すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

叱られた気分で

2009年04月28日 | 読書
 『やさしい文章教室』(大村はま著 共文社)を読んでいる。

 子ども向け(中学生)に書かれた文章読本という形であるので、もちろん簡明で読みやすく、それでいてはっとされられるようなポイントが見つけられる。
 多くの本を読んでいるわけではないが、大村はまの徹底している一つが「言葉へのこだわり」であることは間違いない。全篇を通してそれが感じられるわけだが、典型的なのはこうした言い回しだ。

 「なんともいえない」「ことばでは表しにくい」といったことばをつかってはいけない

 ある時、そうした制限を出して生徒に作文を書かせる大村。どうしてそうなのかを様々な例をもとに言い含めていく文章を、まるで生徒になったような気分で読んでいる自分に気がついた。

 4月、他の月に増して多くの仕事上の「作文」を書く必要のある時期である。ワープロ、パソコンの進化は、作業を楽にはさせてくれたが、同時に自分の文へのこだわり、言葉の吟味を弱くする危険性を持っている。
 「なんともいえない」といった言葉で済ませてはいないか、言葉の上っ面の意味でつなげていないか。
 忙しさから逃げるために、言葉からも逃げようとしてはどうしようもない。中学生にもどって叱られなければならない。

 奥付を見たら、昭和43年の第1刷発刊とある。
 ちょうどこの年に私は中学へ入りました。

シャッターチャンスがバロメーター

2009年04月27日 | 雑記帳
 転勤ということもあったが、なんだか落ち着かない春になった。
 天候を見ても、我が家に少し災いをもたらした三月末の雪から始まり、その後はずっと雨の降らない日が続き、そしてようやく桜の開花となったら今度は雨続き、そしてこの寒さである。

 仕事も量的な忙しさというほどではないが、心理的な余裕がない状態である気がする。
 確かに学校の子どもたちの写真はそこそこ撮ってはいるが、それ以外の風景や植物など結構いい時期なのに全然たまっていないデジカメが、それを証明している気がする。

 文章の方もある程度は書いていてもホームページ更新までにたどり着かないし、気分転換にと、ブログのテンプレートを変えてみたりするのが関の山である。

 これが今年の4月ということで、せめて一枚ぐらいはと、フォトページに載せたが、これも今ひとつだなあ。

 花粉のせい、雨のせい、どうとも言えるけど…悩みまでもネタにして撮れないのは、まだまだチャンスを逃がしているということだ。
 少しエンジンが温まりだした気配もするので、全開したいと思う。

 ゴールデンウィークには、いくつのシャッターをきれるだろうか。

「花」を準備する「種」

2009年04月26日 | 読書
 『教師花伝書』(佐藤学著 小学館)

 野中信行先生がブログにこの本のことを書かれていたちょうどその日に、私も行きつけの書店で買い求めていた。
 「総合教育技術」誌で読んでいた文章もあったのだが、単行本として読み直してみると、やはり著者の主張が明確に伝わってくる。

 授業の巧拙や授業の結果の成否はどうでもよい事柄である。

 教師の仕事の本質は「教える」こと以上に「学ぶ」ことにある。


 著者の考えが明確に述べられているこうした文章を、読者はどうとらえるか。試しているわけではないだろうが、どのレベルで理解できるかが教師としての成熟度を語っているとも言えるだろう。
 「教える」ことこそ本質ととらえ追究を怠らない教師は、また優れた学び手でもあることを繰り返し見てきた。優れた授業を追い求める教師の多くは子どもの事実を徹底的に見つめていた。

 そう考えると、曲者はやはり「評価」ということになる。今、この言葉はまさに教育界を席捲するような勢いだが、飲み込まれてはいけないと改めて思う。
 評価という用語もどのレベルで用いるか、かなりの幅や落差がある。「省察」もその中に含まれるという見方もできるかもしれない。しかしあえて「省察」をそこから離して強調することは、今我々が置かれている立場を見直すということでは意味があるのだと思う。

 授業の省察は、授業者が意識的であるかそうでないかという点と切り離せないことである。かつてビデオを使った授業研究が一部で続けられたが、そこでの学びは省察にあったのだと今でも考えている。

 「教師の居方」が取り上げられていたが、これなど省察に値するまさに典型的なことである。ただ居方にもいくつかの原則があり、多くの技があるし、個人としての性なども見え隠れするだろう。
 この本にも具体的な姿はあるが、理解できない読み手もいるのではないか。居方、教師の立ち位置などはベテランと呼ばれる年齢になってもあまり変化が見られない人が多いことの一つのように思う。
 意識的に原則を学ぶ、その考え方を適用させようとして動いてみる、そうしたステップをあまり必要と感じていないからだろうか。


 さて、本文中にデューイの『学校と社会』という著名な本の名前を見かけて、少し胸を衝かれる思いを覚えた。

 初任の頃、たまたま書店で一緒になった知り合いの校長先生からこの本を贈られた。岩波文庫版だったと記憶している。満足に読みきれもせずに失くしてしまって、そのままである。
 若い教師に自信を持って薦められるレベルの本がある、ということにその先生の見識を今さらながらに感ずるのである。その校長先生が当時勤められていたのが、私が今月赴任した学校であるのは何かの導きだろうか。

 あれから三十年が経った。『学校と社会』を買いに行こうと思う。

いい人を止める時間と場所の確保

2009年04月24日 | 雑記帳
 例の「いい人も全裸になって深夜の公園で叫ぶこともあるんだよ事件」で、テレビの報道も観ていたら、白衣を着た人が出てきてなんだか解説めいたことを言った。

 「これは、ブラックアウトですね。」

 なになに、酔っ払って記憶を失うことをそんなふうに言うのか。
 ネットで調べてみたら、確かに書かれてある。
 
 ブラックアウト
 
 アル中のサイトであるところが悲しい。

 不肖この私も数回経験している。短い時間なら結構あるように思うが、完全に吹っ飛んだのが2回ほどか。十数年前のことだ。そして、それはタバコをやめた頃でもある。きっとペースがあがって…ということが予想できる。
 しかし、その時は怖かったなあ。自分が何をしたか、何を言ったか全然覚えていないというのが、これほど怖いとは想像できなかった。

 新婚の同僚の家へ上がり込み、奥様に説教を始めたら、その奥様はもう部屋から出てこなかったという事実があるようだが、これはホントの話なのか。
 それ以外にも何かとんでもないことをしたり言ったりしたのに、周りが気遣って教えてくれないのかもしれないし…そんな不安をつぶやくと、周囲がニヤニヤしたりするものだから、よけいに心が震えてきたということも覚えている。

 自らの人格にまったく自信がないから、ということに尽きるのだろう。
 それじゃあどうしようもない、とまた酒をあおってもどうにもなるまいし、せめて「いい人」を止める時間と場所を確保しておくことかな…と、なかなかいい結論に達した。

 ちなみにブラックアウトを秋田弁に訳すと、これはもう「ホジオドス」だね。

和みのエラー、確信犯?

2009年04月23日 | 雑記帳
 ある連絡のFAXが送られてきた。
 何気なく読んだけれど、もっう一回読み直したときに、誤字発見。

 「先日の○○会の際に~~」が「先日の○○会のに~~」となっている。
 まあ、ありがちな間違いではあるが、結構笑える。勢いがある。華のあるエラーだ。

 文書作成を始めて、昨年のものを参考にしようと読み出したら、その印刷物に誤字発見。

 「稲作の他にキュウリ、スイカなどの野菜づくりも~~」が「稲作の他にキュウリ、スカイなどの」となっている。
 いいなあ、スカイという食べ物があったら。広がりがある。夢のあるエラーだ。

 四月、この時期の忙しさは容易に想像がつく。
 誤字脱字など自分もいくつもやっていることだろう。
 誰かに発見されたら、ちょっと笑って和ませるエラーをしたいものだな…必要はないけどね。

 そう思いながら、文書作成していて思わずやらかしたエラー。
 「人なつっこい」を「人なっつこい」にしてしまった。
 どうだろう。少し笑えるかな。では、このままで。

ニョッキにょっ記

2009年04月21日 | 読書
 『にょっ記』(穂村弘著 文春文庫)を読む。

 わけわからん、笑える、それがどうした、何が?、オレもそう思っていたよ、はあ?、なんじゃあこれは、いったいなにが?…といったような繰り返しで一冊が終わり…

 作家長嶋有が「偽によっ記」と題した解説風の文章を載せていた。
 これは、かなりわかる(意味がとらえられる)。しかし、それだけに穂村の記述には、トンデイル部分が多いというかなんというか。
 結局、解説の文章を読んで「自分の世界の見え方」に関係があるんだということに気づく。

 そうすると、なんだかこの本の正体が見えてくる。
 一つは「言葉の観察」であり、そして「ヒトの観察」。さらに「自分の観察」、これが一番多いイメージをうける。自分の中に渦巻いている感情や妄想が、融合したり分裂したり、そんな様子を気ままに書いているだけではないか。
 いや、ほんとに気ままか。

 鍵をにぎるのは、おそらく「天使」だ。
 と、読んでみないとわからないこと(いや、読んでもわからないことか)を、唐突に言ってみたくなる本だ。
 まあ、結構笑えるので、疲れたときにはいいかもしれない。ニョッキとこんなくだらなさが顔を出す。

 6月6日 「きびしい半ケツが出ました」という冗談を思いつく


素直に聴き入れる

2009年04月20日 | 読書
 「聴解力」という言葉は著者の造語かなと思っていたのだが、認識不足だった。英語教育の場ではよく使われるのだという。そうすれば小学校でも一般的になっていくのだろうか…それより日本語だろう、と改めて思わされた。

 以前から気になっていた本だったが、なんとなく読みそびれ昨日ようやく手にとった。
 実にわかりやすくすっきりできる本であった。

 『「聴解力」を鍛える三段階指導』(山中伸之著 明治図書)

 野口芳宏先生監修の「鍛える国語教室」のシリーズ中の一巻であるが、№16にして単著としては野口先生以外の著者が全篇を著している(あとがきに監修者の野口先生の言葉があるが)。それだけの価値がある本とも言える。

 読解力との対比で聴解力を考えていくことは実に有効に思えた。音声言語指導についてのいくらかの知識は持ち合わせていたつもりではあるが、いわゆる「聞くこと」に関する全体的な指導がこれほどすっきりまとめられている本は初めてだった。
 書名にも「三段階指導」とあるし、主要なポイントを三つに絞り込んで進めていることが、自分の感覚とも非常に近いと思えた。特に「筆メモ」「指メモ」「脳メモ」の三種類や予見聴力の三本柱がわかりやすく、具体的な指導例や語りが入っていて参考になる。

 子どもたちだけでなく、私たちの聴く力が弱まっている傾向を確かに感じている。そういう点にもっと敏感になるべきだし、聴く習慣という一生の財産を作ってやる時期だという認識をもっと強くしなければならない。
 著者が項目だてた比喩が、なかなかいい。

 素直に聴き入れる器を作る

さらば、知事。

2009年04月19日 | 雑記帳
 ある言葉を検索してトップで出てきたページを開いたら、こんなところに行き着いた。

 偶然にも、今日はこの本県知事の退任の日。

 食糧費に関わる県庁内部の不正が露見したことが、この人をその仕事に押し上げたわけだが、よくも悪くも刺激的な知事ではあった。
 口調や弁舌で人を惹きつけるまでにはいかなかったと思う。しかしまた魅力的な部分も多かった。それは一種の頑固さであり、信念を貫く姿と言い換えてもいい。

 結局、子育て税のことや地方振興局の統合問題、そして例の学力テスト結果公開のことで、多数の支持を得られなかったわけで、最後には急速に求心力が失われたような形だった。それでも個人的には、それまでの官僚上がりの方よりはずっとましのように思えた。周囲の大勢を見定めてから動くという大方の政治家にありがちな計算があまり感じられなかったからだろうか。

 結局それが議会との軋轢をうむことになってしまい、自分の考えを通すことが阻まれたようにも思う。もう少し根回しをしたら実現したプランは多かっただろうし、結局改革があまり進まなかった理由も、自らの手法に固執したからではないかと思う。
 今、それらのやり取りを振り返って考えると、リーダーの抱える困難さがとても大きく見えてくる。
 主張を実現させるために自らの信念を曲げるということ…ひとつ高い位置に自分の行動を置いてみること。

 さて、実は私が検索した言葉(文)は「秋田県をどう持つか」。
 そう、昨夜のお笑い番組に出たバカリズムのネタである。田沢湖にリングチェーンをひっかけて尻ポケットに入れるなんて、県の輪郭をとらえていてなかなか秀逸!
 かなり低い位置からの発想でした。

学びの空気の中で実現する

2009年04月14日 | 読書
 『教師と子どもの読解力を高める』(岩下修著 明治図書)

 三月半ばに買い求めていた本だがようやく目を通すことができた。
 99年に出された『教師の言葉が生きる瞬間』は実に名著だと思ったが、その流れの中で国語科を中心とした実践が積み重ねられている。

 一昨年、立命館小学校での公開授業を間近に参観できたとき、岩下先生の放つ雰囲気に少し意外な感じも受けたのだが、著書を読んでやはりストンと落ちるものを感じた。

 今回の本は実践1~20という項目立ててで、国語科指導のエッセンスがびっしりと詰まっている。必ずしも指導方法が細かくされているものばかりではないが、学級担任の行う国語科はこうあるべきという一つの姿が見えるようだ。

 「学ぶからだ」が岩下実践の紛れもないキーワードだと思うが、この本ではこんなことも書かれている。

 何のための国語指導か。私は、「想像力、創造力、自己有用感」の三点を念頭に置く。すべて、人間の根源的欲求を満たすものである。

 題名となっている読解力も、そして論理力も、階層として一つ下にランクづけていることに思想を感じる。人間は、想像し、創造し、何か人に役立つこと、幸せに結びつくものを求めていくものだ…歌い、読み、発言するあの時の三年生の表情、目の輝きをまた思い起こすことができた。

 熱い「学び」の空気の中で

 あとがきに記されたこの一言が心に残る。教師も子どももその中で高まっていく。

荷物の所在を意識することから

2009年04月13日 | 読書
 『スクールリーダーのためのコーチング入門』(千々布敏弥著 明治図書)を読んだ。
 キーワードの一つとして、この言葉が印象に残る。

 完了感

 「相手にボールを受け取ってもらったすがすがしい気持ち」のことだという。そのために、まずステップとして「傾聴」がある。その後に続く「承認」「質問」…こうした類の本として目新しいわけではないが、確認できたことがいくつかあった。

 仕事を一つ一つ片付けるという意味での完了感は、日常的な感覚ではあるが、コーチングとして職員の意識を高めるそれはどうあるべきだろうか、と考える。一つの例として浮かべるのは次のようなイメージだと書いていた。

 いったん足下に置いて、一つひとつの荷物を確認させ、効率よく運ばせるようにしたい

 そうなのだ。今私たちが抱えている荷物は何段にも重なっていて、もうどんな問題があったのか明確に名づけることができない状態の人も多い。重さだけが気になり、妙に持ち方を変えて自分で窮屈にしている人もいるのではないか。
 足下に置かせる余裕を見つけ出させることが大切だと思う。しかしそれは結構大変だろうし、一律にできるものでもないだろう。せめて荷物(問題)の所在を意識させ、持ち方の工夫をさせる、そこだけは忘れたくない。

 周囲にも同じように抱えている姿があり、声をかけあったりするとか、少しは楽になる積み上げ方をしている人を見習うとか、そうした場があれば、持ちこたえられていくと思う。