すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

100×2であればかなり

2009年07月25日 | 読書
 『本当に頭がよくなる 1分間勉強法』(石井貴士著 中経出版)

 久しぶりに大型書店へ行ったら、平積みされていたのであまり中身も見ずに他の書籍と一緒に買い求めた。
 こうした本とはあまり縁がなかったが、おそらく、ずいぶん昔に読んだ『1分間ティーチャー』(ダイヤモンド社)から連想が働いたのか、それに1分間という時間について自分の興味がわくところなので、関連の新書を買って勢いがついたとでもいおうか…。

 中心になる内容は「読書法」「整理法」だった。
 0.5秒で2ページをこなすというその方法はいわゆる速読ではないと言っているが、結局情報をどう速く処理していくかということだ。
 確かに興味深いが、今の自分が求めているのはこんなことではないなあと読んでみて改めて思う。勉強法として有効なことを求めるステップは結構面白かったので、無駄本とは思わないが、よくよく考えてみると、ビジネス書の販売促進を側面から支えているにおいがする(もちろんその出版社の)。

 200冊読めば、その分野の専門家
 
というキャッチコピーは、著者自身が「知識レベル」と限定しているように、非常に幅の狭いものである。真の意味で「専門家」であるためには、まだまだ多くの要素が必要だ。
 従ってこの本で説かれている読書法も、一定種類の固定された範囲を集中してやる場合に効果が高いのだと思う。もちろんある面では、そういう量的な段階を乗り越えようという心意気も求められている。

 そこでふと疑問になったのが、なぜ200か、ということ。この限定がどのあたりから来るものなのか。何事もよく100が目安とされるが、100では知識レベルとしてもまだ半端であるということか。つまり100×2であればかなり知識も煮詰まってくるのではないか、それに結構な覚悟もいる。

 と、また些細なことにとらわれて読みが進まない夏の私。

すべからく、立て

2009年07月24日 | 読書
 カラオケは年に二、三度するだろうか、という程度であるが、私の場合は鉄則がある。
 「立って歌う」ことである。
 そうでないと正直、歌うという気分にならない。それは単なる不器用ということだろうか。

 『ちょっとした勉強のコツ』(外山滋比古著 PHP文庫)が面白かった。
 著者の文章は読みやすくわかりやすいのでけっこう読んでいるが、今回の本もまさにそういう類である。
 その中に、姿勢と勉強、仕事の関わりを書いた項がある。

 立っていなくては声が出ない。声だけでなく、頭もはたらかないような気がする。  

 いつまでも現役を続ける指揮者、イギリスの書きもの机が斜面になっていること、学校の机と椅子の粗末さ、陸軍中等学校における幼年学校出身者の例などを挙げながら、その論?を作り上げている。

 ある評論家は原稿はすべて立って書くそうだ。結局、立つことによって姿勢を正すことが、頭の回転をよくするに通ずる。かつてNHK「ためしてガッテン」における実験によってもデータが残っているという。
 
 椅子に腰かけて仕事する時間の多い毎日である。印刷作業や気分転換のために立つという現実だが、考えてみればもったいない話か、せめて姿勢を正してキーボードに向かうか。
 
 頭をフルにはたらかせようとする者、すべからく、立て。

 この言葉をもう一つ深読みすれば、何かをしようと立ち上がる時に思考は動き、現状のままでよしとすれば沈滞するだけだとも読みとれる。

 立ち上がる時が、カラオケだけだったら、それは悲しい。

結論、受信の夏休み

2009年07月23日 | 雑記帳
 発信と受信で一学期を振り返ってみる。

 発信といえば、まずは校内外での広報的な活動となるが、学校報「三つの輪」が週1ペースで19号、途中から始めたブログ「三つの輪Web」は勤務日ほぼ毎日更新で47投稿、職員向けの校内報「声日記」は10号だった。
 学校ブログの訪問者はほぼ予想通りで日に20人程度、先日1000アクセスを超えたが、二学期はもうちょっと伸ばしたい。

 自分自身のこのブログは約70の投稿。まずまずというところか。

 さて、少し真面目に発信としてこれらをどう評価するかと問いを立ててみたとき、ああ自分としてはあまりそういう意識がないかもしれない、などと考えが浮かぶ。
 もちろん学校報に関しては、連携のための下地作りという気持ちでずっと継続してきているわけで、様々な勤務校での経験からその位置づけは自分の中では明快だ。
 ただ反応の質量を基準にすると、なかなか難しいことは確かだろう。反応がないわけではないが、やはり面と向かって話したときの方が、リアクションがあり、交流ができたりすることは明らかである。

 少なくても校内報や個人ブログに限れば私がいろいろ書き連ねたり、発行したりするのは自分の内部への貯めの方が大きい。人目に晒すことを枠組みとして用いて、記録や思いを残しておくという程度と改めて心得たい。

 受信は、読書について毎度書いているのでさておきそれ以外にあったかなあと振り返ってみたとき、愕然。
 教育関係は私的に求めたことが残念ながら何もなかったのでは…。現にブログ「参観記」も3月でストップしている。
 ビジネス関連、芸術関係なども主だった印象なし。音楽もあまり聴いていない、映画もほんの少しだけ、わずかに落語か…。
 転任によって環境が変わり、そういう意味での様々な情報を受信することで精一杯であり、自らを耕す積極的受信に向かえなかったということか。

 言わずもがなの結論は、受信の夏休みにする、ということですな。

固定された者の言葉を疑う

2009年07月22日 | 読書
 裁判モノのドラマやドキュメンタリーが目立っていると感じているのは私ばかりではないだろう。
 もちろん、例の裁判員制度開始がきっかけになっているはずだ。興味がないわけでもないが、真っ向から勉強していくつもりもないし、とそんな時に見つけた一冊の文庫。

 『裁判官に気をつけろ!』(日垣隆著 文春文庫)

 著者言うところの「ヘタレな判例」「バカタレな判決」に笑えたり、ある意味感心したり…また、それ以上に裁判所というのは怖いところだなという印象も残ってしまう。
 そうした場に立ったときに、はたして自分がどんな行動ができるのか、と想像してみたりもするが、実際のところ近づきたくないという意識がその想像を続けることを制止してしまう。こういうことじゃいけないんだろうがな。

 それはともかく著者の本は以前にも読んだが、なかなか含蓄ある言葉が随所にちりばめられている。今回は例えばこうだ。

 教養というのは、物語力と仮説力のことです。
 
 この言葉には単なる記憶力との相違を見事に表している。
 物語る力だとすれば、そこには事実や体験を読み取り、想像し、表す力が必要であり、仮説を立てるためには多方面に推し量っていく計算や観察なども求められる。
 そうした著者自身のセンスであまり表に取り上げられない判決文を読めば、その奇妙さが立ち上がってきて、読者にもよく伝わってくるわけだ。

 この本で槍玉に挙げられているのは裁判官ではあるが、これはもしかしたら、固定した空間で、固定した立場で、固定した時間を過ごす仕事に就いている者なら、誰しも自分たちの言葉を疑ってみる必要を説いているのかもしれない、というふうに思えてきた。

人気作家の勝手な…

2009年07月17日 | 読書
 勝手に人気作家を読む「シリーズ」なので、せめてもう一人と思い選んだのが、伊坂幸太郎。
 『重力ピエロ』である。

 ああこれは。なかなかだ。ストーリー自体はそれほどでもないと思うが、語られる蘊蓄?の多さ、絶妙な比喩的言い回しが、妙に心地よい。

 これも映画化されているが、この主人公役が加瀬亮なのは、もうぴったりとしか言いようがない。一つ一つの言動に意味付けが必要な人、無意識であることにもふりかえりを求めてしまう人…そんな感じだろうか。

 主要な筋の合間合間に、様々なエピソードをちりばめることで厚みを増していくという構成になっている。どっぷりとつかって読むのにはいい本だ。
 自分の場合はこま切れになってしまい、少し落ち着かない感じの読了となった。けれど、どこから読み始めてもその語り自体を楽しめるので、私のような散漫な読み手には逆に似合いなのかもしれない。

 拾い上げたい言葉はいくつもある。三つほど挙げてみよう。
 台詞や独白としてどんな感じで映画化されているんだろう。見るのが楽しみになってきた。

 本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ

 仕事は一人でやるものだ・・・ボブ・ディランは永遠に解散しないぞ

 気軽に、「さようなら」が言えるのは、別れのつらさを知らない者の特権だ


 人気作家の勝手な戯言かという気もするが、もう一冊ぐらいは読んでもいいかな。

勝手に人気作家を…

2009年07月16日 | 読書
 読書スランプなので、新企画?と思い「勝手に人気作家を読むシリーズ」を考えた。

 その1として東野圭吾を選ぶ。
 まったく初めてである。

 だいたい、その名前は目にしていても東野を「とうの」なのか「あずまの」なのか「ひがしの」なのか定かでなかったし、ミステリー?自体に興味がなかったわけで、まあ例の「ガリレオ」がテレビドラマでやらなかったら手にとることはなかったかもしれない。
 もっとも「秘密」とか「手紙」とか映画化されたものは、それなりに見ているんだなあと今さらながらに思う。

 さて、『容疑者Xの献身』である。
 映画の宣伝露出が大きく、実際に見ていなくてもどうしてもそのイメージに左右されるのではないかと思ったが、松雪泰子の魅力に負けて(笑)、これを選ぶ。それになんといっても直木賞ですから。

 読み始めてみて感じるのは、やはり読みやすさか。
 構想そのものは題名でなんとなく想像がついたので驚くほどではなかったし、面白かったけどちょっと物足りないなあ、という評価である。

 何故かと少し分析めいた振り返りをすると、どうも人物の背景があまり見えてこないことにその原因があるように思う。
 シリーズものらしいので、湯川や草薙はともかく、石神、靖子はもっと出自や履歴を浮かびあがらせてもよくないか。言動のなかの心の襞の部分も書きこんでよくないか…もはや「大御所」に対してずいぶん生意気なことを書けるなあと思いながらも斬りこんでみた。
 全編にタッチが軽いのか、今思うと、かつて観た映画も何か軽い雰囲気のままにしか思い出せない。

 何かもっとどろどろした、どうしようもない性を描きだしてほしいと、それならそういう作家いるだろ!と自分の選択を反省する。

闌けていくものを見る

2009年07月15日 | 読書
 地方紙の文化欄に載っていた作家辺見庸の文章が妙に心に残る。

 昼時に入ったうどん屋の、ひとつ隣の席にいた入墨をした男がテレビを見入りながらぶつくさと呟く様子とそれに応える辺見のことを書いた小文だが、御終いのこの一節が妙に心をとらえる。

 狂いがますます闌けていく

 「闌(た)ける」…ルビがあったし、なんとなくイメージできたが、念のために辞書で調べる。
 「長ける」と同義だが、明鏡だとそのなかでも「季節が深まる」場合に使われている。和英辞典における例文は「春もたけた」「年のたけた」という二つだった。

 「狂いが闌けていく」とはなんと詩的な表現だろうか。

 狂いの季節が深まり、次に行きつく季節はどこなのか。
 狂いがますます成熟し、それはどんなふうに朽ちていくのか。

 そうしたイメージが湧き上がってくる。むろん、狂っているのは世の中であり、社会であり、人々である。

 辺見は「狂いのもとをあかすことができない」と書いている。複合的に、拡散的にぽつぽつと狂いは生まれ、大きなうねりのように、私たちの中に巣くい始めた。いくつかの悪腫瘍を取り除いてみても完治には向かわず、後から後からまた小さな狂いが生まれてくる。
 闌けていくものに逆らうことはできない。
 かといって身を任せることも癪だ。せめて、狂いながらその狂いを見つめる目だけは無くしたくないものだと思う。

 狂いがますます闌けていく

 つぶやいてみると、その目の存在を意識できるような気がする。

長い→を楽しむには

2009年07月14日 | 雑記帳
 今月号の『授業づくりネットワーク』誌が届いたので、ざあっとめくってみた。
 「あすの授業」のコーナーにある野田芳朗先生の実践を読み、ああ面白いと思い目が止まった。

  ?→! ~学ぶって、どういうことだろう~

 シンプルかつ骨太で、子どもたちの頭にしっかりとイメージ化される授業だと思う。
 特に「→」の部分が「学ぶ」を表し、その長さを問いかける点が実に素晴らしい。
 テレビ番組などでクイズ的知識だけがもてはやされているが、「学ぶ」ことの本当の楽しさ、喜びはその過程にあること、様々な「?」を「!」にするために様々な方法を駆使していくことこそ学びであることなどが、明確に伝わるように思った。
 一応理科としての実践ではあるが、学級開きや学期最初の授業としてふさわしい内容であることは間違いない。

 そういえば、そういえばである。
 十数年前に受け持った学級の正面掲示として、墨で大きく書いた「?」と「!」を掲げたことがある。
 その折は「はてな」「やるぞ」のシンボルとしてこの二つを選び、それなりに活用できたと思う。しかし振り返れば、それらをつなぐ学びの核を自分が持っていたかといえばちょっと自信がない。

 そんなことを考えていくと、「?」も「!」もそして「→」も、私たちの仕事や研究の方向や手順とぴったり重なっている。
 つまり何を課題とし、どのようにして解決しようとしているのか…それが明確でなければ、長い→は楽しめないだろう。

善意の人、決意の人

2009年07月12日 | 雑記帳
 「多忙化防止」についての書類がくる。
 「策」について返答せよ、という。必要によっては職員にアンケートをとって集約してから答えよ、という。

 確かに多忙化防止は大切なことだ。
 しかし、かなり以前から言われてきたように、いくら叫んでみてもその防止のための会議、書類作成が増えただけ…という顛末に近い気がする。
 何のための、いったい誰のための多忙化防止なのか、そんな考えが頭に浮かんで…
 
 北海道の堀裕嗣先生が、以前こんなことを書いていた。

 教員は決して「多忙」ではないのだ。おそらく変化したのは「多忙感」のほうである。

 その通りだと思う。
 その「感」の責任は誰だ!ということになる。
 最終的には個人の受け止め方であることに違いないが、そういう「感」を、以前より多くの教員が持っているという現実があることは確かだろう。

 その現実は例えば教育施策の変化、学校を取り巻く社会・地域環境の変化、そして教員自身の考え方の変化、それらのどれと一番強く結びつくものだろうか。

 安易に判断してはいけない問いのようにも思う。
 確かに学校や教員を取り巻く外的な要因は増えている。
 学力テストのこと、教員免許制のこと、不祥事防止に関わる様々な対応、…いくらでも挙げることができる。それらを必要であるかもしれない、やむを得ないだろうという気持ちを持ちつつも、人はどうしても自分がしたいこと、しなければならないと心底思うことと違う向きの仕事に時間が割かれるときは、苦痛を感じることだろう。それは結局どんな仕事であっても変わらない。

 様々な人を思い浮かべたりしながら考えると、多忙感を持つ人は「善意の人」かもしれない。やりたい仕事、やるべき仕事がまだ他にもあるのに…という気持ちを抱いているという意味である。
 しかしその善意の人の処理能力、性向などが劣ったり暗かったりしたときに、それは善意のままで終わり、対象に伝わらないまま、かえってあまりいい影響を与えないことになるのではないだろうか。

 だから?私の知っている仕事のデキル人たちの多くは、多忙感をあまり口にしない。感じてはいてもその処理の仕方や工夫を知っているとでも言えばいいか。目的に沿った取捨選択、軽重のかけ方がスムーズにできる。ここでは、仮に「決意の人」とでも名付けようか。

 多忙化の書類を求める過程のなかには、おそらく多くの善意が詰まっていることだろう。
 しかし、決意が足りない気がする。書類で見えないことの多さに気づかないわけではないだろう。

 従って、さらに言えば、もう一つ上の「決意の人」がいないのである。

マジでリアルにイイカゲンな脳

2009年07月11日 | 雑記帳
 二度目の脳ドッグである。
 
 数年前に初めて検査をうけたとき、さほど怖くはなかったという記憶があり、そして検査中に熟睡したということもあり、しかも今朝も早く目が覚めて、ということもあり、今回は楽勝気分で出かけていったのだが…。

 閉所恐怖とまではいかないにしろ、ちょっと苦手であるのは確かだ。しかし経験あり、悪い記憶なしという自信めいたものに支えられ、その検査室に行ったところまでは良かったが、なんだか検査技師さんの注意がくどい。

「頭を動かさないでください」
「口も動かしてはいけませんよ」

 口調はやさしいが、これが何度も繰り返される。
 そして、以前の時よりも、頭に巻くバンド状の締め方もきつい気がするし、横たわるスペースも狭くてきついような感じがして…。

 そして繰り返される「頭を動かさないことですよ」「口も動かされませんよ」…

 いよいよ、閉所へ突入。
 目は閉じるが、なんだか不安が大きくなる。
 動悸がする。
 音が鳴らされる。一定のリズムなんだろうが少しずれて聞こえるのは気持ちのせいか。
 カンカンカン、おっと工事現場の音に変わった。これが30分続くのか。

 少し、身体が熱い気がする。きっと血圧は上がっているよ、唇が渇いてきた。
 やばい、顔がかゆくなってきた、どうしよう…我慢我慢、5分ぐらい経ったはずだ、あと25分。

 と思ったら、突然ストップして。
「大丈夫ですかあ」と訊く声。

 少し弱く「はい」と答えると、
「じゃあ始めますねえ」
 えっ何。おい試したのかよお…勘弁してよ。スタートからですか。何をどう考えりゃいいのか…。

 とにかく、いろいろなことを考えていれば眠くなるに違いない。
 ありゃ全然眠気が襲ってこない、どうしたんだ…この状態でこれから30分はきついでしょ。
 また頬のあたりがかゆい。唇がかわいて仕方ない、ああ助けて、と思っていたら、いつの間にか、それは夢なのでした。

 お疲れ様でした。