すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

文月もこうして暮れて…

2022年07月31日 | 雑記帳
7月26日(火)
 出勤後、昨日、自宅で完成させた図書館だよりを確認してもらう。11時からこども園で読み聞かせ。大型絵本を3冊。『ありとすいか』が時季的にぴったり。見たら給食にも西瓜が出ていた。TV発表の県内感染者数に驚く。午後はブログアップ予定の「読書案内」作業。退勤後、今度は爺としてこども園へ孫を迎えに。


7月27日(水)
 シフトの関係で勤務なし。午前は印刷作業後に、久しぶりに隣市へ買い物。スーパーと道の駅どちらも結構賑わっている。帰宅後、昼食は久しぶりのナポリタン。ウインナーが入る昭和の味だ。午後からはのんびりと録画していた『コードブルー』映画版を観る。二回目だがなかなか面白い。今日も孫を迎えに行く。


7月28日(木)
 午前中は自宅でのんびり読書など。午後から会議があり出勤。図書館2階で十数人規模の教育評価会議。数値で判断することが求められるが、それで見落とすことも多いと再確認。本日、70年以上営業した町内の小さな食堂が暖簾を下した。時代の流れをしみじみと…。そばの白い花が目立つ季節だが、少し前にはなかった景色だ。




7月29日(金)
 好天が続く。午前中に図書館だより8月号を各施設に届ける。こども園へ絵本セット交換も行う。職員は明日開催するイベント準備に忙しい。自分担当の絵本コーナーも設けるが、紙芝居がいいと思いつきセットを持ち込むことにした。エントランス掲示、来週の中学生職場体験学習の準備など少し慌ただしくなってきた。


7月30日(土)
 計画したワークショップが中止になり、「縁日」という形でイベントを実施。10時過ぎに最初の家族連れが来てくれた。紙芝居のリクエストもあり落語版を読む。喜んでもらえた。明日で7月も終了。体調は完全に戻り切っていないが、やるべきことは遂行した。少し余裕を持ちたいと「雑談力」をブログアップした。


 文月もこうして暮れていく。少し雑になった文月だったと反省する。
 

仮想の相手に時候の挨拶

2022年07月29日 | 雑記帳
 先週、町内の小学校の三年生が来館した。勤務日ではなく様子は観られなかったが、今日それぞれの感想を記し綴じられたものが届けられた。ざっと目を通してみると、内容はともかく見学した当日の午後にいわゆる「手紙文」の学習として取り上げたらしく、二十数名全員が冒頭に以下のような形で書き出していた。

 あじさいがきれいにさくきせつになりました。
 今日は見学させてくれてありがとうございました。


 「あじさいがきれいにさく」の箇所は、それぞれに考えた(らしい)文章になっている。「ひまわりがきれいにさく」「ふうりんの音がきれいに鳴る」や「夏やさいがおいしい」もあれば「プールに入りたくなる」「かきごおりが食べたい」といった素直な心情にあった語を使った文もあった。時候の挨拶を書く活動だろう。



 手紙・はがきを書く学習はもちろん今でも残っているはずだ。ただ、改めてこうした活動に接すると、この学習は伝統文化的な内容になってしまったなあと思う。文字を使って伝える活動はなくなりはしないが、時候の挨拶をする機会が自分でさえも縁遠くなっていることに気づいてしまう。何年遠ざかっているのか。


 仮に思い立って書くとすれば、もはや一般的な書き出しつまり定型的な内容では意味をなさない。届ける対象は、例えばかつて親密だったが次第に疎遠になった友や、遠い昔お世話になり偶然の伝手で縁を再開させようとした方と想定した時、冒頭に記す時候の挨拶は、極めて個人的な、相手と結ぶ一節でなくては…。


 Sさんへ
 五十年前、〇〇公園のステージに一緒に立った夏もこんなふうに熱かったことを思い出します。お元気ですか。


 Hさんへ
 鮮やかな黄色がまぶしい向日葵。この夏も御宅の庭先で凛とした姿を見せてくれている頃かと思います。ご壮健でいらっしゃいますか。

 と、仮想の相手に時候の挨拶を練り、懐かしむひと時を過ごす。

7月26日、「豊かさと長閑」

2022年07月27日 | 雑記帳
 『あの日の風景』(村上保)のあとがきで、著者は昭和と今の比較をこう締め括る。「昔祖父から聞いた『一つ得れば一つ失う』という言葉を借りれば、『豊かさ』を得て『長閑』を失ったのかもしれない。そんなことを考えながらの作業だった」。ごく普通に「のどか」という語は使われるが、改めて意味深く思えてくる。


 「長閑」を広辞苑で引くと、以下のような意味が記されている。
①のんびりと、おちついて静かなさま、ゆっくりとあわてないさま
②気にかからないさま。心配のないさま。
③天気がよくて穏やかなさま。
 こう書き写してみると、それらは「心の豊かさ」そのものだという気がしてくる。



 7月26日の県内トップニュースは、コロナ感染者が1284人と初の千人超を記録したこと。梅雨明けが発表されても晴れ晴れとした気持ちになる人は少ないだろう。全国版をみれば、あの秋葉原事件の犯人の死刑執行が大きく載った。人間の心の闇を暴れさせる社会のあり方を一層強く思い起こさせる事件だった。


 人が視るのはやはり興味・関心のある部分、もっと言えば自らの考え、思いに近いところになるのはやむを得ない。「豊かさと長閑さ」を頭に描けば、今のこの国や社会の状態が、結局のところ経済優先に舵をきってきたために、長閑さから遠ざかったことは明らかだろう。この危機的状況で起点とすべきは何かである。


 祭り、イベントが大事なのは百も承知だ。人間のエネルギーを燃やし文化を作り上げる一つの象徴にほかならない。ただ注意深く組み立てないと結局は他の欲望に取り込まれ、単なる消費的なふるまいにしかならない。長閑とは対照的な場があってよい。しかし、何が失われ損なわれるか、意識的になる姿勢が肝要だ。

遠くなるが、消えない昭和

2022年07月26日 | 読書
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」あまりに有名な中村草田男の句である。昭和30年代生まれ以上の世代なら、なんとなく明治を昭和に置き換えたくなるのではないか。では「降る雪」に換えて何を置けばおさまるか。季語だが気象では難しい気がする。暮らし、風物、流行、そして食べ物…昭和が色濃いものは…。


『あの日の風景』(村上 保 秋田魁新報社)

 副題が「昭和が遠くなる」。著者はイラストレーター。秋田県出身ではなく、愛媛、長野、秋田の新聞に記事を寄せたという経緯で出版されたようだ。1950年生まれの心身に沁み付いている様々な「昭和」が、イラストと共に表現されている。100を超える項目ほとんどについて「そうそう」と頷ける自分に改めて驚く。


 俳句に照らし合わせられる語を探してみる。例えばこれはどうだ。「量り売り昭和は遠くなりにけり」商店で秤を使って売られていたモノの多さよ…。次はこれ、「餅まきや昭和は…」他と喜びを分かち合う場の大切さが徐々に…続けて、こんな語も当てはまりそう。「赤チン」「湯たんぽ」「おさがり」…みんな遠くなる。




『たべもの芳名録』(神吉拓郎  ちくま文庫)

 これは昭和50年代に雑誌連載されたエッセイがまとめられた一冊。現代もまた食べ物に関する文章は溢れんばかりにあるが、それらとは品格が違う。なぜか考えると、自分も含めいわゆる飽食の時代を過ごす嫌らしさがそう思わせているか。食物や料理、食事という場への敬意の持ち方が決定的なのかもしれない。


 この著に登場する食物、料理はもちろん現代にも存在する。しかしかの俳句に倣って上五に置けば、実は意味合いが違うようにみえてくる。例えば「湯豆腐や昭和は遠くなりにけり」。浮かぶ風景がある。例えば「玉子焼き昭和は…」もそうではないか。きっと想い出が湧く場面が脳内に残っている。昭和は消えない。

「最強の思想」に導かれて…

2022年07月25日 | 読書
 この研究者は初めて知った。舌津(ぜっつ)という名前そのものも今まで見たことがない。「舌」とつく名が暗示しているかのごとく、凄い文章だった。その情報量が自分になだれ込んでくるような印象を受けたのは、「七〇年代のジェンダー」という副題通り、その時代に「青春」を生きた年代の一人だからでもある。


『どうにもとまらない歌謡曲』(舌津智之 ちくま文庫)


 冒頭の一文にギュッと心を掴まれた。曰く「歌謡曲とは、おそらく、戦後の日本における最強の思想である。」それは、他の言語に関する文化と比べて、圧倒的に「浸透力」が異なるからだ。確かに確かに…。またJ-POPと称された音楽とも対象の広さにおいて違いは明らかだ。この「『教育的』効果」は無視できない。



 「恋愛と結婚」というテーマを皮切りに、次々に有名な歌謡曲が繰り出される。「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子)などを起点に、当時の恋愛観や結婚観が歌詞によってあぶり出される。その数や引用が見事で、それらの詞をほとんど全て知っている自分に気づくと、まさしくその「時代」に育った「価値観」の重さに驚く。


 興味深い記述はあふれるほどあるが、個人的にテーマと関わって面白かったのは「自らの『フェミニスト度』を知りたければ、デビュー当初の桜田淳子と山口百恵と、どちらの歌が好きか自問してみるとよいだろう」という箇所。後者が好きならば「フェミニズムからは遠く隔たった感性」だそうである。どうだろう。


 後半は、桑田佳祐や松本隆に関する記述が目立った。どちらにもシンパシーを感じているので実に興味深く読んだ。広い視点で歌詞を見ていなかったし、例えば「時」「時計」を取り上げても、そこには書く者唄う者の思想が表れるものだと心した。この後もしも、カラオケで何か歌う機会があれば意識するだろうなあ。
♪ 今何時? そうねだいたいね ♪

 最後に「あるアメリカ人作家がいみじくも述懐した」という、名句を書き残しておく。
 「歌の薔薇と記憶の薔薇だけは、枯れずに残る薔薇なのである」

今年も捩花は咲いたけれど

2022年07月24日 | 雑記帳
 五月下旬からどうにも調子が出ないので、このブログアップもサボり気味。しかし確実に季節は移る。自然は正直で、今年も計ったかのように捩花は咲く。



7月19日(火)
 昨日が祝日開館で、今日が休館日。ただ自分は、こども園読み聞かせがあり、田代へ向かう。予定時刻まで少し時間があったので、「痩せワラビ」(笑)でもあるかなとポイントへ。約二か月ぶりの収穫、夕食の一皿分になる。県内コロナ感染者が800人超。予想されている1000人超も現実となる。湯沢管内はまだ低い。


7月20日(水)
 学校は一学期最終週となり、町内の学校が午前中全校揃って来館してくれた。同職した教員が多くいて、久しぶりに二言三言話をした。先月実施したアンケート集計作業を進めている。帰宅後は大相撲TV観戦。今場所も混戦だ。風呂場読書の『どうにもとまらない歌謡曲』を読了。好著だ。いずれ感想をメモしたい。


7月21日(木)
 出勤予定なしの一日。午前久しぶりに孫と戯れる。その後、人間ドッグで指摘があったので眼科で再検診。メモを見直したら9年ぶりだった。異常なし。まだ視野狭窄にはなっていなかった。心身共にだといいが…。感染者は東京が3万人台となり、大相撲の幕内力士も多く出た。様々な夏祭り情報を素直に喜べない。


7月22日(金)
 出勤し、学校向けの図書館だよりをブログにもアップ。その後、町の青少年育成の会議。午後からは職員に頼まれ、明日から始まる「謎解き」の問題解きリハーサル。なんと100分もかかった。高齢者の頭脳にはきつい。来週の諸々の見通しを考えて退勤。自宅から絵本の読み聞かせサークル充て原稿を事務局へ送信。


7月23日(土)
 午前中は出勤し、館内イベントの様子を見つつ、ブログで発信する。昨年のように夏休み中に休館などの事態にならないことを祈る。午後はのんびりと過ごし、『たべもの芳名録』『あの日の風景』を読了。読書メモはサボっていて、エンジンがかからない。土用の丑ということで、うな肝、ひつまぶしで元気をつける。

海を見に行きたくなる話

2022年07月18日 | 絵本
 7月の読み聞かせは「海」を取り上げたいと、書架を探していて見つけた一冊。一読してすぐに「やりたい」と感じた久々の作品だ。発行がクレヨンハウスというのも珍しい。カバーに付記している説明をみると「1992・第2回 海のメルヘン大賞」の大賞受賞作。作者は当時高校2年だったとある。瑞々しい感性だ。


『海のおっちゃんになったぼく』(なみかわさき・文 黒井健・絵)
    2006.6 クレヨンハウス


    


 自宅裏に広がる浜辺で、青いビー玉を拾った「ぼく」。コップに入れたら「しょっぱい水」になり、その「海」はどんどんと広がってくる。入れ物を替えて世話をしていてもだんだん大きくなり、どうしようもなくなって「すててしまお」と捨てようとするが、父に見つかってしまい…発想、展開、決着、皆納得できた


 ふだん「飼う」となるとそれは家畜やペットを指すが、物語の世界では様々なものが対象となる。多様な動物や植物はもちろん、無生物さえも取り上げられることがあるはずだ。これは「ビー玉⇒海水」という設定が何よりユニークで、しかも膨張してくるという。途中まではオカルト風と思いきや、温かい終末となる。


 カバー裏に椎名誠が文を寄せている。「スケールのでっかい話」で「あったらすばらしいなあと感心して海を見に行きたくなった」と記す。まさに、そんな読後感だ。抑えた色調の絵も素敵だ。読み聞かせのポイントはなんといっても関西弁。TVを通して聴きなれている子は多いだろうし、なんとか読み伝えてみたい。

回文の絵本、こう読む

2022年07月15日 | 絵本
 「言葉遊び」の授業は持ちネタが多かったが、「回文」についてはまとまった実践をした記憶がないし、記録もないはずだ。ただトピック的には何度か扱った。回文の絵本は探せばきっと多くあるだろう。今まであまり意識しなかったが、先日この本を見つけ、短いし読み聞かせのときの前座(笑)として使えると思った。


『ぞうまうぞ・さるのるさ』(ことば・石津ちひろ え・高畠純) 
       ポプラ社 2014.8





 表紙裏(最初と最後の両方)に、「ぞう」と「さる」の回文がそれぞれ4文、6文載っている。これは中味のストーリーと直接関係ない内容である。最初は回文の説明に使えばいいかもしれない。じっくりと文字を追わせ、これから書かれている文章が、全部そういう形式になっていることを意識させるのに好都合だ。


 レストランでウエィターが「ぞう どうぞ」と山盛りになった草の一皿を出す絵から始まる。「ぞう・・・・・食うぞ」を主パターンとした食篇から「吸う」「買う」「舞う」「這う」「追う」という動詞を生かした展開へ持っていく。絵は単純で幼児でも楽しめる。しかし、回文という意識があると、また一つ味わい深い


 回文だと、どうしても読み方が一つ一つの字を追って半端になりそうなので、ここは繰り返してみればいいと思いついた。対象者の年齢にもよるが、「ぞう くさ くうぞ」とゆっくり棒読み、そして「象 草 食うぞ」と意味が通じる読みを重ねる。このパターンで進め、途中から意味読みだけにする手もあるだろう。

仕組んでは育たない力

2022年07月12日 | 読書
 参議院選挙が終わった。各種報道が事前予想したとおりの結果になったし、自分でも「そうなるだろうな」と感じていたことと大差はなかった。秋田県は過去最低の投票率だった。それでいて期日前投票の割合が全国で最も高いというデータは、ちょっと考えればどういう傾向か理解できる。固定化された投票行動だ。


 それ自体を悪いと決めつけることはできないが、問題は根深いと思う。投票に行くと決めている人は、早々に自分が選んだ候補者に票を投じる。いわゆる選挙運動(事前はともかく)には左右されない。立候補した時点いや選挙の構図(支持政党や自らとの関わりの深さで見えてくる)が決まった段階で、ほぼ終わる。


 2018年7月北海道④「帯広の丘の石」

 これだけ投票率が下がってくると「選挙権の行使」にばかり目がいく。確かにその通りとはいえ、それは政治に関する当事者意識と重なってこそ、実となる。ある冊子に「主権者教育はなぜ必要か」という論考が載っていた。2016年参院選で、山形県の18歳高校生の投票率が驚異的だったことを動向として挙げた。


 それは明らかに「教育」がなされた結果とも言える。しかし、全国的にも18歳で50%以上あった投票率は、翌年には30%台に落ち込んでいる。結局のところ、投票率を上げようとする狭義の主権者教育の限界がみえる。そこで唐突に頭をよぎったのが、小・中学校における「特別活動」の様々な思い出だった。


 教諭として初任の学校で「学級会」に取り組んだことは以前書いている。その基盤は結構大きかった。いわば「自主・自立」をどう育むか、ずっと頭の隅にあった。担任時代が短いので豊富な例とは言えないが、学級会であれば「誰にも役割を経験させる」、何より「自分たちで決めさせる場の設定」がポイントだ。


 ところが振り返ると時代はそう進まない。印象的な出来事がある。それは大勢の参観者のいる研究大会。その学級では子どもたちの意見が事前に短冊に書かれ提示された。そこまではいいが「それ以外の意見」も「部分変更」も「折衷案」も出てこない。何故か。仕組まれている流れが強く早く、声が飲み込まれるからだ。

職人と飲めば美味いんだ

2022年07月11日 | 読書
 毎回見ていたわけではないが楽しみな番組の一つだった『太田和彦のぶらり旅 いい酒いい肴』。吉田類の方と比べると、やや理屈に傾く時があるとはいえしみじみと味わい深さもあった。酒場ライターの元祖のような人だと思う。独特の語り口で、様々なジャンルの酒飲みと語らう対談集なので、面白くないわけがない。


『みんな酒場で大きくなった』(太田和彦  河出文庫)


 6人の方々とそれぞれに名店と称されるような酒場で、店や酒の話、そして仕事の話などを、気ままに語る。かつて一緒に仕事をしたという椎名誠の回だけは「生ビール」のみというのも特徴的だが、それ以外には食した肴の品名なども記されていて雰囲気がある。こういう本を読むと、正直「東京人」にまだ憧れる。


 2018年7月 北海道③「釧路湿原を見まわす」

 まるで傍に座している感覚で読み味わえたのは、角野卓造の回と東海林さだおの回。自分が描く劇団人や漫画家としての典型が、語りに出てきている気がした。芝居をする人は反応が早い、切り返しにもひねりがある。絵を描く人はいい相槌を打ちながら、よく観察した一言を発するというような…次の一言も笑える。

角野「やってみたけど、結論は出ねえ、という結論がでましたねえ」

東海林「5000円じゃ、なんかかやらしい。4000円って、誠実味が感じられるよね」


 巻末に著者へのインタビューが収録されている。自分がなぜあの番組を好むか、うっすらわかった気がする。もちろん「酒肴」への興味があるが、やはり出演者(太田)のデザイマインドが魅力的だ。居酒屋の「味」をどのように伝えようかと腐心しているからだ。最後に「職人気質」という語で締め括ったのもわかるなあ。