すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

なにをしたのか,ただそれだけ

2014年12月31日 | 読書

 「2014読了」139冊目 ★★★

 『マスカレード・ホテル』(東野圭吾 集英社文庫)

 上手いです。さすがです。きっと映像化されるでしょうね。『マスカレード・イブ』を読んでからの本編だったので,主人公たちの持つ背景を知っているつもりになっていたが,山岸がホテルマンを目指そうとしたエピソードや,登場人物に絡む新田の高校生時のことなど,本当に入れ込み方が流れるようであり,不自然さがないのは上手としかいいようがない。

 「イブ」でも書いたが,ホテルマンと刑事の組み合わせの妙は大きい。最初の二人のぶつかり合いは一種の仕事論でもあった。急ぎの用事のために,チェックインの並ぶ順番を待てない客を「ルールを守れ」と非難する新田に対して,山岸はぴしりと言う。「ルールはお客様が決めるものです」。順番が来るまで待つという意味は,場によって変化する。これは深い。


 「2014読了」140冊目 ★★

 『悩むが花』(伊集院静 文春文庫)

 週刊文春の連載らしい。いわゆる人生相談の体裁をとっているが,相談者が納得?できる回答にはなっていないし,そもそも読者もそれを求めていないだろう。他人からみたらくだらない悩みに対して,著者がどんな声をかけるか,それが興味の中心。そして愛読者たちは著者の答を予想済みだ。この一言に尽きる。「そういう人生の大事なことを人に訊かないの

 大半が,上のような結論だが,いくつか「生きて行く上の肝心」を語っている。言い回しは微妙に違うにしろ要は「人生は悲しい,残酷だ,理不尽だらけだ,けれど我慢して生きていけ」ということ。おまけの形で作家たちの悩み相談もあって,内容は軽いけれど,ちょっと楽しい本だ。それにしても,伊集院が伊坂幸太郎の相談相手?の一人だったとは驚いた。


 そして
 「2014読了」141冊目 ★★★

 『ぼくの好きなコロッケ』(糸井重里 ほぼ日ブックス)

 しばらくベッドの横に置かれて開かなかった一冊。大晦日の今日,暗いうちから残りをめくり出してみた。ページの端を折っていた箇所は結構たくさんあるが,たぶん,この文章のところでじっくり思ってしまって,読むのがストップしたのだった。それは「事情を話し合っていたら,問題はただ複雑化するだけだ。」これは自分の日常にはつらい一言でもあった。

 読み進めていくと,またこんなことも書いている。「遠慮なく言っちゃえば『正解』探しばかりで人生終わっちゃう」…この二つを折り合わせるとしたら,「基本的に『求めるものは2番目に置け』なんだよ」だろうか。そして,今年の号で一番気に入ったのは,次の言葉。

 人の一生は
 なにを言ったかでもなく,
 なにを思ったかでもなく,
 なにをしたのか,
 ただそれだけじゃないかなあ。


 この一冊が今年の最後だったのは,よかったなあと思う。
 とにかく,元日から今日まで中身はともかく完走できた。

 拙ブログを訪問してくださる方々に感謝いたします。
 よいお年をお迎えください。

移す本,すれ違う本,戻す本

2014年12月30日 | 雑記帳
 夏休み,冬休みの2回ぐらいは本の整理をしているつもりだ。つもりと書いたのは,結局「整理」までたどり着かずに,ほとんど場所移動のみということになる。大まかに三つに分類する。書斎に置くもの→寝室書棚に置くもの→二階の書庫に置くもの,買った時期,使う頻度によって,こんなふうに分けている。


 整理下手のうえに,量的にも多い書籍なので,あまり分類などはしないが,教育書とそれ以外には分けている。ふと思い立って,教育書以外を著者別にしてみようと片づけに入った。二階に手をつければ収拾がつかないので,二つの書棚で行う。多いのは内田樹,糸井重里,そして当然最近の本はないが池田晶子である。


 前もあったが,同じ本が2冊あることに気づく。以前読んだのを忘れて再び買うドジだ。しかし,忘れているわけだから何度読んでもいい。出版業界が儲かったと思えばいいか。ちなみに今回の発見は次の三冊。『呼吸入門』(斎藤孝)『いじめの構造』(森口朗)『なぜ辞書を引かせると子どもは伸びるのか』(深谷圭助)


 残念なのは,読みかけたまま進まない本。結構あるようだ。昨日書いた『失敗の本質』(野中郁次郎,他)『日々の暮らし方』(別役実)『養生訓・和俗童子訓』(貝原益軒)…どうも難しいものは瞼が重くなって長続きしないようだ。これは仕方ないか。順番に読むのが駄目なら別のアプローチでもよいかと思いついた。


 整理をしていると,再読したいなあという本にも出会う。この感覚は結構好きだ。題名だけでなく,きっと内容のなかに惹かれる部分があったからこそ,手を伸ばしてみたくなるのだと思う。今回,書斎にカムバックさせた本は『アランの幸福論』『幸福に驚く力』『人は人によりて人になる』『感動の初動教育法』

あまりに象徴的な題名の悲しさ

2014年12月29日 | 読書
 「2014読了」138冊目 ★★

 『散るぞ悲しき』(梯久美子 新潮文庫)

 11月末の野口塾のときに,先生より紹介があった本である。副題が「硫黄島総指揮官・栗林忠道」。戦争に関わる島の名は記憶にあったが,やはりあの映画によって強く印象づけられたのが正直なところであり,それまで栗林の名前は知らなかった。日米合作(双方の視点で描かれた)という事実の持つ重みは,やはりこの著を通読するとひしひしと伝わってくる。


 題名は,栗林が電文に残した辞世の歌の末尾である。しかしその箇所が大本営によって「散るぞ口惜し」に改ざんされたという事実が,全てを物語っている。あまりに象徴的な題名である。「散る」ことは何のために,「散る」ことによって何を生かすか,「悲しき」という素直な感情の発露が,「口惜し」と捻じ曲げられて新聞発表されなければいけない悲しさ。


 現実社会で私たちが想像できる不条理と,あまりにも違いすぎる。そして違いすぎるがゆえに,本質では通底する何かを見つけられるような気もした。『リーダーという生き方』(佐々木常夫)にも書かれてあった,栗林が持つ「極限のリーダーシップ」は,一個人が抱えている多くの些細な日常と隔絶していない。逆に細かい点が見えなければ実現できない。


 「予は常に諸子の先頭に在り」…いよいよ最後の出陣にあたって将兵たちに呼びかけた,最後の電文である。この気高さは,この著に認められた事実を知ることによって読む者の心を打つ。戦争という極限状況であっても,いやそれだからこそと言うべきか,栗林のような存在の間近にあった多くの将兵たちは,まさしく生を燃焼したと言えるのかもしれない。


 しかし,それゆえに軍中枢部,大本営の下した多くの司令の責任に目がいく。購入したがまだ少ししか読んでいない『失敗の本質』(中公文庫)は,これらのことを書いているのだろうと頭に浮かんだ。そしたら解説(柳田邦男)にその本のことが触れられていた。「タテ割り行政と権益争い」がその本質だとすれば,この国では,まだ教訓は生きていない気がする。

自分に引きつける居住空間学

2014年12月28日 | 雑記帳
 住宅や建築に興味を持ったのは、今の家を建てる1年前ぐらいだったから、12年ほど前となろうか。雑誌好き、活字好きを自称しているから、かなりの量の書籍を揃えたと思う。実際に依頼した設計士へ、こんな感じというイメージを伝えるためにも使った。だいぶ処分したつもりだが、その時の数冊が書棚にある。


 その後も例えば「木の家」などという特集が組まれた本など見かけると、つい手に取るし、何冊か購入したものもある。先々週、行きつけの書店の雑誌コーナーに『BRUTUS』の合本「居住空間学」があり、目を惹かれた。買うほどではないなと思いつつ、ぺらぺらめくってある箇所を見て「やっぱり買う」となった。


 その箇所は、私淑する内田樹氏の道場兼自宅の写真である。その新築に関しては何度となくブログ等で読んでいたが、実際の様子がわかるのは初めてだったので、じっくり拝見したいと買った。氏曰く「不快な刺激のない、感覚を全開にできる場所」という木造建築物。「宴会のできる武家屋敷」という比喩が痛快だ。


 その凱風館という場は確かにため息の出るものだった。何度か目にしている「木の家」の中村好文氏のページにも惹きつけられた。しかし、他はかなり意外な「空間学」であり、驚かされた。整理されている、ゆとりがある、清潔である等々、快適な居住空間の条件を満たすのはその辺りだと思ったが、見事に崩された。


 「揃えたり、きれいに仕上げたりしないラフな家」「古くなるほど心地よさがます家」という主張も刺激的である。共通点は、どこまでも自分に引きつけて視覚、聴覚、触覚などを取り込もうとする姿勢。典型的な一言「家は人生の心地よい流れの、一番大きな部分」。何を身体に馴染ませるか、という点に尽きる。深い。


 こんなことをだらだら書いたあと、書店にいったら文庫コーナーで内田教授の新刊を見つけた。なんと『ぼくの住まい論』(新潮文庫)。単行本としては一昨年に発刊されていた。知らなかった。読むのが楽しみである。住まいの維持のために、雪下ろしを年中行事とする地方とは違うだろうなとちょっぴり妬みながら。

地域文集回顧~熱弁

2014年12月27日 | 雑記帳
 子どもたちの作品を読んで幸せになったはいいが,恥ずかしくなったり,考えさせられたりする「大人」の文章もあった。

 第20集という記念号に「Aさんへの手紙~あとがきにかえて~」という,なんとも,熱のこもった(ただそれだけの)拙文を書いていた。

 Aさん,私たちに今必要なのは「心がけ」やスローガンではありません。
 一歩を踏み出すことです。
 意味ない「忙しさ」や「形式」を打ちやぶることです。真に子どもたちのため,地域のためになる行動を創り出すことです。かつて羽後に集った先輩の先生方は,羽教振を発足させ,様々な講師を迎え学習し,文集を発行させたではありませんか。



 二十数年が経ち,その役割を担う大きな関わりを持った者の一人としては,情けない気持ちが湧いてきてしまう。


 改めてもっと古い号の巻頭言やあとがきなどを読むと,先輩の先生方がいかに幅広く,深い見識を持っていたか,わかる気がした。

 例えば第15集の巻頭言の一節である。

 言語を獲得する,作る技術を獲得することの意義は大きい。しかし,子どもたちの日常の目の確かさや,身のまわりの見えるものへの愛着がなければ,見えない心を見たり,不透明なものを突き通す力は生まれてこないだろう。(田口恭雄先生)

 例えば第10集のあとがきの一節である。

 私ども教師は,詩や作文をつづる子どもたちの,生活の土壌から心配しなければなりません。東北の貧困性は今形を変えて現れています。にもかかわらず,うわべはゆたかであります。この見せかけの繁栄につかってしまい,あまりにもめらっと育てている家庭や,のっぺりのほほんと育っている子供たちのくらしざまを,まず問題にしなければなりません。(佐藤光幸先生)


 「ことば」はいつも熱を放っていたはずだが,何かに覆われたり,埋もれたりして,結局,現実を思うようには変えてくることはできなかったと言えよう。

 しかし,常に現実と対応させて考えるという原則さえ踏み外さなければ,ことばの発熱機能は簡単に消えたりはしない。

 今,どんなことばを使い,どんな方向に導こうとしているのか。
 浅く考えないで…もしかしたらもっと口ごもってもいいのか,と思う。

地域文集回顧~至福

2014年12月26日 | 教育ノート
 地域文集の巻頭言を書く役目があって,ディスプレイに向かった。
 書き出しはすぐに思い浮かんだ。

 『羽後の子ども』には少し思い入れがある。

 自分が担当だった時期もあったので,まあその思い入れの部分は長くなるわけで,頭に浮かぶままにキーボードに打っていったわけだが,やはりどうしても以前の文集を見直さなければならないなと思った。

 そこで,自宅の書棚を探して,何冊か読んでみた。
 たまたまだったのか,もうそれしか保管していないのか,定かではないが,自分の担任時代に書かせた,子どもの作文・詩が載っている号がいくつかあった。

 当然とはいえ,読みながら懐かしさに浸ってしまう。

 初めて1年生の担任になったときの子が「クリスマスパーティー」という題で,こんなふうに書いている。

 先生がケーキをもってきてくれました。チョコのクリームでした。十人いるので,ろうそくを十本さしました。火をつけたら,先生のめがねにろうそくの火がうつって,きれいでした。みんなでいっしょにふうっといってけしました。

 至福の時を過ごしていましたなあ(涙)。

 読んだその日がちょうどクリスマスだったので,自宅の夕餉でそんな話題を出したら,「そういえば,ずいぶんと大きなケーキだったねえ」と覚えていてくれた。


 この学級は翌年から複式になり,三年生まで持ち上がることになった。
 二年後の文集には,別の子の「おべんとうパーティー」という詩が入選していた。

 ウィンナー
 にくだんご
 ゼリー
 サラダ
 ぜんぶで十六このおかず
 おぼんの上は
 ゆうえんちのように
 たのしそう

 と始まる詩を読み,ああそうだったそうだったと思い出した。
 
 各家庭にお願いし,一種類で十六人分のおかずをそれぞれの家で作ってもらい,それを持ち寄ってパーティーをやろうと計画したものだ。
 何年か続けたように思う。
 そういう要望がすんなり通ったし,校内での了解などもなかった時代だ。
 それぞれの家の味を,ほんとうにたくさんの笑顔で頬張ったように思う。

 この詩は次のように結ばれていた。
 たぶん,指導者だった自分の思いがこうだったからに違いない。

 ああ,しあわせ
 ぼくらのおべんとうパーティー


拾い読みのキニナルキ

2014年12月25日 | 雑記帳
 遅ればせながら『総合教育技術』誌の今月号より,キニナルキを三つばかり。


 巻頭インタビューで登場したのは,ジャーナリストの門田隆将氏。
 「吉田調書」誤報問題のことを中心に,情報リテラシーの話題で,次のように語っている。

 学校教育には,本を読んで真実の世界に行き当たりなさい,という教育こそ必要である

 本の情報量,物語,著者の気持ち,願いは,きっとネットでただで手に入る情報とは大きな違いがあるはずである。



 石川晋先生が,特集の中で一本原稿を書いている。
 年度初めに中学1年生に対して詩の視写を行い,こんな見取りをするという。

 もし視写の結果が著しく悪かった場合,子どもたちは授業や学校そのものに対して,よい感情を抱いていない可能性も高いでしょう。

 これは納得できる。視写に意図的に取り組んできたかどうかではなく,活動をトータルに見た場合に,授業がきちんと機能していたかどうかの視点になるということだろう。
 書き写す意欲や力を育てられる授業の安定感を想う。



 有田和正先生の追悼特別企画があった。
 大学教授になってからのエピソードの一つに頷いた。

 教師になった教え子たちを案じ,折に触れ,「がんばり過ぎないように」などの便りを送り,その成長を楽しみにしていたという。

 ご自身が何より「追究の鬼」であった先生が,どんな気持ちでそう書かれたのか。
 今学校現場で「がんばる」ことの意味が問い直されなければ,教育に笑いや面白さは生まれないのかと,ぼんやり思う。

イブに「マスカレード・イブ」読了

2014年12月24日 | 読書
 「2014読了」137冊目 ★★★

 『マスカレード・イブ』(東野圭吾 集英社文庫)

 8月末発刊とあったが、書店で見かけたのは初めてだったので、新刊だろうと手に取った。帯をみると、どうやら『マスカレード・ホテル』という前作がありその続編らしい。しかしその一冊は見当たらず、いいやと思って買い求めた。4つの中編があり、最後の標題作でのそれらの主人公が登場するが、実際に出逢っていないまま。これから物語が始まる感じだ。


 検索してみて、ああそうかと思った。前作がシリーズ第一弾で、主人公である山岸と新田が活躍するらしい。その「イブ」という形で書き下ろされたのだ。こういう出版の仕方は何かであった気がするが思い出せない。いずれスピン・オフという形で、ヒットを派生させるのも最近の流行り。逆にその経緯を知らないから時間軸で楽しめるメリットもあるなあ。


 言葉は何十年も前に耳にしていながら「マスカレード」の意味は定かでない。「仮面舞踏会」「仮装」「見せかけ」…なるほど。最初の作品「それぞれの仮面」に表れている。若く不慣れなクラーク山岸尚美が、先輩からかけられる一言にその意味が記されている。「ホテルを訪れる人々は仮面を被っている。お客様という仮面をね。それを剥がそうとしてはいけない


 覆面作家をテーマに書かれた『仮面と覆面』という話がなかなか秀逸だった。設定や展開が面白く、実にテレビ的かもしれない。それはホテルだけの話だが、全体の構成としてホテルマンが仮面を守ろうとする仕事、そしてもう一方の主人公である刑事は仮面を剥がそうとする仕事、この取り合わせはやはり絶妙ですな、人気作家殿。と深く感心してしまった。


 「マスカレード」という歌がある。私より少し若い人たちはtrfというかもしれないが、思いだすのは、「This Masquerade」のカーペンターズの曲。レオンラッセルの作品だ。意味もわからず聞き惚れていた学生時代が懐かしい。それはまさに自分のイブか。ずいぶんと長い前夜祭。仕事を持つということは、全てマスカレードのように思えてくる。飛躍しすぎだ。

コンビニ用語,観察の視点

2014年12月23日 | 雑記帳
 猛烈な勢いで増え続けている某コンビニのS。今までRが2軒しかなかったこの町にも出来るようだ。昨日、たまたま隣市にあるSに入った。店員は赤いサンタの帽子をかぶっている。部活帰りの高校生が入ってきてやや混雑している。コンビニでそう待たされることはないので、やはり繁盛しているのかと判断する。


 ある雑誌で、そのSの「接客6大用語」というものを見かける。「いらっしゃいませ」「はい、かしこまりました」「少々お待ちくださいませ」「申し訳ございません」「ありがとうございました」「またお越しくださいませ」…ごく普通に思うが、それはやはり「用語」である。生活語との違いを意識することが一歩なのだ。


 この六つを言うタイミングは素人でもわかるような気がするが、やはりマニュアルを徹底していくだけでは心はつかめない。トレーニング部のマネージャーさんがこんなふうに書いている。「重要なのは、マニュアルなどで接客の基本を知り、そのうえでお客様を認知して、何を求めているかに気づくことなんです」


 何の仕事でも基本は変わらないものだ。無理やりな感じで結びつければ、授業の原則にも当てはまるのではないか。さらに、言葉の使い分けという例示も興味深かった。これはある居酒屋グループの研修センター長の資料だが「ありがとうございます」と「ありがとうございました」との使いわけが表にされている。


 「~ます」と「~ました」の第一の違いは距離。「2M以内」と「3M以上」で区分される。次は向き。「顔が見える・見えない」で比較されている。さらに「ます」は言葉の付け足しがいいとされ、「ました」は断定調なので、最後の見送りに充てるという。言われてみれば納得である。この観点でSで観察してみようか。

業深い者たちのキャッチボール

2014年12月22日 | 読書
 「2014読了」136冊目 ★★★

 『家族の歌』(河野裕子・永田和宏,他 産経新聞出版)

 この歌人夫婦のことは知っている人も多いだろう。
 息子や娘も歌人であるし,さらには息子の嫁までつくるようになって,計五人の歌とエッセイで構成された一冊である。

 短歌を少しでも興味があれば周知のことだが,病に倒れた河野裕子を巡って死に向かう日々,死後の喪失に向き合う日々の記録と言ってよい。

 あとがきに,息子の永田淳が書くように「ある種の見せ物にも似た企画」なのだろう。
 しかしこれは「短歌」という表現手段を持ち得た「家族」が,それぞれの思いをさらし合うという,きわめて稀な「見せ物」であり,実に興味深かった。またリレー形式で書いていく,字数の決められた枠での文章モデルとしても貴重な一冊のように思う。

 歌人河野裕子のがん闘病とその暮らしについては,存命中,そしてその死後も本人と夫である永田が書き連ねてきたことは多い。今さらながらに,書くこと,詠うことの重みを感じさせる。
 永田はこう書いている。

 私たちはどんな悲しみを詠うときにも,常に歌の出来栄えを意識下に測ってもいる。(略)何度も挽歌を作ったが,故人への悲しみを詠みながら,なおいい歌ができれば喜ぶのが作歌というものである。なんという自己矛盾。


 家族全員がこの「業深い種族」である日常は,私などとても想像できない。
 ただ,ここに表されている,細々した暮らしや相手を想う気持ちの本質は,ところどころではっとさせられることが多かった。

 受けとめた思いは,昨今の「家族」のあり様の変化とは相いれないものかもしれない。けれど信じ切っていきたいことばかりだ。
 引用しておく。

 叱られて子供は育つ父は父の母には母の叱り方があり(裕子)

 君の択びに文句のあらうはずがない初対面の男と呑んで盛り上がりたり(和宏)

 私が結婚して,母は,「家を明るくして,温かくして待っているのよ。暗い家に一人帰しては駄目よ」とよく言うようになった。(紅)