すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

橋の向こうを見通す

2018年09月30日 | 読書
「今年の選書の心積もり」に書いたように、吉田篤弘の本はコンスタントに読んでいて数えたら九ヶ月で八冊になっていた。もう少し読めそうだ。吉田つながりではないが、たまに読みたくなる吉田修一の小説を買い求めた。3日で読了。久しぶりに読み浸った感じがして、いよいよ(遅いか!)「読書の秋」本格化か。


2018読了92
『橋を渡る』(吉田修一  文藝春秋)

 吉田修一が描く話は、何か人間の「シミ」のような「イボ」のようなイメージが漂う。それも顔や背中にあり、知らぬ間に黒くなったり大きくなったりしているそれだ。だから自分はそれをあまり意識できない。事件を主とした『悪人』にしても『怒り』にしてもそれが濃くなる展開であり、本質はそこにある気がする。


 登場人物の言葉に「ホントにね」と思わず呟いてしまう。「人間ってさ、自分が間違っていると気づいた時、すぐにそれを認めて謝るより、どうやったら自分が間違ってなかったか、どうやったら自分が正しいことになるかって考えるところない?」政治家や官僚などの話ではなく、自分も含めてその「シミ」を認める。



 先週末放送されたドラマ『乱反射』は、タイトルが示すように小さな悪意が様々な方向へ反射、連鎖し幼児の死亡事故が起こった話だった。この小説でも、登場人物たち個々の正しさや善意に込められる言動が、息苦しい社会の中で陰をつくったり捻じ曲げられたりする。結果、誰の願いにも添わない風景が見えてくる。


 四章目に描かれる70年後は「とにかくストレスを避けて生きるということが豊かな人生」とされる。それを願った人間たちの選択が作りだした社会は、確かに便利さは増したが、当然のごとくたくさんの犠牲の上に成り立つ怖ろしい管理社会でもあった。ただ現在と必ずしも地続きでなく「」がかかっているようだ。


 「橋」は象徴的に扱われることの多い名詞だ。川を越す、陸地と陸地をつなぐ役目を果たし、現実には行き来可能だが、小説の場合はたいてい「もどれない」。その「橋」は当然物体ではないが、世の中の動きの中に見え隠れする。個々の日常でも突然姿を現わす。私たちは橋の向こうを見通す想像力を鍛えねばならない。

さすがにさがすが多くなる

2018年09月29日 | 読書
 穂村弘の『ちくま』連載「絶叫委員会」は、この頃あまり面白くないなあと感じていたが、今回は題だけで惹きつけられた。

 加齢と言葉

 言語表現を生業としている穂村のような人と、一般人では感覚は異なるだろうが、確かに何かしら関わりを持つに違いない。


Volume118
 「二十代の自分が好んだ言葉のうちの幾つかは、今ではまるで禁じ手になってしまったかのように使えなくなってしまった。具体的にいうと、『おまえ』という二人称、『まみれる』という動詞、それから命令形。この辺りがどうしても自分の中から出てこなくなってしまったのだ。」



 自分にはそんな言葉があるだろうか。
 時々書棚の整理をして見つけた古い文章(学生時代のメモや、若い頃の学級通信など)を読み込んでしまうときがあるので、思い起こしてみる。

 まあそれほど目立つわけではないが、穂村に倣って少し拾ってみると

 まず「」という一人称は使わなくなった。
 それから「なぜ」という疑問形も多用していたが、ずいぶん減った。
 動詞は…「めぐる」「ねらう」などが、若い時は頻度が高いと感じる。

 そうすると、これらが「自分の魂(というのが大袈裟なら生理感覚)からズレた言葉」と言えるのだろうか。
 そこからは、老化が見え隠れすることは確かで、そうした感情や論理が薄くなっているのだ。
 言葉そのものの持つ響きや強さを次第に嫌うようになったのだと思う。

 ただ、その原因を単純に「加齢」だけに求めていいものかとも考える。

 もしその言葉が本当に必要だったら残っているはずだし、もともと定着が希薄だったと疑うべきだろう。

 とすれば、今もしつこく使っている語に着目することだ。
 自分の心身に合っていて、必要な言葉なのだ。

 はて、と読み直してみるが…。

 「さがす」が多くなるのは、単に加齢なのかもしれない。

 あら、「さすがに」も多くなっているか。

本へ、手と声をいざなう

2018年09月28日 | 読書
 三十代半ばの学級担任の頃、ようやく「読み聞かせ」に身を入れて取り組み、手応えを感じたものだった。しかし翻って、父親として我が子に出来ていたかというと、かなり低い点数をつけるしかない。本は買い揃えたが、忙しさを言い訳にして手も声も伸びなかった。深く反省して、次の機会は(笑)と決意している。



2018読了91
 『かーかん、はあい 子どもと本と私』(俵万智 朝日文庫)


 これは読書案内としては最適な一冊だ。実際に母親として読んで聞かせ、また表現者としての目も発揮しているし、そして子どもの反応を汲み取りながら紹介している。書かれたのは10年ほど前だが、新しく父母になる方々には参考になるに違いない。新しく祖父になった自分には懐かしくもあり、新鮮でもあった。


 絵本が多いが、図鑑やドラえもんなどまであり、成長や興味にあった形で選択されている自然さがよい。どうしてこの本に子どもは惹きつけられるかという観察と解釈も、納得する。「失敗もするくまちゃんだからこそ、好きになって真似するのだろう。なんでもできるいい子がお手伝いをする話なんて、つまらない


 柳田邦男は「絵本は、人生で三度読むものですよ」と言ったそうである。世代的には子ども時代に多く読んだとは言えず、親としても中途半端だったので、もはや「人生の後半に自分のために…」という構えになってしまった。昨年も必要があって何冊か手にしたが、今後かなりペースを上げて読み深めていきたい。


 この文庫は2冊の単行本を合本にしたもの。歌人らしく文章中にいくつか歌が盛り込まれている。Ⅱの方つまり息子さんがある程度成長してから作られた歌がとてもいい。親心が切なく伝わってくる。さすがに上手い。三首紹介する。

振り向かぬ子を見送れり振り向いた時に振る手を用意しながら

「テロ」という言葉を君はいつどこでどんな文脈で知るのだろうか

たんぽぽの綿毛を吹いて見せてやる いつかおまえも飛んでゆくから

方向性を決断する場

2018年09月27日 | 読書
 もはや懐かしいというより、古い話か。

 ロシアWカップサッカー日本代表の西野朗監督は同年代である。
 直前のああいうゴタゴタもあり、前評判は悪かったが、そういう時に結構日本チームは活躍するので、まあジンクス通りとも言える。
 西野監督はやや寡黙な印象もするが、某雑誌のインタビューを読んでいたら、ああこれと思ったことがあった。


Volume117
 「ミィーティングでは戦術ボードを使って、選手に見立てた磁石を動かして意見を言うが、各自の主張はいつもボードの上では成り立ってしまう。だからこそ、方向性の決断はミィーティングではなく、ピッチの上で出すようにしていた。」


 とっさに思い出したのが、学校にいた時分の指導案検討会のことだ。
 個人的にその検討会は優先順位が低く、よく研究体制の中で持ち方について議論した。
 秋田大学の阿部昇教授とも何度かそうした件について話したことがあった。

 もちろんその意義は認めるが、検討会自体をうまく機能させることが目的になってはいけないといつも思っていた。



 「方向性の決断」は授業者が、授業の中で定めていくことだ。
 そのための一つの準備として、指導案作成があり必要に応じて検討会がなされる。
 さらに言えば検討は、授業者の願いや力量が考慮されなければならない。

 その意味で明確な筋道なしに検討会を行うことは危険な要素を持つ。
 混乱を招き、時間の浪費になることもある。

 自分なりに会設定を前提にして、持ち方のプランを示したこともあったが…その有効さは限られていたようにも想う。


 ピッチの上で判断する力を高めていくために、プレーヤーの準備は質、量の双方から支えられなければならない
 ボードは手段であり、それ以上でもそれ以下でもない。


 今頃になって思い出すのは、そうした内容と時間管理について悔いが残っているのかな。

独り横綱シンギ委員会

2018年09月26日 | 雑記帳
 大相撲秋場所回顧。今回は冒頭3日と最終盤の2日を、生中継で観ることができなかった。横綱、大関が勢ぞろいし、前半戦は取りこぼしも少なかった、いわば順調、順当な場所で見応えがあった。しかしそれはここ数場所の異状さを物語っていることでもあり、収まれば結局白鵬の優勝か、となるのも情けない話だ。


 他の力士と何が違うか。それは危ない勝負をもぎ取った身体能力の高さも見事だが、立ち合いの駆け引きに象徴される精神力と言えるだろう。ファンの期待と願望を背負った稀勢の里と御嶽海両力士だけでなく、大関陣など甘さの見える取組と比較すると、その差は歴然である。自分自身をコントロールする力が違う。



 ただ「正々堂々」を欠くような印象を持ってしまうのは私だけではないようだ。それは、横綱であればどのように相手が来ても受けとめる気構えと力量を示すべきという考えがあるからだろう。勝負として現実的に難しいことだが、そんな横綱像を抱く人は少なくない。それが相撲の魅力でもある特殊性とは言えないか。


 復活を期した稀勢の里の評価は分かれる所だが、実はその「魅力」は十分発揮した。魅力とは、初黒星を喫した翌日の新聞記事が見事に表現した。「追い詰められれば踏みとどまり、期待させるとつまずく。やきもきさせながらもファン心理を引き付けてやまない男の姿」ただ、その繰り返しを望んでいるわけではない。


 郷土力士豪風の連続負け越し、三賞該当力士なしも残念だった。しかしそれ以上に、場所後貴乃花に関わる騒動がまた展開し、辟易する。真相は大方の人が感じているとおり、そして解決もある程度予想の範囲に留まるのではないか。良くも悪くも日本的だ。異分子を抱える余裕もない場に「正々堂々」は育たない。

三連休に子どもの心を

2018年09月25日 | 雑記帳
 三連休、土曜日と日曜日は当町の鎌鼬の里芸術祭へ。美術館開館当時から撮影ボランティアとして協力しているので今年もお声をかけていただいた。舞踏には全く縁もなく知識もないのだが、芸術祭全体へ参加してみると刺激になることも多かった。郷土芸能や稲架体験など地域文化に根差す方向性にも賛同できる。


 初日はなんといっても詩人吉増剛造が登場すると聞いて楽しみだった。詩を多少かじっている者なら、いかにビッグネームかわかるはず。私も遠い昔、詩集を手にしたことがある。様々な話題について語り、詩を熱く朗読する姿から発するエネルギーは長谷山邸の3階からあふれ出るようだった。濃密な場であった。


 美術館の核である土方巽のことから宮沢賢治まで、いくつかキーワードが挙げられた。有りがちだが「子どもの心」というフレーズは心に残る。発見、感動、没頭という教育の世界でもよく使われる語の意味を、もう一度捉え直したい。規律や秩序の重視が不寛容さを広げている今の状況ゆえに、ことさらにそう思った。


(舞踏中であっても平気で話しかける子どもたち)

 二日目のシンポジウムは「東北の写真学」をテーマに語られたが、舞踏はもちろん前日のシンポも含めて、何やら昨日書きつけた「身体脳」に集約されるような気がしてきた。頭で考えるのではなく、全身で事象や対象に反応していく人間としての核について語れば、自ずと風土や子どものことを考えざるを得ない。


 かつて勤めた学校で一緒に過ごした子たちが成長し、県内外からスタッフとして参加している。話を訊くと今の充実と展望が見えてくるようで嬉しい。自分も30代後半はそうだったかと、ふと懐かしくなった。しかし「復路」を歩み始め子ども返りをしている現在、と思えば楽しい。昨日は墓参へ、ご先祖様に感謝した。

頭脳を超える脳を視る

2018年09月24日 | 読書
 先月読んだ新書が面白く、「スポーツをボーッとさせるな」と題してブログに書いた。その著者が師事している武術家宇城憲治氏の教えを、自らの関わりを交えながら紹介している本だ。甲野善紀氏の教えと共通点があるように感じる。副題は「身体で感じ、『身体脳』で生きる」。この「身体脳」は少しわかりにくい。

2018読了90
 『古伝空手の発想』(小林信也  光文社新書)


 つまり「わかる」ものではないからだろう。身体脳と対比されるのは、そう「頭脳」である。だから、よく言われる「イメージする」といった言葉は出てこない。イメージは頭脳でするからだ。例示された「自転車の練習」に即して言えば「感覚を身体に叩き込む」。つまり行動や所作、習慣で出来上がるもう一つの脳だ。



 宇城師範の稽古の驚異的な動きに感動し、著者は師範の言葉を拾っている。「相手の中に入れば簡単です」「呼吸と姿勢です」「身体がひとつになっているからです」…身体が超高速で動くような感覚が繰り広げられる場面では、「対戦相手の次の動きが見える」「ボールが止まって見えた」といった達人レベルを想像した。


 最初に紹介されている例(正座の姿勢から立つ二種の方法)を試してみたら、その通りにできたので少し驚いた。武術とは言わなくとも基本的な日常動作でも、頭脳で動くことと身体脳で動くことは違いが出るので、積み重なっていけばずいぶん大きい。私たちはあまりに「力を出す」ことを自分に命令していないか。


 言葉でわかっても意味はないが、ずっしり響く語りも多い。「いまを生きる日常を重ねていると、<いま>がだんだん広がってきます。いまを広げる、これが大事なんです」。これはまさしくマインドフルネスのその先にある境地だ。まだまだ試したいメソッドや意味深い言葉が満載している一冊だ。近いうち再読したい。

はて、中華料理とは…

2018年09月23日 | 雑記帳
 再放送されていた『孤独のグルメ』シーズン7の最終話は、街の小さな中華料理屋さんだった。ニラ玉そしてエビチリ、さらにチャーシュー麺と王道をゆくようなメニューが美味しそうだった。都会でなくとも地方都市でもあるかなと思いつつ、はて「中華料理」とは、とかの地から帰国(笑)した食べびとは考えた。


 「三千年を6日で巡る」に書いたように、今回は食に関する強い印象を持てなかった。しかし昨日、家人とそんな話をしていたら、一つ一つの料理を思い出せば、結構いいものもあったと思い直した。特に四川料理は辛いもの好き人間には口に合った。麻婆豆腐はまさに本場の味。辛味苦手な人にはきつかったろうが…。


 ギョーザ料理専門店では10種類近くのギョーザが提供された。出すタイミングが悪くて印象低めだが、個人で出かけコースで食べたら堪能できたのではないかと、夫婦二人の意見はまとまった。「日本の中華料理とは味が違います」とガイドさんは言ったけれど、味以外の要素の違いが気になってしまい評価に反映した。


(クルミのギョーザでした)

 そもそも「中華料理」とは何か。その前に電子辞書にある「日本国語大辞典」「広辞苑」「マイペディア」では、見出しはあったが三つとも「⇒中国料理」となっており、一般名として中華料理は通っているが、正式には中国料理と言うようだ。キーワードは「油、とろみ、香辛料、種類の多さ、無駄が少ない、乾物類」だ。


 周知のことだが、中華料理の横綱級であるエビチリはメイドインジャパン。豆板醤に慣れない日本人向けに陳建民(鉄人陳建一の父)が考案したものだ。「孤独のグルメ」でのラインナップを見ると、やはり日本の料理の発想力、アレンジ力は強いと感じた。本場には確かに本場の味があるが、本物はどこでも目指せる。

「自由」と言われ、迷い歌

2018年09月22日 | 読書
 著者は歌人俵万智の師匠である。そうした興味もあって古本を探してみた。昭和63年発刊である。ふとこの著者の何か…と思って探したら、児童用の『短歌をつくろう』(さ・え・ら書房)が共著として出されていた。こちらは平成元年刊。当時はまだ教科書に「短歌を作る」ことは載っていなかった。功績を感じる。


2018読了89
 『佐佐木幸綱 短歌に親しむ』(佐佐木幸綱 日本放送出版協会)


 遅々たる歩みで作歌に取り組んでいる。なかなか納得できる歌を詠めない訳を言い当てられた気がする一節に出会う。「常識や固定観念にとらわれない<自由な心>こそが歌を生み出すのです。」凝り固まった頭と心のままではいけないと知りつつも、やはりそこが難しい。どうしても理詰めで追いがちになる自分がいる。



 短歌自体の「自由さ」は大きい。定型詩であることを除けば、どんな題材も言葉遣いも許される寛容さがある。必要なものは発見、驚きといった心の揺れだろう。それをどんなふうに感じ取れるかが、個の「自由さ」と言ってよい。たぶん非日常場面であったり、日常でも強い働きかけがあったりした場合に発現する。


 しかし旅行でも「おおっ」と思えばカメラに頼りがち、後で振り返りながら作歌を試みても、駄作が並んでしまう。気持ちがどうも込められない。主観的こそ大切なのに客観的になりがちなのは、長年の性だろうか。著者は「短歌をつくるのではなくて、自分の気持を短歌につくるんだという考えで」と書いている。


 「気持を短歌につくる」とはいったい…。「気持」といった時にすぐ思い出したのが、穂村弘のあの有名な歌である。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」…これほどぶっとんだ想像力がないと、気持ちを言語化するのは難しい。とにかくいっぱい作り、言葉と心が重なる偶然を待つか。


 秋暮れて待てど暮らせど来ぬ歌を迎えに出かけ道に迷う日

長月独り視聴者委員会

2018年09月21日 | 雑記帳
 久々の言いたい放題。ドラマ好きにとっては、今年になってから突っ込んで語りたくなる作品が少なかったということは言える。この7月クールに関しても、水戸黄門もしくは池井戸作品のようで笑えた『ハゲタカ』、ちょっとまわりくどい警察ドラマ『絶対零度』など、それなりに楽しめたが引き込まれたとは言えない。


 続けて視聴した『高嶺の花』は、野島伸司脚本で期待した。確かに台詞そのものはなかなか興味をそそったが、主演二人(石原さとみ、峯田和伸)のキャラクターと重なり過ぎた気もするし、やや尻切れトンボの感が否めない。筋立ては一応通っていた。しかしあまりに唐突過ぎる人物の変容などちょっと首を傾げる。



 医療系ドラマとして『グッド・ドクター』と『透明なゆりかご』を観た。前者は韓国ドラマのリメイク。自閉症の小児外科医を主人公にしたことが話題を呼んだ。後者は発達障害傾向のある看護見習いが主人公である。現実との乖離はともかく、こうした設定が提起するのは、生命を直接扱う現場の問い直しであろう。


 『透明なゆりかご』は産科の重い課題が伝わってきた。やはりNHKでないと出来ない作品か。翻って近々終了する『半分、青い。』は、最後まで楽しみという感覚を持てなかった。脚本の問題に違いないが、主人公のキャラクターがあまりにデリカシーに欠け、視聴している広い世代がどう受け止めたか、気になる。


 忘れてはいけない。深夜枠で観た「dele(ディーリー)」は結構面白かった。契約者が死んだ場合に消去してほしいデータを預り処理するという稼業は、実に現代社会にフィットした設定で、山田孝之・菅田将暉の個性も光っていた。法律上認知される仕事かわからないが、本当にあれば、利用する悪人共(笑)は多いはず。