すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

減らすことなかれ

2010年12月31日 | 雑記帳
 メモ程度に続けている日記をめくってみても、今年は昨年ほどに印象深いことはない。

 もちろん、その実よく振りかえってみれば、自分を取り巻く環境の変化が確実に進行していることを認めざるを得ない一年なのだが(まわりくどい言い回しだが、要は齢をとってきたという当たり前のこと)、それらをあまり直視したくない気持ちが大きいのだろう。

 さて、今年は結構な冊数の本を読みきった。実は「再読」をめあてにしていたが、結局三十数冊程度に終わった。しかしそれ以外に百冊はクリアして、ここ数年ではかなり順調な読了だった。ただ読み方が益々雑になる感じもしている。
 雑誌なども含め読んだ中では、この言葉のインパクトが強かった。

 総記録社会 

 東浩紀が、『本』(講談社)に連載している「一般意志2.0」の中で提示した。ネットの普及により私たちの行動や欲求など全てが記録されているという現実。それは本人の意識を超えて広がっていることに注意深くならなければいけない。

 無意識の可視化装置としてのネット

 直接的な閲覧や検索や投稿などはもちろんのこと、生産や消費にかかわる行動はどこかで関わりを持ち、全て極細粒の意志としてネットの中に吸い込まれていくことを認めざるを得ない。
 だからこそ、もっとメディアリテラシーを学ぶべきだし、想像力を意図的に強化していく術を身につけねばならない。

 ではまず何から…と問われても、はいっこれっとすぐ差し出すことはできないのだけれど、今年はまったものの一つに、これがある。

 五本指ソックス 

 以前から知ってはいたモノではあったが、初夏のある日、六年生のある女の子が履いていたのを見て、やや衝撃を受けた。
「へえー、こういうのを履いているんだあ」
と驚いてみせると
「だって、気持ちいいですよう」
という返答。
 その明快さに、ちょいと試す気になって購入してみた。
 これがこれが、なかなかどうして。
 水虫が心配な夏も快適に過ごすことができて、本当にマイブームとなった。

 だからそれが何か?と言われそうだが、要するに、ここだ。

 身体的検閲 
 
 身体というフィルターを通すことにもっと意図的であろう、と思う。
 きっともう遅すぎるのかもしれないが、様々な感覚は、自分が見聞きし触れ、声に出し舐め、持って振り回して、叩いて撫でて…得られるものだという、ごく当たり前のことを…。減らすことなかれ。
 
 今年最後の本は『街場の大学論』(角川文庫)。
 いやあ、高等教育のことの多くは???だったが、非常に興味深く読める箇所も随所にあった。
 内田教授が「言葉」に対して用いた身体的検閲を強引に引っ張ってきて、今年の締めくくりとしたい。

 今年もたくさんの方々に訪問していただきました。
 ありがとうございました。

年末、こんな結論があるか

2010年12月29日 | 読書
 整理法や健康法など、実践できないからこそ本を読んで知識を得た気分に浸る?のが好きな自分である。

 『疲れない体をつくる免疫力』(安保徹 知的生きかた文庫) 

 加齢による健康不安が大きくなっているこの頃、なんとなくこの手の本にも手が伸びる。
 どこかで以前読んだようなものもあり、実践していることを見つけるとそれだけで少し健康になったような気になるから不思議である。

 食事や運動、生活リズムなど様々な習慣について、まあ予想されることが多かったのだけれど、一つ、とても面白いことが書いてあった。

 たまには「体に悪いこと」をしてみる! 

 健康法を実行したり、生活習慣を固く守ったりすることはいいことだけれど、それに固執することなく、飲みにいって羽目をはずしたり、二日酔いになったり、夜更かしする日を作ったりすることも必要だというのである。
 「免疫学の世界的権威」がこう語るのである。そして根拠としてこんな言葉があるから心強い。

 何か負荷がかかって、そこからリカバリーを図る時に、体の機能がより強く鍛えられる。 

 だから、精神的ストレスもいい、風邪にかかるのも悪くない、そういう論法だ。

 なるほど、規則正しいことへの慣れによって強さは作られていくのだろうけど、時にはそれを壊すことによって再生させ、本来持っている力、眠っている力も時々発揮させてみる、というイメージか。

 うーん、素晴らしい。こうした大らかさが大事なんだねえ…と思ってみたが、ああそうしたら、最近とみに「体に悪いこと」が出来なくなっている、怖がっている自分とは…、そんなことを思ったら少し情けなくなってきた。

 ようし、来年はどんどん体に悪いことをしよう。

 こんな結論があるか。

間、声、顔~M-1

2010年12月27日 | 雑記帳
 今年もM-1を真剣にみた(笑)。
 http://asahi.co.jp/m1gp/
 最終の大会というが、そろそろ潮時という感じもたしかにする。

 それはともかく、今回はなんといっても、スリムクラブに尽きる。

 ネタの不条理さは新鮮だし、なんといってもあの「間」である。
 審査員の松本人志はこう言った。

 「時間がもったいなくないのかなと思いました」  

 4分間の枠の中で次々にネタを繰り出す他のコンビと比べ、明らかに異色だった。しかし、それはそもそもそういう手法があったということを、みんな忘れていたのではないか、とも思わせるものだった。
 かつての漫才は、確かにもっと間があった。
 B&Bや紳竜のあたりから、しゃべくりのテンポが速くなったのだったかなあ、

 さて「間」の威力を考えてみる。

 その空白に様々な想像が行き交うように、設定とやりとりする言葉を位置づけることによって、あれっ何か変でしょ、どういう展開になるわけ、それってありなの、そうきたかあ…等々を、視聴者に存分に提供している。
 とでも言えばいいか。

 もちろんスリムクラブには、その間に加えて真栄田の独特の声質、内間の平凡さ、二人の対照的な顔立ち、対面する角度…なども要素として加わるだろう。
 
 このスタイルはなかなかで、ちょっとはまりそうな予感がする。

 いずれにしても、笑い飯がグランプリに輝いたことに文句をつけるわけではないが、決勝に残った三組がいずれも別ネタだが同パターンでやったことに、M-1自体の限界を感じる。

 つまり、審査員のつける高得点ねらいになってしまったのではないかということである。
 その中で決勝ネタが予選水準と同等かそれ以上だったのは、スリムクラブだけだった。

 と私は思うのだが、それもエンタ以外では初めてみたからという理由だけなのかもしれない。

現場で人を耕すということ

2010年12月24日 | 雑記帳
 一年に一回買うかどうかの『文藝春秋』誌(2011.1)を、なんとなく手にとってみたのは先週だった。
 特に読みたい記事があるわけでもなかったのだが、たまたま他に目につく雑誌がなかったということだろうか。

 パラパラめくって、いくつか興味のわく記事があった。その一つに「引きこもりの僕を変えた松田優作」がある。
 書いているのは、今まさにその存在感の強烈さでは屈指の俳優とも言える香川照之。

 最終的には、近々放送されるNHKドキュメンタリーの紹介文のような内容だったが、なかなか読ませる文章だった。
 松田優作と香川が出会い、その付き合いはわずか二カ月という期間だったが、きっと香川にとってエポックメーキング的なことだったのだと思う。

 やや神話化されている松田優作の存在は、もしかしたら複数の俳優の心の中に生き続けているのではないかと予想される。当時は若くよく見えないままだったことが、齢を経て明確になり、自分の存在感も増しているような、そんな役者は香川の他にもいるのではないか。
 香川はけっこう言葉の使い方が巧みのように感じるし、その点で語り手として適任だったのかもしれない。

 こんな文章がある。

 優作さんがやっていたような、現場で「人を耕す」、いわば精神的な耕作こそ、自分が同じようにやらなければいけない作業だと感じています。 

 あの『龍馬伝』を取り上げ語ったいくつかの番組で、香川が主役である福山を実によく持ちあげていた?理由の一つに、それがあったのではないか、そんなことが思い浮かんだ。
 そしてまた、自分の仕事もかくあるべきと一つ学べる言葉である。

 さて、22日に放送された当の番組は、制作面では今一つの切り込みが不足のように感じた。
 http://www.nhk.or.jp/tamago/program/20101222_doc.html

 最後に香川が松田の写真を前に独白するシーンがあった。

 「ゼン…ゼンテキな責任をもって~~」 
 という言葉に、おそらく「全的」だろうと思いつつ、もしかしたら「善的」もありうるかと頭をよぎる。

 悪のイメージも強い松田だが、スクリーン以外の姿を語る人々から、そんなふうに連想させる言葉が数多く出されている。

豊かな時代の教育論

2010年12月22日 | 読書
 『「家族」を考える』(田下昌明・野口芳宏 モラロジー研究所) 

 モラロジー研究所の主催した家庭教育シンポジウムの記録である。二人の講師の講演、そしてトークセッションという内容となっている。

 小児科医田下氏の論は実に明快。最初に「子育てには三つの育児方針が必要」とする。何気なく読み過ごしがちになりそうだが、育児に「方針」という確固とした言葉を組み合わせる意味をよく考えねばならない。
 三つの問いかけに対して、しっかり自分なりの答えを出しておくことと言う。
 
 一、子供は誰のものなのか。
 二、何のために子供を育てるのか。
 三、どんな大人になってほしいのか。
 

 漠然とではなく、明確な言葉として口に出してみることから始まる。

 胎教、インプリンディング(刷り込み)、アタッチメント(愛着行動)、そして「抱っこ」の大切さ、とどれも医師らしく説得力がある。
 
 そしてここまではっきり言い切られると気持ちがいいほどである。

 しつけとは「お母さんの言うとおりにしなさい」と言うことです。 

 母子関係の重要性をこれほど端的に表している言葉はなかなか見つからない。


 さて、トークセッションでの野口先生の発言に興味深いものがあった。(先生の場合、講演以上にこうした質疑応答に実に触発されることが多い…自称マニアの弁)

 「豊かな時代の教育論」とは何なのか、ということが未だに明示されていません。みんな貧しかった昔の教育論を、この時代にそのまま当てはめようとしています。 

 先生自ら「時間を無駄にするな」「勤勉であれ」と語ることを、「貧しい時代の教育論」であることを認め、それだけではいけないと、常に前進的な、未来志向の考え方をなさっている。
 もう、さすがとしか言いようがないではないか。

 そこで、先生なりの「豊かな時代の教育論の鉄則」を提示するわけだが、それは…。
 自分なりに消化してから、いろいろと考えてみたい。

三つの世界にはまる

2010年12月21日 | 読書
 『解剖学個人授業』(養老孟司・南伸坊 新潮社) 

 私にとっては結構難解な本だった。
 しかし、妙にはまる箇所が出てくる本でもあった。

 自分の内なるテーマ(なんかカッコイイぞ)に、「名づけ」があるのだが、その部分にビビッときたのがここである。

 名前をつけることは、ものを「切ること」なのである。 

 解剖という観点で「切る」と物騒な言葉が出るが、確かにそれはそうと納得できる。どこから頭でどこからが頭でないか、それは切ってみることである。
 つまり、解剖とはそうやって切り続けることなのか。
 それが「学」となるとどうやって成立するのか、私などは皆目読みとれないが、何か南伸坊は楽しそうだ。

 第13講で紹介されていることは刺激的だった。
 「世界1 世界2 世界3」と題されたのは、哲学者カール・ポパーの考えを引用したものだが、実に心に沁みた。
 ごく単純に言うと、世界1は事物の世界、2は意識の世界、3は表現の世界ということ。三つの分類によって何か解決できることがとたんに増えた気がするから、不思議だ。

 自分が時折だが長い間ずっと抱えていたことを養老教授が「ごくふつう」と言い切ってくれたので、嬉しいというのもある。

 あなたの見る「赤」と、私の見る「赤」が同じ見え方をしているという保証はない。

 この「赤」は世界2である。その評価は世界3の場で行われる。共有できるとすれば世界3なのだが、個の持つ世界2,3の相違はそう簡単に刷りあわないということ。

 喧嘩や論争、様々な紛争なども結局はそこ。この本は90年代後半に発刊されているから、ああ『バカの壁』もそこから来ているかあ、と今さらながらに気づく。

 それにしても、今自分がいることを、世界1、世界2、世界3と分けてみると…これまたいろいろと考えることができて面白い。
 今日は、朝からそんなことばかり考えていた。

通信発行はあれこれ抱えている

2010年12月20日 | 雑記帳
 11月に花巻での「鍛える国語教室」に参加した時、「はがき新聞」の実践発表があり、興味を覚えた。
 その時に理想教育財団の名前が挙がっていたので、先日検索して探したらずいぶんと学級通信等について様々な活動をしていることを知った。

 『通信づくりハンドブック』という小冊子がもらえるというので申し込んでみた。
 通信発行は、自分の仕事のなかでかなり大きな位置づけである。サークルをしていた頃は何度か論考めいたことも書いたし、雑誌に実践掲載もしたことがある。自分の中ではかなり考えが固まっている領域と言える。

 そうはいっても、今回いただいた冊子に書かれていることには納得することが多かった。
 「通信活動の可能性とは」と題して、吉成勝好という方が執筆されている。
 吉成氏は通信活動に「学校の中に『肉声』を回復すること」という意義づけをしている。もちろん、それは通信の形式、内容に関わることである。
 「肉声」という括りは難しいが、それはともかく出したらよいのだ、というのが私のスタンスである。

 通信の記事を通して、発信者の教育者としての「目」「感覚」「価値観」「教育観」が、白日の下に晒されるということを意味しています。
 まさしく自己を「開く」行為です。

 
 通信による自己開示ということをずっと考えてきた、そういう手段を用いてきた自分には心強い言葉だ。
 同時に、畏れなければならない言葉でもある。

 通信発行の目的を「双方向性」とする文章は多い。この吉成氏もその点は強調されている。
 しかし現実にはなかなか難しいことだし、何をもって双方向であるかは判断が難しいとも言える。

 ある意味で、ここは割切って「教師理解を進めてもらおう」という気持ちではどうか。もちろん、どういう記事を通してそれがなされるかがポイントとなる。
 一つには授業であり、一つには子どもの様子や作品であり、また教育に関わる様々な出来事も入ってくるのではないか。
 吉成氏は危惧している。

 制作者の自己満足や活動証明に終わるだけの通信 

 こんなふうに評価される危険性は絶えずつきまとう活動である。
 それでもなお続けなければ、見えない、高まらない力はある。

 通信発行はそんなあれこれをみんな抱えている。

決戦?の金曜日

2010年12月18日 | 雑記帳
 昨日はずいぶん稼いだ(この表現も今どきなんか変だが)気がする。

 仕事が溜まってあわてていることを書いたので、一気に挽回と学校についてから早速やるべきことをリストアップしてみた。
 全部で10項目ある。大まかに内容の予定もメモしてみる。

 これをこなしたら、ずいぶん来週が楽だろうなあと思いながら、気を引き締め今日は集中に徹しようとデスクに向かう…ところが、傍らにある総合教育技術誌1月号の「国語の秋田」という表紙が目について、ついつい15分ばかり時間を費やす。

 いかんいかん、二時間目は2年生の国語、辞典の指導を約束していたではないかと、ちょっとした準備に入る。

 大型テレビを使って提示する導入なので、機器のチェックなどをしてから、授業を始める。やる気満々の2年生と楽しい辞典の導入授業が終了。

 休憩時間もお茶を一飲みだけで、さっそく事務的なことから取り掛かる。まずは事務局的な仕事で依頼されている三つの原稿を軽く仕上げメール添付で送信。
 さあ、次は校内文集やPTAの巻頭言、校長会の随想原稿に取り掛かろう。

 ということで、まずはPTAの方に野口先生のことを書く。書きたいことがいっぱいあるので削るのに苦労しながらも、第一稿完成。

 次は校長会。これは『我が村』ネタがいいだろう、字数があんまりないから楽だろうと思いきや、あまりにも少なくて紹介だけで終わってしまう。来客3名あり。あちこち押印したり、途切れながら悩んでいる。ここでお昼。
 歯磨きしながら考えた。結局、自分が言いたいことは何か…そう、昭和11年にこれを作成した人たちの心だよ、と納得して納めることができた。

 校内文集は「書く」をテーマに子どもも読めるように。結構言葉の使い方に悩むが、本当の読者イメージは少し成長したときの子どもだ。なんとか完了。

 もうこの時点で3時近いではないか。コーヒーブレイク。

 数日前から教委に依頼されている次年度の交流学習の計画を、先日の話し合いをもとに文章化、そして細々とした予算のことなども希望をまとめてみる。かなり集中してやったつもりだが、やはり90分はかかったようだ。
 もう外は暗い。

 あっ、ブログをあげなくては。
 2時間目の様子を担任が写真にとっているはずなのでデータを拝借して「国語辞典となかよしになろう」と題して作成に入る。
 スナップは学校ブログで↓
 http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-391.html
 ここで5時半は過ぎる。もちろんまだ多くの職員がいて、通信簿作成の真っ只中だからか仕方ないか。
 少し、和みの話題をふってから、5時50分退勤。

 途中で教委によって、完成した書類を届け、次週の相談を依頼する。
 はいっ、業務完了は10項目中8でした。

 でもなかなか頑張った金曜日であったではないか。
 家に入り、コートを脱ぐときにポケットに手を入れると、腰に貼るつもりだったホッカイロが出てきて、思わず頬が緩んだ。

気がついたら師走気分

2010年12月17日 | 雑記帳
 気がついてみたら、大変なことになっていた。

 実は今週に人間ドック(宿泊)を予定していて、ということはつまり自分としては少し余裕のある週だったはずなのだが…いつのまにか、かなりの仕事量が溜まっていることに少し唖然とした。
 身近な親類に不幸があったことが確かに大きな原因だが、それ以上に段取りする思考にならず、あれこれと無為に過ごしたように思う。
 
 来年度の人事にかかる面談が日程変更になり、やむなく人間ドックを変更。その時点ではなんとも思わなかったが、もしかしたら気持ちの中で逆に二日間仕事ができるなあ、などという余裕めいた気持ちになっていたのかもしれない。
 そこに叔父の訃報があり、婚礼のご招待もあり、と実にバタバタしながら、学校にいけば毎度のことであれこれするうちに、締め切りの迫っている原稿などが次から次へあることを、ふと昨日思い出した。

 校内関係が2本、校外が3本ある。それに加えて事務的な処理をして送付するのが2本。次年度の計画立てで教委より依頼されていることが一つある。
 これらを全て来週中に仕上げることになる。

 そうそう、と思い出したように書くが、実は気になっている二年生への辞典の授業を今日予定している。
 昨日はある出版社から雑誌原稿依頼があり、締切はまだなのでOKと軽く返答したが、いいのかオイ!と言いたくなってきた。
 来週は結構来客予定もあったりして、仕事が順調に進むか不安な要素を抱えている。
 あと一週間で終業式ではないか…ということは、週明けにはどんと机に置かれるものもあるということか。

 いやいや、なんだか久しぶりの師走気分である。
 

「作法を嗜む」という心がけ

2010年12月14日 | 読書
 『明治人の作法~躾けと嗜みの教科書』(横山験也 文春新書)

 横山先生の講演を拝聴した時にも感じたが、つくづく礼儀や作法が定着していないことに我ながら呆れることがある。世代的にそうなのかもしれないが、親と同居もしていないし、冠婚葬祭の時などは本当にあたふたとしている現実がある。

 この本の「進物」という章では祝儀袋のことが出てくるが、そのいわれなど実に興味深く納得できるので、すうっと身体に入ってくるようだし、もう少しこうした本に早く出会っていれば、礼儀も身についていたかもしれないと思ってしまう。

 さて明治と言えば、例のドラマ「坂の上の雲」だが、昨年の第一シリーズで一番印象深かったのは、秋山兄弟の食事シーンだった。ご飯茶碗が一つしかなく、兄が食べてからその茶碗で弟が食べるという件は驚きだった。
 経済的な理由があったにしろ、そこに流れる精神の有様は、うわあ明治って凄いとダイレクトに伝わってきた。

 それは作法とは言い難いのかもしれないが、そこには確かに「心」があり、紛れもなくその時代を生き抜いていく強さだったと思う。
 それから時が流れ、そういうある面で固定的な関係を崩していくこと、自由、平等の広がりのもとに日本社会が高度成長を果たしたのは現実であろう。
 しかしその歩みの中で、実は頑張りという木を支えていたと思われる「分」や「節度」という地盤は脆くなっていった。

 家や地域を通じて知らず知らずに慣習的に教わったことはある。しかしそれらはきわめて限定的な部分でしかなかったし、その時代テレビなどで繰り返し流される自由な世界と比べられ、実は窮屈な印象を植え付けられながら心に残ったのかもしれない。

 自分に何故作法が身につかなかったかの言い訳をしてもつまらない。

 「躾け」と「嗜み」という言葉に注目してみる。
 躾けはやはり幼いうちである。
 躾けられていないと自覚した者は、嗜むしかない。
 この本で「嗜み」は、躾けられたうえに楽しんで行うといった意味合いで使われており、もちろん本来はそうだろうが、もう一つ「心がけ、用意、覚悟」といった意味もある。

 「作法を嗜む」という心がけは、著者が示した原則ともいうべき「上中下(真行草)」と「天地人(時所位)」の考え方による行動に通ずる。
 紹介されている多くの作法を身につけることは無理でも、いくつか重要なことさえ徹底すれば、成ることかもしれない。