すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ananを読む

2010年05月31日 | 読書
 いくら雑誌好きを公言していても、さすがに「anan」までは手を伸ばせない。

 その「anan」にリリー・フランキーが連載したエッセイが単行本になっていたので、ブックオフで500円で手に入れた。
 『マムシのanan』(マガジンハウス)
 
 しかし、こういう文章を書かせると本当にリリーは上手い。
 女性誌であるので男女の関係絡みが半分以上だが、そうした日常の言葉遣いや仕草一つ切り取って展開させ、笑わせ、考えさせ、すとんと落としてくれる。

 一番心の残るエピソードは「贈り物」というページであった。
 別れの予感を双方が持ちながらも、リリーは彼女が欲しかったと言っていた時計を貯金をはたいてプレゼントした。その腕時計をした彼女を見ることがないまま別れ、しばらく経って彼女から時計を売ってしまったと電話を受ける…「時計をあげて良かった」と振り返るリリー。
 ここにプレゼントの本質があるように思う。
 あれっ、こんな感じはもしかしたら『東京タワー』にあるのかな、と思わされた。

 「筆跡」「声」という項目があり、これらはかなり興味深い。
 表現を生業にしているリリーの一番濃い部分が出ているように思う。

 つまり、きれいな字より読みやすい字の方がいいということ。
 声によって人は判断され、声によって自分の人格を形成していくということ。

 ラジオ番組構成などの仕事をしてきて、多量の字や声に接してきた末の結論はなかなか重い。

何かを身につける遠足

2010年05月29日 | 雑記帳
 木曜日は町陸上競技大会があり、朝の5時過ぎから夜の反省会?までフル稼働だったのでの疲れがちょっとたまってしまった。

 木曜日の学校ブログ↓
 http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-260.html

 しかし昨日は2年生の遠足へ、楽しく引率させてもらった。

 金曜日の学校ブログ↓
 http://miwasho.blog68.fc2.com/blog-entry-262.html

 自分の子供時代とは比較できないほど、子供一人ひとりの「お出かけ頻度」や「遠出体験」はあることだろう。
 しかし、それでも遠足は遠足であり、子供たちが楽しむ大きな体験であることは確かなようだ。何よりその笑顔の多さが物語っている。

 教室の仲間と一緒に出かける楽しみは、そこでの活動がどんなものであれ、心の中に刻まれる要素を大きくしている。だからこそ、精一杯心身を動かす設定、共同・協力できる設定などが求められているわけで、単なる見学という考え方からはだんだんと脱してきているのだろう。

 夢中になって遊んでいるときほど、ふだんは見えない関わり方が目に飛び込んでくることもあり、子供の言葉一つ一つに耳を傾けてみると実に面白い。

 また給食が当たり前の現在、お弁当の持つ意義深さも感ずることができる。そして多くの教師はその昼食場面が一つの児童理解を深める機会となっている。
 おにぎり一つとっても、そこに字を入れたりキャラクターの模様付けしたり…そういう姿もあれば、かけ離れた姿もまたある。

 何を汲み取り、どんな接し方が必要なのか、改めて考えさせられた。
 ほんのちょっとだけれど、遠くに出かけてまた戻ってくることで、子どもが何かを身につけたように、教師もまた何かを身につける。

やさしさの漢字は奥行きで決まる

2010年05月28日 | 読書
 小学校であれば、教育目標に取り上げやすい言葉として「やさしさ」「かしこさ」あたりが筆頭と言えるのではないだろうか。

 「やさしさ」「やさしく」はありふれた言葉だが、他の人を思いやる心を表す字句としては、簡潔であり明確でもあると思う。だからこそたくさんの学校で使われている、そして教室の中でも何か問題の起こる度?に、飛び交っている、ということだろう。
 
 さて、改めて「やさしさ」という言葉の意味を考えてみるとなかなか面白いもんだなと気づかされた。
 これも『「甘え」さまざま』という本に書いてあったことをもとに考えたのだが、「やさしさ」には「優しさ」と「易しさ」があり、その二つは比較させながら考えると興味深い。
 
 「あの人はやさしい」と取り立てて言う場合、それは発見した意味合いが強い。
 もちろん、ずっと感じてきたことを強調して伝える場合もあるだろう。
 しかし、今までの見聞や外見、表情から察し得なかったこととして、言葉で表現される方が多いと言えるのではないか。
 そう考えると、著者のこの言葉に納得がいく。

 前以てわかっているやさしさは容易に近い。
 
 そうかあ、ふだんから優しいと思われている人は、実は易しいだけなのなあ。何でも頼めば助けてくれる、親切な声をかけてくれそうだ、あの人はやさしいだけなんだあ……などとあまり人前では口に出せないつぶやきが浮かんでくる。

 つまり、易しさには奥行きがなく、優しさには奥行きがある。もっと言えば、優しさは奥に潜んでいる場合が多く、それを絶えずひっぱり出せる人は易しいと勘違いされることがある。
 しかし表面も奥底も優しいという人も結構いたりするんですな、と思いつつ、やさしさの漢字は奥行きで決まると結論づけてみる。

あれがボクらの時代

2010年05月26日 | 雑記帳
 日曜日の朝7時からフジテレビ系で放送している「ボクらの時代」という番組を観ることが多い。
 http://www.fujitv.co.jp/b_hp/jidai/index.html#cast
 先週の組み合わせは、大橋巨泉・前田武彦・小沢昭一という三人で、「ゲバゲバ世代」?としては愛着のわく設定である。
 といっても話は、それ以前のテレビ・ラジオ黎明期のことのようで、どこか昔話のような雰囲気にはなっていた。

 一つ気になったことがあった。
 今の放送が「編集」に長けていることによって、本当の芸(能)人が生まれにくい状況が生じているという。もっともなことだ。
 生放送でしかやられなかった時代では、その場での正確さやパフォーマンスが全てであり、個々に委ねられる部分が大きい。結果、それをこなしていくには本物の話芸などが必要であることは言うまでもない。

 で今はどうかというと、ほとんど関係がなく、話題性のある人を出し、必要な箇所をウケルようにつなげていけば、それで番組が成立するような流れになっているのだろう。
 それでは表現する側の力がついてこないことは目に見えている。従ってそれを意識している者の多くはテレビを離れ、また別の場所で力をつけているということになるかもしれない。
 
 お笑い出身の役者が非常に多いわけは(ほとんど人気に頼った起用であることを知りつつも)ステージで鍛えられているという感覚が何か有利に作用していることがあるのではないか、そんなことも考えた。

 もう一つふいに浮かんだのは、学級通信などの手書きとワープロ書きの違いという古典的な話題。生放送と編集放送の違いと似通ったものを感じるのは私だけだろうか。

 手書きの時、書きたいことは決まっていてもあまり構想がないままにスタートし、なんとか終わりに辻褄を合せてきたように思う。
 今も結構好きに書いているが、編集できるという気楽さがあることによって、少し切実感に欠けたような文章になっているのかもしれない。

 もうワープロ書きに変更してから20年以上が経ってしまった。
 あれがボクらの時代だったか。今がそうなのか。

廃校地2010

2010年05月25日 | 雑記帳
 町内の山間部にある廃校地へ、週末ごとに三回続けて足を運んだ。
 学校を閉じるその最後の年に、一年間だけ勤めさせてもらった学校である。

 一回目は連休明けに桜を撮りに行った。
 『秋田の桜』という写真集の表紙を飾ったエドヒガンは、残念ながら満開をわずかに過ぎたが、まだまだ魅力のある姿をそこに見せていた。グラウンドを見下ろすソメイヨシノも元気だった。
 
 写真その1

 校舎も体育館も跡形なくなって久しい。わずかに校門と記念碑だけが、ここに学び舎が存在したことを知らせる。
 所在地の経度と緯度を記した標柱が、朽ちかけ倒れかけていた。昨年も一昨年も足を運んでいたが、そのことに気づいたのは今年。
 ああここに書かれた数字はもうすでに意味を失くし、木片とともにこの小高い丘の土になるのだなあ、と少し感傷的になる。

 校舎からグラウンドへ降りる小道に咲くツツジの蕾が美しく愛しく感じたのは二回目だった。

 写真その2

 しかし、次の週になって結局その花はひどく老いたような咲きぶりしか見せず、人の眼が傍にないことを痛切に感じさせる。

 三度目はこの日曜日。
 初夏といってもいい気候のなかで、少しばかりの山の恵みをいただいた後、記念碑の横に止めた車にもどった。

 傍にある一本の八重桜が満開を迎えていた。
 一陣の風が吹き、花びらを散らす。一人で浴びるには惜しいような花吹雪である。
 二度三度そんなふうに風が繰り返し、山際を駆け抜けて昇っていくように見えた。

 写真その3

 開け放した窓から車内のシートへ、花びらが舞込んでいる。
 簡単に払う気にもなれず、そのまま乗り込みエンジンをかけてゆっくりと坂を下った。

つまみ食い読書の作法

2010年05月24日 | 読書
 読書法、読書術の類も結構読んでいると思うが、何か特定のことを実践しているわけではない。
 先月ある雑誌にも「読書術 キホンの『キ』」というページがあった。ビジネス系だったので、そこでの結論はおそらくこの文章か。

 読む「人」、読む「本」、読む「目的」などによって、適した方法は違う。そこで必要なのは、言葉は悪いが〝つまみ食い〝の感覚を持つことだ。
 
 そう言われれば私などもまったくそうかもしれない。
 その中でぐんと惹かれる著作もあれば、正直読んで無駄だったと思うものもたまにある。つまり、つまみ食いにとどまらず味わいたいと食べつくす感覚と、あっこれだめと本当の味見で止めてしまう感覚か。

 それでいいかあと思いつつ、何かこんな心がけが必要…という程度は持ちたい。そんなことを考えていたときに、こんな一節に出会った。

 新しい本を読んだ後は、間に古い本を読まないうちは次の新しい本を読まない方がよい
 
 C・S・ルイスという学者が書いていると、『「甘え」さまざま』(土居健郎著 弘文堂)の中にあった。

 これはなるほどと思う。何を「新しい本」「古い本」とするかは少し考えなくてはならないが、今の自分だったら古い本を「再読してみたい以前読んだ本」と限定してもよくないかと勝手に決めた。

 再読してみたいという気持ちはがっつり食べたいという欲求と同様である程度充たしてくれるものだろうし、新しい本はまずはつまみ食いでいいのだと思う。
 これは、我流「つまみ食い読書の作法」というべきか。

笑いをとるための準備

2010年05月23日 | 読書
 ダジャレなら自信はある。
 あたりかまわず撒き散らしているわけではないが、おやじギャグ選手権があったら(あるかもしれないなあと思いつつ)地方予選突破ぐらいはいけるだろう。

 と、何もならない自慢を書いているわけだが、それがユーモアとかジョークとかになるとちょっとハードルが高いなあ、というのが正直な気持ち。
 そんな劣等感もあってか、最近は小噺などにも手を染めようとしている。しかしそんなにすぐに上手になるわけではない。

 それでこの差は何かと少し真面目に考えると、「想像力」ということに尽きると思う。
 ダジャレは、言葉同士の連想、共通点などを探れば出てくるが、ユーモア・ジョークと呼ばれるものは、言葉だけでなく内容に踏み込んでイメージできるものを指す。
 従って言葉の知識はさることながら、幅広く常識をとらえながら、人があまりしない見方で語ることが求められる。視点の拡大、変換というあたりがポイントだ。

 この前読んだ『瞬間・交笑術』(G.B)は「大人を笑わせる23の法則」と副題がつけられていた。
 単純なダジャレなどもあったが、それ以上にどこかひとひねり、ふたひねりしている要素がいっぱい詰まっている。

 法則化するには当然分析的な見方や意味づけも必要になるわけで、そうした箇所は興味深かった。心に残るフレーズを羅列してみる。

 「状況の高低差」のことを「オチ」と呼びます

 前もってハードルの高さを再設定する行為は、平静ならば楽しめる内容を無力化してしまう副作用を持っているのです

 言葉自体が擬音に近づいてきている(中略)ひょっとして人間は擬音だけで会話できるのではないか
 
 道具としての言葉をどんなふうに使い回すか、笑いをとろうとしたときの準備や練習はかなり高度な言語活動といえる。
 

 「で、オチは?」と問われたら、こんなダジャレで返します。

 「まあまあ、オチツイテ…」

4つの定理で乗り越える

2010年05月21日 | 読書
 『ウェブ時代 5つの定理』(梅田望夫著 文藝春秋)
  
 著者の書いた新書は読んだことがあるし、雑誌記事なども目にしたことがある。現代社会のトップランナーの一人とも言うべき人物だと思う。

 ネット時代の聖地ともいうべきシリコンバレーがどんな場所なのか自分の頭では想像がおよばない。しかし、そこで語られること、つまりこの本で語られていることは、多くの仕事で生き抜くために当てはまるように思われる。
 第5定理として題された「大人の流儀」はともかく、1~4まではまさしくキーワードと言えるだろう。

 1 アントレプレナーシップ
 2 チーム力
 3 技術者の眼
 4 グーグリネス
 
 1は、普通「起業家精神」と訳されているそうだが、著者はニュアンスとして近いのは「進取の気性に富む」だという。

 2で特に心に残ったのは、よく強調される「マネジメント重視」ということでなく、それよりも「行動重視」であると言い切った点だ。

 3は、対象に対する愛着や追求の大切さを教えてくれる。技術者として掘り下げていく中で様々な提案が出来れば、世の中を変えられるという信念だ。このあたりはテクノロジーの進歩が社会変化に直接結びつくという強みがあるのだと思う。
 では「教育技術者」の眼とはなんだろうとふと考える。

 4は、よく書かれていることだが「邪悪であってはいけない」ということだ。これが第一倫理でなければどうしようもない時代に生きていることを痛切に感じさせられる。

 さて、5には様々なことが書かれているが、一番興味をひいたのは「日本語圏特有の匿名文化」ということ。著者はこんな心配もしている。

 さまざまな「良きもの」が英語圏ネットや空間では開花しても日本語圏では開花しないのではないか

 「匿名性の方向に偏った文化」は様々な弊害を生み出している。
 そしてネットの危険性ばかりが拡大して規制をかける傾向が強まっている。消費対象に年齢制限をかけない商業ベースがあり、それに対して様々な策が提案されているとはいえ、共通意志を形成できない日本社会の脆さが見え隠れする。

 上記4つの定理で乗り越えなければならないことの一つである。

中途半端な道の志向

2010年05月19日 | 雑記帳
 複式学級、複式指導をテーマにした研修会があった。

 講師のお一人は初任の頃に山間のへき地で複式学級を担任したという。そこでの思い出や実践を語りながら、複式であってもいろいろなことが出来る、そして子どもにも教師にもプラスになる要素がある、ということを力説した内容だった。

 もう二十年近い年月が過ぎたが、私にも二年間の複式学級担任の経験がある。そこでの実践をいくつかまとめたことがあるが、そんなことも思い出しながら聴いた。

 具体的な指導法の話になったとき、自分が初めて受け持った頃に研修講座で聞いた、今でも耳に残っている二つの言葉を思い出した。

 「複式指導は、究極の間接指導法ですよ」
 
 これは教育センターの指導主事の言葉だった。つまり、子どもたちに指導すべきは学び方であり、自分たちで学習を進められるように仕向けなければならない、ということを意味している。

 もう一つの言葉は、自分でも担任経験があるベテランの校長先生の言葉のように記憶している。

 「半分の20分で片方の学年にとにかく一生懸命教え、もう20分で違う学年に懸命に教えるしかない」 

 言うなれば究極の直接指導だろうか。教師の短時間集中教授法を高めよ、ということだと思う。

 考え方としては正反対と言えるだろう。
 しかし現実的にはどちらも必要だ。
 どちらに軸足をおくかは、学年の組み合わせや人数、子どもの実態、さらにはその学校の歴史や環境にも左右されることだろう。
 
 今考えるとどちらも味わい深い言葉だ。
 前者は、間接指導の場が圧倒的に多いという現状を前向きに受けとめようという強さがある。
 後者の言葉を実現するためには、直接指導を受けていない学年が自分たちの課題に没頭している必要があるし、それはまさしくシステム作り抜きには考えられない。
 半分しか直接手をかけられないという限定の中で、指導言の質、教材の有効性などが吟味されていく。

 さて、自分はどうだったか。
 なんだかどちらも中途半端だった気がする。
 いや、その中途半端な道を志向していたのだろうかと漠然と考える。

遊撃という魅力

2010年05月18日 | 雑記帳
 「遊撃」という言葉が野球以外でも使われるのだなあと知ったのは、小学校高学年だったろうか、それとも中学校に入った頃だったろうか。

 たしか中国(満州地方だったと思うが)を舞台にした戦争物のテレビドラマを観た時だった。戦時中の「遊撃隊」が活躍する内容であり、縦社会の典型である軍隊で自由奔放に振る舞う主人公たちが魅力的でずいぶんと見入った記憶がある。
 
 「遊」という漢字の意味をその時は気にも留めなかったが、「遊ぶ」という意味の発展で、「遊休地」「遊軍」というように「現在必要がない」「待機している」といった使われ方もしていることは時を経てなんとなく理解していた。

 さて、先週参加したある研修会の資料に、「遊」という字を取り上げたものがあった。
 そこでは、「新明解」からという注釈があり、「遊」には「必要に応じて行動する」という意味が載っているという。自然な解釈といえそうだ。

 「遊」という字は、旗が風になびいている様子、または旗竿を持つ人の形から出来たという説があるが、いずれにしても「自由」と置き換えてもいいほど、憧れを感ずる言葉だ。

 仕事上手と言われる方は遊ぶことにも長けていて、たくさんの趣味を持つ人が多いように思う。
 それは、仕事にも遊びにも没頭できるという集中力のような一面とともにいつでも仕事に戻れるという切替のよさ、さらにある時は仕事そのものを遊びでとらえられる感覚も身につけているような気がする。

 二塁にも三塁にもいけますよ、どこでも中継しますよ、というような「守備範囲の広さ」を「遊撃」と表したことは、なかなか考えられているなあとつくづく思う。