すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

100倍細やかな言葉かけ

2005年05月31日 | 読書
人がやる氣になるのは、努力すれば手が届く範囲の中だけです。いわば半歩先の目標です。この「半歩先の指導」をするためには、十分な観察が必要です。これらを私は「100倍細やか」な言葉かけと呼んでいます。
杉渕鐵良「家庭楽習でわが子は変わる」(学研)


大雑把な見方をしていないか。
1メートルの変化なら誰にでもわかるが
1センチの変化、1ミリの変化を見つけ
それを認めていくことが教師の仕事だろう。



自然な欲求を感動で刺激する

2005年05月29日 | 読書
現代の日本では、最も多くの人を動かしているのは、多くの場合、広告ではないでしょうか。広告は、人の行動エネルギーの「欲望」と「欲求」を最大限かつ直接的に利用して、消費行動という形で日本人を動かしているのです。残念ながら、教育は知識は与えても、子どもたちの心に潜んでいる自然な欲求を感動で刺激してはくれませんでした。
松岡英輔「『挫折しない整理』の極意」(新潮新書)


「自然な欲求」のとらえ方は難しいけれど
行動へ促すために「感動で刺激する」ことは極意である。
教室の場で、中心になっていくのは「知」への刺激であり、
まず、教師が感動できているかもポイントだろう。

人間として見ない新たなレッテル貼り

2005年05月26日 | 読書
専門性の強調される教育、子どもを1人の人間として見ない新たなレッテル貼りにならないように注意する必要がある。そこで「LD児」とか「LDの子」として見るのではなく、「LDのある子」として考えるようにしたい。「まず、1人の子どもなんだ、と考える。しかし、LDという特性があるという一面にも目を向け、そのことに対応していく」という姿勢が大切である。だからLDの特性から子どもを一面的に見てしまわないように注意する必要がある。
堀智晴「ちがうからこそ豊かに学びあえる」(明治図書)


私たちは、わかりやすさを求めてレッテルを貼る。
そしてそこで語られるわかりやすさは
自分の考えを固めてしまう怖れを持つものである。
わかりやすさに頼ってはいけないものがあることを
もう一度見つめなおしてみたい。

世界一を支える若者

2005年05月24日 | 読書
なぜマンガやゲームで日本が世界一になれたか。それは文部科学省が手を出さなかったからです。マンガやゲーム業界を支えているのは、学校教育から逃れてきた若者たちです。
大前研一「質問する力」(文春文庫)


この現実をきちんと見据えることで
逆に、学校教育のなすべき役割が見えてくる。
最低の均一性をどこに求めるか
そこだけをしっかり踏まえればいい。

求めたい答の近くに自分が行く

2005年05月23日 | 読書
何かを考える時、現時点での自分の情報ストックのみで答を導こうとせず、時代、場所、人物、環境などを出来うる限り正確に復元し、そこへ自分を着地させてみる、求めたい答の近くに自分が行く、これが最も大切な基本である。解決したいことを今の自分の居場所から動かずに視て、自分の臨床だけで答を探そうとしても。決して正確な答や新しい発見はもたらされない。
明石散人「日本語千里眼」(講談社文庫)


たどり着くためには、過程が必要だ。
その答の価値が、自分にとってどれほど高いかは
自分が動いた距離や時間に比例する。
価値ある答を見つけたいとすれば
やることは一つだけである。



コンプライアンス社会の死角

2005年05月20日 | 読書
子どもたちが指摘したような、職業意識の低下、例えばルールは守っていても倫理や人間性など心の領域がおろそかになっているのではないかという点は、「コンプライアンス(法令順守)社会」の死角ともいえるだろう。どんなレールを走り、なぜ脱線したか。これは多くの人の生き方の問題につながっている。明日の職業人を作る教育現場で、この事故は、生き方を考える教材として生かしていくべきと思う。
宮川俊彦「秋田魁新報5.18夕刊記事」


なんたのためのルールか
原点に立ち返らなければ、ルールだけが肥大化し、
そこに裏打ちされるべきモラルは
非常に薄っぺらで、危ういものになつていく。
それでは、レールに乗せることはできない。

消えうせた方がいい意欲

2005年05月19日 | 読書
雇用環境の激変は、子どもの学びへの意欲を大きく減じたかもしれないが、そこで減じられた意欲は、子どもたちをことさらに形式的な学びへと駆り立てる意欲であり、実質的な学びへのあこがれを抑え込んで来た類の意欲である。そんなものは、消え失せてくれた方が教育のため、学校のためだとくらいに思った方がいいのではないか。
奈須正裕「児童心理2005.6」(金子書房)


現場で「学力」「意欲」と呼んでいるものの正体は
そんなきれいごとで済むものではないが
何が真実かと問われれば
それは教師なら誰でもわかる。
腹を据えて取り掛かれるかどうかである。

「言語技術的」という観点

2005年05月18日 | 読書
学級崩壊は若い未熟な教師だけに起きるとは限らない。教師と生徒との「話す・聞く」がうまく機能しない場合には、いつでも、どこでも学級が崩壊する。こういう観点から見ると、学級崩壊はたいそう「言語技術的」な問題である。
市毛勝雄「国語教育2005.6」(明治図書)


コミュニケーションなどというたいそうな言葉より
言語技術と明確にさせたほうが
手立てがより明確になりやすいことは確かだ。

今日、あなたは子供の話を頷いて聞きましたか。
今日、あなたは短く的確な指示を与えましたか。

「ゆとり教育」が外したポイント

2005年05月17日 | 読書
「思考重視」の教育をだれが批判できるだろうか。教育改革の「方針」として、「思考重視」を打ち出したことにだれも異論はないだろう。では何が問題なのかと言えば、それは「方策・方法」が問題なのである。文部科学省は教育の「質的変換」を図りたいと言ったけれども、まさにそれを授業で実現するには「学習上のゆとり」を得るために、一定の授業時数を学校で確保しなければならない。
安彦忠彦「現代教育科学2005.6」(明治図書)


スローガンとしての「ゆとり教育」は
様々な解釈を生みだしてしまった。
その言葉を使った側も、認めてしまった側も責任があろう。
どこに焦点をあてたら良かったのか
ポイントを外したつけがやってきている。

教権維持のため

2005年05月16日 | 読書
私は、新卒として採用された時、セビロを持っていなかった。まだ、日本中が貧しかった頃で、私自身も、セビロを購入する金が無かった。学生服で出勤したら、校長に呼ばれた。「学びたい意欲を抱いて登校して来た子供に対し、不遜である」との叱責であった。そのうえで、Yシャツ二枚とネクタイをくださり「俸給は、教権維持のためにある」と説かれた。
目賀田八郎「学校マネジメント 2005.6」(明治図書)


時代背景はあるにしろ
気高い心を感じる一言である。
今、教権維持のために何ができるか
何をすべきかは、それぞれに問わなければならない。
外的な要因にばかり縛られてはいけない。