すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

小説の年代を駆け巡って

2009年11月30日 | 読書
 ここ一週間ほどで読んだ小説の印象を書き留めておきたい。

 「魔王」(伊坂幸太郎著)
 面白かった。娯楽、エンターテイメントといった分類もできるだろうが、その中にも知的な要素を取り入れてみせるあたり、さすがの流行作家だと思う。
 第一部の主人公である兄のパソコン端末が突然使われなくなる件や、第二部で弟が語る世界とのつながり方など、ぐっと考えさせられる場面がいくつかあった。

 「タペストリーホワイト」(大崎善生著)
 70年代の過激派による内ゲバ抗争が大きなモチーフとなっている。姉、恋人を同じ形で亡くした主人公の心理に引き込まれていくような思いで読んだ。
 幼い頃を描いた導入部から、冷たい空気感と知的な香りのする会話があって、ああ久々の大崎本だなと感じながら読んだ。


 「海と毒薬」(遠藤周作著)
 もっと久々なのが遠藤周作。私にとって唯一の特別な作家でもあるのだが、それゆえ実際あまり読んでいない。
 今回も、ある人物の独白場面にはちょっと…。やはり罪と罰だ。
 それはともかく、少し調べたら映画化がされていて、その配役は見事だなあと思った。


 作家の年齢層が違うのだから当然といえば当然ながら、舞台となる年代が見事に違う。
 つまり上から、21世紀の現代、70年代、戦争当時ということになる。

 陳腐な言い方にはなるが、そこで描かれた心の芯の部分にはあまり差がないことに改めて気付いた。

繰り返されてきた言葉ではなかったか

2009年11月29日 | 雑記帳
 「携帯コミュニケーションの実態」という題で、警察の方の話をうかがった。

 「もう出会い系サイトは古い」…そういう一言に驚いたりもしたが、実際出会い系サイトそのものをイメージだけしか捉えておらず、それが「グリー」になろうが、「前略プロフィール」だろうが、あまり変わらないのではないかとも考えた。

 要は「出会いを売っていますよ」なのである。そもそもそういうサイトやページを作る人の意図はどうあれ、それを利用する側が求めているものに行きつくようにできている、簡単につながりやすいのがネットの世界ということになる。

 とすれば、もちろんそういう状況把握、危険につながる要素の解明は不可欠なのだが、もっと根本的な指導が下地に必要だ。

 大きく括れば道徳性ということになろうが、それはどこで培われるといえば結局家庭ということになろう。意識するしないにかかわらず、携帯を根にした問題が生じたときに大人は、親は今までの「教育」を振り返らざるをえない。

 そして、総括もできずにあっさり敗北する親の言葉は、こんな形で警察関係者や教師に投げつけられる。

 「携帯を取り上げた方がいいでしょうか。」

 そういえば、ずいぶん昔、家庭訪問でテレビゲームばかりやる子の親に何度かこんな言葉を投げつられた。

 「ゲームを取り上げた方がいいでしょうか。」

 尋ねても何も解決はしない。結論はあなたが下し、あなたがやりぬくのだから。

 しかし、と考える。
 もしそういう言葉が時代を越えて繰り返されているとすれば、間違いなく責任の一端は「あなた」を育ててきた自分たちにある。

 だから今安易に口にされる

 「保護者の教育が必要だ」

 などという声にうなずくことはできない。

 その言葉も繰り返し言ってきたのではなかったか。

「愛」という言葉をお勧めします

2009年11月27日 | 読書
 結構前に買ってあったのだが、きちんと読んでいなかった『子どもがグーンと賢くなる 面白小話・国語編』(二瓶弘行編 明治図書)を読みとおしてみた。

 「授業でそのまま使える」が売り文句なのだが、どうだろう。ちょっと批判的な目で全体をみてみる。

 ①字が小さくて読みづらい(自分の眼のせい?)
 ②1ページに詰め込みすぎで、そのまま読み聞かせられるか疑問
 ③内容の重複が見られる(執筆者が多いのでそうだろう)

 従って、もう少しゆとりの持った体裁で、クイズ的な展開で統一して(もちろんそれ以外にも方法はある)、目次を詳しくして内容の細分化を図れば、かなり使い心地がよくなるのでは…と素人が勝手に考えてみた。

 もちろん、内容のなかには納得の知識、新鮮な情報もあり、いくつか付箋を貼らせてもらった。いつか補充でもあるときの小噺いや小話にはなるだろう。

 一つ、洒落たことを書くわい!と思わされた頁がある。
 「46 国語辞典を選ぶときは?」という項目で、様々な選定ポイントはあるが、執筆者は当然のことながら「選ぶときに大切なのは、どんな意味が書いてあるか調べることです」と言い切り、同じ言葉で比較してみることを薦める。
 では「どんな言葉がふさわしいか」という件で、こんな記している。

 「愛」という言葉をお勧めします。理由は大切な言葉だからです。「愛」という言葉をいろいろな辞書で引いてみて、一番自分にぴったりくる辞典が自分にあった一番いい辞典です。
 
 素直な私が手元にある辞書で「愛」をひいてみたのは言うまでもない。
 その結果一番いい辞典は…うーん、結構難しい。

正義と彩

2009年11月26日 | 読書
 『七夕しぐれ』(熊谷達也著 光文社文庫)を読む。

 作者の自伝的小説なのかなと思うが、仮にそうではないにしろ小学生であった時代の独白の多くは、作者自身の部分も多いと予想した。何度も出てくるそういった記述がややうっとうしいように感じたが、ストーリーそのものは面白いし、舞台が仙台であるという要素は私には大きく、一気に読めた。
 ただ、かのシゲマツ氏が書きそうでもあるし、その東北版かあという小さな声もあって、ある意味では「らしくないなあ」とも思った。

 さて、物語の展開の大きな素材となる「エタ町」の存在は、仙台で過ごしたときに聞いたことがなかったが、城下町としては当然あったのかもしれない。
 それはおそらくどこの町であっても隠されてきた存在であったし、触れないでおくことが肝心だったのだろう。少なくても東北地方ではそういう歴史で収まってしまう程度のことだったのではないだろうか(もしかしたら知らないだけのことかもしれない)。

 幼い頃いや中学生の頃だったろうか、他地区に住むある知り合いの家が、牛馬の屍体処理を生業にしていた話を聞いたことがある。
 大人たちがどういう内容で話していたか全く記憶がないが、そこに漂う妙な暗さを覚えていて、後になってそうした職業につきまとう差別観があった歴史を知って、はっとなった思い出が私にもある。ただ、そのことについてその後触れたことはなく、必要も感じない環境にあるのだろう。

 この物語では、主人公の小学生たちがその触れなくてもいいことをそのままにしておけなくて、波風を立てたくない教師や周囲に立ち向かっていく。
 そしてそれを「正義」と称する。
 校舎の屋上からビラをまき、思いは完結し心は満たされるが、日常はそれほど変わらず淡々と過ぎていく日々となる。

 正義とはそんなものかもしれない。
 しかし、それほど変わらない日常でも目を凝らせば何か一色を加えたような景色が見えてくる、その程度。いや、その程度は大事だ。
 七夕飾りのように艶やかでなくても、それが「彩」ということか。
 ミスチルの大好きな曲のようだ。

模擬授業について考えた

2009年11月25日 | 雑記帳
 花巻での鍛える国語教室が終わってから、考えたことが一つある。

 岩手は国語教育の実践者が多数いて、以前から様々な大会や研修会が行われ、その積極的な設定や参加態勢など学ぶことも多かった。
 今回も三名の方による模擬授業とパネルディスカッションがあり、(内1名は秋田からだったが)いい企画だなあと感心させられた。
 しかし、どうも今回の模擬授業はしっくりこないものがあったというのが正直な感想である。こういう企画に参加する姿勢は敬服するが、模擬授業として見た場合、いったいそれでいいのかという疑問がふつふつと湧いてきた。

 模擬授業とはそもそもどういうものだろうと考えた時、自分の提案や主張を「授業という形」で表現する発表と言っていい。
 授業という形がとれなければ、そうした枠での発表は効果的ではないだろう。
 野口先生のように例えば1時間なりの設定であれば、「解説型模擬授業」は有効な手段と言えるが、今回のように(そして多くの場合)15~20分であるとき、途中で解説したり補足したりすることは、やるべきではない。授業の流れが中断し、思考が妨げられるし、形が壊れるといってよくないか。

 つまり、指導者と学習者との応答で作り上げる授業という意識に欠けるのではないかと思う。発問、指示、説明、助言などをする指導者とそれに応えて活動する学習者の、すり合わせや食い違いを視ていくことが、模擬授業としての発表のメリットだろう。

 実際の授業における対象の違いを、学習者の発達レベルで考え反応の仕方を誘導するのもあまり感心しない。一つの発問や指示に対して早い反応があると予想したなら時間処理で計画すべきが妥当だろう。

 授業技術がどうというより、模擬授業の基本的なあり方に正対していたのは、三人のうち残念ながら一人だけだったのではないか…そんなふうに今思っている。

信じていい言葉を言う

2009年11月24日 | 雑記帳
 21日、花巻での鍛える国語教室に参加した。

 何より野口芳宏先生の元気なお話を聴くことができたことが嬉しく、また今回も充実した時間を過ごせたなと思う。
 先生の二つの講座で、心に残ったことを書き留めておきたい。

 光村6年の『海の命』を教材とした講座「文学教材の鑑賞指導」は、最近の野口先生のパターン、つまり叙述に即して問いをつくっていく進め方であり、学習用語を意識させ定着させていく形である。
 結局のところ語彙指導といってもいいわけだが、今回先生は次のような言葉で締めくくられた。

 語彙を高めるのに、一番大切なのはチャンスだ。

 教師が言葉にこだわりを持ち、その場その場に応じた指導を展開、拡充することが何よりの方策であるということだ。
 きっと日常の多くの学習の中にチャンスは転がっており、それに気付いて拾い上げていくことが語彙指導の結論とも言える。

 二つ目の『言葉と作法』は、いつもながら多彩な話題を縦横無尽に繰り出しながらも、それでいて結局「言葉」「言葉遣い」の大切さを深く感じ入らせる、まさしく名人芸の講演であった。
 「言葉を大事にするということはどういうことか」と問われた先生は、「信」の「人」と「言」に目をつけられ、こんなふうにまとめられた。

 信じていい言葉をいうのが教師なのだ。
 そうでなければ、教師は「職業的ペテン師」ではないか。

 おう、確かに、確かに。
 自分の口に出した言葉がきちんと自分の耳に入っているのか。
 頻繁に振り返り習慣づけなければ、おまえもペテン師の仲間入りだよ、と言われた気がした。

復旧した端末からの一言

2009年11月23日 | 雑記帳
 この前読んだ熊谷達也の『新参教師』の何気ない場面だけれど、ちょっと考えたところがある。
 会社員から転職した主人公が、職員室の自分の机の前でこんなふうに同僚に尋ねる。

 「ところで、わたしの机に端末がないのですけど」
 
 学校現場を象徴するなかなかの一言である。
 職員用PCは今どの程度行き渡っているのだろうか。近隣の学校でも配置済のところもあるから、割合は高くなっていくだろう。しかし同じ教委であっても未配置のところもあったり…ちょっと不透明なところではある。

 そういった普及率のこととも絡むが、それより「端末」という言葉が何か感じさせる。
 むろんこの場合は端末機器、端末装置としての意味ではあるが、もう一つ組織としての端末という意味も微妙に重ね合わせたくなる。
 企業に勤める者であれば、それはしごく当然であろう。そして学校もそういう一面があることは紛れもない事実である。

 機器が、装置が行き渡ればわたるほど、自分たちの心も身体もそれに組み込まれていくような印象がある。しかし、私たちが単なる装置になることはどこまでも避けたいなあ…
 などと頭に浮かんだ数日前のこと。

 突然、自宅のPCがネットにつながらない…えっ、「故障かなと思ったら」というフレッツの復旧診断ツールもあるし大丈夫だろうと高をくくっていたが、なんどやっても失敗。
 プロバイダーから配布されている設定用CDでも駄目である。電源を落として設定をやり直すこともできず、初期化もできない状態である。

 三日目、サポートに電話してみたら、24時間サービスにも関わらず留守電対応。これでは駄目だ。休日になったが最初の二日は所用でまた日中はかけられない。ようやく今日になって、電話がつながった。
 最初はNTT、そこではオペレーターの指示に従ってあれこれやって、結局プロバイダー関連だとわかり、ニフティへ。やさしいお姉さん?の指示に従って、転送先から変更パスワードを聴き、再びお姉さんの指示にあれこれ従って…ようやく復旧である。

 指示にあれこれ従って、ようやくつながったことに安心を覚えたりして、ああ結局、端末じゃないか俺は。

 いや、確かに端末ではあるが、それは何か大きなものからの指示や命令を待っているのではなく、姿や声を発するどこかの端末につながっているという感覚が欲しいのだろうなと改めて考える。そうでなければ、と思う。

とまがしまから遠くへ

2009年11月18日 | 雑記帳
 落語の紙芝居シリーズの中に、「とまがしま」という話がある。昨日6年生で演じてみたのだが、その出来はともかくこの紙芝居は絵が実にいい。

 描いたのは田島征三である。
 ああ、絵本を買っていたはずだ。あれは今とこにあるのだろう…という思いが浮かんだ。
 そしてそのきっかけは教科書にあった「力太郎」だろうな、とすぐ思い出がよみがえってくる。
 のっしじゃんが、のっしじゃんが…といった擬音的なことばにぴったりマッチする挿絵だったなあ。「力太郎」はもう光村には載っていない。

 もうひとつ、田島征三のさし絵があったはず。そう、「どろんこ祭り」だ。
 今江祥智だったなあ。
 あれはいい話だった。5年生だったろうか、教科書の最初の教材だったと思う。 たくましいせっちゃんが泥を投げつけられる祭りの場で見せる変化、素朴でありながら人間の心の深いところをつかんでいる気がした。

 「どろんこ祭り」はなんだかすぐに姿を消したなあ、と思って検索をかけてみたら、行きついた先にあった言葉は…

 男女平等教育  ジェンダーフリー
 
 ああ、そうなのか。当時は全く知らなかった…というより関心がなかった。もしかしたら教材選択に関わるそういった話は聞いていたのかもしれないが、記憶にないとすればやはり素通りだったのだろう。

 ジェンダーフリーといえば、男女共同参画を進めるセミナーのようなものにも参加したことがある。今から10年ほど前だろう。
 県の施設で行われたその研修会に参加したのは20人ほどだったろうか。驚いたのは男性が1人だけ、つまり私だけだったこと。
 内容は、様々なワークショップ的なことでそれなりに楽しかったが、あるワークでふと疑問を述べてみたら…集中攻撃されるような雰囲気に…ああ怖し、ジェンダーフリーよ

 おっと、いつの間にこんな所へ。とまがしまからずいぶんと遠くへ来てしまった。

少し寂しい読後感

2009年11月17日 | 読書
 熊谷達也の『新参教師』(徳間書店)を読んだ。
 結構長い教職歴を持つ熊谷がどんなふうに書くのだろう。かなり興味があった。

 帯に書かれているこの言葉。

 学校の常識は世間の非常識ってホント?

 確かにその通りと断言できることはいくつかあるが、そう言いながらどの範囲が「世間」かという気もするし、それよりも教育界の地域による違いの方がより衝撃をうけたりするのが多くの教員たちなのでは…。なかなか難しいものです。
 さて、書店のPRにはこんな表現がされている。

 教育現場の荒廃が叫ばれる現代に問題提起する、いまだからこそ読んでほしい問題作。

 それほどのものではない、というのが正直な評価。
 馴染み深い仙台が舞台であり、学校の職場内にありがちな人物設定は、すらすらと読み進んでいくための大きな要素だが、何かガツンとした歯ごたえは感じない。

 主人公が最後に「子ども・生徒」に目を向けるのは予想された結末だけれど、そこへのたどりつき方はちょっと淡泊すぎるのではないか…新参教師の教室場面、授業場面が少ないと思ってしまうのは、仕事に向ける比重が違うのだろうか。職員室は現場の一つでしかない。何か周辺をなぞったというイメージは抜けない。

 「邂逅の森」「漂泊の牙」路線の方がずっといいなあ、と思うのはけして私だけではないと思う。
 コミカル要素を入れたり、いわゆる跳んでるキャラクターを登場させたりしているが、それはどこかの作家に任せて、もっと東北の自然にじっくりと向き合ってほしい…そんな読後感を持ってしまったことは少し寂しい。

100歳の詩人の誕生日

2009年11月16日 | 読書
 今日は、詩人まど・みちおの誕生日だそうである。
 しかも、100歳。

 理論社の『まど・みちお全詩集』はおそらく一番開く頻度の多い詩集だと思う。教材として、掲示用の紹介詩として、ずいぶんとページをめくった。

 まどさんの『いわずにおれない』という文庫本を再読する。
 数年前に出された本なので、以前にも感想は書いていたが今、また冒頭から、はっとさせられる。

 私の作品には、そんなふうに生きものが生きものであることを喜んでいるっちゅう詩が一番多いでしょうね。

 すべての存在のかけがえのなさについて、ことばという道具をつかっずっと讃え続けている人の言葉だ。

 昨日、中学生の作文発表のなかに出てきた「もし私がその国に生まれていたら…」という言葉を耳にしたとき、どうしたわけか「いや、そんなことはない。君はこの国のこの町に生まれたから、君なんだよ」といった想いが急に心に浮かんだ。
 「もし私が…」という思考法はとても大事なことだ。それを認めつつも、自分が自分であることの喜びを積み重ねなければ、そうした思考などどれほどのものか、と思う。所詮、妄想として自分以外の誰かを羨んだり、妬んだりすることとあまり変わらないのではないか(別にその中学生に対して言っているわけではない)。

 あるがままに、は難しい。
 しかし、あるがままに生き、あるがままにを見つめ、あるがままに、を書く詩人がいる。

 俺ごときには永遠に実現しないと思いながら、ちょっとでも近づきたいというのなら、本ばかり読んでないで散歩しなさい、というまどさんの声が聞こえそうな気がする。