すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

リンゴ売りの真似ができない

2023年01月31日 | 雑記帳
 日曜日の朝刊一面コラム欄は、井上陽水の「氷の世界」というアルバムのことから書き出されていた。連日の寒波と重ね合わせ、温かい食べ物の話題を絡めていた。さて、日本初のミリオンセラーを記録したこの一枚。当時高校生だった自分も買った、印象深いジャケットのこのLPは、何度も何度も繰り返し聴いた。全ての曲を歌えるはずだ。もちろん、歌詞は必要だけれど(笑)。

 

 朝に読んだそのコラムと全く偶然だが、夜たまたま年末に録画していたままになっていたBSの音楽番組を視聴した。我々のような世代を意識したフォークロックが中心の内容であり、その冒頭かの曲『氷の世界』が流れたのだった。ギターの印象的なイントロから「♪窓の外ではリンゴ売り、声をからしてリンゴ売り♪」という唄い出しを聴き、久しぶりにブルッとふるえた。


 テロップにある「1973年」の文字に気づく。新聞の文字では意識しなかった。73年ということは50年が経ったこと。50年、50年かあと思わず口をついて出る。実は週末から仕事に関わる件について少し悶々としていた。考えを整理していくと、結局自分の思考や感情は変わらないまま、成長のなさに呆れてしまう。対象は違っても半世紀前もこんな調子だったんだよ、きっと。


 「大方の問題は時が解決する」ということを、徐々に人は学ぶ。ただ問題に直面したときに無為に過ごすわけではない。判断基準の運用を学習しているのかな。映画監督の小津安二郎がこんな言葉を残しているそうである。「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」の言に従えば、今抱えている問題がどの範疇に入るか見定められるかだ。


 さてかの陽水のアルバム発売は73年といっても12月とクレジットがあり、正確には49年前だ。つまりは「48豪雪」。それは昭和の少年にとっての一大事…大学入試を控えた冬。戻りたいような、怖いような…「♪流れてゆくのは時間だけなのか、涙だけなのか おお毎日吹雪吹雪 氷の世界♪」この問いに応える術がない。ふざけてリンゴ売りの真似をするには、齢をとり過ぎた。

参冊参校参稽(三)

2023年01月29日 | 読書
 積雪が例年並みとなり、寒さは厳しい。毎年のことと言えば…それまでだが。


『教科書名短編 人間の情景』(司馬遼太郎、他  中公文庫)

 「中学校の国語教科書に掲載された文学作品のなかから、歴史・時代小説を中心に人間の生き様を描いた作品」が編集されている。司馬を初めに9名が執筆し、ほとんどが大家と称される方々だ。自分が中学生時に読んだという記憶はないが、『高瀬舟』(鴎外)や『鼓くらべ』(山本周五郎)などどこかで読んでいただろう。掲載された年代は幅広いが、全体的に重さ、暗さが強い。今さらだが周五郎の『内蔵允留守』の筋に感心し、菊池寛『形』に人間の本質を学んだ。





『あんちゃん、おやすみ』(佐伯一麦  新潮文庫)

 著者は、数年前ある文芸誌で「ミチノオク」と題した連載第一回に「西馬音内」を取り上げていた。文庫のもとになる『少年詩篇』という単行本が出されたのは90年代の終わり。年齢は私より少し下の仙台出身の彼が、幼少期から少年期をモチーフに自伝めいた小編を47収めている。同世代と言っていいし学生時代に住んでいた地域に近く既視感や親近感が湧いた。解説の谷川俊太郎は、自分の少年時代は「甘美なものでも、詩的なもの」でもないと書く。ただ「なにかを言語化する動機が隠れている」という認識は共通するようだ。



『悲鳴をあげる身体』(鷲田清一  PHP新書)

 正直、耄碌気味の頭にはすうっと入ってこないが、数十ページごとにオオッとなる一節に出会う。その出会いが心地よい。いくつもページの端を折った。なかでも、さすがの名言は「幸福とは何か」というシンポジウムの案内をもらった時に、とっさに思いついたという答え。曰く「幸福について考えずにすんでいること」。足の小指を怪我して初めてその存在に気づくようなことと似ているかな、とふと思う。この新書は一貫して「身体」とは何かを問いかける。そして「わたし」とは…身体のどこに居るのか。

「RUN」が沁みてくる

2023年01月27日 | 雑記帳
 今月最後のこども園読み聞かせは、山間部の園だったので峠道を上った。今日は比較的状態がよいが、今週はずいぶん冷えたし、いくらか緊張感を持って運転することになった。教員時代とはずいぶん違う。なんといっても勤務した期間が長い。数えてみたら5つあった小学校の4つに務め全部で19年。うち3年は教員住宅に泊まった経験があり、16回は冬の峠通勤をしたのだ。



 立ち往生の記憶は少ない。ただ、朝早く出勤したら直後にその峠が危険で通行止めになり、他の職員は回り道して遅くなったなんてことはあったなあ。一度だけ、出勤時に半年も経たない新車に衝突される目(過失割合は0%だった)に遭った。これは痛かった。いずれ雪道は慎重さが身に付いているはずだが、やはり運転する頻度が少ないとストレスを感じるとしみじみ思った。


 実は昨日は「道の駅」に出向いてほぼ一年ぶりの「出前図書館」の絵本入替をした。その折に駅長より頼まれごとがあると言われ、しばし懇談した。そういえばと話の折に某小学校に勤めていた頃、地域の義民の話を紙芝居仕立てにして演じた話になった。高学年の子たちと一緒にペープサート型で作り農業系新聞にも取り上げられたことがあった。BGMはなんと長渕剛だった。


 おそらく教員としての労働量が一番膨大であり、なおかつ一番楽しい時期だったと思い出される。この時のことは確かこのブログで書いているはずだ。…なんと、ちょうど10年前。2013年1月「20年前の冬花火」と格好つけた題をつけているではないか。それにしても繰り返し自画自賛(笑)するが、長渕を選曲したことだ。今さらに、あの「RUN」が沁みてくるではないか

 ♪賽銭箱に100円玉投げたら、つり銭出てくる人生がいいと、両手を合わせ願えば願うほど、バチにけっつまずき、膝をすりむいた♪

 ともあれ明日は「ゆきとぴあ」。穏やかであれ。


四つの原則から母を想う

2023年01月25日 | 雑記帳
 昨日は母の命日。ここ数年は兄夫婦と一緒に慎ましやかに偲んでいたが、体調を崩した孫がおりそちら優先ということで神前に手を合わせる形に留めた。もう七年が過ぎた。亡母にとって4人しかいない孫は全員母親となった。「祖母ちゃんはなあ…」と語ってやることも大事な相続だと、かの本を読みそう思っている。



 先日の小宴で、図画コンクールの話題になり某市では「〇〇式は認めない」というお達しが出ていた話に驚いた。造形には門外漢の私が1年間だけ図工の授業を続けさせてもらったことがある。もう15年前になる。その〇〇式である酒井式が中心だった。指導の四つの原則は、今でも時々思い起こす大事な指針だ。


 これは、子育て上非常に有益な心がけだと思う。世の中の組織や世間の目はほとんどダブルスタンダードになっており、政治家や上司等が語る典型的な建て前とは裏腹に、失敗や不注意に厳しく、ペナルティが大きい現状がある。乗り切っていくために、第一と第二の原則が示す「踏んぎる」「集中する」が欠かせない。


 続く第三と第四、「結果肯定」「間違いもプラスの方向へ」という根性(笑)も必須だ。唐突に、亡き母の一生がどうであったかと考えを巡らした。生家から1キロも離れてない家へ嫁ぎ、夫を早く亡くし姑に長く仕えたその道に照応させたくなった。波乱の半生で踏ん切りは早くつき、集中力は持続していたに違いない。


 ある面、昭和期の典型的な問題を抱えた家だった。しかし高度成長期に育った二人の息子は曲がりなりにも公務員となり、勤め上げた。その意味で残り二つの原則は適用せずに済んだと傍目には見えたか。もちろん、それらは結局「個」にしか知り得ない。人生終盤の息子は、第三と第四を念頭に進まねばならない。合掌。

参冊参校参稽(二)

2023年01月23日 | 読書
 今年は「参冊参校参稽」と名づけて、三冊ずつ軽読書メモをアップしてみようと思う。「参校」も「参稽」もあまり見かけない語だが、つまりは「参考」ということである。まあ、これもどこまで続くものか。気まぐれはいつものことだから。




『こころの相続』(五木寛之  SB新書)

 物質の相続ではなく精神の相続について語っている。考え方や所作、振舞など、自分も確かに誰かから受け継いでいる部分はあるはずだ。早くに父親を亡くしたが母や祖母から躾けられ(そこまではいかないか)いまだに守っていることや、徐々に薄れていることを数えあげれば…いかにも中途半端な世代、出自であることは否めない。しかし、齢からすれば明らかに「相続する側」。いったい何を意識して伝えるべきか。ほんの少しでも価値あるものを磨くしかない。



『不機嫌のトリセツ』(黒川伊保子  河出新書)

 著者の『なぜ怪獣の名はガギグゲゴなのか』という新書は印象的だった。その後読んでいないが、売れっ子の一人でもあり、ちょっと覗く気分で…。前半は、やや飛ばし気味でもいい内容だったが、後半にいくにつれ実に頭に入ってくる。特に「ミラーニューロン」が弱くなっている最近の傾向への警鐘が響いてきた。名言、惹句ラッシュ状態になっている終末部分は面白い。曰く「AIには『愛』はない」「『安全な人生』と『人生の安心』は別物だ」。勢いのある一冊だ。



『死者の贈り物』(長田 弘  ハルキ文庫)

 こんなテーマの詩集は初めて読む。知人が少しずつこの世を去っていく年齢になり、その実感に基づいて20編の詩が書かれている。あとがきによると「親しかったものの記憶にささげる詩」ということだ。実のところあまりぴんとこないのは、「悼む」心が足りないからではないかと自省する。解説の川上弘美は「死を畏れず、死を羨まず、つまりは生を奢らず」と書く。きっと自分はまだ「生を過信」しているのだろう。読む、想う、考える深さが足りない。

おいつかないこの頃

2023年01月21日 | 雑記帳
 ニュースに取り上げられるのは当然だと思うが、電気料金の値上げには恐れ入った。確かに予告はされていた。しかしどうにも複雑な説明だったし、これほど上昇するとは。ネット上の議論も多種多様だ。「そもそも恵まれすぎ」「原発の再起動しか」「機器買い替え」。どこを起点に考えるべきか。現実に追いつかない。


 ある方にスマホで電話をかけようとした。しかし連絡先がなかなか見つからない。もちろん登録してあるし先月も電話したのに…。徐々に削除しているとはいえ、300件が整理されていないとこの様だ。急いで焦っているということもあるが、緊急時に役立たない状況を知り、テクノロジーに追いつかない現況を知る。



 しばらくぶりに家人と一緒にある健康施設を利用することにした。でかける日の朝、何気なくTwitterを観ていたら、その施設が2月末限りで廃業するとある。退職後に定期的通っていたので回数券利用もしていたのに…。購入した券は残り2回なのでどうにか使えそうだが、豊富にある割引券消化には追いつかない。


 隣市の宝くじ売り場で10億円の当選がでたと話題だ。ふだん購入しない者にとって、実際に売り場が近いか遠いかは関係ないが、近くの誰かが購入したとすれば…と妄想が膨らむ。子や孫や親類にお裾分けをしたって、まだまだ使いきれないではないか。いっそ投資でも…実現しない楽しさ(笑)に心が追い付かない。

影を見失わず生きる

2023年01月19日 | 雑記帳
 こども園の読み聞かせで使った『うさぎをつくろう』という絵本。以前にメモは残しておいた。表紙の折込部には、谷川俊太郎の600字ばかり文章が載っている。レオ・レオニのシリーズはほとんどあるようだ。今回のタイトルは「影の意味」。二匹のうさぎが影を持ち、「ほんものだ!」と叫んで終わる展開だ。


 さすが稀代の詩人は深いことを語る。「本当に実在しているものには、影があるのだということは、私たちも実際の人生でよく経験します。」当然、ここでは物理的な影だけではなく、それ以上?の意味も持たせているようだ。「光りあるところには常に影(陰)がある」…処世訓ともいえる。まあ光が薄ければ影も薄いか。



 「影は人生を立体的に豊かにするということを、レオニは見事な技術で造形しきっている」と言われればそういう気もするが、この寓話の意味を子どもはそこまで捉えられないだろう。大人であれば「影のある男(女)」に惹かれたりするのは、暗さの中で見えない部分の神秘性ということだし、その挙句に失敗もある。


 「心の闇」という表現がある。その深度はなかなか測れない。今も闇の中でさまよっている者は多い。諸々の犯罪が語られる時まさしくそこに居ると感じることもある。括りはしないが、当てられる光が不足していた者、光の強さに耐えきれなかった者が、自分の影を意識できないので、陥ってしまうのではないか。


 人間が人間たる由縁の一つに「火を使う」ことがある。それによって出来た影こそ、生物全体を照らす自然光による影と一線を画す。いわば人工的な営みの象徴としてある「光」。自ら発しても必ずそこには影ができ、その点を明確に意識できているか。つまり等身大の自分を把握しているか。影を見失ってはならない。

鏡開きから日記参戦

2023年01月17日 | 雑記帳
1月10日(火)
 昨日は祝日で開館したので今日は閉館日。しかし、こども園の読み聞かせは曜日の原則も決めてあるので計画通りに向かう。今年初の読み聞かせは「うさぎになったゆめがみたいの」だった。雪は少ないし、お天気もよく気持ちいい。午後からは休養。日曜から始まった大相撲初場所は横綱休場で戦国時代という様相、楽しみだ。今年になって読んだ本の感想メモをブログに残す。


1月11日(水)
 土曜日の講演会準備を一気に進める。頼りになる知人たちのお陰もあり、定員一杯になり安心した。昨日に続いてこども園読み聞かせを行った。反応が良かった。それから小学校へ行って講演会用の書画カメラを借りる。午後から実際に会場で機器セットしてやってみる。覚悟はしていたがやはり鮮明に映らない。こうした設定で実施する難しさだ。リサイクルの雑誌を持ち帰る。


1月12日(木)
 勤務日ではないが、ちょっとしたアクシデントがあり、朝に少し出勤。講演会資料の印刷、「スキーの日」なので、スキー小説紹介をブログアップする。その後、隣市へ買い物。眼鏡を一つ新調しようと思う。2軒目で決める。久しぶりに3万円超のものを購入。お昼は初めてのラーメン店をねらって入る。久々の「二郎系」を食する。たまにはいい。照井先生へメールで連絡する。



1月13日(金)
 姪が無事出産したと連絡があった。この時節、非常に嬉しいことだ。出勤し明日の講演会へ向けて最終チェックしていたら、県職員の方からぜひ参加したい旨の電話があり受け入れた。何よりお天気が荒れない予報でほっとする。雑誌コーナーを久々にブログ紹介しようと写真を撮ったら、昨年某小学校で紹介した『大ピンチずかん』が絵本大賞に選ばれていたので、付け足した。


1月14日(土)
 午前中は会場準備とチェック。1時前に講師を迎えて打ち合わせ。予定通り開始できた。内容はお任せだったが、絵本の話が中心になり図書館主催にふさわしくなった。参加者には久々に逢う方もいて懐かしかった。夕刻より講師の先生を交え数人で小宴。酒のペースが良かったのか、主人が見たことのない一升瓶を持ってきて薦めてくれた。いい話といい酒に酔った一夜だった。




1月15日(日)
 絵本グループの初読み会だったが、諸都合で参加できない。朝、コンビニに買い物へ行くと、一言も喋らない若い店員がいた。この対応には驚く。観察対象(笑)としたい。今月分の電気料金の通知が入っていて、こちらはさらにびっくり。異常な値上がりは先月から…この高騰は不安だ。値段でこんなにビビることは経験がない。雑誌に日記書きのヒントを見つけ実行しようと思う。

「虚構」を参照せよ

2023年01月16日 | 教育ノート
 文藝春秋古本(2011.8)の特集が面白い。1990年前後の講演記録で、松本清張から司馬遼太郎まで大物がずらりと10人並んでいる。なかでも、作家藤本義一の話が心に入って来た。藤本は「日常の言葉というのは、三種類あるんですよ。それは事実の言葉と嘘の言葉そして虚構の言葉、この三つです」と語っている。



 授業参観に行って帰ってきた母親が子どもに声がけすることを例に、その三通りと説明していた。「一番多いのが嘘つきのお母さん」で、教師から言われたことにしてもっと頑張るようにはっぱをかけるのだと言う。そういう場合、子どもの心理としては先生から親への告げ口と受けとめ、徐々にやる気をなくしていく


 「次は、事実ばかりのお母さん」で、そのまま教師の様子に関しても良くも悪くも思ったままに口にする。大人の見方や感覚を押し付けられたままに、子どもは真似ていくという。率直な物言いの良さはあるとしても、好悪の感情のままに評価した先生の様子をそのままこどもに伝えることは、大人はしてはいけない。


 藤本は「虚構でいいんですよ。子どものために文章を、物語を作ってあげたらいい」と語る。古い時代から詩人は「虚構の下に事実はないけれど、虚構の下には真実がある」と歌い続けてきたという。実際の場面であまり言葉はいらない。にこやかに帰ってくる。そして授業参観に行って良かったということを伝える。


 「この頃、とても頑張っている」と先生が肯定的に評価してくれた様子を、さりげなく伝えることによって、子どもの中に物語が生まれ、進むべき道が示される。そこからまたコミュニケーションが深まり、広がっていく。もちろんこの話は親子関係だけでなく、教師と子どもの場合もそっくり当てはまるのだと思う。

面倒くささを参考にする

2023年01月14日 | 読書
 雑誌リサイクルコーナーに残った『文藝春秋』を数冊持ち帰った。まず開いたのは2011年4月特別号。発売は、あの3.11の前だった。この号の特集として「これが私たちの望んだ日本なのか」という企画がある。各界から125名が原稿を寄せている。政権交代から一年半が過ぎ、進まない改革に様々な考えが示された。


 特集の問いに真正面から答えている鹿島茂(フランス文学者)の文章が小気味いい。「『その通り、これが私たちの望んだ日本なのだ』と答えるほかありません。犯人は自分なのです」と、理由として次のように記す。「戦後日本が上から下まで、全員で『面倒くさいことは嫌いだ』と考え、それを国是としてきたからです。



 これは12年後の今にも多く当てはまる。政治の動きについては置くとして、経済はその努力が「面倒くさいことの省略」に注がれてきたことは確かだ。便利さを追求するから当然だという向きもあるが、そうした「代行業」の拡大が、一人一人の精神に強く影響を及ぼした。精神の弱体化による現象は留まる様子がない。


 教育は「効率的な受験勉強と顧客満足度の高い教育のことばかり」が主流になって久しい。社会も学校もそして家庭も、「叱る」という面倒くさいことを避けてきて、その結果様々な問題が可視化されてきたと同時に、ネット社会の進行は、逆に闇を深くし複雑化させた。個と個との向き合い方も明らかに変質している。


 恋愛や結婚、出産、子育て等…面倒くささだけが強調される社会状況は、裏で発展した諸産業と結びついている。既に少子化は問題ではなく、たどりついた「」となって常態化した。「今は私たちが望んだ日本」なのだという認識なしに、これからを生きる人々が真に望む国の姿を後押しはできない。面倒くさく生きる。