すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

年度最終日に反省する

2012年03月31日 | 雑記帳
 3年ぶりに職場を異動する。
 振り返ってみれば,様々なことがあった。

 赴任直後,まだ新学期が始まる前に休日の学校を見回ったのは,北朝鮮によるミサイル発射があったのだったと,思い出した。

 それから4月に入っての季節性インフルエンザの感染があり,夏には新型インフルエンザ騒動?があり,学級閉鎖の連続に悩まされた初年度だった。
 二年目はそれなりに充実して年を越したが,豪雪,食中毒,そしてあの大震災によってなんとも言えない終末を迎えた。
 かつてない雰囲気のなかで迎えた三年目。原発,復興支援…様々な影響をうけながら,なんとか凌いできたように思う。

 危機管理という言葉で括っていいかもしれない。職場を率いていく立場の重みを大きく感じた。今までボンヤリしていたからだ,と言われれば,もう頷くしかない。
 幸い,子どものことで大きなトラブルめいたことは少なく,予防ということに手を尽くしてくれた同僚たちに感謝したい。

 ところが,最後の最後になって結構大きな問題を複数抱えてしまった。
 詳細は書けないが,一つにはクレームへの対応ということがあった。

 その日,学校にとってはとても大切なことが終わり,保護者とともに祝賀ムードに染まっていたときに,それが起こった。

 一時間程度は,努めて冷静に聴くことに徹し,静かな口調で説得を重ねてみた。
 しかし,対象の子ども本人が望んでいないのに,「私は不快である。この不快を解消させろ」と息巻く人を見て,子どもがそこを離れた瞬間に,私の何かがはじけてしまったのだろう。

 もちろん激高したり,怒号したりしたわけではないが,反論に転じてしまった。

 「貴方は,自分の子どもの願っていることが分からないのか」

 子どもを庇うように見せて,子どもの力を低く見ていることも我慢できなかった。

 さて,その後,おそらく自己嫌悪にとらわれるだろうなと思いながら,そうならなかった自分をどう解釈すればいいかと,少し迷っていた。
 正論を吐いたのだから,と納得してしまっているのか…。

 今日,新年度の準備のためと思い,教育雑誌などを読み返していたときに,目に飛び込んできたのは,次の言葉だった。

 感情の成熟

 内田樹氏の言葉である。
 自分としてはそれほど感情的になっていたとは思わないが,やはりある場合,他者の感情的な攻撃?に同調してしまった部分があったのではないか…そんな気持ちが強くなった。

 教育に携わる者としては,もう少し成熟せねばならない。
 幸いなことに,まだ数年の余裕がある。
 まず日々の心がけとして,「感情を細かく分節し,身体表現や思考を多様化し,深めていく」ことを自分に課していこうと思う。

震災にからんでみる意味

2012年03月29日 | 読書
 『恋する原発』(高橋源一郎 講談社)

 読み始めるとすぐに,マッタクイッタイコレハナンナンダ,ナンデコンナモノヲ…と際限なく言いたくなってしまう冒頭部分(だけじゃなく,いろいろな箇所)がある小説である。

 えっ高橋源一郎って一応純文学ではなかったか,そんなことはどうでもいいが,何の価値があってこのようなことを書くのかと少しばかり怒りが湧き上がってきたり,あまりのくだらなさに笑いがこみ上げたり…。


 しかし,そのうちに,すごい表現が出てくる。
 ヴィデオ作りの相談をしているときに襲ってきた地震。このやりとりに唸った。

 「まだ揺れてる」おれはいった。
 「ずっと揺れてたんだよ」会長はいった。「何十年もな」
 「ほんとですか!気がつかなかった!」
 「鈍いからだよ」会長はいった。


 誰しもあの地震と津波には驚いた。そして原発事故にも。
 その驚き,怖れをどう昇華できたのかが問われている気がした。


 「震災文学論」と銘打たれて,小説のストーリー(まあないようなものだが)に関係なく入れ込まれた論考は,実に深く染みわたる。カワカミヒロミ,ミヤザキハヤオ,イシムレミチコ…それらの引用も巧みだ。

 科学技術をコントロールすることが不可能なのではなく,人間の愚かしさをコントロールすることが不可能である

 人間の「汚れ」そして「浄化」ということに思いが向くが,あまりに大きすぎてまだ咀嚼できないでいる。
 噛み砕いても,きっと自分は文学に真っ向から入っていけないだろうとも思う

 それはつまり何かと言えば,この本の中に書かれている次のことだ。

 「順番」の問題

 震災にかかわって,「服喪」「追悼」を第一にしないで,発言できる意味を深く考えてみよう。
 そしてそれは,きっと自分たちの日常にも深く根付いてしまっている。

少し震災にからんでみる

2012年03月28日 | 雑記帳
 この日曜に気仙沼で行われた復興イベントに参加した。

 たいしたことはできなくとも,直接足を運んでみることは無駄ではないと思ったし,こうした機会を利用してなら,ある程度継続的な支援ができるかもしれないと考えた。

 被災地の現場では,写真一つ撮るにしても少し複雑な気がするが,「どんどん撮って伝えてほしい,他の人に話してほしい」という現地の方々の声も確かにあるわけだし,そんな方法もありかなと思った。
 しかし,実際カメラを構えてみると,中途半端な気持ちである自分に気づいたりして,なかなか割り切れないものだなと,もやもやしたことは正直に書いておこう。

 さて,今回その地に一泊しながらイベントが終わったあとに,車で回ったり,復興商店街や屋台村のようなところで物品を求めたりしながら,ある面でその普通さに少し驚いたり,安心したりした。

 もちろん,たくさんの方が亡くなった悲しみを内に抱えていることは予想されるし,時が過ぎ去ったとはいえ傷跡を毎日目にしている状況で,どの程度癒えた心身なのか安易なことは言えない。
 それでも,普通の言葉で,普通の音量で,普通に話している場面が多かったことは,繰り返される波の動きに似て,多少穏やかな日もあることを想像させた。

 そうやってもっと時が経ち,復興がなっていけばいいなあ…という願いとともに,混乱している現状に目をそむけてはいけないという気持ちも強くなった。
 それは,口幅ったいが,次世代,将来につながる,今生きている人間の責任でもあり,結局それが存在の証しのような気さえする。

 そんな気分のなかで読んだ『恋する原発』には,まったく参ってしまった。

「しがらみ」を見直すため

2012年03月27日 | 読書
 予想通りに面白い本だった。

 『「しがらみ」を科学する』(山岸俊男 ちくまプリマー新書)

 副題として「高校生からの社会心理学入門」とある。私の知的レベルにはふさわしかったのかもしれない。


 いくつかキーワードがある。


 「心でっかち」

 「頭でっかち」をもとにした著者の造語である。
 理論を振り回す学者先生的なイメージの頭でっかちとの共通点もあるのだが,もっと大衆的な?怖い?状態を指す。

 社会的現象について,一人ひとりの心に原因があると考える直感的な理解

 そう言われれば自分にも確かに当てはまる。様々なデータや情報をみて,それを心の原因にしてしまう傾向は確かにある。
 著者が例として提示した離婚率のことや未成年者による殺人率のことなど,実にわかりやすかった。
 巨視的な見方の重要性を念押しされたように感じた。


 「インセンティブ」

 これは多少どこかで聞きかじった言葉だが,単純に言えば「報酬」であろう。それが行動原理に結びつくというごく単純な話なのだけれど,それが一定の構造を持ち,法則めいた動きをしていて人の言動を支配していることに納得がいった。
 他者のインセンティブにどう働きかけているのかという視点で,自分の言動を振り返ってみることも大切か。

 また,「理解」と「説明」の違いという点についても,今まであまり考えたことのない見方があった。これは,自分の仕事に関してもとても大きなことになるので,いつかじっくりと読み直してみよう。
 
 取りあえずは,来週から社会人スタートとなる娘に読んでおくようにと,その本を渡した。

やはり行動で引き寄せるしか

2012年03月22日 | 読書
 『人生の作法』(鍵山秀三郎著 亀井民治編 PHP)

 ここまで徹底できるものかと、ある意味で圧倒される。
 昨年、近くの市へいらして講演会が企画されたが、別に主催する会があったので参加が叶わなかった。この著を読み,ぜひ一度は拝聴したいという気持ちが一層高まった。

 鍵山氏の名前は多くの人が知っているし、「掃除道」とも言うべきその信念と実践は名高い。その生き方の全体像がまとめられている本といっていいかもしれない。

 編者はこう後書きに記している。

 徹底した他者への配慮

 まさしくその通りであるが、この「他者」は目の前の他者だけでなく、今生きているすべての他者に対して向けられているものだ。
 もちろんそれは現実的には不可能なことだし、普通であればそのようなことを書けば、臆面もなくそのようなことを書けるものだと、偽善者と侮れかねない。

 しかし、ある意味で淡々と記された著者の心構え、生活ぶりを読み取ったとき、「所詮無理なことを…」と考えてしまう心の狭さこそ責められるべきだと感じてしまう。
 結局何ひとつできないまま、利己的な因子で染められている自分こそ哀れに思えてくる。

 ここに、自分もできることから一つずつ、限定して取り組んでみようと心がけを語ることはたやすい。
 しかし、そういう安易さの中に逃げ込むことも後ろめたく思える。

 では何をする…。

 こう問いかけてみて、出来ることのあまりの多さと、逆に、続けていくことの困難さに、思わず動きが止まってしまう。
 企業の相談役が日常のほとんど全てを利他的な行動で徹底する揺るぎなさは、こんな自分に本当に想像可能だろうか。

 自己主張の大切さや自分を表現することの重要性が、日本の社会や学校で今ほど叫ばれたことはないだろう。
 それは認めるにしても、何のためかが身体化されていないければ、それこそ身についた形が心を滅ぼすのではないか。

 手遅れの身体を持つ者は、やはり差し当たって行動で示すしかない。

 行動が引き寄せるものに期待して、著者の次のことばを噛み締めてみよう。

 変わるべきは、まず自分。その第一歩は、「いまから」「自分から」下座に降りることです。

宝を探し当てるデザイン

2012年03月21日 | 雑記帳
 昨日の春分の日、やや二日酔い気味で録画していた番組を見た。
 久々に見たNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」だったが、今回は深く見入ってしまった。

 取り上げられたのは「デザイナー・梅原真」。
 初めて聞く名前だった。
 http://www.nhk.or.jp/professional/2012/0220/index.html

 デザイナーというと、単純に都会的センスのような括り方をしてしまいがちだが、この方は明らかに違っていた。

 農林水産業と地方に関わる仕事を次々に引きうけるこのデザイナーの気骨あふれる姿に、深い共感を覚えた。

 自分のしたいことを通じて、どんなメッセージを残そうとするかが肝心だということを教えられる。

 梅原の場合は、デザインという仕事を通じて、「日本の風景」を守りたいということを伝えている。
 そのために選ぶ仕事は、衰退の進む第一次産業であったり、過疎化・高齢化にあえぐ地方であったりする。

 そういう中に飛び込み、渦中にいる者にとっては見えないもの、意識できないものを取り上げて、デザインという形に仕上げる。
 それがつながるために必要なことは、依頼者の本気度である。芯の強さを知るために、梅原は現場に足を運び、話し合いを重ねる。

 その信念と方法は、様々な場や仕事においても同様ではないか。

 学校教育の場でも、グランドデザインといった洒落た言い方をするときがある。
 その言葉が適切かどうかはとにかく、作り上げるために必要なことは、もしかしたら個々の当事者にはなかなか見えないもの、意識できないことを、形にしてみせることではないか…。

 年度替わりの今、大切なことを改めて考える。
 今回のタイトルは、いつも真実だ。

 宝は、すぐ足もとにある。

読んだ本,読む本

2012年03月18日 | 読書
 久しぶりに,ホームページの更新をした。
 といっても続けている「読書記録」を書き加えただけである。

 http://homepage3.nifty.com/spring21/hondana.html

 校内報などもPDFでと考えいくらか準備をしているが,まだ取り掛かれない。

 さて,今年の読書は現在25冊。ペースとしてはまずまずながら,相変わらず節操がない。仕事上,もうちょっと教育関係を思うのだがだんだんと離れていく一方である。(数えてみるとかろうじて4冊か)。

 別に読書は強制されるものではないから,気の趣くままでいいはずとは思いながら,職業人?としてはある程度の仕入れが必要であり,その一つとして,まとまった書籍と向き合ってみることは大切だろう。

 実は,もう既に買い求めていながら,頁を開けない本が5冊ある。
 書棚からじっと私の後姿を見ている気がする。

 『関大初等部式 思考力育成法』
 『恋する原発』
 『視写の教育 <からだ>に読み書きさせる』
 『人生の作法』
 『「しがらみ」を科学する』


 このラインアップで締めれば,来年度のいい準備になりそうだ。

 これから10日は本屋に立ち寄らないことを一つの心がけにしよう。
 できるのかなあ。


 さて,最近読んだ2冊の一言コメント。

 『最強の人生時間術』(斎藤孝 祥伝社新書)

 たまに読みたくなる齋藤節。歯切れが相変わらずいい。
 言うなれば,齋藤版の「坂の上の坂」の過ごし方かなと思った。
 本当の意味での人生の効率とは,と考えさせられる。


 『それはまだヒミツ』(今江祥智編 新潮文庫)

 著名な14人の作家たちによる「童話」集。
 まあ童話と言っても実質は少年少女が主人公の短編小説集といえるだろう。
 中味は,実に面白い。
 今さらながらに,こういう類のメッセージは「自分は大丈夫だよ」ってことだなと強く思えた。



ミステリから手法を学ぶ

2012年03月16日 | 読書
 読書が趣味の一つであっても肝心なのは読んでいるなかみだろうなと思う。

 「どんな本を読んでいるの?」と訊かれて

 「海外ミステリが好きだな」などと返答できるのは、少し格好いい。

 けれど、当方全くそういう本には縁遠い。
 そもそもミステリそのものにあまり興味ないのだけれど、ついつい新聞広告などに惹かれて、買ってしまう軽薄読書人であることも自覚している。これもその一つだ。

 『傍聞き』(長岡弘樹 双葉文庫)

 「日本推理作家協会賞・短編部門受賞作」「おすすめ文庫王国・国内ミステリー部門第1位」…本屋の店員が「百万部売っても売りたりない!」と叫んでいるというのだ。
 まんまとノッテしまった。

 4つの短編があり、どれもそれなりに巧みで読ませるつくり、文体だなと感じた。
 ただ、ああこれはと途中で展開がわかったのが2編。
 こんなミステリ初心者に判られてしまうのもどうかなあ…まあ、ちょっと純粋な読書でなく、犯人探し的な読み進めをしたからだろうか。そうすれば読み手自身の構えが逆に読書の楽しみを奪っているような…。

 謎解きが最後まで続いた2編は面白い。
 表題作「傍聞き」は、この題名自体にものすごく引きつけられる。
 この意味は、作中ではこんなふうに説明されている。

 どうしても信じさせたい情報は、別の人に喋って、それを聞かせるのがコツ。

 いわゆる「漏れ聞き効果」である。
 この作品では、それが二重三重にあったりするので、そこが秀逸だと思った。

 さて、この「傍聞き」はちょっとキャリアのある(もしくは若くてもセンスのある)教員ならば、学級経営や生活指導の場でよく使うテクニックではないかと思う。
 人伝えに聞くほめ言葉ほど嬉しいものはにないという話もよく聞くし、子どもをその気にさせるためにも、けっこう有効な手法だろう。

 この文庫の解説に、著者へのインタビューの一部が載っていて、興味深い記述がある。著者は自作のアイデアが出てくるポイントを、「なるほど」であると答えている。
 人間の無意識な行動の裏にある心理がわかったときに「なるほど」と思うそうである。

 私たちの仕事もよく観察してみれば、そんな子どもたちの言動が多くあるのではないかと思った。
 そこを見つけて突っ込めば、「傍聞き」のように使える手法がもっと発掘できるのではないか、という気もする。

混乱脱出のバネになるか

2012年03月13日 | 雑記帳
 一週間ほど前の地方紙文化面に、本県在住の北条常久氏が「話しことば教育の礎」と題して二日間にわたって文章を寄せている。

 北条氏には『標準語の村』(無明舎出版)という著書があり、遠藤熊吉に関わる話し言葉の研究で名高い。
 今回の論考にも、なかなか面白いことを書いていらっしゃる。

 本県が全国学力テストで好成績を上げている理由として、次のことを挙げられている。

 秋田県民は生活の中で、自分たちが寡黙であることの不利に気付き、「話すこと」を教育の中心に据えてきた。・・・(中略)・・・・
 話しことば教育が、本県の教育全体を底上げしたといえよう。


 その面の研究者としてこうした仮説を抱くのは当然のことかもしれない。また本県で授業を視察した教育関係者の多くがその話し合いの活発さを話題にすることはよくあるので、まんざらその論が的外れとは言えないのかもしれない。

 しかし、しかしである。

 次の文章がある。

 本協議では、次の視点で「公の場で自分の考えを積極的に発言できる子ども」をどのように捉え、自校の教育目標の実現に向けた学校経営に結び付けるのか考えていただきたい。

 これは、新年度早々の協議会の内容予告の文章である。
 本県では「『問い』を発する子ども」というフレーズを昨年打ち出して、授業改善の方向づけをしているのだが、次のように説明している。

 『問い』を発する子どもとは・・・「公の場で自分の考えを積極的に発言できる子ども」

 としている。この解釈がどうなのかは棚上げして、いずれ「積極的に発言できない」ことを重要課題にしているのは間違いないのである。

 とすると、先の北条氏の論と照らし合わせると、おそらく次のような問題点が想像できる。
(教室も十分「公」なのだが)「教室や仲間内では活発に発言しても、それ以外の公の場においては消極的である、意欲が見られない」
 これはおそらく大半の教師が持っている思いだろうと予想できる。

 単純に「活用」を推進すればいい、といった短絡的なもの言いをしていいものか。
 いわば,そうした大雑把さが少し頭打ちな状態?を作り出したとも言えないか。

 調査結果から、仮に、本県教育が底上げされた状態と見えるのであれば、その先を目指すために広範囲に見渡して事項を拾い上げてみなければならない。
 発達段階にそった重点化をもっともっと意識するべきではないか。到達する姿があまりにまちまちで、指導自体がぼやけているという印象を持つ。
 もう一つ大きく,教員自体の問題があるが,それはまたいつかということで。


 かの遠藤熊吉が推し進めた標準語教育は、女中奉公や出稼ぎにいっても困らない子を育てた。北条氏は次のように文を結んでいる。

 ことばの教育が、貧困脱出のバネであった。

 そんな単純な将来ではないと認識している。
 しかし、バネになるくらいに力強いものを育てるのが、この仕事の本懐でもあろう。
 今の世の中に当てはめれば「混乱脱出」と言いきってもいいかもしれない。

3年ぶり,4年ぶりのこと

2012年03月12日 | 雑記帳
 3年ぶりのデジタル,4年ぶりのアナログということかな。

 今週末の卒業祝賀会に向けて,お祝い用のミニムービーを作ってみた。
 前任校で作ったときから3年が経ってしまった。少しドラマ仕立てにして作ったら面白いかなと考え,そのときにソニーのハンディカムを買ったのだった。
 その後,ビデオ自体は何度も使用し,記録として編集したこともあるが,創作?的な使い方は久しぶりだ。

 それにしても,Windowsのムービーメーカーは使いやすくなったと実感する。
 しかし今回の出来は70点ぐらい。時間的な制限(撮影も仕上げも)が大きいが,技術的に不慣れがあって不満足だ。やっぱり回数でこなさねば…そんなことを思うのは結構この作業が気に入っているからだと思う。


 下の娘が就職するので,手帳をプレゼントした。
 『ほぼ日手帳』である。送料のこともあるし,自分も久々にと思って,一緒に購入した。

 前はいつだっけと机の中を探したら,2008年であった。
 その後は別の日記帳を使っているので,御無沙汰している。
 三日坊主のベテランと自称しているので,なかなか日記は充実したものにはならないが,それなりにいろいろなものを貼り付けたり,書きなぐったりしているので,ちょっと懐かしさに浸れる。

 いや,それにしても自分用に買ったはいいが,どう使おうかと今頃になって思案した。
 娘には「デジタルもいいけど,アナログも大事にね」と言葉をそえたが,そのまま自分にも当てはまる。

 …創作ノート。
 そのためのメモと限定してみる。

 格好いい。

 ご無沙汰している作歌をまた始めてみようか,という気になった。
 再開が3月11日になったことも,自分を後押しする。
 きちんとペンを持ちたい。