すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

特定の人の常識

2007年10月30日 | 雑記帳
 「ミスター年金」と呼ばれる衆院議員の長妻昭氏のインタビュー記事に、うーむと思うことが書いてある。
 長妻氏が、年金問題を追及する中で社会保険労務士の方々とも話す機会があったそうだ。ある労務士さんから
「消えた年金記録の話は10年前からあったが、探すことも労務士の仕事だったのでおかしいと思っていなかった」
ということを聞いて、なるほどと思ったそうである。そして、こんなふうに書いている。

 本当は大問題のはずが、その業界というか特定の人には常識になってしまっている。

 これは様々な業界に言えることだろうが、教育界も顕著だと感じる。
 数年前中央研修で他県の方々と親しく話をし、それぞれの仕事の内容の違いにあっと思わされることは少なくなかった。
 同じ県内でも事務所管轄が違うというだけで、常識だと思っていたことが通用しなかったりする場合もあった。
 いわば業界内部でさえも、それもきわめて限定された範囲でかなり喰い違いがあることは一つの驚きでもある。

 雑務的な処理の仕方等ならまだいいのだろうが、例えば「指導」という点に関してはどうなのだろうか。
 当然のこと、常識と思われることは、実は視点を変えてみれば大問題なのでは…と振り返る目は持ちたいものだ。
 年金記録のように消えてしまったものは、本当にないのか。

 とかく「外野からの声」を「内状がわからないのに…」「いろいろな事情を把握したうえだから…」と簡単に退けてしまうような傲慢さがないか、一度自分を疑ってみるべきだなと感じた。

表現を考え、高めていく現場

2007年10月29日 | 教育ノート
 喩えとしてではなく「身体で受けとめる」ということを強調したいと考えるのは、やはり便利さに対する危機感のようなものか。ひっきりなしに語ることで、身体能力を鈍らせないように…

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 縷述「つながる授業」27

 19日のセミナーで講師の京野先生が話した一つのエピソードが忘れられません。
 ある年の表現活動集会で、「その場での実際の活動と、それを撮影したビデオ映像」の差異について語ったことです。集会の場であまり良く見えなかったある学年の活動が、ビデオで視聴したらとても格好よく見えた…こういうことは実際にあるでしょう。もちろんその逆もよくあることです。
 それは何故でしょう。

 ビデオカメラの情報量はかなりのものです。私たちがその場で見聞きしたことを正確に伝えているはずですから、実際とそんなに違っていたら変ではないか、とも思います。
 授業研究などにおいてもビデオ映像の活用が図られていますし、発表練習のために子どもたちに見せて反省させるなど、有効に使っている方も多いはずです。何がそんなに問題なのか、という気もします。

 しかしもう少し突っ込んで考えると、やはり人間が受けとる情報量は、ビデオとは断然の差があることに気づきます。
それは「空気感」という漠然な言い方にも近いのですが、表現の場の環境に関わる受けとめの違いなのです。
例えば、広さや高さの感覚、窓からの光の入り具合、床の感触、それから例えば出番の待つ子の雰囲気さえ、指導者であれば感じ取っているはずです。表現者そのものを見ているときでも、カメラワーク的な見方ではなく、表情や身体の動き全体を視野に入れた受けとめ方をしているはずなのです。
 脳科学的に分析してもおそらくその量的な差は明らかではないでしょうか。

 それは、言うなれば指導者であるからこその見方、または子どもに寄り添うことを常としているからこその見え方とも言えます。受けとめようとする者が圧倒的な量に支えられて、初めて質の評価ができるということです。「現場」という重みはここにもあります。
 もちろん、ビデオ等の機器は存分に有効活用するべきでしょう。それを踏まえながら、今自分がフル回転して見聞きしたこと、心に感じたことを、一番に目の前の子どもたちに伝えることが、「表現」を考え、高めていく現場と呼べるのだと思います。
 発表会まであと数日。(現場に事件はつきものですが、それもまた表現です。)
(10/29)
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あの眼差しへの畏れ

2007年10月28日 | 雑記帳
 「うそつき!」
 子どもの頃、その一言は非難として最高ランクだったような気がする。その言葉を浴びせられたとき心はぐんっと沈み、ずっと引きずっていただろう。
 それほど重い言葉だった。

 しかし、成長するにつれそれほど響かない言葉となっていく。それが大人になることだろう…建前と本音を使い分け、その中のどこかにいつも「嘘」を滑り込ませていくことが…そんなふうに納得させたりして。

 結局それは個人としての思いには違いないが、同時に社会全体との関わりの中で育てられたとも言える。
 最近、食品に関わる告発も目立つが、そこに一歩目の「嘘」が雪だるま式に膨らんでいった有様を多くの人が感じていることだろう。

 高村薫が著した『作家的時評集 2000-2007』(朝日文庫)を読んでいたら、こんな文章に目が留まった。

 違和感を懐きつつも、わたくしたちはいつしか、日々の生活に支障のない限り嘘を放置し、見てみぬふりをすることに慣れきったのである。

 政治、行政、経済…そうしたレベルのことはもちろん、日常の仕事の中にも、家庭生活の中にさえ、そんな状況がある。結局のところ、それは誰かが嘘をつき、そしてその嘘を放置したことによって、認められたことになり、「真実」や「常識」となっていたことではないか。

 耐えられなかったのか、許せなかったのか、ある人間が匿名のような形で告発したのが、最近の一連の騒動だ。
 しかし、絶え間のないほど続く情報の中で、じっくりと考えることもできないでいることも事実ではないか。
 高村はこうも書いている。

 わたくしたちはいわば自動的にファイルを処理するだけで、そこには基本的に価値観としての「嘘」も「真実」もない。

 不信や怒りの声さえ、自己の経験や問いかけと重なる前に情報として伝えられ、定着させられてしまう。
 そんな精神構造になってはいまいか。

 「うそつき!」と投げかけられた眼差しへの畏れは、取り戻せないものなのか。

根の存在に気づく日まで

2007年10月26日 | 教育ノート
 見えないものを見ようとする心が本当に美しい時がある。少女らの作文に触発された。
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 先日、隣町より依頼されて「青少年の主張作文」の審査をする機会がありました。中学生の担当となり十数編に目を通しましたが、どれも力作揃いでした。
 中でも惹かれたのが、特選になったAさんの「祖父へ」、そして入選したSさんの「見えなかったもの」という作品でした。どちらも中学校3年の女子です。主張作文というと、交友関係、いじめ問題、福祉やボランティア、環境問題などが想像されますが、この両者はどちらも家族をテーマにしたものでした。

 Aさんは急逝した祖父との暮らしを思い起こし、成長するにつれ優しく接することができなくなった自分の言動を悔い、生きるという意味について考えていました。
 Sさんは遠方から秋田に嫁いできた母親から様々な思い出を聞き、たくましさや明るさ、そして家族を思う気持ちに感動し、自分の中に共通する心を芽生えさせていました。
 内容や文章のタッチは対照的な二つの作品でしたが、どちらにも瑞々しい感性が表われていました。読み終えてから、ふとこの二人を突き動かしたものは何だろうと考えさせられました。
                 
 独特の書と詩で著名な相田みつをさんは、多くの方が知っておられるでしょう。こんな作品があります。

 花を支える枝
 枝を支える幹
 幹を支える根
 根はみえねんだなあ


 これを植物でなく人間にたとえた時、目に見えない「根」とはいったい何だろうと考えるときがあります。
 人が生き、暮らしていることは、その親がいて、親にもまた親がいてそしてまた…というように命のつながりがあるから成り立ちます。そう考えると、親や祖先はまさしく根であるという言い方ができます。
 ふだんは意識しなくても、ある時ふと根の存在を思う…固い土、強い雨風等さまざまな歴史を抱え込みながら、今自分がここにいることを支えてくれているのだと理解するのです。

 二人の中学生は、まさしくその根の存在に気づいたのでした。
 子どもによってその気づきがいつ訪れるかは違いがあるでしょう。しかし家族や近隣の方々との暮らしの密度が濃ければ濃いほど、その機会に得るものは大きく深いと考えられます。
 幹を太くし、枝を伸ばし花を咲かせようと努める日々にあっても、根を思う気持ちを、まず私たち大人が失いたくないものです。
 それは知らず知らずのうちに子どもにも伝わっていくはずですから…
(11/1予定)
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学力全国1位の原動力

2007年10月25日 | 雑記帳
 学力調査・小学校の部全国1位の県から発信する

 と大げさに構えてみたが、このようなブログに訪問してくれる他県の方々へ、秋田県の地方紙はこんな感じで載せているということを知らせるのも少しは有益かなと思ったのだった。
 ネット上ではこんな感じであるが、今日の朝刊はもちろん一面トップ。紙面の半分以上が占められている。二面、三面にも関連記事がある。

 一言で表せば「びっくり」ということになろうか。
 そして、それなりに今までの「成果」を口にし「展望」を語る。比較の順位にはこだわらずという原則?がある以上は素直に喜びを爆発できない?事情もあるのか。
 それにしても何故、有数の過疎県であり少子化が喫緊の課題となっている本県が1位を独占したか…その分析は教委なりに行うだろうし、公的ないくつかの要因を挙げることは比較的簡単だ。

 だから、ここは私なりの解釈を…。
 今日、学校をはじめ多くの教育関係の職場では、朝からこの話題であろう。
 一様に「びっくり」したのではないか、と思う。
 そして、そのあとである。
 本校でもこのことばは聞かれたし、多くの職場でささやかれたと想像できる。

「来年は、また大変だな」
 
 この気持ちである。
 この気持ちが間をおかず湧き上がってくることが、国語・算数のABそれぞれの部門1位独占に輝いた原動力ではないか。
 県民性というべきか、予想される「連絡・指示事項」が見える先見性(笑)というべきか。

 けして卑下しているわけではないが、素直さ従順さがもたらした結果だとすれば、それは「新しい学力」が目指したものの中心ではなかったはずだ…

 それにつけても、全国一覧を見て、最南端の県ではその結果を「ナンクルナイサ」と受け止めたとすれば、それはそれで羨ましくもある。

練る姿の目指すもの

2007年10月24日 | 教育ノート
 たまに上京して土産として買う「○屋」の高級羊羹はとても美味しいと思うが、亡くなった祖母が作る羊羹もかなりの味だった。
 「練」を取り上げて、ふと浮かんだのは台所の隅で小豆の入った鍋を練っている祖母の姿だった。煮詰めその質の良い部分を残していく、こねて混ぜ合わせ味を深くしていく、練るとはつまりそういうこと。
 祖母の練り上げた羊羹は、黒く、堅く…もうあの味には出会えない。

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 糸へんに東と書きますが、方位を表す東ではなく「柬(カン)」という字がもとになっています。
 柬は、束(たばねる)と八(わける)から出来た字で「集めたものの中からよいものをよりわける」意味です。
 糸へんがついて「ねる」という読み方をして「糸をやわらかくする」というもともとの意味となります。

 「練習」「鍛錬」などから「繰り返して習う」「きたえみがく」というイメージが強い字ですが、それは結局「よい質のものにしていく」という点に集約されます。
 春以来、授業や様々な活動のまとめとしてご覧いただく発表会。それに向けての練習は一人一人の子の中にある質のよいものを表に出していくために行われていると言えそうです。
(10/22)
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話すために話してみればいい

2007年10月23日 | 雑記帳
 今月号の『児童心理』(金子書房)を読んでいたら、こんなフレーズが目に留まった。

 子どもが大人になることを厭うようになるのはどうしてか?その答えの一つは「生きていくことの楽しさが感じられないから」である。
 
 筆者である薮添隆一氏(香川大学教授)は、そのあとに続けて「雑談」の効用を説いている。
 カウンセリングとしての効用はともかく、私たちは確かに雑談を失いつつあるように思う。

 例えば、三十年近く前私は地域の文集審査会の一番の若手であったが、その仕事はヤカンに酒を入れて沸かすことだった。もちろん審査をした後ではあるが、午後三時にはその役目につかなければならなかったと記憶している。そこから反省会という名の大雑談になるわけだが、作文の読み方について語り、子どもの変化について語り、社会情勢について語りあった。
 同じく二十数年前から始めた研究サークルをおよそ十年ちょっと続けたが、レポートを書きそれについても大いに語ったが、例会後の飲み会や年間の粗末な集約作成などは、凡そ雑談だったのだと思う。

 その懐かしさは「生きていくことの楽しさ」のように思える。

 そんなふうに感じていた自分が教室にいるということ自体、ある面で子どもに伝わる楽しさがあったのかもしれないと想像してみる。
 会が終わった後に次の日の教室が待ち遠しいと思う楽しさがあったとすれば、それが子どもに伝わらないわけがないと考える。

 では今は…。「生きていくことの楽しさ」がないとは言わないが、それがきわめて独善的になったり閉鎖的になったりしていることに気づく。これは私個人に関してももちろんだか、周囲を見渡してもその傾向が強くなっているのだろう。

 雑談の持っている大らかさ、いい加減さなどが薄くなり、そこから楽しさを見いだすことも希少になってきた。それじゃあ、子どもでなくても生きていくことを厭うよなあ。

 能率と生産性を求められる世間からの目、雑談を無駄話と捉えらがちになっている自分たちの意識…そんな窮屈さをネタにして、一つ延々と雑談をしてみてもよくないか、などと独りごちてみる今夜。

「ゼロの声」から始まる

2007年10月21日 | 教育ノート
 「声」をテーマにする以上は、その子の普通の声をきっちりと認識しておくべきだし、その子自体もわかっている必要がある。
 トレーニングの効果を測るためにも、また効果的に行ううえでも有効だろう。
 ゼロからの振幅を大きくすることで、意識と身体を高めていくイメージだ。
 金曜日に行ったセミナーの前に、そんなことを考えていた。
 
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縷述「つながる授業」26

 4年生の授業研究会をした後に、K先生と少し「声の高低」という話をしました。
 「子どもの声が低くなっている」という説が起こっていることは確かです。音の専門家として著名な鈴木松美氏の本にも、ここ10年ぐらいで20~30ヘルツ落ちているというデータもあります。そこには、体格的な要因と環境的な要因があると述べられていました。
 経験的には、やはり意欲的かどうかが声の高低と関係あるようです。低学年では音読の場でもある程度高い音を出させたいし、そういう訓練を通して逆に意欲に結びつけたいと思って、繰り返し練習させてきた記憶もあります。

 さて学習発表会に向けて、各学級の活動も熱を帯びてきています。継続してきた音読などの成果も出ているのではないでしょうか。
 さらにもう一歩を目指して「高低」にも気を配ってみたいものだなと思います。
 日本の様々なミュージシャンに影響を与えている亀淵友香氏が、どうしたら声をコントロールできるか…という点について、こんなことを書いています。

 「ゼロの声」を認識しよう

 「できるだけ無心になり静かにしてから発声したときの声」です。感情を含まない状態の声です。
 この声をもとにしながら母音の発声練習をし、高い声、低い声、大きい声、小さい声、そしていい声、悪い声と使い分けができるような練習をしていくようです。
 日常の指導で「もっと高く」「大きな声で」というためには、その子の「ゼロの声」を教師もその子自身もわかっておく必要があるはずです。
 練習の中にそうしたトレーニングの場を短時間も組み入れて続けることで、少しは意識的になれるのではないでしょうか。
(10/17)
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自分の国の言語で語るということ

2007年10月20日 | 読書
 先週の研修会で、「中国の若者事情」と題した講演を聞いた。
 地元の高校教師を退職なさった先生が、2年間中国の河北大学大学院に客員教授として招かれ、日本語専攻の学生を教えられた。今年で任期を終えられたのでお話を聞こうということになったわけである。

 日本語を専攻する中国人学生の弁論大会のことが興味深かった。
 自由題で弁論する、つまりしっかりと日本語原稿を書き準備できる弁論の他に、その場で与えられる題について語り、その両方で審査されるということだ。
 大学院の学生の日本語のレベルがどの程度かわからないが、その課題弁論については一言、二言で口ごもってしまう学生もいたらしい。当然のことだろう。
 英語をはじめ外国語に関して全く駄目な自分でさえ、その難しさは想像できる。

 内田樹氏の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)の中にこんな文章がある。

英語で「それじゃ、日本の文化について語ろう」ということになったとき、こちらの口から出るのは、結局ストックフレーズなわけです。
 
 これは中国人もしかりであろう。課題弁論をうまくこなしたのは、おそらくストックフレーズを多く持っていた学生だと考えられる。そこにきっと個人の独自の主張は語れないのではないか。
 内田氏はこうも書いている。

英語で語るということは、英語話者たちの思考のマナーや生き方を承認し、それを受け容れるということなのです。
 
 これは日本語に置き換えても同様ではないか。仮に外国人学生から日本語による日本批判が出たとしても、それは日本批判をする日本語話者の論理の承認から出ている可能性が大きい気がする。
 ある言語で思考したり表現したりすることは、一面では考え方の枠組みが決まってしまうとも言える。

 「自分の英語があまりに滑らかだったのでびっくり」と記述している箇所があった。
 それは「まず怒鳴る」という場面だったそうである。自分が正しくて権利があって、相手に非があり義務があるというようなことを言う場合には、実にスムーズに語れる言語が、英語なのだという。
 感覚的ではあるが、米国映画のシーンを想像してみてもそうなのかもしれない。

 それと比べると、日本語はどうなるのか。
 日常的に表現しやすい感情や思考の言葉を集めてみれば、そのパターンが見えてくることは確かであろう。

 謝りか、説得か、迎合か…そんな言葉ばかり浮かんできてしまう。

増幅する危うさ

2007年10月18日 | 雑記帳
 地域の方が職場へ届けてくださる雑誌に、京都大学の正高信男氏の論考があったので思わずじっくり読み入ってしまった。
 「ITの進化につれて退化する日本人」というタイトルで、名著である『ケータイを持ったサル』以降のことについて言及している。
 そしたら、同じ雑誌に連載している汐見稔幸氏も「携帯メール時代の子どもの人間関係」と題して、共通する内容のことについて書いていた。

 両者とも、若者(そればかりではないが)の現状を憂い、思考力やコミュニケーション能力の衰えに警鐘をならしている。特に目新しい論ではないのだが、改めて気づくこともいくつかあった。

 携帯やインターネットをよき「ツール」として扱うため何に留意すべきか、キーワードをはじきだせないだろうかと、お二人の論考に共通することばを求めてみた。

 増幅

 汐見氏は、携帯メールでのやりとりのコミュニケーションの難しさをこんな言葉で表している。

 思い込みの増幅

 顔を見ずに書き言葉を使い、「即レス」「即答」を求める自己中心性は、まさしく当てはまる。

 正高氏は、ネットの状況についてこんな文を書いている。

 一つの「意見」がちょっとしたきっかけで増幅し、いつの間にか「世論」となり国政を左右する。

 膨大な情報の中で思考停止状態に陥っている私たちは、巧みな宣伝、または偶発的な出来事やそれを利用した意図的な情報操作等々によって、皆同じ向きをむくように煽られていないか。

 大量のモノを、スピーディーに扱うこのツールに麻痺しないためには、「増幅」を一つのチェックポイントとしてとらえたらどうだろうかと思う。
 例えば
 何でもメールで伝わると思う考えと行動が増幅していないか
 「商品別売れ筋ランキング」に購買意識が増幅していないか
 悪態をつく有名人への嫌悪度が増幅していないか