すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

訳あって、人生本再読。

2016年01月31日 | 読書
 『人生の作法』(鍵山秀三郎 PHP)

 著者が貫いていることを、一言で表せば「徹底した他者への配慮」ということになるのではないか。そのことを「幸せ」と受けとめられる価値観が揺らがないから、ここに書かれてある作法は凡人には厳しい。例えば「食」に関して言えば、自分が何かを選んだり、味わったりする楽しみは排除されている。そんなことより、時間を無駄にしたり、他者の仕事を増やしたりしないことが優先される。自分も「徹底」する目で暮らしを見つめてみると、いかにふらふらし、周囲に流されているかが分かる。一つでも二つでも行動改善できればと思う。


 『健康に生きる覚悟』(森村誠一 中経出版)

 この著は、まさに定年前の年齢層を主たる対象として書かれている。再読して改めて沁みる言葉がある。「無数の人生の果実を集めた共同倉庫にそれぞれの果実を携えて参加できるのが社会である。自分でなければつくれないただ一個の果実を提供して、無数の人生が集積した無数の果実、すなわち文化に浴することができる」共同倉庫のドアを開ける時期が近づき、手元の「果実」に目を向けざるを得ない。心許ない現状ではあるが、じたばたしても始まらない。自前に合わせた健康が維持できるように、ここでも行動改善が要求されている。



 『途方に暮れて、人生論』(保坂和志  草思社)

 同い年生まれの芥川賞作家。小説は2冊ほど、あとは雑誌の連載などで読んでいたが、相変わらず辛辣である。しかし上記の「大先輩」方とは違う共感できる部分が多いことも確かだ。この著で保坂が言いたいのは「(おかしな時代では)生きにくいと感じている人の方が本当は人間として幸福なはず」ということだろう。その観点では今、抱えている「生きにくさ」の中に幸せの芽があるというべきか。けして心地よいことではないが、その部分に目をこらすべきなのだと思う。


 三冊読み終えて、自分にとって大事な「人生論」本の存在を思い出してしまった。読みだすのが怖いような楽しみのような…

煌言20~ジャンピングポイント

2016年01月30日 | 読書
☆「壁」は正面から見ると強いプレッシャーを感じ、越え難く感じるものです。しかし、上から見たり、横から見たりすれば一つの節目にすぎないとも言えます。「壁」というイメージを、実は「飛躍」できる質的な心の変化のとき、つまり「ジャンピングポイント」ととらえてみたらどうでしょう。
 この時期の子どもたちの発達を理解してやり、はしごのかけ方さえ工夫してやれば、きちんと思春期を迎え、大人への自立の準備をスタートさせることができるのです。

 渡辺弥生『子どもの「10歳の壁」とは何か』(光文社新書)


 「壁」を自力のみで乗り越えることは困難である。
 しかし「壁」を乗り越える努力をさせることによって、飛躍できる力がついてくるのである。
 指導、支援する者は、よく「壁」を見きわめ、昇る手がかりを教えたり、補助具を知らせたり、ロープの掛け方を練習させたり、はしごの扱いを説明したり…まさしく教育の仕事をする必要がある。
 全ては、力をつけるための「壁」。

煌言19~動的視点の身体化

2016年01月29日 | 読書
☆子どもは、動的な存在であるから、見る方も動的な視点が必要ということである。「動的な視点」というのは、その状態を「驚きをもって見る」ということである。常に、子どもの「今」を見て、そこに新しさを見つけ出して驚くのである。
 有田和正『総合的学習のための子どもウォッチング術』(明治図書)


 「動的な視点」を持つためには、ある「先入観」が必要であるという。
 有田先生はその「先入観」をこう書いている。
 「どの子にも、必ずいいところがあるのだ!」

 教師であれば、誰しもそのことを頭ではわかっているだろう。
 しかし、それを脳に沁みつかせ、視点を本当に身体化できているか。 

 学校の玄関にはいったとき、教室のドアを開けたとき、そういう目になっているか、そういう耳になっているか、ということである。

煌言18~ムチも笛も

2016年01月28日 | 読書
☆ムチも笛も、一人の教師のどういう考え方と、どういう教育方法の流れや教育技術の体系(これをこそほんとは教育方法というのだが)の中に位置づけて使われているかということによって、はじめて批判の対象になるものなのである。「ムチ」だって、それ一つだけとり出して、わるいというのは、教育というものをほんとうのところで知らないしろうとだと私は思っている。
 大西忠治『授業つくり上達法』(民衆社)


 当然、「ムチ」「笛」のところには、様々な道具やまた指導言などの行為が入替可能として成立するだろう。
 「よくしたい」という願いのもとに行われる教育において、多種で万事な方法が全て認められるわけではないが、一つの流れの中で自覚的に取り扱われているなら、よくも悪くも教育的行為である。

 どのレベルで批判をするかが肝心だし、今はそのことなしに盲目的に退けられている方法が結構多い。

煌言17~正解は無限に

2016年01月27日 | 読書
☆正解は無限にある。学校などの教育現場は本来、社会の一般常識や秩序を教え込むものではない。仮にそうだとしても、ならばよけいに、
一、その常識や一般論や秩序を疑い、なぜかと追求し、
二、もしもを考えイメージし、
三、どうすればいいのか、もっと良くなるのかを考えていく
そうした場として機能していかなくてはならない。未常識や異常識があっていいのだ。

 宮川俊彦『桃太郎はいじめられっ子?』(草土文化)


 一つの問いから、いかに「無限」に近い回答を引き出せるかは、もしかしたら教師の力量そのものなのかもしれない。
 一般常識や秩序の価値をより深い位置で認めるためにも、もっと幅のある発想で子どもの思いや考えを引き出す。
 そういう視点の多様性を心がけていいのではないか。

 固く、細くなって、血管詰まりを起こすようでは大変だ。必要なのは弾力性。

続・桃太郎と私

2016年01月26日 | 雑記帳
 宮川俊彦著『桃太郎はいじめられっ子?』という本を再読していて、「桃太郎」は結構取り上げたことを思い出していたら、やはり「桃太郎と私」という奇妙な題名をつけて、ブログにも書き散らしていた。それを読みながら、一つ大事なことを忘れていることに気づいた。教科実践の一つとして、やったではないか。


 全国的に有名なのは「向山型国語」の要約指導ということになる。もちろん及びもつかないが、「なりきりインタビュー」という設定で記者会見のような形で、桃太郎に質問させる活動を開発したことがあった。発展としておじいさん、おばあん、鬼なども取り上げられるので、なかなか発展性のあるネタだったと思う。


 今、この『桃太郎はいじめられっ子?』を改めて読み、さらに面白い展開が思いつく。私が当初発表したのは中学年を対象として、まあ言うなれば「勧善懲悪」的なストーリーを脚色していくような流れで考えていた。つまり鬼退治の理由は、鬼を懲らしめ村人の平和を守るという類である。しかし、もっと深くなる。


 例えば、それをインタビューの質問の形で文章化してみると「桃太郎さんの小さかった頃の思い出は何ですか」「鬼退治にいくとき、どうして村の人たちは見送りにこなかったのですか」「持ち返った財宝はどうしましたか」と一見単純にみえる内容も、その答えは明暗両方で考えられる。暗い方がより実人生的になる。


 曰く、桃太郎は小さい頃から周囲にいじめられていた。それは桃から生まれたという出自に発する。従って鬼退治に村人の誰も協力しようとせず、見送りさえも行わなかった。そんな現実を抱えながらも鬼退治を果たし、財宝を持ち帰った桃太郎は、出迎えの村人を前に…。なんというドラマか。やはり桃太郎は面白い。

納得?の三冊だった

2016年01月23日 | 読書
 『ひなた』(吉田修一  光文社文庫)

 これも以前読んだのではないかと思いつつ、中古本を買ってしまった。読み進めるとやはりと思い当たったが、面白いのでまた読みふけってしまった。ストーリーはほとんど覚えていないが、気のきいたフレーズは「ああこれ」とすぐよみがえってくる。自分流の読み方とはこんなものだろうか。以前書いた感想メモは、ずいぶんと格好いいことを書いているなあ。この5年ばかりで弱ったのは体力ばかりではなく、正対する気力もそうなのかもしれないと嘆きモードに入る。



 『白ゆき姫殺人事件』(湊かなえ 集英社文庫)

 これまた独特な構成を考えたものだ。本文?にあわせて巻末資料?(事件に関わるSNSの投稿集、週刊誌記事など)を参照させるという手法だ。正直、ちょっと面倒でもあり、読み方(読む順序)が指定されている気もするし、そうしないと正しく読みとれないようで、少し違和感もある。異なる視点人物による語りを重ねていく形は得意技だが、今回ほどその人物が多いのも珍しい。犯人は意外な人物だったかというと、そうとも言えるし、十分あるなあと二重の納得をさせることもいつもの湊ワールドだ。



 『ニュースキャスター』(大越健介  文春新書)

 しばらく「NHK9時の顔」でもあった大越キャスターの書いた新書である。東日本大震災の起こった前後のことであり、特殊状況とも言えるが、ある意味ではキャスターの本質、王道といったことを考えさせてくれた。マスコミには一般視聴者のうかがいしれない部分は多いだろうが、それは何の業界にも言えるかもしれない。つまり「自分」をどこまで出せるか。ぎりぎりのところでせめぎ合う部分が一番面白い。そんな読みどころがあふれる本だった。文章もとても上手だ。

煌言16~道徳教育を引き受ける

2016年01月22日 | 読書
☆教師というものは、教師になることを選んだ瞬間に、いわば道徳教育を引き受けているのである。道徳教育について考え工夫することを恐れて避けるくらいならば、教師であることを止めるのが当然であると思う。
 村井 実『道徳は教えられるか』(国土社)


 「道徳教育について考え」ることを、まずどのレベルで行うのか。
 「必要かどうか」「教科にするか」「どう教えるか」といったことより先に、「意味があるのか」「可能かどうか」という本質を考えるべきだ、という点が著者の論である。
 それゆえの書名であり、そこをくぐり抜けることを教師の条件に挙げていると考えられる。
 
 「引きうける」ことと「教える」ことは同義ではないだろう。

想像は着地させるために

2016年01月21日 | 雑記帳
 今読んでいる新書に「想像力をたくましくして」という表現があった。取りたてて珍しいわけではないが、久しぶりに目にしたように感じた。また、自分がそんな言い回しをしていないことにも気づかされた。「想像力」という言葉は良く使っているのに、…が肝心とか、…を大事にとか、そうした表現で留まっている。


 「たくましい」とは「体格ががっしりしていて、いかにも強そうなさま」が第一義である。加えて「勢いが盛んであるさま。活力にみちあふれている」という意味もある。「想像力を…」と言った場合は、どちらを指すか。二つの意味にとっても良かろう。力の「結果」的なこと、そして「発揮」的なこと。両方通じる。


 従って「想像力」と「たくましい」という組み合わせは、実に的を射ていると思う。大きくする、広い、深いといった量的なことだけでなく、質的なイメージが付加できるからだ。そしてその質とはつまり、想像力を働かせたうえで予想される様々な対応、結果等についての受け止め方も含んでいるということになる。


 もう一つ、同じ本の中に「想像の翼を広げて」という表現もあった。これは朝ドラ『花子とアン』を思い出させるが、そもそもは『赤毛のアン』なのかな。この修辞も自分は使った記憶がない。ちょっと格好良すぎる気がするからか。「翼」もしくは「羽」からは、飛翔、浮揚のイメージがあり、空想・妄想的である。


 「想像の翼」という言葉を考えたら、人によってその大きさに違いがあるのか、何度も広げれば大きくなるのか、いやそれとも人によって骨格は決まっているのか、などと余計な想像に入る。もっと言うと一体どんな形状かと妄想が膨らむ。肝心なのは飛翔であり、そこから着地させることなのに…。着地はたくましさだ。

煌言15~教材研究は社会的行為

2016年01月20日 | 読書
☆教師は、さし当たりの自分の授業の必要に迫られて教材をつくる。ところがその教材は子どもの認識成立の法則性をすくいとっている度合いに応じて、つくった教師の個別的な作業の範囲をこえて、社会的共有物になるのである。教師の教材研究は本質的に社会的な行為である。
 藤岡信勝『授業づくりの発想』(日本書籍)


 「社会的な行為」といったことはあまり考えたことがなかった。
 しかし「子どもの認識成立の法則性」という点は、常に頭にあったように思う。
 例えば国語の読解であれば、よく野口芳宏先生が仰る「子どもの読みの限界」というポイントも深く結びついている。

 教科の違いを超えて言えることは、教材そのものと教授行為や指導言を、子どもの認識という糸で結びつけることが教材研究だろう。