すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自分の見たい「種」がある

2017年05月31日 | 読書
 家系図やら苗字の由来などへの関心が高い。個のルーツを探ることが一つのブームなのか。「人間は自分の見たいものしか見ない」とカエサルという人が言ったというが、歴史本などを見ても、結局自分に都合のいい解釈をしてしまいがちだ。郷土史などもそんな傾向があるのかもしれないと思いつつ、ページを広げた。


2017読了58
 『あなたの知らない秋田県の歴史』(山本博文  洋泉社)


 おそらくは各県ごとにあるシリーズものだ。Q&A方式でコンパクトにまとめられているので読みやすい。古代から近代までが対象で、名前や項目は聞いたことがあるが詳しくは知らない、といった事柄がほとんどだ。それゆえトリビア的な面白さがあり、話のネタにはなるだろう。例えば「アキタ」の起源とは…



 通読して関心をもったのは、歴史的有名人たちの伝説等である。大河ドラマで日本史に興味を覚えたミーハーにはぴったりだ。歴史的に確証のあることとして、織田信雄、本多正純などが秋田に流された記録はある。しかし、石田三成や真田幸村の隠棲説はどうか。全国各地にもそのような伝聞があるのではないか。


 こうした伝聞がなぜ広まるのか、考えてみた。三つほどのパターンがあるだろう。「①関係者願望説→有名人に関わった人たちが願いを込めて流す」「②地元願望説→強いシンパシーを感じている地方の人が流す」「③偽者説→名の知られている人を装い、地方で暮らす」、他、混合型も予想される。人間は物語を作りだす。


 ドラマチックな展開は、仮に嘘であっても面白いものだ。さて70項目もあるなか他で興味深かったのは、あまり知られていない明治維新時の騒動、さらに「龍角散」と本県の関わり(だからCMか)。そして最高なのは戦国時代「湯沢市横堀に築かれた『雪の城』とは?」…これには驚き、その逞しさに感動すら覚えた。

元祖を越えてゆけ、発祥の地

2017年05月30日 | 雑記帳
 BSで『ふるさと探訪』というありがちな旅番組をやっていた。レポーターは三宅裕司。取り上げられた場所は、本県の鹿角市である。夏頃の取材なので再放送らしい。名物探訪、名所観光などがテーマらしく「きりたんぽ 発祥の地」とある。県内外に有名なのは大館市だと思うが…。そこが一つの切り口のようだ。


 三宅が、行き交う人に「きりたんぽ 発祥の地という理由はなに?」と尋ねるが、地元の方々の返答は「大館は宣伝が上手で…」「鹿角の人たちは大人しいから」などと、状況説明に終始するところが可笑しい。きりたんぽ製造店の取材を終えたあたりで、猟師の携帯食、保存食としての説明がされて、一件落着となる。



 大館市は「元祖」を名乗っている。鹿角市は「発祥の地」。しかし、発祥と元祖は比べられるのかなと疑問を感じた。広辞苑によると、発祥は「③転じて、物事の起こり出ること」という意味。元祖は「②ある物事を初めてしだした人」なので、そもそもすみ分けされている。やはり売り出すのは「人」の力かと思う。


 検索してみると様々なジャンルが見つかるネットワールドである。そこに「発祥の地コレクション」というサイトを見つけた。なかでも「発祥の地の定義」をしっかり書いているところに感心、納得する。そこにも元祖とのカテゴリ違いが記されている。正確には「発祥の地の碑」が対象で現在1635件を収集している。


 そうだ。番組で取り上げられなかったのだから、鹿角市に「きりたんぽ発祥の地の碑」を立てるのはどうだろうか。大館市はかのハチ公があるだろうし、鹿角市は駅前や中心地にドドンと、きりたんぽのモニュメント&石碑などを置いたらインパクトが強いと思うのだが…。採用しませんか!(もう既にあったりして…)

目を鍛える大切さ

2017年05月29日 | 読書
 出かけた先で手に取った週刊誌に、池上彰氏(ホストなのかな)と出口治明氏の対談が載っていて、読み入ってしまった。

 特に出口氏の発言に納得することが多く、思わずメモってしまった。
 出口氏は某生命会社のトップ。「世界史ブームの立役者」であるそうな。著書は読んだことがないが雑誌では何度か目にしたことがある。

 キニナルキVolume52として、出口語録を紹介したい。


 「メディアの存在意義はスピードではなくて、ダブルチェックをして、きちんとしたものを提供するということです。メディアの仕組みそのものが、もともとファストニュースにはむいていないんです」

 フェイクニュース、エセ情報が飛び交っている世の中において、メディアはどんな姿勢を持つべきか、考えさせられる。
 ファストフードを提供するような構えではいけない。それはまたそれにとびついてしまう、私たち自身の責任も問われる。
 メディアの良質さを判断する目を持ちたい。



 「民主主義の正統性がどこにあるのかと言ったら、少数の人を長期間騙すことも大多数の人を短期間騙すこともできるけれど大多数の人を長期間騙すことはできない、ということです」

 政治に間違いがないことはあり得ないだろう。
 それを修正していくことを、特定の誰かに頼る心理の危うさは、歴史的に何度も証明されている。
 だからこそ「民主主義」のシステムがある。
 民主主義を軽視するような動きに目を見張らせ続けることが、「修正」を担保できる。


 「似ている時代があるかないかよりも、大変な事態に著面したときに指導者や民衆はこういうふうに動いたという、人間の癖のようなものを、歴史を通して勉強しなきゃいけない」

 大雑把な歴史観しか持てない自分にとって、とても有益な助言のように感じた。
 「人間学」という学問もあるが、歴史に学ぶべき大事なポイントは実はそこなんだなと今さらながら教えられた。

作戦と精神力~夏場所回顧

2017年05月28日 | 雑記帳
 「空前」と形容してもあながち嘘ではないかもしれない。大相撲人気は、取り上げるメディアの量を見れば歴然としている。この夏場所は、幸運なことに溜り席で観覧でき、ずっと印象に残るものとなるだろう。ただ場所前の様々な期待は、叶った人もいるし、残念な結果になったこともあるし、それはいつも通りだ。


 稀勢の里の三場所連続優勝は心情的に期待が大きくても、実際のところ懐疑的だったのは私だけではない。一番見たかったのは「実力者の万全な形での力勝負」、具体的には横綱同士の全勝対決だった。しかしここ数場所を見ても、上位陣の怪我や不調が目立ち、残念な筋道になっている。今場所も同様と言えるだろう。



 その中で、予想の一つにあった若手や小兵の台頭が場所を盛り上げてくれたことが救いだ。地元の豪風初め30歳を超したベテラン勢が多くを占める幕内に、明らかに新風を巻き起こしてくれている。その意味では三役の取組だけでなく、下位陣同士にも見所が生まれた。宇良や貴景勝など、このまま順調に育ってほしい。


 NHKの中継は様々な工夫をしている。中でも目を見張ったのは、力士の取り口データが詳細に出たこと。立ち合いの位置やら勝敗ごとの所要時間数の平均、そして立ち合いの高さ、力量なども数値化して表示した。長所・短所、攻め口など、様々な視点で比べられて面白かった。しかし、当然「勝負」は判定できない。


 ハイライトの一つは10日目の白鵬・高安戦だった。ちょうどその日にデータが紹介され興味深かった。各種データによる有利さは、今場所高安が上回っているように思えたが、勝負は横綱の勝ち。結局、勝負を決するには「作戦と精神力」が絶大であることを改めて感じる。今場所の結果はそれを如実に物語っている。

失われなかった十年の成果

2017年05月27日 | 雑記帳
 「日本の『失われなかった』十年」と題された章が昨日書いた『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート』の中にある。俗に90年代前後を「失われた十年」と称しているが、まさしくその10~15年間を指して書いてある。では、何が「失われなかった」のか。著者が言うには「ビールとサッカー」なのである。

 
 サッカーとビールは、「良識あるイギリス人男性」が好むらしい。著者自身も熱狂的な固執があるようだ。その意味で90年代は「日本の黄金時代」という。サッカーは93年Jリーグ開幕からWカップへ向かう筋道で了解できる。一方のビールは規制緩和によって、国内に90年半ばから小醸造所が増えたことを指している。


 そうそう、と思い出す。最初に飲んだ地ビールは「銀河高原ビール」だった。あのヴァイツェンには驚いた。こんなビールがあるのか、と一気に世界が広がった。おそらくその頃から「アサヒスー〇―ド〇イは、親の遺言で飲まないのです」と言うようになった(もちろん理由は嘘だが、あの味気無さとの決別宣言だ)。


 その後、様々な地ビールを楽しんでいるうちに、2001年盛岡にベアレン醸造所が出来て、宅配注文常連の道を歩むようになった。どのくらいつぎ込んだだろうか…計算するのも怖いが、連れ合いもビール好きなので、まあ身になったということで…。ビアバーにも何度か行ったし、オクトーバーフェストにも出かけた。


 さて、小規模醸造所ビールそのものも嬉しいが、それに刺激され大手メーカーも幅を広げたことが喜ばしい。味の変化が楽しめるようになった。3月発売のエビス「華みやび」はかなりなレベルと感じた。そして今年も見つけた「深み味わうエビス」と一番好きな「エビス・ザ・ホップ」。ギフト仕様だが手に入れ満足満足。


異邦者の目に映った姿に

2017年05月26日 | 読書
 「私はなぜここにいますか。」と、たどたどしい文字で書き出されたその文章の一節を、二十数年経った今でも覚えている。当町に赴任した英語指導助手のDさんが直筆で書いたものだ。その問いを繰り返しながらこの町に自分の存在意義を見出している姿勢が新鮮だったし、外国人が発想する切り口を見た思いがした。


2017読了57
 『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート』(コリン・ジョイス 谷岡健彦・訳  NHK出版)

 10年くらい前の新書だが面白く読めたし、刺激を受けた。著者のジョイス氏は発刊後にニューヨークに居を移し、フリーになったようであるが、現在もネットの「ニューズウィーク日本版」でコラムを書いている。当時、14年間の日本生活のキャリアを持った英紙記者として、日本人の生活や思考を鋭く描いている。


 基礎編「プールに日本社会を見た」は納得の取り上げ方であった。ユーモアたっぷり、また日本への愛も感じられ肯くことが多かった。「完璧なジェントルマン」と著者が称賛したのは近所の自転車店の主人。折れた部品を手に途方に暮れる彼に対して「ケガ、なかったか」とかけた一言と無償の行為が晴れがましかった。



 読み進めると、やはり欧米圏と私たち日本人の発想の仕方の違いを痛感する。概観すると、欧米は徹底して「個」が優先し、全体や周囲に気配りしながらも、最終的に個の目で語る。私たちはどうか。個性重視としながらも、結局のところ、個の考えや思いが全体の中でどう位置づけられるかという括りの中で展開する。


 そこに優劣や正邪はない。独自の風土、歴史を抜きに語れないからである。この国に生まれたことを有難いと考えてはいる。しかしだからと言って、紛争の絶えない国に生まれ、育った経験を持つ人が語る言葉を簡単に想像できるわけではない。こういう書は、異邦者の目に映った姿に何を気づくか思索を促してくれる。

考えれば見事な「B40」

2017年05月25日 | 読書
 「この本自体が素晴らしい発明」と今読んでいる新書の中で著者は書く。内容ではなく「新書判」という版型や販売形式のことだ。外国にもペーパーバックという形はあるが、B40という独特の版型で多彩なジャンルを網羅していることは、考えれば見事である。風呂場や寝床でのグータラ読書にはもってこいだしね。


2017読了55
 『下流老人~一億総老後崩壊の衝撃』(藤田孝典 朝日新書)

 地方農村部の住民にとっては、まだ深刻な状況とは言えないかもしれない。しかし都市部で確実に起こっている事実は、様々な報道媒体によって示されている。『下流社会』という新書が出されてからもう十数年が経ち、貧困問題もクローズアップされているが、苦しさに直面するのはまず高齢者であり、子どもである。

 将来に向けての「自己防衛策」も示しているが、基本的には国の社会構造の変革を強く訴える。第4章は「『努力論』『自己責任論』があなたを殺す日」と題され、社会の持つ「甘え」を許さない風潮を鋭く批判している。政治は優先順位を決定し働くものだが、人権を守るシステムづくりだけはないがしろにできない。


 (まさに、今「藤」の季節ですね)

2017読了56
 『日本人のしきたり』(飯倉晴武  青春出版社)

 歴史的に「神仏混淆」は禁止になっているが、暮らしの中に、神道と仏教が融合した習俗は多く残っている。しかし二つには、根本的違いがある。目的において、神道は「地縁・血縁で結ばれた共同体を守ること」であり、仏教は「個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める」のだ。だからこそ、混じり合っている。

 改めて年中行事、しきたりをもっと大切にしたいと思う。正月もそうだが、この国の暮らしは「商戦」によってリードされている。違和感を感ずる人も多いはずだ。以前から典型的なのはバレンタインデー、クリスマスだが、最近はハローウィンか。もっと日本の心を表わせよ!と、かの人生航路みたいに言いたい。

その心境に届かない

2017年05月24日 | 雑記帳
 「旅行に行く時、荷物の少ない人っているよね」と連れ合いと話した。二人とも同職したことのあるO先生はそうだった。泊を伴う職員旅行に出かけるときでも、セカンドバッグのようなもの一つだった気がする。「そういう人って憧れるよなあ」と、実は半分呆れている調子で口を合わせた。何度か同じ話をしている。

 「ほぼ日」の「今日のダーリン」(5/21)で、糸井重里がこんなことを書いている。

 旅をするときに、とても荷物の少ない人がいます。
 極端な人だと、ショッピングバッグみたいなものを、
 ぶらっと下げて、飛行機で外国に行ったりしてます。
 まねをしたいとも思うのですが、どうしてもできない。
 つまり、ぼくはその逆の荷物の多い人なんですね。
 じぶんにとって快適な環境を、
 どこに行っていてもキープしようとしてるからなのか、
 あれもこれもいちおう持っていこうと思うと、
 荷物はどんどん大きく重くなっていきます。



 なるほど。「じぶんにとって快適な環境を、どこに行ってもキープしようとしているから」…確かにそうだ。大げさに言うと、環境に自分を合わせることが苦手なので、とりあえずモノによって環境改善(というか、環境保障)に努める手段に頼ってしまう。「非日常の旅」を楽しむ時には不利な性格だなとつくづく思う。



 そもそも日常から脱するために旅があるわけだが、実は、志向する非なる部分が狭いということだ。「非」が自己想定内にしかないのだ。連れ合いとの話の続きは「今なら、手ぶらでも行ける。ただし金さえ持っていればね。そして、コンビニがある町ならね」みたいな結論になってしまう。な、なんと毒されているか。


 荷物のやり繰りに腐心するのも含めて「旅」と思えばいい、と居直る。思い浮かぶのは徳川家康の言葉「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」。最初から人は重荷を背負っているのだから、苦は当たり前…都合のいい解釈だ。本当は「不自由を常とおもへば不足なし」の心境に届かない者の言い訳と知っている。

いつでも人の笑顔を目ざしている

2017年05月23日 | 読書
 『それからは、スープのことばかり考えて暮らした』が素晴らしかったので、もう一つ紹介しておきたい。

 「仕事論」は数々ある。ビジネスリーダーが語るりっぱな言葉であってもいいが、常に「そこ」に立ち戻れるような一節を自分が抱えていることが大切だと思う。
 それは、案外やさしい言葉で語られている。

Volume51
 「店先で直接お客さんと顔を合わせていると、仕事というのは誰かのためにすることなのだと当たり前のことに思い至った。その『誰か』をできるだけ笑顔の方に近づけること――それが仕事の正体ではないか。どんな職種であれ、それが仕事と呼ばれるものであれば、それはいつでも人の笑顔を目ざしている。」



 サービス業、接客業は言うまでもないだろう。
 他の職種は、直接的でなくとも、また、たどり着く「笑顔」までの時間や距離が遠いものであっても、それは確かである気がする。

 逆に、笑顔を描けない状況を考えるとき、大きく二つイメージできる。
 一つは、自分だけの笑顔を考えている場合。
 もう一つは、人の笑顔に到る道筋を想像できない場合だ。

 明確に二つを分けることは難しいかもしれないが、後者に陥っている人は案外多いのではないか。

 技術や手法を磨くという職能に関することはもちろん必要だが、想像力を駆使することがより大切に思える。
 それは、様々な場にいる「誰か」の心を思いやることであり、目の前の仕事の向きを考えることと強く結びついている。

映画や時計やスープは

2017年05月22日 | 読書
 なんと「居心地のいい」小説だろう。姉妹作である『つむじ風食堂の夜』も、番外篇の『つむじ風食堂と僕』も確かによかったけれど、これはまた格別だった。いいミステリだと先が知りたくなり、読み進めたい気持ちが強くなるが、この話はそこに留まり浸っていたい、進まないで…そんな珍しい心持ちが湧いた。

2017読了54
 『それからは、スープのことばかり考えて暮らした』(吉田篤弘 中公文庫)

 昔の日本映画を繰り返し見続ける主人公の「僕」。それには、ある一人の目立たない女優を見たいためという明確な訳があった。こういう設定だけでも、どこか沁みるものがある。それは、映像や俳優を商品として消費し続けている現在の私たちに、一つの問いを突き付ける。何が「豊かな時間」なのか、ということ。


 「僕」は職を辞めてから、昔の日本映画を観る機会が増え、自分の身のまわりの時間感覚の違いを感じつつ、こんなふうに語る。

 昔の時間は今よりのんびり太っていて、それを「時間の節約」の名のもとに、ずいぶん細らせてしまったのが、今の時間のように思える。さまざまな利器が文字どおり時間を削り、いちおう何かを短縮したことになっているものの、あらためて考えてみると、削られたものは、のんびりした「時間」そのものに違いない。


 「僕」の姉も登場する。彼女は「迷子の天才」と称される人だが、その言葉はふるっていて、それもまさしく「時間」の意味について考えさせられる。

 「迷子になったぶん、余計にいろんなものが見れたし」



 「僕」は、サンドウィッチ屋に勤めはじめ、店主や息子と交流し始める。また映画館ではある老女と出逢い、物語の鍵となる「スープつくり」にのめり込んでいく。その中で流れる時間感覚も独特である。後半部には、「時計」の存在がキーワードのように登場してくる。それも「手巻き時計」であることが象徴的だ。


 登場人物の誰もが魅力的だ。子どもであっても落ち着いたトーンで描かれる。そして「名なしのスープのつくり方」と題された2ページが締め括りにある。その冒頭の項目に納得だ。「〇期待をしないこと」。ちなみに最後は「〇とにかく、おいしい!」。スープとは、かくも人生と重なり合うことを教えてくれるようだ。