すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

メモ下手男の決意

2013年07月31日 | 雑記帳
 「鍛える国語研究会」の提案授業に「メモ」が取り上げられていた。「話すこと・聞くこと」の学習の結構大きな部分を占める事項である。それはともかく自分はメモが下手だなあと常々感じている。例えばクイズなどでその手の問題が出れば、それなりに答えられるとは思うが、ふだんの生活ではからきし駄目だ。


 これは一体どういうことなのかと自己分析すると、注意欠陥障害傾向しかないだろう。整理下手もそこに関連するし…。多少自覚はしていたがもうこの齢となって改善は期待できない。せめて老化に伴ってその傾向が強くならないように気をつけねばならない。仕事に影響せぬように…なんだか悲しくなってきた。


 大正時代の版画の版元に渡邊庄三郎という人がいた。この庄三郎は「メモ魔」だったという。その日記が公開されて明らかになったらしいが、その特徴は100%行動の記録だった。「感慨や感想など感情を表現することがない」のである。これは文学の洗礼を受けなかった明治人だったからという論を読んだ。


 日記以外の無数のメモも見つかったらしいが、何の目的だったか謎はしばらく解けないままだった。そのうちに「英語修業」という鍵が見つかり、取引のために、ひたすらに書き留めていた習慣がそうさせたと結論づけられている。日本語も英語も書きつけることによって記憶するという、学びの基本がそこにあった。


 録音していたラジオデイズの番組「大瀧詠一2012」を聞いていたら、知識の記憶は自分の中に入っていることが一番遣いまわしがいい、というごく当然の言葉がやけに新鮮に聞こえた。整理のためにメモを取ることはあきらめるか。書きつける行為そのものに意味を見い出し、知識や情報を内部に取り込むと割り切れ。

〈あいだ〉を面白がる心

2013年07月30日 | 読書
 『教師をどう生きるか 堀裕嗣×石川晋』(学事出版)

 勝手にこの本の読者層を予想してみれば、端的に二人への興味がある人たちだろう。自分もその一人で双方のブログを愛読している。長く読んできた経緯があるからか、本文中の呼称(さんづけ)がどうもしっくりとこない。石川さんもあとがきで触れている。この表記は結構読みの流れの障害になってしまった。


 それはともかくこの対談が書籍化され出版されたことは、現在の二人の影響力の強さを表している。私のように数年後に「教師」でなくなる読者は少数だろうが、この対談から何かを得て自分の生き方を振り返る中堅・若手教師も少なくないはずだ。そしてそれは「役立つ」という視点でないことも明らかである。


 当然ながら学校教育現場そして多くの教師への問題提起になっている面がある。石川さんが語ることは、年々閉鎖的な傾向を強める現場の断面を見せつけているし、堀さんの職場でのあり方には、疲弊した制度に対する強い揺さぶりを感じる。漫才ではないが、結果的に両ツッコミ型。語り口が対照的なので飽きない。



 二人に共通する下地は文学だ。単著でも示されている。対し方は大きく違うが、それが根にある危うさ?は共に自覚されている。文学に近づけなかった自分が生意気に語れば、二人の違いはどの程度のスパンで現実と対しているかによって顕わになっている気がする。GPSのように自らの位置を把握しながらである。



 一読後、堀さんの書いたまえがきを読み直す。「《あいだ》を生きている」という意味の揺るぎなさは、この本の広さや深さを表している。「わかる人にだけ伝われば良い」とつきはなしても、その《あいだ》を覗きこみたい人は多い。自分もそうだ。まずその《あいだ》を面白がる心が肝心で、出発はいつもそこだ。

限りある時間の決意へ正対する

2013年07月29日 | 雑記帳
 花巻での「鍛える国語教室」研究会全国大会に参加した。いろいろな意味で刺激的な会だった。初参加ではあったが事前に役を仰せつかり,テーマである「学習用語」について一定の復習ができた。そして協議等を通じて今何が問題なのかを自分なりに消化できたように思う。忙しくもあったが充実した期間だった。


 大会のメインは児童対象の提案授業5本であった。力量のある教師が花巻の子どもたちを相手にそれぞれの提案を実際の場で見せてくれるのだから,面白くないわけがない。それにしても飛び込みでしかも30分の時間制限,領域と対象学年が示されたのみで,授業構想をするには決意の強さが必須だろうと感じた。


 宿泊先のホテルで前夜の酔いが多少残ったまま,早朝から風呂に入る。文庫本を携えてくるのを忘れ,仕方なくバスルームに持ち込んだのは指導案(笑)。大会の資料ではなく,昨日参加した元同僚から秋の研究会用の素案として手渡されたものだ。当然彼女なりの思いはあろうが「これは長すぎる」と感じてしまう。


 9時間の指導計画を長いと思ったり30分の提案授業をもう少しあればと思ったりしている。しかし考えてみれば,「限りある時間」に,何をどんなふうに示すかについて,当事者以外があれこれ思うことは勝手ではあるが,それをどのように口にするか,その点を疎かにはしてはいけないと今さらながらに思う。


 研究会等の場合,多くはどんなふうに示すかが議論の対象だ。その出来上がりがどんな背景を抱えて,どんな願いを持っているかを知りたい。もしかしたら提案者さえ気づかない,自覚していない思想や心理が潜む場合もある。そのあたりを注意深く根気よく聴くことこそ「限りある時間」の決意への正対ではないか。

自らの質を自らの文で

2013年07月27日 | 読書
 ある本を読んでいたら論語の一節があり、その訳がちょっと気になった。

 「質がよくても文(あや)がなければ一個の野人に過ぎないし、文は十分でも、質がわるければ、気のきいた実務家以上にはなれない」

 しらべてみたら、次の原文があった。

 子曰、質勝文勝質則史、文質彬彬、然後君子、

 気になったのは「文」である。
 「質」と対比されているので、おそらくは外面的なものと予想して、辞典を調べると「文・綾」と表記されていて「模様」という意味があり、それが表面的な様子ということにつながるのだろうと解釈した。

 「文」は象形文字のはずと思って、漢和辞典に手を伸ばす。

 「大漢和」では「土器につけた縄文の模様のひとこま」としている。
 「常用字解」では「正面を向いて立つ人の胸部の入れ墨」がもとになっているという解釈である。

 いずれにしても、美しいかざり、紋様に集約されるようだ。

 辞典を読み込んでいくとなかなか面白い。

 「大漢和」の①は「あや・きれいな模様」として対語として「質(実質)」とある。
 ②「きれいにかざったさま」も同様であり、③では「かざる」という動詞になっている。
 その後「もじ」「ふみ」と現在よく使われている意味となり、⑥では「武に対して文といい、文化や教養学芸など。転じて、荒々しくなく、おだやかなさま。」となる。

 この流れで考えてこじつけてみると「質」は「武」に近い。

 それは人間の本性だから?

 さらにこじつけると、人間の歴史は戦いの連続だったから。
 自然との戦い、他動物との戦い、人間同士の争い…。
 質としての武は、今ずいぶんと様相が違うのだろうけれど、結局そのバランスを保てないと、人類は危うい。

 えっ、何をそんなに大げさになっているんだろう。

 かの論語は、いろいろな人が語るように、個人にあてはめれば次のようなことだろう。
 あるサイトから拾ってみた。含蓄がある。

 自分の中に蓄えた物を自らの望む形で表現する、内面・外見ともにバランスよく充実させなければいけません。

寒天でつながる

2013年07月26日 | 雑記帳
 県が発行している『のんびり』という季刊誌(フリーマガジン)を愛読している。
 No5は「寒天」の特集。

 これはもしかしたらあのケンミン番組で紹介された「サラダ寒天」の流れかなと邪推したが、読んでみるとそうではないらしい。

 創刊号から「秋田のスイーツ」として特集が組まれ、なんと「寒天博覧会」なるものを企画していたので、結構骨太な特集である。
 第2回の寒天博覧会の様子から、寒天の産地である長野の企業取材、そして読みどころは「寒天を流すということ」と題された第3章のインタビューだった。

 寒天博覧会の実施を「生きていてよかったです」と受け止めた照井律さんという方へ、いわばその「寒天人生」について語っていただいている。
 農家に生まれ、小学生の頃から家の手伝いや親の看病にかかりきりだった律さんの、食に対する興味関心が寒天と結び付く景色が見えてくるようだった。

 秋田では「寒天をつくる」では「ながす」という表現が使われていたが、それは涙や辛さを流すことに通ずるという件は心に沁みた。地域や時代を背負ってきた食文化の一つであることには違いない。
 編集者が「辛さ、厳しさを美しく昇華させたものが寒天」というまとめは、やや美しすぎるような表現だが、そういう面があったことは否定できない気がする。


 思い出すのは我が祖母の羊羹づくりである。

 成長するまではそんなことは感ぜず、その味に目覚めた頃はもうあまり作れなくなっていた。しかし幼い頃、じっと一点を見つめ鍋の餡をかき混ぜる横顔はかすかに思い出せる。
 その絶品の味は、どこかにその暮らしが昇華されていたと言えるだろう。


 さて、もう一つ感動的なのは、生産地長野の会社から熊沢さんという方が見えられて、最後にスピーチをしたことだ。

 天然寒天と工業寒天の二種類を作っているが、その作業には大きな違いがある。伝統製法はなんと170年間変わらないのだという。

 秋田は天然の棒寒天を使う率が高く、その感謝を述べながら、泣いている。
 熊沢さんは最後にこう言う。

 本物の価値観っちゅうのを大切に感じてもらえる人がいるっていうのは自分にもすごい支えになります

 こういうつながり方は、文句なくいいと思う。
 『のんびり』の企画を今後も応援したい。

「みがく」はそこから始まると

2013年07月25日 | 雑記帳
 今年はあまりテーマを絞り込まなくともいいのではないか…などと相談して「授業力をみがく」という言葉に決めたのは5月頃だったろうか。

 8月2日の会が近づいてきて改めてこのテーマを見直すと、なんだほやっとしすぎたかと不安が出てくる。
 もちろん講師の照井孝司先生、堀裕嗣先生のお二人の力量は文句なしなので、内容面は一つの心配もしていないのだが、受けとめる側(まあ自分のことなのだが)の構えはしっかりしているのか、と思ってしまう。

 「授業力」については何度か書いているはずだなあ、と自分の集約をめくってみた。
 前任校では「授業力向上セミナー」と銘打って外部講師をお招きし、何度か研修会を催した。しかし「音読」「聞くこと・話すこと」などと個別のテーマが主だった。


 遡って、その前の学校ではどうか…と見ると、平成6年の秋に上條晴夫先生をお招きして「授業力の向上」というどんぴしゃりのテーマを掲げて実施している記録があるのではないか。

 ふむふむ。
 当時の職員を中心とした参加者の感想をまとめながら、最後に私が1ページほどの文章で総括するという形でまとめたものだった。
 三つの項目立てをし、次のような小見出しをつけていた。

 授業力を向上させるには「ふりかえり」が必要である

 授業の型を意識することは、「育てる学力」を意識することである

 授業行為の意味づけを探ると、ポイントが見えてくる


 ちょっと漠然しているが、上條先生の講話に正対したまとめだったと思う。


 もう少し遡ってみると、教頭時代に研究紀要のあとがきとして、当時(03~04年頃)教育雑誌等に流行語のように登場していた「授業力」を取り上げて書いていた文章を見つけた。

 そこでは広義の解釈と狭義の解釈があるとし、狭義に近い「指導技術力」に関わるあれこれとして「授業評価指標」「授業診断シート」「授業技量検定」などの考え方を記している。
 羅列的な構えによる見方の硬直さを不安視しているところなど、我ながら思い切って書いたではないか。
 ただ、一つ一つの授業行為とそれを支える要素の意識化が授業力向上の鍵だとまとめたのはいいが、その後ピックアップが継続されなかったのは怠慢か。


 そのページで広義の授業力解釈の例として、志水廣氏の言を紹介している。

 教材把握力×子供把握力×指導技術力×精神エネルギー

 そういえば、と思いだしたのが、今回の講師である堀先生が著書に書かれていたこと。

 授業づくりには教師の仕事のすべてが凝縮されているのです。

 今回の講座、参加者がこの一文を、どれほどの実感を持って受け止められるか。

「みがく」はそこから始まると結論づけた。

「H&D問題」対応から考える

2013年07月24日 | 読書
 「H&D問題」と書くと、何か話題のTPPにでも関係するのかと思われそうだが…。

 久しぶりに買ったビジネス誌は健康がテーマだった。

 「死んでもいいから、健康でいたい」というほどの健康オタクではないが、自称書斎派健康人(笑)として知識は仕入れたい。

 その雑誌に、楠木建さんという大学教授が「我、H&D問題とかく戦えり」という文章を書かれていた。

 「H&D問題」とは「H&D(ハゲ&デブ)問題」。
 人によっては重大かつ深刻な問題である。楠木さんは「猛攻撃」の総称としている。
 そして、その対処の発想法が面白い。

 「H問題」について、マッサージなどの「防御」をしたり、育毛剤の使用を考えたりしたが、結果「攻撃は最大の防御」に気づく。
 電気バリカンを持ったのである。
 つまり丸刈りである。
 これによって様々なメリット(小顔?爽やかさアップ、コストダウンなど)が生まれたという。

 一方のD問題は、ダイエットという防御によって成功はしたものの、加齢による進行は妨げられず、これもジムに通い身体を動かす「攻撃」に転じ、数々のメリットを得たという。

 単なる言葉のアヤと言うなかれ。楠木さんの主張はこのタイトルに集約されている。

 制約や弱点を受け入れることで、強みに気づく!

 制約や弱点は克服の対象とされるが、敵対視するのではなく、まずは受け入れる。その受け入れる過程を通じて「思いがけない機会や強みが潜在している」ことに気づくことがあるのかもしれない。

 これは仕事の現場においても同様だ。
 常に乗り越える、克服すると真正面からの取り組みではなく、視点をずらしたり変えたりすることの重要性を語っている。
 昔「逆転の発想」という言葉が流行したときがあったが、それに似ている。

 ここで取り上げられているのは健康問題。そのことに億劫がらず取り組むには「面白がる」ことが大切と楠木さんは書く。
 しかし、マイナス面を面白がるに結びつけるには、健康に関わらずきっと多少のコツが必要だと思う。
 基本は、小さなことから、達成感を得て…といったことになるのか。


 さて、私自身はH&Dの傾向がないとは言えないが、攻撃と称するほどの危機感は持っていない。
 では健康問題としては何か…「R&S問題」かな。

 「R&S問題とはR&S(老化&ストレス)問題」

 いや、これは駄目だ。老化に「攻撃」を仕掛けるとすると「死」になってしまうではないか。ストレスはどうか。これも攻撃と考えると、何かやたらと怒鳴り散らしそうだ。

 問題の立て方は極めて限定的に、具体的に。
 例えば「U&S問題」をU&S(運動&睡眠)とかね。
 これも一つのコツだろう。

呼び水となる声を

2013年07月23日 | 雑記帳
 夏季休業初日、職員室の机上を片付けていると未読の小冊子があった。教育関連団体の発行するパンフのようなものである。一応ページをめくってみたら、巻頭コラムを安彦忠彦氏(名古屋大学名誉教授)が書かれていた。「私教育の再生を可能とする政治を!」と題したわずか1ページの文章だったが、共感した。


 氏は長く中教審委員の任を務められた。そこで議論する「教育」は漠然としすぎると批判している。具体的には「私教育」と「公教育」の区別の問題である。「自由に議論を」という方向によって議論が拡散してしまうと述べられている。この指摘は、論議の場だけでなく、現場においても顕著であることは明らかだ。


 氏が危惧するのは、私教育をカバーする形で学校などの公教育が推進されれば、ますます家庭や地域は教育的な関心が希薄な社会になるという点だ。頷ける。私たちが善意で、あるいは無意識にしている働きかけはその観点から言えばどうなのか再考してみる必要はないか。もちろん、課題はかなり絡み合っている。


 「私教育」の質の低下は論を待たない。それを補うことはある面で必要だろうが、質の低下を止め、向上を目指すことが本質であることを忘れてはいけない。当然それは政治の仕事であり、氏が言うように保護者や地域住民の時間的な余裕、心理的な余裕つまり経済条件や勤務態様などの問題が焦点になってくるだろう。


 社会を変える仕事は教員の直接的な任務ではない。しかし教育に携わる者としては、あるべき姿を意識して現実を直視していきたい。安彦氏はこう言う。「教員もそのための呼び水となる声を周囲の大人に向かって挙げなければならない」。自分の声が呼び水となっているのか、慎重な見極めをするべき時期である。

物語の発想を当てはめれば

2013年07月22日 | 読書
 『オー! ファーザー』(伊坂幸太郎 新潮文庫)

 ずいぶん前に新聞連載された作品らしい。
 10年に単行本,そして先月文庫化された。

 物語は「4人」の父親と一緒に住んでいる高校生が主人公。この設定も,会話のこ洒落た感も,読みだしてすぐ「ああ,伊坂だなあ」と思うが,最初は会話文の連続が多い気がして,正直若干読みにくさを感じた。
 新聞連載という関係もあるのだろうか。
 それはともかく,いつものようにエンターテイメントとして最後まで楽しめた。

 1人の母親に父親4人という,この枠組み自体は似たような話もあるようだが,キャラを立たせる名人の伊坂にまたぴったりという気がした。
 またいつものように,惹句,警句の類はたくさんあるが,今回は父親の一人,大学に勤める「悟」の人生論?が面白い。
 頭の良さを「発想力」「柔軟な考え」といい,次の台詞が結び付けられる。
 
 「人間っていうのは,抽象的な問題が苦手なんだ。抽象的な問題から逃げたくなる。そこで逃げずに,自分に分かるように問題を受け入れて,大雑把に解読しようとすることは大事だ。」

 そのためには「大雑把な数値」を知っていればいいと言う。
 この発想はいろいろな場合に当てはまるだろうと予想できる。

 さて,物語はまた多くの結末と同様,痛快さを感じさせながら閉じられるが,いつかこの人物たちが,どこかで登場すると思うと,楽しみでたまらない。
 新刊に出ているということも解説に書かれてあった。


 その文庫版解説を書いているのが島田雅彦。
 「最後に…」と記された数行が手痛い現実を知らせてくれる。一部だけ引用する。

 教育の場で最も求められることの一つは「世の残酷さ」「現実の理不尽さ」に向き合う勇気を与えることだと思う。

 多くの人が理解しているが,現実場面で一番通用しないことでもある。

週末のさえずり

2013年07月21日 | 雑記帳
 金曜朝,一つ気がかりだったことが前進した。物事が進むためには様々な要素が絡み合い,表面化するまで少しの不安を抱えながら待つことになる。しかし,肝心なのはそこから目を離さないでいることだと思う。ひどく感情的だけれど,思いは届くと信じたい。ちょうどその朝,5月に鉢植えした綿花が咲き出した。


 金曜2校時。久々の授業。5年生相手に物語文の読解を行った。しばらくぶりなので授業勘はにぶりまくりで,とても及第点ではない。だから残念という気持ちは大きいがいくらかの充実感もある。それは何かといえば子供の真っ直ぐな視線や,応答によって出てくる声が形づくってくれるのだと思う。いい仕事だ。


 『総合教育技術』誌が結構骨太の特集を組んだ。「安倍流『教育再生』徹底検証」。8人の論客,識者に語らせたが,巻頭の特別寄稿は内田樹氏だった。「懇請」して政策や今後の推移について氏に書かせた意図は,なへんにありや。「刮目して読むべし」とある。おそらく唯一外交という視点で語っているからか。


 糸井重里の新刊『ぽてんしゃる』を注文したらおまけがついてきた。エアープランツと称され,土を必要としない植物らしい。「チランジア・ウスネオイデス」という正式名称で,検索すると結構ヒットする。どこまで育つものなのか。なにしろ「ぽてんしゃるな植物」として特典に採用されたわけだから。楽しみ。