した田んぼと道路の中を、ええぃままよと突っ切ったことはまだ覚えている。記念碑にかける幕を取りに、暗い夜道を走ったことが忘れられない。


 その記念碑に書かれた碑文の句は、実は私が考えた。どういう経緯かは忘れたが、その句が地元の書家によって刻まれている。「山は人を抱き(いだき)、人は道をつくり」…これは「仙道」という地名からイメージしたものだった。学校が無くなってからも持ち続けたい願いともなった。つくづく光栄なことである。

深秋の一週間メモ

2015年10月24日 | 雑記帳
 月曜日。天気に恵まれた週明けだ。来月のセミナーに向けて、改めて講師のお二人に詳細を記したメールを作成する。午後から1年生の学級活動の授業を参観する。「学級会」という言葉を初めて教える貴重な1時間、いろいろと考えさせられた。年次をもらい歯医者へ。奥歯にひびが…という診断。また通院が始まる。


 火曜日。朝は凄い靄だった。野球場のマウンド付近に夥しい数のカラスが集まっている。巨人軍の噂話だろうか。校内授業研で3年生と5年生の算数が取り上げられた。どちらも図形教材。授業と教師の個性は切り離せないと改めて実感させられた。協議では「ICT」と「算数を国語でする…」という2点を話す。


 水曜日。学校作成に取りかかる。今日は「羽後町まるごと給食」の日。町長などが来校し、一緒に会食する。午後からその様子も交えて学校報を完成させる。その後職員会議、案件はスムーズに終了。発表会の保護者対応のことが話題になる。退勤後に教委へ。閉校式のこと、教育実習のことなど相談する。目安がつく。


 木曜日。県教委から3名来校し全学級の授業を参観する。一学期に続いて2回目である。「ぜんしん」していますと有難い評価をいただく。午後から学校関係者評価委員と評議員に集まっていただいての会議。発表会をまとめたDVDを視ていただく。ここでも職員の頑張りを誉めていただき、ほっとする一日となった。


 金曜日。願ってもない好天のなかで、全校マラソン大会なべっこ会が出来る。たくさんの声援を受けて、また地域の方々の協力を得てマラソンが無事に終了。なべっこも各グループを回りながら少しずつ味見できた。食後に子どもたちが思い思いに遊ぶ姿がまぶしい。恵まれた日となったことを、お天道様に感謝する。

校則から教育を覗く

2015年10月23日 | 読書
 【2015読了】104冊目 ★★
 『こんなに厳しい!世界の校則』(二宮皓 メディアファクトリー新書)


 先週、ある4年男児が登校の列から外れて、駆け寄ってきた。「先生、間違ってサンダル履いてきました。」小学校で具体的な校則を決めているところは少ないだろうが、入学時から靴やズックを履いてくることは暗黙の了解事項になっている。そうした多くの文章化されない約束事によって日本の学校は安定している。


 この本で得られた知識は、面白いなあと思う反面、教育の本質はいったい何なのかを考えざるを得ない。例えば、ドイツには「休日に宿題をしてはならない」という校則があり、イギリスのある校では「学校既定の宿題帳」があり量確保の細かいガイドラインを決めている。生徒への配慮は逆方向を向いているようだ。


 ドイツには、学校がコントロールすることは親がすべき教育の責任と権利を奪うという考えがあるという。イギリスは細かい学校区分があり、筆記試験のための意識がかなり強いようだ。教育に力を入れる政策は、ほとんどの国にあるのだろうが、その具体策の多様さは、私たちが想像するよりはるかに広く複雑だ。


 校則と言えば「持ち物」も大きな点だが、それは諸国でも同じ。禁止と記載されているなかにある「おもちゃの銃」「適正な大きさでない食器」「枕と毛布」等々、これも実に多彩だ。共通点を探せば「家庭での寛いだ生活を連想させるものは、教育の場にふさわしくない」という考えだろうか。日本も同様と言える。


 瑣末なことを並べているように見えて、編者はあとがきで決定的な点に触れる。曰く「日本の校則でも教師への尊敬を堂々と求めてもらいたい。世界の校則では、教師への態度や尊敬を明確に義務づけている。教師を尊敬してこそ学校での学びが成立する」。失われた尊敬をどう取り戻すのか、問われている現在がある。

箴言噛みしめる日

2015年10月22日 | 読書
 【2015読了】103冊目 ★★★
 S20『森信三一日一語』(寺田一清・編 致知出版社)


 たぶん、その時その時の環境や気持ちなどによって響いてくる言葉が違ってくるのだと思う。
 ことさら、前と比較せずに、今噛み締めたい言葉を拾っていこう。

★一月六日
 一日不読 一食不喰
 書物は人間の心の養分。読書は一面からは心の奥の院であると共に、また実践へのスタートラインでもある。


 奥の院ほど高尚ではないが、物置小屋に仕舞ってばかりいては駄目だということ。実践への糸口を探す心構えがほしい。


★五月七日
 百円の切符が九十八円で買えないことは、五円で買えないのと同じである。もの事は最後の数パーセントで勝敗が決する。


 「詰め」の大切さ。勝敗はそこで決するか。
 それまでの尽力が無駄とは言わないが、ふいになってしまうことも何度か目にしてきた。


★九月二十二日
 真に個性的な人の根底は「誠実」である。それというのも、一切の野心、さらには「我見」を焼き尽くさねば、真に個性的な人間にはなれないからである。


 個性と、誠実、素直などということは反対の概念かと思っていたが、「何」に対してそうあるべきかを問えば、個性とは実に誠実な姿なのである。
 我に向かうか、彼に向かうか。


★十一月十一日
 知識の完全な模写物より、自分が躰でつかんだ不完全知の方が、現実界でははるかに有力である。


 世の中に「完全知」というものが存在するのかどうか。
 何かを身に付けるとは、常に不完全なまま積み重なっていくこと。
 身に付け方による力の違いは決定的である。


 まだ二つばかり拾ったのだが、それは非公開(笑)。
 あまりにもダイレクトな箴言でした。