すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

つくり話に病む自分を見る

2015年05月31日 | 教育ノート
 初任者研修絡みで空く学級の補充を頼まれていた。前に2学級同じように入ったときは、持ちネタで勝負したが、今回少し色気が出て、新しいものはないか、と考えていた。ある雑誌で見かけた作家のエッセイを思い出した。そこに、中学生対象だったが、新出漢字を使ってウソ日記を書くという実践が紹介されていた。


 6年生だしやれるかもしれないと思い、構想を練った。担任に聞いたら新学年になって出てきた新出漢字は26。これを使って10分間程度で文作りする。時間的な余裕と多少の導入説明で出来るだろうと考えた。「新出漢字・十分間・フィクション・日記」と命名。教材研究として、自分はどうかと事前に挑戦してみる。


 漢字は、以下の26
 源 晩 盛 胸 片 痛 翌 勤 危 姿 疑 担 視 呼 吸 存 刻 私 密 脳 激 映 簡 机 難 段


 取りあえず書き出してみて、7分半ぐらいで終了。26全部使い切った、ウソ日記である。当然、推敲などなし。

 昨日の晩から胸の片方が痛いので、翌日になったら医者に行くことに決めた。呼吸も荒いし、どうきも激しい。机に向かってもふらふらして、視力も落ちている。
 昨夜、勤務が終わってから、映像を見すぎたせいだろうか。
 その話はある学級担任が、難しい問題を抱え込んで脳をこわしてしまう危険な内容だった。人間としての存在が段々と疑わしく思えてくる姿が悲しかった。
 人としての盛りを過ぎた男が、私の「源」を探して、密な時を刻もうとするが、それはそんなに簡単ではなかったという話だ。



 いい加減な作り話には違いないと思いつつ、鉛筆のおもむくままに書いた中身を改めてみると、なんだか病んでいるなあ、オレ…という気分になってきた。こんな調子で教室に出かけられるのか、と授業の始まる10分前に思ったが、教室に行ったら思いのほか熱中してくれて、楽しい時間になった。救われた気分だ。

「これ」ほど健康にいいことはない

2015年05月30日 | 読書
 【2015読了】50冊目 ★★
 『なぜ、「これ」は健康にいいのか?』(小林弘幸 サンマーク出版)


 自称健康オタクとして手にとったのだが、それ以上にこの題名のネーミングに惹かれた。
 おそらく類似した表現は多いのだと思うが、「これ」という使い方は汎用性がある。

 試しに教育上のことに使ってみると…

 なぜ、「これ」は、国語科指導に必須なのか?
 どうして、「これ」で算数指導がうまくいくのか。
 「これ」を忘れなければ、学級づくりは成功する。

 「国語科指導の必須事項」「算数指導がうまくいくコツ」「学級づくり成功の道」などよりは、多少インパクトが強くなるようだ。
 指示代名詞の効果的な使い方を改めて思い知った気がする。


 とまあ、そんなふうに題名づけでもいろいろ工夫はあるものだなあ。
 肝心の中味は…つまり、この本の「これ」は、階層に分かれているのだった。
 自分なりに、それを並べてみる。

 自律神経のバランスをとること
   副交感神経の働きを強めること
     ゆっくり動くこと
     水分摂取の仕方
     呼吸の仕方
     ・・・・・・


 下位の具体的な行動レベルはつながりあって効果的となる。
 こんなふうに並べてみることによって、「これ」の正体は読む人によっての解釈で位置づけられるという見方もできる。
 いや、位置づけた方が健康法志向を持つ人にとっては有効だ。そしてバックボーンとして自律神経を知っていることが大きな強みになる。

 勝手な解釈では、自律神経の二つの要素である交感神経、副交感神経は、ファイトとリラックスに置き換えてもいいと思っている。


 その考えで最終章を読むと、「パワーバランスチーム」という考え方が大いに賛同できた。

 以前「チーム○○」という言い方や考え方について疑問を書いたことがある。それとは別に、自分が求めているのはこんな感じだろうという表現に出会った。

 本当にいい仲間というのは、お互いのモチベーションを高めあい、お互いの自律神経のバランスを整え合える関係だと思います。


 「これ」ほど、健康にいいことはない。

前世はネコではない…

2015年05月29日 | 雑記帳
 遠足の引率で美術館に行ったら、写真展が行われていた。「ネコライオン」という、まさに猫好き、動物好きにはたまらない内容だと思う。自分にはまったく縁がない世界ではあるが、この企画はなかなか面白いと思ったし、魅せる写真もいくつかあった。「○」と「△」を比べる発想は単純でありながら、奥が深い。


 そういえば、先週の新聞に秋田市の動物園長である小松守氏が、その写真展のことを取り上げていたことを思い出し、読み返してみた。「ネコとライオンの織り成す相似形的なしぐさが、この写真展の魅力の一つだ」と書き、なかでも「食」と「子育て」について、詳しく語られている。その比較は、結果的に人間に及ぶ。


 近縁にある二つの動物だが、ネコは野生からの距離が遠ざかったため、表情には明らかにライオンとの差が出る。この点から小松園長は「人」に思いを馳せる。曰く「人という動物は人工的世界に慣らされ、どう変貌していくのか。自然の中で生きてきた昔の人々に比べて、どれほどの相似形を維持していくのだろうか」


 「生きる」ことは変化することである。そして、私たちは個別の変化とともに、人間という種の変化の中に存在することは確かである。考えても果てないことだろうが、なぜか懐かしいと思える風景があったり、突然思いもかけぬ衝動に突き動かされたりするのは、心の中に存在する本能的部分かなという思いがよぎる。


 「あなたの前世はネコだ」と妖しげな先輩に言われたことがある。全く信じていない。今回のネコの写真を見ても感じなかった。自分でも撮ろうと思ったことはない…と書いて、一枚だけあったことを思い出した。長崎へ旅したときに、大浦天主堂を見上げたネコにシャッターを切った。あの感覚は…同化ではないな。



ぼくの林檎も紅玉だ

2015年05月28日 | 雑記帳
 三学期に卒業する学年に『りんごかもしれない』を、パソコンに取り込んだ形で読み聞かせた。せっかくPPTの形にしたのだから、もう一つはしたいなあと思っていた。今年の読み聞かせ活動のスタートは4年生にあたったので実行した。中学年はぴったりと思っていたことが見事にはまり、明るい笑いが響いた。


 場を考え、実際のりんごを買ってきて、テーブルに置いてみた。そして図書室にある「りんご」関係の絵本を少し紹介したいと思った。結局探せたのは2冊だけ。福音館書店の『りんご』(叶内拓哉)というりんご園の1年間の記録、そしてもう1冊は、『紅玉』(後藤竜二)という北海道のりんご農家のある物語だった。


 戦争から解放された人々が希望を持ってりんごを作っている村へ、ある日群衆が押し寄せ作物を略奪しようとする。それは川向うの炭鉱で働く朝鮮、中国の人々だった。悲惨な実態を知る「父」であったが、意を決して懇願する。結果、静かに去っていった人々…その後ろ姿をいつまでも目に浮かべ続ける「父」の話だ。


 「紅玉」と名付けたのは、りんごの品種がそれだったからだけではない。赤く硬く酸っぱい味のする品種しか作られなかった時代、貧困な人々にとっての価値の高さ、戻したときの磨かれたような赤い色…それらの象徴か。昨日読んだ詩人中桐雅夫の作品にも登場する。中桐は「ぼくの林檎」と題して、紅玉を書いた。


 恥ずかしながら、紅玉を登場させた脚本を書いたことがある。卒業祝賀会用に、ある理科教師に言わせた言葉だ。まったくふざけたお笑い話だったが、紅玉を出したインパクトは我ながら好きだ。毎年、探し求めて数個は口にしている。とびきり美味いとは言えないが、舌にあう。小さくとも赤くあれ、酸っぱくあれ。

二人の詩人の自由は

2015年05月27日 | 読書
 古本屋でめずらしく詩集を買った。
 2冊買った。

 【2015読了】48冊目 ★★
 『一分後の 未来よ もうすぐ 俺が行くで 道あけとけ』(三代目魚武濱田成夫 学研)

 この名前は知っていた。カバー裏にある著者写真を見て、そういえばドラマ『SP』で殺し屋役として出ていた顔だと思い出した。詩は読んだ記憶がない。帯によると「『自分を誉め讃えた詩』だけを書き続ける詩人」だそうな。全編を読みとおすと確かにそう言えるが、5%ぐらいは違う要素があった。例えば「わかってるがな」…母の小言に素直に応えている。


 「俺が決める」ことの意味、姿勢、価値観…それらをこれでもかと語る。それゆえほんの少し漏らす弱さや温かさに魅力を感じる。いい比喩もぽっと出てくる。「月より静かに/月を見てたんだ/俺たちは いっしょに」「あなたの字は/俺には あなたの笑顔のようだ/あえない時はいつもポケットの中に/あなたの字を持っているよ」対象を鋭く見つめる感性。



 【2015読了】49冊目 ★
 『会社の人事 中桐雅夫詩集』(中桐雅夫  晶文社)

 この名前は知っていた。学生時代、ちょっぴり詩をかじっていた頃、目にしている。そして晶文社というのも懐かしい。詩論や音楽に絡んでずいぶんと買っているはずだ。生まれ年から言うと戦中派として称していい詩人だろうか。読みだしてすぐに気づいたのは、最後の一編を除いた全編が14行詩。発表誌に行数指定があったらしく、そのためと書いている。


 「年をとったせいか、形の定まったのはいい、と思うようになったらしい」とあとがきに記されている。なるほど、一つの形式があることは、その中に自分の思考を閉じ込めねばならないわけだが、技術的な点とは別に、作る過程において題材の選定や対象となる読み手の絞り込みが図られるのかもしれない。それは自分を宥めているのか、深めているのか。




 対照的な二人の作品に触れると、改めて「詩とはなんぞや」という問いがわく。花鳥風月はさておき、自分の価値観や主張を詩という形で発表するとすれば、形式遵守や形式破りそのものが表現の一部であることは疑いない。結局「自由」をどのレベルで考えているかなのか。詩人の意図とは外れるが、中桐雅夫の一行が沁みる。「自由はいま、牢獄の中にいる。」

肩に力を入れてユーモア

2015年05月26日 | 読書
 【2015読了】46冊目 ★★
 S10『なんとユーモア ~子どもたちと楽しく~』(高橋俊三 文教書院)

 高橋俊三先生の著書は他に群読のものを読んでいる。若い頃に、模擬授業を受けて感激したことがある。谷川俊太郎作の「かっぱ」が教材であった。思えば、そこが自分の本格的な?群読実践のスタートだったか。そしてその折の何よりの印象が「滑舌のいい方だなあ」「ユーモアあふれているなあ」ということも覚えている。だから、この本も一つのバイブルだ。


 「授業の場でユーモア」という第一章が特に読ませる。おもしろさを八つの視点から述べている。曰く「繰り返し」「嘘を織り交ぜた」「知らない」「予想をずらした」「視点を裏がえしした」「考える基準をとびこえた」「言葉で遊ぶ」「相手を包み込んだ」…この区分の「嘘…」から「考える基準…」の五つは、いかに拡散的な思考が必要かがわかる。訓練が必要だ。


 訓練として著者が書いていることが大きなヒントになる。言うまでもなく言葉への興味であろうし、それは古典から若者言葉まで幅広い。二十数年前の著書ではあるが、取り上げているなかには、今もって使われている流行語?も散見され、先見性にあふれていたんだなあと今さらながらわかる。言葉への関心は、生活への関心だし、人間への興味なんだと思う。


 保護者との面談の実例も載っている。これは現在でもまったく古さを感じない。そして、面談をしていくうえで、重要と思われる具体的な姿勢を見つけた。著者は教師が子どもを見ていることをはっきりと示すことが大切といい、こうまとめる。「エピソードを三つ以上もつことができれば、面談は成功する」…これはつまりコミュニケーション成立の条件なのだ。


 真面目なことばかり書いて、ユーモアの本を読んだ感想というのも締りがない。とはいうものの凡人の悲しさ、疑問しか出ない。書名の「なんと」はどういう意味か。「副詞的」か「感動詞的」か。それをぼかしたのは、著者の作戦か。勝手な解釈だが慣用句とすれば、力みが出て笑える。曰く「なんと言ってもユーモア」または「なんとしてもユーモア」。

ああ、陸上競技大会

2015年05月25日 | 雑記帳
 「町」という規模で、小学生の陸上競技大会を開催しているところは、今どれほどあるのだろう。少なくとも県内にはない。隣市では合併してからなくなっているし、今残っている郡市レベルの大会は、休日開催の希望参加という形だ。以前と学校を取り巻く環境が大きく違うなかで、この行事の意義が問われている。


 その是非を論じるわけではない。自分の教員生活の中では結構大きい存在だったことを、終わってみて感じたのだ。学校の運動会の延長線にあった、というより、歴史をたどるといわゆる「連合運動会」的な催しがあり、そこから学校単独になったと考えていいかもしれない。集う、競う、叫ぶ…そんな要素がある。


 初任地でのこと。山間部の小さな5校が集まっての大会。持ち上がり三年目の6年生で、男女リレーの優勝をねらっていた。男子は目論見通りだった。しかし女子のメンバーの一人が登校していない。母親と朝に喧嘩し、押し入れの中に入ったまま出てこないという。説得に向かったが…。苦いが笑える経験である。


 大会の行われるグラウンド横の学校に勤めた時のことだ。受け持ちではなかったが、長距離走の素質のある子を担当したことがある。今でもその走る姿の良さが目に残っている。県内では有名な高校に進学したが、その後は伸び悩んだ。先日大会で偶然に会った。子どもの応援だという。持久走参加と聞いて笑い合った。


 三十代になり再び山間部へ勤め18人の学級を受け持つ。その頃の郡市大会は900人近い出場者があり盛り上がっていた。4年も持ち上がった学級なので思い入れも強かった。大会では優勝者1名、上位入賞2名という好成績。しかし、納得しない思いを残る。もっとやれた、才能を開花させられなかったという悔いだ。


 学校体育連盟が主催する郡市大会の最後の年。小規模校は人数的にリレーを組めなかったら下学年から補充していいことになり、最強女子リレーにエントリーした。当初の予想を覆して決勝進出。そして…最終走者が他校の子をゴール前で見事に抜き去り、なんと優勝する。まさに歓喜の瞬間、へき地2級校の意地か。


 これには裏話がある。抜き去られた他校の子とは実はわが娘。家へ帰って、いそいそと祝勝の宴に向かおうとする私に妻からの一言。「父さんの学校に負けたあ、と言って、泣きじゃくっている」。気持ちは複雑ではあるが、「いい勉強」と言い残して、待ち合わせた居酒屋へ。心に沁みるビールであった。ドラマだった。


 学校ブログには大会の様子をアップした。

 それとは別にこちらは、ちょっと撮ってみたくなったショット。



言の葉は軽くも重くも

2015年05月24日 | 読書
 【2015読了】45冊目 ★★『「言葉の力」を感じるとき』(京都 柿本書房)


 「言の葉協会」というところが主催する「言の葉大賞」というコンクールの入選作品集が職場へ送られてきた。「まえがき」がストレートである。

 高度情報社会と言われる今日、言葉は社会にあふれているように思える。だが、実のところ「言の葉」は日々、減り続けているのではないだろうか。


 いわゆる伝達や社交としての言語だけでなく、認識や思考面の言語について述べているといっていいだろう。
 「言の葉」のもとになるだろう古今集仮名序も引用されている。

 やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける


 この作品集の前半は「恋文大賞」の入賞作品で、一般から中学生あたりまでが手紙、作文を寄せている。
 言うなれば「いい話」のオンパレード。それは仕方ないことだろう。
 結果的に「悪い」「暗い」となれば、こうした文章にはたどりつかない。震災という大きな出来事からさりげない日常の一瞬まで、範囲は様々であるが、書き手は皆前を向いている。

 読みながら、入選者に共通するのは「いい話にできる資質」だろうと思った。
 つまり、文章技術はある程度必要だが、それよりも自らの困難や他からの多様な働きかけを、結果として肯定できる心の持ち主とでも言えるかもしれない。

 圧倒的に女性が多いことも興味深い。
 子どもや保護者に紹介してみたいいくつかのエピソードもあり、ネタ本と言えるかもしれない。


 後半の「言の葉大賞」作品は、中学生・高校生のもので、正直ありがちな弁論集(しかもミニサイズ)である。
 中高生に「言葉の力」ということで語らせたら、そうなるだろうと思う。もちろん感動体験と結び付けて語るわけだが、いくら表現を工夫しても多くの場合、重みは感じられない。
 「言の葉」だから、軽くていいのか…というわけでもあるまい。

 とそんなことを思いつつ、最終作品にいくと、これがと実にフィットした。
 佐賀県の吉井さんという高校生が書いた作文の題名はこうである。

 「言葉の力」を感じたとき、私の財布は軽くなる


 この興味をひく題名のオチは、コンビニ商品の「期間限定」という言葉なのである。
 「期間限定」を謳う商品に対する購買意欲のことを、実に素直に、ウイットに富んだ文章で綴っている。

 ただそれは「言葉の力」というより、「心の病」により近くはないか…そんな思いもよぎる。
 もちろん、私も病人です。

つなぐ仕事人の言葉

2015年05月23日 | 読書
 吉田尚記というアナウンサーの文章を読んだ。「アナウンサーとは”間をつなぐ”職業です」と書き始め、いくつかのポイントが紹介されていた。

 それを読みながら、これは教師にもそっくり当てはまるなあと思った。
 特に「子どもが喋らなくて…」とぼやくようなことがあるとすれば、この方が挙げたことは結構使える。

 一つは「質問の技」である。

 ○会話をつなげるためには、相手に質問していけばいいんです。

 ○答えやすい具体的な質問をする。

 ○何を質問していいかわからない人は時間軸にそって聞きましょう。

 ○内容よりも答えやすいか否か、その一点が肝心です。



 次は「リアクションの技」である。

 ○驚くことと面白がることも、人の話を促します。

 ○褒めるのもいいですが(略)驚くほうが簡単です。

 ○面白がるためには、自分の価値観やハードルを下げましょう。


 これは、低学年向けによく使うと思いながら、読んだ。

 ○「間違った」情報も効果的です。

 ○人は間違った情報を訂正するとき、一番しゃべってくれるんです。



 最後は、かなり観念的であるが、ある真実だと思う。
 教育の場では使いにくいように思える。
 しかしだからこそ、かなり効果を発揮する技術と考え方だ。

 ○喋ったら意思が伝わるわけでもないし、喋らなければ伝わらずにすむわけでもない。

 ○ただ会話をつなげていけば、何かが伝わるし、何かが生まれるんです。



 自分と相手をつなぐ。
 子どもと子どもをつなぐ。
 いずれの場合であっても、いくつかの原則に基づいた有効な技術が存在する。

表現が飛躍するとき

2015年05月22日 | 読書
 【2015読了】44冊目 ★★★
 S9『指導案づくりで国語の授業力を高める』(岩下修 明治図書)


 「指導案づくり」が「授業力を高める」ことにつながるためには以下の点が重要であると考えた。

 一つには、授業の構造化を図るために発問・指示を明確にすること。

 そして、その過程で技術・原則を導きだし、汎用性や他への転移性を意識すること。


 Ⅱ章「指導案の応用の技術」に書かれてあることは、岩下先生が自らに課してきた「指導案づくり」の成果が、はっきり見えてくる。
 「指導案は忘れて知覚全開」とした授業の様子は、視点を明確にして指導案づくりに勤しんできたことが、見事に身体化しているといっていいだろう。


 かつて自分は生意気にも「すべては技術に落し込める」とうそぶいていた時期があった。
 この本で岩下先生が自らの授業行為をどこまでも技術・原則に照らし合わせようとしている姿に、今もって強い共感を覚える。
 もちろん、それはどこまでもいっても未達であり、その自覚がありなお、という姿勢に惹かれるのである。


 実はこの本の前半部にある「発問・指示」に、違和感を覚えた。
 そしてそのことは、すでに雑誌連載を読んだときに感じたことだった。
 ブログを検索してみたら、書いていた


 「ごんぎつね」の読みとりである。

 発問1 二の場面は、とても不思議なところがあります。
 指示1 一緒に考えてくれますか。


 かなり特殊な区分と言えよう。
 岩下先生は、同じⅠ章の前半部でこう書いている。

 発問…思考内容の提示
 指示…思考方法の提示


 上の発問・指示の文言は、明らかに異色と言えないか。

 これは、言ってみれば、岩下学級にしか通用しない言葉なのである。

 「教師」が不思議なところがあると言えば、それが「問い」という形に昇華される「知」があり、「一緒に考えて」と言えば、「集団思考」という方法をイメージできるからなのである。単に形式的に言葉を置き換えているわけではない。
 教師側に、子どもが「そこ」へ向かう身心になっていると確信があるからだろう

 ここに見られる論理から表現への飛躍は、おそらく「指導案づくり」の積み重ねによって形づくられてきたのだ。