すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「シン・ゴジラ」観ました

2016年08月31日 | 雑記帳
 8月最終日。高橋名人のそば会で締めようと思ったのだが、電話したときにはもはや既に遅かりし、残念!ではと潔く方向を変えてまだ観ていなかった映画「シン・ゴジラ」に出かける。ゴジラファンとは言えない私のような者であっても、日本人にとってあの叫び声?と音楽は普遍的な「財産」だなとつくづく思った。


 迫力もあるし、テンポもよい、脚色されているとはいえ危機管理の現実にもアプローチしているし、評判どおりのいい作品だった。首都が危機にあるとき、誰がどのように動き、どの場所を起点とするのかが少し想像できた気がする。現実とごっちゃにするわけではないが、登場する女性陣は、みんな強かったなあ。



 豪華な配役だった。現在、テレビドラマの脇役で活躍している俳優がずいぶん多いと感じた。それなりの演技力がある陣容。その頂上が長谷川博己でいいのかと感じたが、主役らしくない表情の乏しい顔立ちが合っていたように思う。しかし、一方の石原さとみは、個人的には頭のまわる印象がないので、違和感が残った。


 エンディングロールのキャストに「野村萬斎」の名前がでてくる。説明は書かれていないが、私はその訳を知っていた。わざと連れに「どこで出たと思う?」と訊ねてみる。当然ながら首を傾げるばかり。観客の多くも同様か。ゴジラの動きが、野村萬斎の動きをもとに作られていたと知ると、また面白く映ると思う。

山女、括りの一節

2016年08月29日 | 読書
 『山女日記』(湊かなえ  幻冬舎)

 ミステリのジャンルではないし、ミステリ的要素といった点もまったくない。
 こんな作品はこの作家には他にあっただろうか。



 でも、この連作長編は面白く読めた。
 やっぱり心理描写がうまいし、泣かせどころも心得ている感じがする。
 小説家ならでは、括りの一節を、いくつかメモしておきたい。

 ◆どこがゴールかなんてわからない。何がゴールかなんてわからない。

 題名が示すように登山を軸として、全編が展開する。
 従って、常に「山頂」がゴールとして存在するわけだが、それゆえ各自の人生と重ねたときに、上の言葉の意味はまた深い。


 ◆雨が降っても一緒にいたいと思える人であることを、誇りに思う。

 「晴れた日は誰と一緒でもたのしいんだよね」という一言が、このラストへのフリとなっている。
 見事に日常の生活とも重なり合う言葉だ。
 登山という状況で、天気に関わりなく一定の気持ちで進めるかどうかは、同行する相手との通じ合いが根底にある。
 その意味で、この一節の示す「誇り」はとても強く感じる。


 ◆人は大なり小なり荷物を背負っている。ただ、その荷物は傍から見れば降ろしてしまえばいいのにと思うものでも、その人にとっては大切なものだったりする。(略)だから、模索する。それを背負ったまま生きていく方法を。

 山登りはしないので考えなかったが、登山はずいぶんと荷物に気を遣う活動だということを、この小説で知る。
 さて、この一節は実に直接的だ。人生の荷物は自分自身の問題であったり、家族のことだったり、人間以外の要素であったり、様々である。背中に感じる重さは他人にはわからない。
 どんなに背負っていても、明るく歩みを進める人もいれば、逆にひたすら苦情と嘆きを口にしていく人もいる。
 生きていくには体力と精神力を養うしかない。そして工夫も必要だ。

「クマは、そのまま逃げました」

2016年08月28日 | 読書
 Volume17~テレビニュースの一言


 「クマは、そのまま逃げました」 


 (被害に遭われている方を茶化すということではなく、ニュースのことばの使い方です。念のため)

 人間に危害を加えた後に「そのまま」逃げたのだから、当たり前の表現のようだが、ではそのクマは何かする必要があったのか。

 やったぞとガッツポーズでもすればいいのか。
 警察・病院に通報する、大丈夫ですかと声をかける、周りに大声?で助けを求める…
 別に車によるひき逃げではないのだから、クマにとって「そのまま」逃げるのは当然だ。

 それをことさらに言う。人間ってなんて勝手なのかと思う。



 「台風の、意外な一面」


 台風に関して、今まで自分が知らなかったこと、一般にあまりよく言われていないことをそう表したのだろうが、どうも違和感がある。

 自然現象について「意外」という言葉を使うのは、なんとなく不遜な気がしないか。
 これも考えると自分中心、人間中心の感覚に覆われているからではないか。

 なんでも「意外」で済ます世の中では駄目だ。
 まだ「想定外」の方がましだろう。

「つまらない男」宣言

2016年08月26日 | 雑記帳
 某政党のバリバリ女性代表候補者に、「つまらない男」と評された現代表。記者会見で素直に認め余裕を見せたら、結構「つまらなくない」と思うのになあ…、妻から言われたらどうとか、性格を知っているとか、やっぱりつまらない答弁だったなあとニュースを見ていた。ふと「つまらない」という言葉に興味が湧く。



 「つまらない」を日本国語大辞典で調べると結構細かく、その意味が分かれている。
 (一部省略しながら引用)
①おさまりがつかない、落着しない
②苦労のむくいがない。張り合いがない
③不都合である。困る
④物事に心がひきつけられない。おもしろくない
⑤対象としてとりあげるねうちがない。価値がない
⑥道理に合わない。ばかげている
⑦不必要である。無用だ。


 彼女が使った「つまらない」は、この区別では④となるだろう。それ以外を主に指しているとなると、これは問題になる。しかしまた、まったくそういった要素が含まれないのかと考えると、否定もできないではないか。広辞苑や明鏡なども分割して書いてあるが、かの新明解の解釈は、この2行が全てなのだから。

 その人や物に、これといった評価に値する(興味や関心を抱かせる)点が見出せず、積極的にかかわろうとする気持ちになれない様子だ。


 これは大問題か。政党代表者が党員に「つまらない」と言われるなんて…。しかし、皆様ご承知の通りそれは某政党だけではないはず。自由に言えるだけまだましか。ともあれ結局、個人の評価眼が全てだ。ゆえに肝心なのは自分が「つまらない」とする人の評価は気にしないこと。堂々と「その通り」と宣言すればよい。

とてつもない習性の国民

2016年08月25日 | 読書
Volume16~外国人スペシャル2

  「日本人が手間のわりに、お金の儲からないことに価値を見出してきた」 

 比較文化研究者、王敏氏(中国)の言葉。
 折り紙、和紙の伝統などを例に、そう語った。モノを売る際に「こうしたら買う人が喜ぶ」ということを、価格抜きに考えるような心は確かに残っているのではないか。
 それを一つの精神的な対価として受け止めている気もする。
 
 その日本人の感覚はグローバルな世界が広がる中で、尊重されていくのかどうか。そして自分はどうしていくのか、考えさせられる。



 「日本人は、ロボットでも人格的なものを感じることができれば“仲間”として容易に受け入れることができるのです」

 
 デザイナー パトリス・ジュリアン氏(フランス)の言葉。
 人工知能を搭載するロボットが開発され、徐々に広がりを見せている。
 それ以外にも、人間的な音声を発する家電や機器などは日常的だ。そうした開発に長けている我が国の姿に、日本的なコミュニケーションの典型を見ているようだ。

 確かに、無生物にさえ「命」の存在を重ねられる私達は、論理とはかけ離れたところで動き、考えることが多いように思う。
 何かとてつもない習性をもっている国民だなと、また驚く。

驚きの唯一の国

2016年08月24日 | 読書
Volume15~外国人スペシャル1

 「(女子高生のスマホの装飾について)手間暇をかけてあんな風に飾り立てるのは、世界を見回しても日本の若い女性ぐらいです。でも、あれは若者独自の文化なのではなく、精神の水脈から無意識に噴き出してきた日本文化の源流なのです」


 写真家エバレット・ブラウン氏(アメリカ)の言葉。
 縄文土器の文様の美しさに魅せられ、それがもともとの日本人に備わる匠の気質からくると論じている。
 それは、意識されないかもしれないが、「温泉と同じで掘れば湧いて」くるのだという。
 女子高生のスマホ装飾も例外でないとしている。ただ、驚いた。



 「愛好する専門分野をとことん突き詰める日本人が多数存在します。日本は、自分の趣味で生活費を稼ぐことができ、かつ尊敬される唯一の国といっても過言ではないでしょう」
 

 社会学者アンジェロ・イン氏(ブラジル)の言葉。
 温泉宿を愛して訪れると、日本人の「温泉入浴に対する姿勢」に驚くという。
 細かい泉質表などや、施設に見える細かい気配り。それを例に様々な分野にオタク的な探究心が根付いていると結論づけている。
 「唯一の国」が抱えている現実には、強みも弱みもあるのだろう。

遠くの背中をもう一度見つめる

2016年08月23日 | 雑記帳
 むのたけじの本について、改めて当ブログに載せているものを検索した。

2007
 最も古くてねっこにある言葉
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/5b018c7cedb5e83af6d944dd6685c0df


2008
 九十三歳の語りに触れて
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/dda3a9f533c7d0ac7dbbb9266d8eeaa6

2011
 寛容しない本を読む
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/2590d1c783bea8d9f7f8d6aed08bed96

2011
 熱を振り撒きながら歩く人
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/c65e1bff003b35cd3dc77bc74d69d579


2014
 桎梏
http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/f144ac3d0a112706734e12801ffc8fd8




 改めて読んでいて、最近『とと姉ちゃん』の放送によって注目を浴びている、花森安治のことが思い浮かんだ。

 二人とも自らの戦争体験によって「二度と戦争しない」が出発点であり、権威に対する反抗精神は深く重なっている。
 ただ同じジャーナリストとしての方向、戦略的な点に著しく違いがある。

 花森は都会に居て庶民の暮しに焦点を絞り、むのは郷土に返り、地方からの発信に徹底した。

 知名度だけでは測れないが、その差には戦後日本の姿が凝縮しているとは言えないか。

本当に遠くなった背中

2016年08月22日 | 雑記帳
 むのたけじ逝去の報せを朝刊で知った。

 六月初め、横手市で講演会が開かれる予定であった。
 早々に申し込みをしていたが、本人の体調がすぐれず来秋できないということで本当に残念だった。

 十数年前に、あるネットマガジンに投稿した文章「『むのたけじ』を読もう」を載せ、追悼したい。
 思いは今も変わらず、そして、その背中は本当に遠いものとなってしまった。合掌。



 ◆

 大学三年生だった。附属小学校で教育実習をした時、担当の教官に出身地を尋ねられた。秋田県の南部で、「かまくら」で有名な横手市へ20kmぐらいの所ですよ、と何気なく答えた私に、その教官はこうつぶやいた。

 「横手っていうと、むのたけじがいる所だねえ。」

 初めて耳にしたその名前に、私は首を傾げることしかできなかった。
 そしてそれから数年後、教職についたばかりの自分を励ます、かけがえのない書物の著者として、再びその名前とめぐり合うこととなった。

 『詞集 たいまつ』(評論社)

 「詩」ではない、「詞」である。新書版サイズの一冊の中に六百ほどの詞が並んでいる。一行のものもあれば二十行を越えるものもある。
 郷里に帰った二十代の私を励ましたのは、例えばこんな詞である。


 遠い空も近くの空も、一つの屋根だ。山のかなたの空の下にあるものは、山のこなたの空の下にあるものである。山のこなたにないものは、山のかなたにもない。
 (詞集Ⅰ P21)

 もしも自分のためにかがやくなら、燈台は船をみちびくことができない。
 (詞集Ⅰ P40)


 少し恥ずかしい気もするが、その当時の自分を支えたことは確かだ。「Ⅰ」に続いて発刊された「Ⅱ」も読みきった。
 しかし、その後書棚に収まり、時折背表紙に目をやったことはあっても、だんだんと隅に押しやられるようになっていた。
 自分自身の「たいまつ」が、きっと炎を小さくしていったということだろう。


 昨年暮、むのたけじの「たいまつ Ⅳ」の発刊広告を新聞に見つけた。
 懐かしさというより、一種の驚きを感じながら注文した。深緑のカバーに包まれた300ページ弱の新書を開くと、今年で88歳になるという著者のエネルギー、現実を直視する姿にまた圧倒されてしまった。1988年発刊の「Ⅲ」の存在すら見過ごしていた自分の不明を改めて恥じ、すぐに注文した。


 悪貨に駆逐される良貨は、実は偽者の良貨である。それの存在自体で悪貨を駆逐するもの、それが良貨の本物である。
 (詞集Ⅳ P80)

 祈るなら、あすのためには祈らない。あさってのために祈る。
 あすは、あさってのために働く。

 (詞集Ⅲ P145)


 この厳しさは、生をまっすぐに見据える目だ。その眼差しは常に上向きである。ぐたぐたとした説明はいらない。

 反骨のジャーナリスト、むのたけじ…太平洋戦争終戦を機に新聞社を辞め、地元横手に帰って週刊新聞を立ち上げた。常に民衆の側から反権力、反戦を貫きとおしている。その個人史が産みだした言葉には、その全体重がのり、まったくといっていいほどぶれることはない。

 言葉の結晶に遭遇した快感を覚える。

 こんなに近くに居るのに、なんとも遠い背中である。
 今日は、一歩近づけるだろうか…「むのたけじ」を読もう。

自分の食が見えること

2016年08月20日 | 読書
 『ごはんのことばかり100話とちょっと』(よしもとばなな 朝日新聞社)

 よしもとばななの小説は読んだときがあったようななかったような…。沖縄の話が、とふと思い出したので、それもエッセイだったかな。この一冊はテーマとともに表紙の写真がよかった。「たべびと」ブログに食べ物の写真を載せているが、気ままに撮っていても難しく感ずるときがあり、ちょっと印象づけられた。



 「さっと書きたくてさっと書いたものばかり」というこのエッセイ集。家庭の食卓を中心に、食に関する思い出や好きな店、宿のことなどが自由きままに書かれてある。しかし、さすが流行作家(でもないか)、見つめる目のユニークさ、凛とした価値観が表れている。何より「食いしんぼう」であることに共感を覚えた。


 食の場の雰囲気を大事にすることを強調しているように思う。高級料理やオーガニック料理の礼賛とは違う。ジャンクフード的な食も登場するし、間に合わせの弁当も忌憚なく語る。ゆえに次の言葉が沁みた。「大らかさって、相互作用だな、と納得する。今の日本に必要なものは、案外そんな感じなのかもしれない」



 「大事なのは、それぞれが、地球とか環境とかではなく、自分自身を大事にしているかどうかではないかな」…表面的な利己主義ではない。そんなふうな食生活をしているかどうか自分に問えば、その意味がわかる。つまりそれは食の中味だけでなく、食の時間や空間、人間(じんかんと読もう)も含めてのことだ。


 食への関心が強いってことは、要するにおいしいものを食べたいだけだ。グルメと称する者は不幸だという言説がある。何を食べてもおいしいと感じる人の方が幸せだというのだ。そうだろうか。肝心なのは、自分の食が見えることではないかな。その材料で、その人が作る料理を、その場所で食べたいというような。

『怒り』読みました

2016年08月18日 | 読書
 『怒り(上)(下)』(吉田修一  中公文庫)

 映画化されたことを知ったので、封切前には読みたいと思い文庫本を買っておいた。上巻を開き始めたら止まらなくなり続けて下巻へ、あっという間に読了した。かの名作『悪人』を彷彿させる群像的な手法がいい。『悪人』が本当の悪人は誰か、悪人とはどういう存在かを問うたように、今回は「怒り」を取り上げた。



 直接的には、殺人犯行の場に残された「怒」という血文字の意味を探る流れでもあるが、群像劇スタイルの個々の設定に「怒り」が内在すると考えてよさそうだ。怒りという感情が、表面化されない世の中になってきている。しかし、突発的に見える事件なども、背景を探れば結局誰かの怒りになるのかもしれない。


 作者インタビューによると、この小説は千葉県市川で起こった市橋達也の事件がきっかけとなっているらしい。それを知ると、作者の向けたターゲットは溢れかえる情報の波に翻弄されている現代社会であることがわかる。その中で疑心暗鬼になり、自信喪失し、依存性が強くなっていく私達の姿が描き出されている。


 話の中で何カ所か「強い拒絶」を示すシーンがある。結末においても、拒絶という形で終焉している二つの物語がある。人が強く拒絶する根源は怒りに近いかなとふと思った。多様な選択があってもどうしようもなく自らの動きを固定する…縛られざるを得ないものが人にはある。それらをどう処するかが人生なのか。