すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

その程度の継続を

2013年05月31日 | 教育ノート
 寒く、桜の咲かない連休から始まった五月ももう末である。
 子供たちはもう半袖姿であり、気分は夏に近い。春の短さを痛感するような天候の急激な変化だった。

 中旬頃に情報関係の支援員の方が、本校の番ということで来校した。話を聞いてみると、我が恩師の息子さんでびっくり。
 そういえば私達を受け持っていた高学年の頃に、男の子ができたという出来事があった。その時の…と、そういう記憶があったことにも自分で感激した。

 さて、雑談しながら本校のホームページの話題になった。
 市内の各校の更新率は非常に悪い状態であり、その中で珍しく続けている本校を注目してくれたようだ。
 あまり力を入れていない学校(担当者?管理職?)に聞くと、一つには「それ以外にやることはあるだろ」という理由が挙げられたという。
 また子どもの活動している写真を出すと「他の家庭から自分の家の子も出してと言われる」といった、今どきの親対策のような声もあったという。

 どちらももっともな話である。
 そして、わき上がったのは「やらない言い訳なら、いくらでも出せるなあ」という単純な思いである。
 自分もそんな言い訳でやらないことがたくさんあるだろうなと感じつつ、「優先順位づけは、手軽さや方法習得と大きく関わる」ということに気づく。

 例えば、私は当然ながら、ホームページ更新を学校通信活動の一環と考え、「学校報は週1回発行」「ホームページは出勤している授業日更新」をノルマにしている。
 学校報には1時間程度かかるだろうが、ホームページの作業は10分程度である(日々の活動情報以外があると、もう少しかかる)。今のところブログ形式にしなくても、その範囲内で可能である。

 その程度で仕上げられるようにしなくてはいけないことだと考えている。
 また、その程度でやれることを続けていくことに意義があると考えている。

 と言いながら、アクセス数(現在は月1000程度だろうか)ももう少し上げたいし、現在県内小学校ランキング3位(http://www.i-learn.jp/schools/search.asp/a=s&prid=3&k1=E&o=updf)の座を維持し、できればその上へという数値的な欲もあるにはある。

 さて、学校報もホームページも、現在のところは「一方通行」であることは認めざるをえない。
 理想的な状態のイメージはつかめていないが、記事の内容をもとに双方向的な情報のやりとりができる機会を見逃がさないことは肝に銘じたい。

 だからこその、継続だということも。

日用品に向けられる言葉

2013年05月29日 | 読書
 雑誌『ブルータス』の表紙のキャッチコピーには、いつも唸ってしまう。自分の好みとその範囲が似通っているのだろうなあ。

 今回のコピーは、こうだ。

 尊敬できる「日用品」。

 二つの言葉の意味を、念のために確かめる。

 【日用品】日常の生活で使う、こまごまとした品物(広辞苑)
 【尊敬】他人の人格・行為などをとうとびうやまうこと。(広辞苑)


 「日用」と「尊敬」は両立しにくいというイメージが底にあるので、このコピーはひねりが効いている。
 そして、「日用品」といっても、ピンからキリまであることを私達は知っている。
 いわば百円ショップに並ぶ安価な日用品から、どこぞのデパートに陳列ましますブランド製の高級日用品まで…。しかし一般的に考えれば、それほど高価では一般大衆は「日用品」と呼ばない気がする。
 従って線引きはできないが、種類に応じた一定の価格以下の品物というのが妥当なところではないか。

 「尊敬」はどうだ。
 対象が人であれ、物品であれ、尊敬とはいかなる感情か。
 操作性、耐久性、に加えて見た目、つまり美しさも入ってくるだろう。
 そういえば、と思いだす言葉がある。

 用の美

 素晴らしいコピーだなと改めて感じいる。

 扱いやすさ、丈夫さ、そして飽きのこない、いわばシンプルを基調にした美しさ。
 美は、動的な面と静的な面の重なりから紡ぎだされる。

 人間に喩えるなら、常には動いていて、健康で、飾り気のない素朴な輝きを持つ人か。

 尊敬できるモノは、常に同じ魅力を放っている。


 ここまで、つらつら書いてきて、また雑誌を見直してみたら、肝心の特集の一枚目を読み飛ばしているではないか。

 さすがのブルータスで、「尊敬できる『日用品』」を八つの観点から特徴づけている。
 どれも納得だが特にこの二つがいい。

 機能を超えた意思が見える。
 使っている時間が楽しい、心地いい。


 モノに対する時に、そんな感性で接しているか、ということもあろうが、自分の思想を持っているかと問われている気もする。

 しかし、それ以上に、とんでもない言葉が、ページ下欄に書かれていた。
 ウィリアム・モリス(モダンデザインの父と言われるらしい)の言葉である。

 Have nothing in your house that you do not know to be useful,
or believe to be beautiful
 「役に立たない物、美しいと思わないものを、家に置いてはならない」


 圧倒された。

リョウケンがセメェ男の独り言

2013年05月27日 | 雑記帳
 「おまえさんは,いったいどういうリョウケンなんだい」

 なんていう言葉を,よく落語に出てくるおかみさんが使う。

 このリョウケンは「了見」で,了解の了,見識の見だろうぐらいの予測はしていた。
 改めて調べてみたが,それも間違いではないようだ。
 しかし,辞書の初めには「料簡」の文字が。

 ネットで調べたら,日本国語大辞典の出典ということで,こんな注が書かれてある。

 「料」は、はかる、かんがえるの意。「簡」は、えらぶ、しらべるの意

 なるほどね。
 落語(時代劇でもある)の話のなかではよく「リョウケンがせまい」とか「くだらねえリョウケンだねえ」なんて否定的な場面での使われ方をするので,単なる「考え・思慮」と思っていたが,どっこいそれでは「そんなリョウケンじゃあ困るよ」その通りだった。


 立川談春の落語CDを聞いていて,そのボーナストラックに談志が談春を誉めている高座の声が入っていて,盛んに「そのリョウケンがいいね」といったことを口にしていた。

 その言葉遣いが今一つ呑み込めなかったが,リョウケンの意味をたどってみると「はかって,えらぶ」「かんがえて,しらべる」と,どちらとどちらの組み合わせでもいいが,単なる思考だけではなく行動に表していることが強調される。

 談春であれば,それは古典落語への追求を指していることは明らかで,それが彼の佇まいを決しているのだと思う。

 談志が自然に口にしている「料簡」は,まさしく実行を伴う思慮以外の何物でもない。

 考えているばかりいる者も,走っているばかりの者も「料簡がせめぇなぁ」ということである。

ドリンクウィーク

2013年05月26日 | 雑記帳
 ふだん栄養ドリンクはあまり口にしないが,訳あってずいぶんと飲んだ一週間だった。珍しいのでメモしておく。


 日曜朝に起きたとき,あっ喉が痛いと思ってはいた。たいしたことはないと春山散策をしたのが悪かったのだろうか。夕刻からあっという間に身体がだるくなり,早めに寝てはみたもののもう堕ちていく一方の兆しが出てきた。しかし今週は結構抜けられない日が続くなあと思いながら,月曜朝のコンビニでまず一本。

 月曜定時後即行で帰り,倒れるように寝込むが良くなる気配なし。アイスノン,冷えピタなども使うが,何度も目を覚ます。これは医者に行くべきと思うが,年休をとるタイミングがつかめない日程である。昨日より少し高級なドリンクで凌ぐことに…。仕事にある程度集中できるが,一つ終わるとぐったりするパターン。

 水曜朝少し良くなる。ちょうど定期通院で薬をもらう日なので,そのついでに診療をと思ったが,行ってみたら患者が多く,会議に間に合わない。大丈夫と自分に言い聞かせ,診療はしないことに。朝会議への気合を効かせるために,通常ドリンクDを念のために飲んでおく。いい状態続き,木曜初めてドリンクがきれた。

 金曜朝,あれっと思う。どこか体調がもどってない。この日は宴会二本。いずれ明日,秋田市へ出張もあるので飲まないつもりだが,ちょっと心配。水曜まではのどの痛みと熱だったのに,今度はのどから気管支,胸痛もする。ひょっとして菌が下がったのか。宴会終了,九時半帰宅,ドリンク一本飲みまた倒れ込む。

 土曜日,胸に湿布する作戦に出て,どうにか秋田往復。帰りの高速では眠気が襲ってきて,これはヤバいと思う。高速を降りて近くの地域マーケットの駐車場で休憩をしようと,シートを倒し数分間眠る。その間に両脇の車がいなくなり,妙に目立って不審者かと店員ににらまれた。咳払いして入店。ドリンクを購入。


 しばらく飲まないつもり。

いい本の要件を満たすもの

2013年05月24日 | 読書
 奥野修司の書いたノンフィクションが印象深かったことを思い出し、その著者名に惹かれて買い求めた文庫だった。

 『放射能に抗う 福島の農業再生に懸ける男たち』(講談社文庫)

 題名そのままに、震災後の福島で農業に取り組む男たちのドギュメントか、と思いきや、実際は第1章と第8章が震災後つまり現在進行形の格闘であり、2章から7章までは2009年に発刊された単行本が主原稿になっているものだった。

 第一章で驚嘆すべきほどのエネルギーと知恵で動く男たちが描かれ、それを突き動かす源を探るように次へ誘う。
 章の最後のこの文章は、それだけでも私達に何かを問いかけている。

 決して「想定外」と言い訳することなく、次々と新しい対策を立てていく伊藤の「常日頃」では、いったいどんなことが行われていたのだろうか。

 「想定外」とは「常日頃」に規定されることを言い切った文章である。


 さて、二章以降に描かれるのは、一言で言えば、「世界一うまい米をつくる」と宣言し、歩みを決して止めない農業集団のストーリーだ。農業の姿を典型として実に学ぶべきことの多い内容だ。

 私がよく読書感想メモとして記すのは、自分の現在の仕事である教育に生かせる、関連付けられるような考え方を探すねらいもある。その意味で多くの、実に真っ当な、そして忘れがちな言葉にあふれていた。

 例えば、こうした文章たちだ。

 記録を共有することで、技術の底上げができるんです。(中略)記録と記憶の違いはその再現性にあらわれます。

 消費者が求める「安全安心」の安全とは客観的で、安心とは主観的なものだ。

 知識は持たなくとも、あれ?これはどうしてだろうと思う感性の持ち主が、知識を求めたときにものすごい結果を出していきます。


 それからこの著は、自分がある程度知っていた、知っていたつもりになっていた状況、事柄について、もっと深い、もっと新しい視点を授けてくれた。

 例えば、米の流通、農業振興に絡む、農協という存在の意義と実態…農村に生まれ育った自分には、一応の知識はあったつもりだが、想像以上の堅固な構造と古く錆ついた体質に縛られていることの認識を新たにした。
 知り合いや同年代で職員になっていた者も多いが、その生活の裏が垣間見えるような気になる。その苦悩も地道さの訳も。

 改革を唱える者を阻む組織や個人の言い分には、必ず「保身」があり、それを突き崩し納得させるためには、いくつかのパターンがある。
 突破者とも言えるリーダー伊藤の動き方から学べる大事な点だ。
 そしてその動きを形づくる圧倒的な調査、学習…今、伊藤らに限らず一流の農業者たちはきっと、内圧、外圧の強まるなかで自らを無奮い立たせるように学んでいる。


 上に記したように、いい本と呼べる要件が詰まったような著書だった。
 しかし、今回それ以上の一つの真実を見つけた思いがする。

 いい本とは、決意を迫るものである。

 書かれた内容によって、自らが掘り起こされたように感じ、内面でくすぶりながらもはっきり言語化できなかった思いが、見事に焦点化される。そんな読書体験をさせてくれる本だ。
 芥川賞や本屋大賞にならなくとも、その可能性を持つ本はまだまだあるはずだ。そんな気にさせられた。

 今回、私に決意を迫った典型的な考えが、この文章に集約されている。

 「経済」で食べる消費者になるか。
 「思想」で食べる消費者になるか。


 これは何も「食」に限ったことではないが、食であるがゆえに揺るがせないという重さがじんじんと圧し掛かってくる。

「読解」の波に身をまかせて

2013年05月23日 | 雑記帳
 年度末の研修総括で「的確に読み取る力」について反省が出た。それを新年度からの重点とすることになったが、一言喋ったのは、継続していく主題「伝え合い、考え合い」との関連及び位置づけであった。なんとなく感じてしまうのは、教える最前線はいつも「表現」と「理解」を行き来する繰り返しということ。


 「読み取る力」となると普通は「読解力」。しかし確か学習指導要領そのものには「読解」という用語はなかったはずだ。その理由を探れば見えてくるものがある。いずれ古くからの読解と、例のPISA調査以降の「読解」の差は大きい。私達が取り上げたいのはどちら。また取り上げなくちゃいけないのはどちら。


 「読解」は周期的な波のように現れて、その度に出版業者が潤ったり?教委や学校は作成物が増えたりする常がある。平成18年の波は結構大きかったし、継続されてもいるのだが、現場で今一つぴんときていないように感じる。それは「読む」という語に多彩な意味を持たせ過ぎて、消化しきれないということか。


 対象としての「連続テキスト(文章)」と「非連続テキスト」。この意識化もだいぶ浸透しているはずだが、後者は今までの勤務校では正直あまり目にしていない。非連続テキストを扱う面白さをどう感じさせるか…そんなことを考え、給食の牛乳パックを見ていたら、いつかの学会での谷和樹氏の授業を思い出した。


 谷氏の授業は「製品表」を取り上げたように記憶している。最終的にそこを読み取らせるとして、導入としての問いかけを考えてみた。「パック全体で『牛乳』という文字が、いくつ書かれていますか?」→「全部で9つ書かれてある『牛乳』という言葉は仲間分けできます。何種類になるでしょう。」全体が動く。

あの時見上げた満天の星に

2013年05月22日 | 雑記帳
 かつて受け持った子の保護者であったTさんの訃報を知った。
 人を包み込むような温かい笑顔が印象的な人だった。

 勤務地としては三校目の山間の学校。
 最初の4月前半は子どもたちと一緒にグラウンドの雪かき(穴をほる)を頻繁にしたことが印象に残っている。体育館軒下に溜まった雪が消えない中で,直線八十メートルもとれない狭いグラウンドで盛大な運動会をした。
 苦い顔をして首を縦に振らなかった学校長を「俺が責任を持つ」といって,体育館での運動会の打ち上げ会を強行したのはPTA会長のMさん。その会へ確か夫婦揃って参加し,隣に座った自分に盛んにビールを勧めてくれたのがTさんだった。
 バケツに雪を入れて冷やしたビールの味が沁みて心地よい一日だった。

 自分の地区担当がたまたまTさんの住んでいる地区になり,夏休みにはラジオ体操や親子会などによく顔を出した。車庫の前でのバーベキューに幼かった娘を連れていったこともある。地区行事の常連状態だった。
「校長先生や教頭先生の顔は知らねけど,先生の顔は覚えてしまった」と地区のお年寄りに言われたのには,まいったやら,嬉しいやら。

 学級の卒業対策委員にもなってくれたTさん。もう一人のOさんを交えて打ち合わせと称して,午前四時帰りの時もあった(もちろん飲み会である)。そのまま朝に平気な顔をして(強がりだが)授業できる若さのあった頃だ。
 卒業の時は,何次会かわからないが,Tさん,Mさん,Oさんら保護者の多くが拙宅に来てれた記憶もある。

 もう今となっては,何を語り合ったか覚えてはいない。
 ただおそらく当時の自分…当たりかまわず走り続けた時期を経て,少しだけ方向を見つけて歩み始めた頃…が熱く語り,それを頷きながらにこやかに耳を傾けていた姿だけが,瞼に残っている。

 Tさんのご家族もまた優しさにあふれた方々だった。不運な目に遭った親類の子らを引き取り,確執もあったが乗り越えたことを聞いたりもした。
 もちろんその家の兄妹も優しく育った。
 温かさに惹かれるように,何度となくお邪魔した家だった。
 その佇まいをまだ覚えている自分にとっては,やはり大事な存在であったことを今改めて思う。

 あれは,いつの季節,何の会だったか定かではない。
 少し離れた生活改善センターのようなところで,全体の宴会が終わり,Tさんから「また,来るべ」と自宅へ誘われ,頷きながら傘を持って外へ出た。
 
 会が始まる時は降っていた雨がいつの間にか上がっていた。
 見上げると,満天の星。
 澄み切った夜の空気のなか,零れ落ちんばかりの星空に,おううっと思わず立ち止まって絶句していたことを思い出す。

 あの時,そんな自分に,Tさんはあの温かい笑顔で「早く行こ」ときっと声をかけてくれただろう。

 いつの間にか,Tさんがあの満天の星の一つになってしまったんだね。

 ありがとう。合掌。

泡沫の記~皐月2

2013年05月21日 | 雑記帳
 BSで放送されていた『青い鳥』という映画を観た。原作本は読んでいるが、吃音の教師役を阿部寛がなかなかの存在感で演じていた。ただ、ストーリーの背景はずいぶんと隠されたままだった。主人公の経歴など想像に頼らせるようなつくりである。「伝われば幸運」というセリフがあったが、それなのかと思った。



 近くの山では若葉が萌え始めていて、実に気持ちのいい季節だ。秋の紅葉よりも個人的には好きだ。期間が短くなかなかシャッターチャンスには恵まれないが、今年も少し残してみた。「青紅葉」「芽吹き紅葉」というのは、もみじだけを表わすわけではない。教科書に出ている「山したたる」はもうちょっと後か。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-2492.html


 横浜市の待機児童がゼロになった話題は、行政の一つのあり方を強く考えさせられる。もちろん予算を1.5倍にしたことは大きいが、それ以上に担当した職員たちがニーズを汲み取り、場所選定をしたり運営方法を工夫したりしたことが推進の要だろう。全てに通用できるとは言わないが「利用者目線」感覚の証左だ。



 夕方の田圃に水が湛えられて眩しい。ある意味では収穫期よりも、この国の豊かさを感じさせる季節だ。今読んでいる『放射能に抗う』という文庫は、福島県のある農業集団のことを描いている。「世界一うまい米をつくる」という志は、やはりこの国でなければ生まれない…そんなことを思わせてくれる風景である。

泡沫の記~皐月

2013年05月19日 | 雑記帳
 ある挨拶を聞いていて気になった言葉があった。それは「こちらに向けられたら困るでしょ」という類のもの。しかし、それを聞いているのは「こちら」という私達だけでなく、「そちら」の方々もおいでだから、相手意識や目的意識ははっきりしている。立場が違えばこうも受け取り方が変わると改めて自覚した。


 有名な指揮者のインタビュー記事を読んでいても自分もリコーダーが得意だったことを思い出した。手当たり次第何でも吹いていた。それは小学時代の感傷に過ぎないが、実は実践としても初任の頃に徹底して吹かせた。他のことが出来なかったから。それが全町の音楽祭で審査員に絶賛されたことも嬉しい記憶だ。


 花粉総括。ほんの少し残っている気はするが、まずは終了。今年も結構手当はしたので乗り切れた。ただあの三日間は酷かった。一日目、くしゃみが続く。二日目、喉が完全に嗄れた状態である総会での挨拶。三日目、身体の痛みがきつくて階段は手すりを頼ってようやく昇る。朝の会議後休みをもらった。翌日復帰。


 急に暖かくなった先週明け。さすがに暖房から冷房へとはいかないが、冬物から春物を経ず夏物に変わるようなテンポには、ちょっとついていけない。春や秋の期間が短くなっていると言った人がいた。ようやく齢相応にそんな季節の機微を感じ取れるようになったのに…間が悪い!いやそんな問題じゃないだろっ。

整理を整理する,その2

2013年05月18日 | 読書
 『佐藤可士和の超整理術』(日経ビジネス人文庫)

 この著に書かれてある、整理に対する考え方、整理術の核となることを、自分なりにキーワード化してみた。

 本文中に使われていない言葉をひねり出して、三つを提示する。

 絶縁  俯瞰  共有

 整理下手な自分には、その能力に欠ける点があるということだ。


 絶縁とは単純に言えば「捨てる」こと。捨てるとはその物事と縁を切ることである。今、黙っていれば縁を迫るモノは次々と押し寄せ、身の回りにまとわりつく。
 それを積極的に振り払う力、習慣が必要である。
 絶縁能力とは、野口芳宏先生もご講演などでよく口にされていたことだ。
 「とりあえず」を連発しながら、たくさんの縁と絡んでいては、本質が見えなくなる。

 俯瞰とは、どこまでも視点を引いて引いて、その特性をずばりと見抜くこと。身に纏うものが多ければ、視点を引くこともままならない。その意味でも絶縁と大きく関わる。
 客観視、複眼的思考…似た言葉もあるけれど、肝心なのは「一歩引く」。見えなかったら「もう一歩引く」…引くことによって、他との比較や位置づけが明確になる。そういう目で物事を見るように常に心がけることだ。
 物品や情報は単発でやってくることが多いけれど、みんな背景を持っている。

 共有という感覚、そして決意は、整理に欠かせないだろう。
 著者は、最終章にこう書く。

 最大のポイントは、視点を見つけること

 具体的な視点は様々にあるという。デザインを考えるうえでは、使用頻度、時間軸、機能などだけでなく、好悪や認知度なんてものもある。そういう意味での視点とはまた別の段階で、仕事を完結させるために大きく働くのは「共有」という視点ではないか。

 物品であれば、想像するに容易いだろう。
 情報であっても現在ネットを中心に進行している状況からはわかりやすい。
 そして思考である。
 これは思考の共有のためというより、過程そのものが大事だ。
 つまり、相手の考え、思いを理解するための働きかけであり、そのやりとりを通じて、思考の共有化が図られれば、必ず整理に行き着く。その意味で「言語」の重要性は計り知れない。

 整理は、空間・情報・思考の共有のために為される、と言いきってしまえば、落ちこぼれのまま居直ってはいられない。猛省。