すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

解説という「むだ話」のむだ話

2021年02月28日 | 読書
 『鳩の撃退法』(佐藤正午 小学館)の文庫下巻の「解説」は、「この本を手にしながらのむだ話。」と題されて書かれてある。あまり小説読みではない糸井重里が、読み出してすぐ面白く感じ、「どんどん先を読みたくなって、とうとう最後まで読み終えてしまった」そうだ。惹きつけられた魅力を糸井流に分析していた。


 書き出しの一文について「感じがいい」という平易な表現を使い、その理由を述べていくのが糸井らしい。そして小説全体を「かっこいい!」で括るが、サッカー選手やギタリスト、さらには羽生結弦まで例を引きながら共通点を探っていく。そして、どうしようもないほど明確な結論を出してしまったところがいい。

「この作者は『書くことがおもしろくてしょうがないのだ』というふうに、読めてしまうのだ」

 これはスポーツや音楽に関わるプレイヤーたちを観客としてみたときのイメージに似ていると思った。多くは画面上でしかないが、それでも伝わってくることは確かだ。この選手は、この演奏者は、本当に今を一途に楽しんでいるか…超一流と称される者は、表面上のスタイルがどうあれ、共通していることに気づく。


 小説家だとすれば「ストーリーや構成といった採点しやすい要素よりも、ひとつひとつのことばを選び、文章のなかに読者を引き込んでいく『かっこよさ』のほうが大事だということに他ならない」。生み出す側は四苦八苦するのだろうが、一旦書き始めたら筆がずっと進んでいく時の疾走感が、その面白さだろうな。


 2021.2.28の朝 快晴

 ふと思い出したのは「つくる」というキーワード。退職間際に統合校の教育目標フレーズとして提案してきた語だ。まど・みちおの詩「朝が来ると」に触発された語だ。人は「何かを作るために」生きる。そして何より大事なのはそれを面白がること。そんな日々を過ごせるように、自らの方向づけに力を尽くしたい。

「ハトゲキ」をようやく読了

2021年02月27日 | 読書
 いったい何日かかって読み終えたことになるのだろう。いくら上下巻のある小説だといってもこんなに長い期間付き合っていた話は初めてだった気がする。

『鳩の撃退法』(佐藤正午 小学館)

 このブログ記によると、2月上旬に「上巻で挫折し」と書いてあり、おそらくは1月下旬には読み始めているか。つまり一ヶ月は超している。寝室+風呂という場所で、細切れではあったがよく続いたものだ。「面白かったか」と問われれば「はい」と言いつつ首を捻る、きっと。ただ続いたのには訳がある。


 一度目は上巻半ば過ぎでついていけなくなり、もう止めよと思ったのだが、何の気なしに見た『ほぼ日』サイトの中に、糸井と佐藤正午の対談があるではないか。そして読み込むうちに、糸井ファンを自称する者としてはもう一度チャレンジかと思い始めたのだった。初めから読み直すと、なんと「ピント」があった。


 もちろん時間をおかない2度目だから、理解の助けがあったのは確かだ。しかしこの本の魅力はぐんと伝わってきた。この小説のストーリーは、簡単に短くは言い表せないし、そういうふうに要約する無意味さを証明しているような話だと言っていい。つまり、何重にも複雑な入れ子構造のようなイメージを持った。


 「冗長」という表現がふさわしいのかはわからない。ただ語りのテンポ、息づきもなしに畳みかけそれも途中で戻ったりはぐらかしたりする文章に快感を覚えた。例えば舞台演劇でたまにある俳優の長台詞のような、もしくは一昨年の名ドラマ『俺の話は長い』の生田斗真の活舌のいい言い訳台詞なども思い出された。


 お決まりのように頻出するのは、主人公が相手の名字をずっと言い違え、それを必ず訂正させる会話。タレントのDAIGOが使う略語的なフレーズ(例えばTYSを「とってもやばい仕事」と言う)もある。何の意味があるか定かでないか、作家はそれで文章のリズムをとっているようだし、人物の表情も作っている。


 伊坂幸太郎は「語りの技術については世界最高峰のレベル」と語ったが、世界を知らない読者にとっては、それが気持ちいいかどうかしかない。没頭できればもっと早く読了しただろうが、何度か途切れた。それでも一ヶ月続けていたの、文庫下巻に糸井の書いた「解説」にたどり着きたかったという理由もあった。
 それは明日へ

いい加減さが身に沁みる2.26

2021年02月26日 | 雑記帳
 13日夜に起きた福島沖地震は、人的被害こそ少なかったとはいえ「あの時」の記憶を呼び起こされ、精神的な部分で辛い思いをした方も多かったのではないか。震度4で被害のない処にあっても、ちょうど10年目思い出されることもある。あの折に心に決めた一つに何度も繰り返し語ってみようということがあった。


 今、当時とは違う場所に勤めているが、災害対策は常に意識している。震災直後の様々な儀式への対応や校内及び対外活動時において、ひたすら非常時想定マニュアルを考え、作成した時間が忘れられない。ただ何度作成のためPC画面に向かおうと、結局はその時に知識を行使できる力は別物だという気がしていた。



 組織にあれば一定の人的配置を考え、被災を防ぐ、減らすための努力は怠られない。それはわかっているが人間は慣れやすく、忘れやすい生き物だ。平穏な日常が危機感を薄めている。だからいったん何か起こった場合、頭でわかっていてもその通りに行動できないことも少なくない。教訓は短く言語化されるべきだ。


 おそらく施設においても家庭においても大切な点は共通する。あえて三つに絞れば「出口確認」「内部点検」「情報収集」だ。地震が起これば、その瞬間はぼんやりする者はいないが、次の行動への素早い転換ができるかどうかではないか。全ては二次的被災の防止につながる。この観点でふだんの生活を見直すことだ。


 具体的には、出入り口施錠等や安全装置の劣化はないのか、複数の情報収集が得られる状況か。書きながら不十分な点も見えてくる。車の中に、一応非常時の物品を積んではいるが足りてない状況を放置したままだ。時々、こういう堅めのことを表してみると、いい加減さが身に沁みる職場で消防訓練した2月26日。

天皇誕生日の472円

2021年02月24日 | 雑記帳
 「天皇」という語から最初に思い浮かぶ姿は、現上皇だ。これは平成になった頃も同じで、まだ昭和天皇のイメージが残っていた。もう少し経たないと定着しないか。しかし齢を重ねれば重ねるほど、皇室という存在の重みは増すようだ。ただしそもそも元号とともにある天皇なら、やはり誕生日より正月の方が目出度いか。


 ようやく食べ終わる

 さて、今日は確定申告をe-Taxで済ますこと。後は車の買い替えを考え始めたのでディーラーに行くことなどを予定していた。ただ、朝から風雪が酷いときがあるので外出はおっくうと思っていた。とりあえず、申告作業にかかるか。e-Taxも三年目。簡単に出来るだろうと高をくくったのが、間違いの始まりだった。


 当然「前年のデータを利用して」と考えていたが、昨夏PCを交換したことを思いだした。ダウンロードデータなので転送されていない。こういう時のためにまだ古いデスクトップをそのまま2階に置いてはいるが、それを接続してという手間を考えると、二の足を踏む。ようし手順はわかるし、打ち込んでみるか。


 まあ初めは順調だった。しかし扶養のために妻の家内工業(笑)分の入力が必要と気づいたあたりから、あれっそしたら妻の方からやるべきだったかと思い、上手いやり方はないかと調べるうちに…。なんだ?さっき打ち込んだデータが消えているではないか。途中保存も出来ていない。ええーっ、俄然やる気が失せてくる。


 「ナエデガァ」…立ち直るまで15分くらいは過かってしまう。落ち着いて妻の方から一つ一つと言い聞かせ、入力再開。遅くとも11時には終了と踏んでいたが13時近くになる。腹もへる。結果の還付金「472円」に泣きたくなる。途中約束していたセールスから電話が入るが「今日は行けませんね」と突っぱねる。


 熱がけそばを食べて今度は送信へ。簡単なはずだが保存ファイルの種類が違い添付できないメッセージが出る。手順のミスにようやく気づき、全終了が13時半。ああ、去年はもっとスムーズだったと思った。一年に一度きりの作業で慣れるわけがないのに、経験したという慢心がこの災いを引き起こしたと自省する。

如月日記・雨水より

2021年02月23日 | 雑記帳
2月18日(木)
 朝、ふと「一日を一生のように過ごす」心がけを思い立つ。月曜から始まった蔵書点検もほぼ目鼻がついたのでお昼前に退勤する。久しぶりに「道の駅うご」へ行き昼食をとる。当然、冷がけそばと思っていたが、少し奮発し鴨つけそばを食す。午後から今年度最後の読み聞かせに某小学校へ。いい締め括りができた。


2月19日(金)
 雪は降っても作業は少しでらくだ。出勤して、教委へ蔵書点検等を連絡、明日からの開館へ備え打ち合わせる。来週の「ねこの日」へ向けてブログを更新する。さらに3月分の図書館だよりの製作に取りかかる。4時に退勤し、かかりつけの医院へ行く。花粉症の薬ももらう。もうすぐ「マスクの季節」って、年中か!



2月20日(土)
 数日前からBS放送が映らない。アンテナの不調か。午前中に某後援会の所用をすませ、午後から増田の漫画美術館へ向かう。実はリニューアルしてから一度も入っておらず、その充実度に驚く。矢口高雄の特別展は撮影OKだったので少しパチリ。夜、県のプレミアム飲食券を使って大好きな牡蠣料理を食べに行く。



2月21日(日)
 某所で衝撃の貼紙を目にして驚く。隣市の量販店などを3軒廻る。夫婦揃って値引きモノにしか目がいかないのは、貧乏性の典型か。午後、BSアンテナの調整をしてもらう。補強が必要だとのこと。昨日に続いて今日も暖かい。外へ出ると花粉の気配がする。夕刻、校正してもらった図書館だよりの印刷を始める。



2月22日(月)
 2週間ぶりに孫とそり滑りへ。ここ数日の雨でざぶざぶした雪面状態だ。しかも若干花粉を感じる。それでも小一時間遊び、帰宅してからすぐ目と鼻を洗う。地域おこし協力隊の方から「秋田弁」の文章を依頼されており、取り掛かる。「絶滅危惧種」は方言にもある。都会化は生活を変え、思想や心掛けも変化させる。

読書絶対禁止の場所で

2021年02月22日 | 雑記帳
驚いた。こんな貼り紙が目に入ってきた。
ナニッ?

読書絶対禁止!

 でかでかと書かれたその6文字は、ガラス扉のこちらと向こうの両面に、びしっと貼られていた。
 下部には「不快、迷惑という声が多く寄せられています」という理由が書き込まれている。

 人が本を読むのを「不快」と感じるのは、いかがなものかとも思うが、「迷惑」になるのなら仕方ないだろうか。

 何せ、この場所は大浴場であるから。

 ここでおそらく、大抵の方は「読書絶対禁止!」の意味を理解できるだろう。



 しかし、そこはちょっと突っ込んで思いめぐらす余地がありそうだと、身体をタオルで拭きながら考えた。

 多くの人は汚れを落とし、疲れをいやし、リラックスするために風呂に入る。
 しかしまた、読書するという行為にもリラックスの要素は十分あるだろう。
 風呂場読書を日常とする自分にとっては、それこそ至福の時間。

 ところがこれが温泉など公衆の利用できる場になると、他者がそういう「リラックス×2」状態で居ることが、不快に思え迷惑に感じるのだという。

 例えば、読書することによって長風呂になり、入りたかった寝湯とか特別風呂に入ることができない…
 例えば、隣でニヤニヤと漫画を読んでいたりすると、気持ちが悪い…
 例えば、読んでいる者が「これっ絶対面白いから…」と話しかけてくる…(さすがにそれはないか)

 というような状態が、日常から存在したのだろうか。

 まあ流行っている施設だったので、やはり長時間滞在抑制が妥当だろうか。
 自分にはあまりそうした方と一緒になった経験がないし、あったとしてもそれほど敏感にはならないと思う。

 別に「不寛容な社会」とまでは言わないが、人はもしかしたら「読書+温泉」というリラックスモードは個別にあるべきで、共有できないと思ってしまうのかもしれない。
 根本に、他者の幸せそうな状態を妬む気持ちが潜んでいる、というのは深読み過ぎか。


 それはさておき、さっき浴場に入ってきた男性。
 マスクしたままだった。

 どうするだろうと見ていたが、あまりに蒸気が蔓延して見失う。

 大浴場は、読書よりも人間観察の場の方がふさわしい。

つまり、誰も味方はおりません

2021年02月21日 | 読書
 自分とちょうど30歳違うから我が子と同い年になるか。『だから日本はズレている』を読んだときに、ああ新世代(この言い方も古い)が登場したなあと感じた。考え方の多くに共感できるわけではないが、TVで見せるあのストレートなあっけらかんさが心に残る。それゆえこの本にも、問いかけられる命題がある。


『誰の味方でもありません』(古市憲寿 新潮新書)


 著者は、ネット上で「炎上」や「血祭り」の対象によく挙げられるようだ。そこまでの関心はないので詳しい事情は知らない。しかし、ここに書かれた物言いを見れば、今の世相では十分予想できる。そういう世の中であることを認識しつつ、「はじめに」に書いた著者の次のような姿勢を、どう評価できるかどうかだ。

「何でもタブーなく自由に言える。何か間違いがあったとしても、少しずつ修正していけばいい。それくらい鷹揚でいられる人を増やすことこそが、実はいい社会を作っていくコツなのではないかと思う。」



 どうだろう。今月世間を騒がした「わきまえる」という発言とは対照的に見える。しかし、かの一件を見ても「少しずつ修正」が許されないのはなぜか。発言に透けてみえる価値観への批判だ。同時にある場所ある範囲では全く逆になっている状況が存在していることも確か。鷹揚に不寛容な社会は見ていられない


 つまり「総論賛成、各論要注意」と言うべきか。タブーなく自由に言える社会に人々が持つイメージはあまりに多様で、それは無理じゃなかろうかと思う。例えば最終章「嫌な人と付き合うコツ」には、中学校担任の言葉として「他人は変えられない。自分は変えられる」を紹介し著者は「嘘だと思う」と断じている。


 「人は変わらない」は家訓の一つでもある。これは他人も自分も含まれるのでさらに含蓄(笑)があるが、それはさておき、著者の考えは「自分が『移動』してしまえば『他人』なんていくらでも変えることができるから」という理由である。それは発想を変える方法論だ。しかし裏を返せば、自分中心から脱け出してない。


 「で何か問題でも…」と言われそうだ。ここで人には「地理型」と「歴史型」のタイプが居るという論を用いれば、タイプ変更を強いていると言える。つまり「自分を変え」なければならないのである。俯瞰に俯瞰を重ねていけば、どこまでも浮かび上がる問題。結局、「誰も味方はおりません」の言い換えか。淋しい。

どうする?「喉活」

2021年02月19日 | 雑記帳
 「すべての異変は『のど』から始まる」…某週刊誌の表紙に見出しとしてあった。なるほど。「コロナも、がんも、肺炎も~~」と添えられてある。ふと、昨秋の読み聞かせワークショップに参加者した方が、感想に「現在、声活をしていて、そのため…」と書き込んでいたことを思い出す。確かに「のど」は注意点だ。


 以前はなかった「呑みこみづらさ」を時折感じることがある。誤嚥とまではいかないにしろ、気をつける必要はありそうだ。さらにだんだんと声を出す機会が減っているように思う。日常会話はごく普通だが、一定人数の前で話すことを職業にしてきた者にとっては、少し衰えが気になる。「読み聞かせ」のこともある。



 年度最後の読み聞かせを、某小学校6年生相手に行った。昨年末に一度チャレンジした「落語」+「講談」を取り上げ、レパートリーにしたいと考えていた。しかしこの二つはごく普通の絵本と比べると、声の持つ意義が大きい。練習を重ねる必要があるし、そうすると若干ではあるが喉が嗄れ気味になる傾向があった。


 家で読むときは、お茶でも飴でもあるわけだが、教室だとそうはいかない。「水」なら許されるだろうか…。途中で気になって読みが崩れるよりいいだろうと考え、事前に断って小さいペットボトルを持ち込むことにした。落語絵本「いちはちじゅうのもぉくもく」を読み終え、「失礼」と言って一口、次の講談の説明をしてもう一口。「それでは『宮本武蔵 ~山田真龍軒』でございます」と始めた。


 結果、一度つっかえたが及第点は付けてもよさそうだ。「喉を潤す」大切さをしみじみ感じるお年頃ということか。そう言えば学級担任の頃は、いつも学期初めに声の出し過ぎで喉が嗄れていたなあ。某週刊誌によると、一番いい「喉活」は風呂場で歌うことらしい。そういう習慣がないから今さら恥ずかしい。では何を。

バーコードリーダーから警告

2021年02月18日 | 雑記帳
 学校に勤めていた頃、図書室の本の点検をした記憶はあるけれど、ずいぶん昔のことだと思う。町の図書館に勤めて蔵書点検」という作業を今週行うことになった。昨年度は前年春に実施しており見送ったので、私にとっては初めての経験である。勤務者の少ない館なので、もちろん私自身も実働部隊の一員である。



 分担を決めての単純労務を続けていくと、改めて気づくことがある。今さらだがバーコードの偉さである。当然貸出の時に使用してはいる。しかし点検のように量をこなす時の圧倒的なその便利さに舌を巻く。これを発明した人は凄いなあ。正確に真っ直ぐ光を当てなくても、次々に読み取っていける対応能力に驚く。


 識別・管理という面における機械化の進歩。おそらく蔵書点検を手作業(番号を見て突き合せチェックしていく)でするとしたら、20倍いや30倍以上は手間がかかるのではないか。臨時休館をして行う困難さは計り知れない。まあそれだけシステム構築に税金がかかっていることは確かだし、仕事の変容は進行していく。


 ベテラン職員さんはまた作業が速い。私も真似てある程度までは出来るようになった。しかし、分担した箇所(やや希望もあって)が絵本・紙芝居等だったので、いつも言っている整理下手の原因が、業務中にも時折顔をのぞかせる。つまり「見てしまう」。もちろん本の中味までは見ないが、題名・表紙に目がいく。


 そのわずかな動作が効率を落とす。ふだんからコーナーで選書しているとはいえ、順番に一冊ずつ確実に触れる機会は稀で、思わぬ題名などを目の片隅で捉えると少し見入ってしまう。「あ、あの作家が書いた絵本だ」「この奇妙な絵は何?」…そんな感情を警告するように、バーコードリーダーの赤い光が点滅する。

風呂場読書で考える

2021年02月16日 | 読書
 雑誌を前ほど買わなくなったものだから、風呂場読書に持ち込むのは新書が多くなった。濡らしたり水没させたりしてもそんなに痛手を感じないから…といっても、お手軽な情報収集だけにとどまらず中味の深い文章に出会うこともたまにはある。読んですぐではなく、何かの拍子に思い出すことがあれば儲けものだ。


負けない技術』(桜井章一 講談社+α新書)

 「伝説の雀鬼」が著すこの本に何を求めるか。「技術」がわかると手にする者は多いかもしれないが、桜井には通用しない。以前読んだ著書でわかっている。ここで肝心なのは「勝つ」ではなく「負けない」という精神のあり方だ。それは「強さ」に通じ、「生きる」に通じていく。小手先の技術は一片も書かれていない。


 世の中で常識になりつつあることへの警告に頷いた。「褒める」「得意なことを伸ばす」…仕事や教育の場では、それらが大きな風潮である。しかし、「褒めてもらおう」という人間関係の卑しさ、不得意の克服に必要な工夫・努力…それらをないがしろにしていることが、社会全体の弱さに結びついているとも言える。



『いい人生は、最期の5年で決まる(桶野興夫 SB新書)

 先月逝去された、町の要職にあった方のことを頭に浮かべた。著者は2008年に「がん哲学外来」を創始した。それは、「薬や医学ではなく、言葉の力だけで患者さんと向き合う」仕事だ。対象者には当然、余命宣告をうけた患者が多いだろう。どう向き合うか…その答は、つまり「いい人生とは何か」を示している。


 結論は「私たちが人生に期待するのは誤り。むしろ人生から『期待されている』のが本当のところです」…この発想転換は、次の一節に結びつく。「世の中のほとんどのことは、余人をもって代えられます。自分にしかできないことは。おそらく一つくらいしかありません」…わからないなら「悩み、静かに待つ」とする。

 
 結構ハードルが高いと思う。通常の日常を送っていれば、その「一つ」との出会いをただぼんやりと考えるだけかもしれない。しかし、「余命」を切迫感と共に生きた人はどう考えたのか。もはやその時点ではそこまでの自らの生き方が問われ、一筋の道しか残っていなかったか。それを真っ当できた最期を称賛したい。