すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

永遠の宙ぶらんと…

2011年07月31日 | 読書
 よく見ると、へんな題名である。

 『宙ぶらん』(伊集院静 集英社文庫)

 一般的には「宙ぶらりん」だろう。でも「宙ぶらん」という言葉もあるような気がしないでもない。
 短編集であり、その一つとして表題作があるが、その作品の中に「宙ぶらん」という文字はなくて、「宙ぶらりん」なら使われている。

 ちなみに辞書で引いてみる。
 「宙ぶらりん」はある。「宙ぶらん」はない。予想通りである。

 しかし見出し語として「ぶらりん」はないけれど、「ぶらん」はあった。
 ということは、「宙」と結び付けることによって「ぶらん」を強調させたということか。
 「宙ぶらりん」という一般的な言葉のイメージよりも、垂れ下がっているさまがより鮮明になるように…。

 この短編集は、いずれも「死」が取り上げられている。
 伊集院ワールドの中で重要な位置を占めている「死」。
 その描き方は様々であるが、そこにはありきたりの意味での祈りも悼みもないような気がする。

 何かを失くしながらも何かを抱えて生き永らえている人間の、いわば宙ぶらんな状態を、いろいろな角度から描いているような、そんな感じだろうか。

 思えば人は皆、何かにつかまりながらその日その日を暮らしているとも言えるだろう。
 自分の中にしっかりと芯があり、地に足をつけて歩む人も多いように見えるが、実は一歩先も危うい。

 ここはもう開き直って?自分が何につかまっているいるのか、はっきり見定めた方が、逆に強いか…そんな考えも浮かぶ。
 永遠の宙ぶらんと宣言してしまえ…
 
 ところで、昨日書いた「奔放さ」と言えば、この作家も似たようなイメージがある。
 直感を重ねて直観と書いた考えに、直截につながるこんなフレーズを短編の一つに見つけた。
 その種の人間がつぶやきそうな一言である。

 人が何かをするのに理由などあるものか。

直感を重ねることによって

2011年07月30日 | 読書
 これは確かに読ませる小説だった。
 ベストセラーになったというが、残念ながら題名も知らなかった。

 『水曜の朝、午前三時』(蓮見圭一 新潮文庫)

 この作者が秋田県出身で地元の新聞で連載していたことは知っていて、時々目にしていた。ただそんなに興味があったわけでなく過ごしていたが、あの俳優児玉清の死去がきっかけとなった。
 読書家としてつとに知られる児玉清が絶賛した小説…なんでもCMに利用される世の中で、そのことがどの程度信憑性があるのかわからないが、BSのブックレビューなどを見る限り、ううんいいんだろうなあと、夏休みの皮切りの軽い読書として手にとってみた。

 いわゆる恋愛小説という範疇になるのだろう。自分にしては珍しくぐうんと惹きこまれる。
 四条直美という主人公が娘に充てた回顧テープを書き起こした形をとっているこの話は、構成も巧みであり、設定や筋立てにも工夫があり実に飽きさせない。
 主人公の年齢が昭和22年生まれであり、主たる舞台が大阪万博という点で、世代的には違うが雰囲気は十分わかるし、数々登場するロックシンガーの名前も承知している。
 
 もしかしたら、若い当時に一種の憧れを抱いた世代であることも影響しているのかもしれない。
 作者は私よりほんの少し年下ではあるが、出版社に勤めていたというキャリアもあり、その時代の余熱を感じとるに相応しい場を経験してきたに違いないと想像した。
 
 読了後に、一つ問いを立ててみた。

 奔放な人とは何を身につけているか?

 主人公はある部分で奔放な生きかたを具現してみせている。それは何を大切にしたからそうなったのか、考えてみた。

 直感だろうか、と思った。
 そして、それを重ねていくことによって、直観になるのではないか。そんなふうに思えてきた。

 主人公が人生の問題に直面した時代は、古さや固さが残っていた時代だがある意味ではわかりやすく、自分の生きかたを選択できたかもしれない。
 不透明な時代だからこそもっと直感に頼るべきだろう…手遅れな考えも浮かんでくる。

愛機復活はうれしいけれど

2011年07月29日 | 雑記帳
 7月13日だったと思う。
 職場においてある個人用デスクトップパソコンが動かなくなった。
 少し前から調子が悪く、そのたびに電源を切るしか方法がなく、それを繰り返していたのだが、とうとう駄目になった。
 電源は入るが画面がつかない。ディスプレイは大丈夫であることは確かめたし…この症状を少し調べてみたら、結構重病である可能性が大きいとわかった。

 担任ではなくとも、学期末のあれこれが多いときに、これはちょっとキツイ。
 バックアップ用のハードディスクもつないでいるが、データをまるごと取り込んでいるのは昨年2月までしかない。
 これでは作成文書形式などほとんど使えない状態である。

 嘆いてばかりいてもどうしようもなく、結局支給された学校用PCを使ってなんとかしのいでゆくことにする。
 しかしディスプレイの質の悪さを始め、vistaと7の違い、連日更新しているホームページデータが使えない(ネット上からダウンロードして再構成)ことなど、苦闘の連続だった。
 様々な修正に時間がとられ、改めてこうした機器との付き合い方について考えざるをえなかった。

 まず、なんといってもデータのバックアップをこまめに行うこと。
 それもパソコン内部ではなく、外部ディスクにつなぐこと。ネットを利用することが主流になっているのだろうが、まだちょっと自信がない。

 次に、手の込んだ仕上げ(単純にいえば文書の字体で特徴をだすことなど)をした場合、それは汎用性が狭まると意識すること。
 通信作成など少し凝ってみたくなるが、どの程度にしておくかは、どれだけ拡げようとしているのかと併行して考えたほうがよい。

 その他、個人情報管理や写真保存の方法など細かい点はあるが、考えていくにつれ、自分はなんやかんや言ってもPCを文書保存と清書中心の機能いわばワープロ発展形としてしか活用できていなかったことに気づく。

 ネット通信が可能なきわめて多機能な筆記具…使っているうちに愛着がわいて、簡単に替わりが見つかる代物ではない…こんな時代がかった考えで止まっているんだよ、と思う。

 約二週間の入院後にもどってきた愛機(いつの間にそんな愛情表現を…せめてデータだけでもと言っていたくせに)。メインボード交換というから、心臓移植でもしたことになるのだろうか。

 復活は嬉しいけれど、おまえとの付き合いをちょっと考え直さねばいけなくなったな。

達成度20%からの脱却

2011年07月24日 | 雑記帳
 言うまでもなく、例年に比べて少し心沈み、どこか落ち着きもなく、やはり慌ただしい23年度のスタートだったと思う。
 それでも、自分なりのチェックリストは作っておいていたことを今になって思いだす。
 そう、それをもとにした振り返りは正直一度しかできなかった。
 いい評価であるはずがない。

 仕事にかかわること9項目、私的なこと7項目の計16で、自信を持って○をつけられるのはわずか3、△評価も4つだ。
 達成度からいえば20%というところだろうか。

 で、思うことは「本当にそれをしたかったのか」もしくは「しなければならないと強く感じていたのか」である。

 このあたりの設定にそもそもの不振の原因があるのではないか。
 漠然としているが、このもやもや状態を脱するためには、心の内を見つめていく過程が大切だ。

 基本ではあるが、職業人としてまず「しなければならないこと」がある。この中には当然重要度の違いがあり、得意不得意の幅もある。
 そして「したほうがよいこと」があり、それが自分の「したいこと」と結びつけば、これはかなり快適な活動となる。あまり気乗りもしないのに見栄をはったり、他者からの評価が気になったりしていることも多いだろう。
 そのあたりをどう削減できるか、それがおそらくポイントだ。
 仮にチェックリストに挙げなければならない項目であっても、そこの達成ポイントを低く見積もればいいではないか。

 つまり、ありがちなものだが、順位はこうなる

 1 重要でしなければならないこと(得意不得意にかかわらず)
 2 重要ではないがしなければならないこと(得意なら十分行う)
 3 自分もしていることが好きだし、したほうがよいこと
 4 自分は得意でも重要性も感じないが、したほうがよいとされていること

 きわめて独善的に振り分けた。こんな感じで目の前の仕事などを投げ込んで、夏休みが始まる。

 1と2のどちらを先にするかはセンスが問われるかな。
 
 それから、3が多ければ、4なんかしないよ…と言ってみたいと、気弱な私。

季節を越してしまった本たち

2011年07月23日 | 読書
 春以来、いつも手元にあったり鞄の中にあったりしながら、実際あまり読み進めていない本がいくつかある。


 『悪いのは子どもではない』(公文 公 くもん出版)

 「公文式教育法81のポイント」という副題がついているこの本は発刊されてから十数年経つものである。

  わが子に対して「ちょうど」の内容を、学習させることがいかに大切か

 この一言に思想が表れているだろう。
 それは当然のことでもあるし、それだけではいけないとも思う。
 それは学習塾の理念でもあり、学校教育が歩む理想の過程とは少し異なるものと思う。

 それにしても今読んで、指導上のヒントになることが結構あることに感心してしまった。
 同じような指導をしている学校教育の実践者も多く、影響があったとみるか共通性があつたとみるか、興味深い。


 『学級経営 10の原理 100の原則』(堀 裕嗣 学事出版)

 ああ中学の先生もここまで細かくやるんだあ、さすが堀先生!というのが最初の印象。
 そしてだんだん、堀先生ならではのこだわりの視点が見えてくる。
 無理やり三つで括れば、「即時にこだわる」「微細にこだわる」「大局にこだわる」というところか。

 主たる読者層のイメージがあったと思うが、様々なレベルでとらえることができそうだし、一つ一つの項目は掘ればもっともっと広がっていくだろうなと、そんなふうに眺めた自分だった(読み込んでいくと時間がかかることは自明だ)。


 『当世病気道楽』(別役実 三省堂)

 「病気の時代」という序章があり、第1章の「風邪」に始まり34章の「痔」まで、独特の言い回しで語られている本である。なかなか読み進められていない。
 現在のところ7章「不眠症」である。それはこんな書き出しだ。

 「切らずに治る不眠症」が隠れたベストセラーになっている。

 こういうアイロニーのような表現は引き付けられる。同じ脚本家である宮沢章夫にもそうした要素があるように思うし、やはり自分にはそうした傾向(どうした傾向?)があるのかと密かに思う。

 最後が「痔」で終わっているところも大気に入りだ。途中を読み飛ばしてそこにたどりつくと、「痔道楽」という言葉が…。まさにそのとおり、演劇にありそうな設定だ。

 夏休みもちんたらちんたら読む一冊になると思う。

夏休みの二日前の苦悶

2011年07月22日 | 雑記帳
 そういえば確か去年もこんな状態のときがあった。

 式で話す内容が思いつかない。
 結構な年数を重ねているから、ネタ切れ状態ともいえるし、リサーチ能力の衰えとも言えるだろう。
 そんな繰り言より、肝心の中身を考えろ。

 以前の挨拶内容を参考にしようと思っても、PC愛機が入院中であり頼りにできない。
 まあ、こういうときは原則に立ち返り…。

 一学期の振り返りは、各学級のチェックリストから一つずつ訊ねてみることでいいだろう。通知表の文面にも結び付けられる。
 問題は夏休みのことだ。

 最初に浮かんだのは「夏休みに頑張ってほしいこと・・・・それは勉強だ!」という意外性を感じさせる言葉から入り、休み中に身につけてほしいことなどを語ってみる。
 いや、勉強の中身を話さずに「夏休みだからこそ勉強できること」「長い休みにしかできない勉強」と振って、考えさせる手もある。

 やはりキーワードは「勉強」だ。
 これを、うちわなんかに大きく書いて、パワーがわりに風でも送ったらどうだろう…。
 などと、ビジュアル的なことも考えてみる。白い大きなうちわなどはないものか。

 帰宅途中、小道具を求めに100円ショップへ。
 すぐにうちわは見つかったが、以前あったような白地のものはないし、ちょっと小さめになっている。
 これじゃあ、ちょっとインパクトに欠けるなあ、と何気なく見回した眼に入ってきたものがある。
 うーん、これは使えるかもしれない。

 そうだなあ、「夏休みに、つかまえてほしいもの」ではどうだろうか。
 職員の誰かにちょっとだけ動作をしてもらって、折り紙のなかに言葉を書いておくとか…イメージが固まってきたぞ。

 やはりいろいろと出歩いてこそ、思考が動き出すものだなあ…とにやにやしながら、そのちょっと大きめの100円のブツを持って店を出ると…、たまたま通りかかったのでしょうか、家の者が不思議な顔をしてこちらを見ているのでありました。

ここにも楽観の人がいた

2011年07月21日 | 読書
 勤務終了後、動かなくなったPCを持って家電量販店へ。

 修理依頼コーナーのカウンターで待っていたら、隣のカウンターにも親子連れが来た。子どもが二人。そこらじゅうを触って、跳ねてまわっている。
 なんだか見覚えのある子ではないか…ああ、本校児童かあ。
 目があったとたんに驚き、やや動きが鈍った。弟とおぼしき小さいほうの子は、私の傍にやってきて、顔を覗き込む。
 多少、そんなやりとりをしているうちに、またその兄弟は、いろんなものに触りに走った。


 有田和正先生の著書を久し振りに読んだ。

 『このユーモアが「明るい子」を育てる』(企画室)

 十年ほど前の家庭教育向けの著書である。
 副題として「ユーモア家庭教育のすすめ」と記されている。
 内容は、まさに有田先生の真骨頂、ユーモアあふれる内容がユーモアたっぷりに描かれている。
 他の著書や、何度か拝聴した講演で聴いた中身もあるが、改めて「おうそうだ」と頷く言葉も少なくない。

 「さわってはいけません」と言っても、小さい子は必ずさわります。これは手に目があるからです。

 「手に目がある」は慧眼だなと思う。
 初め認識するのは確かに目そのものだが、対象に対して触るという行為こそが「ナニモノか」を探る一番の目になる、子どもが小さければ小さいほどそのダイレクトな働きに制限を加えることができないのだろう。

 私が見かけた兄弟も、まさに「手に目がある」状態だった。

 さて、有田先生はその考え方を発展させて、「あくしゅ」という言葉をキーワード化する。

 花や植物とあくしゅ

 あくしゅしながら見るのよ

 鼻であくしゅしなさい

 見ること(目であくしゅ)は楽しいね


 これらの積み重ねが、「はてな」を持ち「追究する鬼」へ結びつくことは、有田実践をかじったことがある方ならば、容易に予想できるだろう。

 ユーモア表現もまさしくその通りだが、そういった言葉かけの武器を持ちながら子どもの言動を楽しく観られることが、子どもを大きく伸ばしていくと思う。

 ここにも「楽観の人」がいた。

名づけとは祈りです

2011年07月20日 | 雑記帳
 沢 穂希

 まさに「時の人」である。
 テレビで連呼された「サワ ホマレ」という名を聞き、文字で出てくる「穂希」と重ねたとき、理解するのに多少の間があった。

 「穂」はその通り。しかし「希」の方は読むには読むが、めったに「まれ」とは読まない。「稀」が一般的だろう。
 字面を考えての「希」だろうか、「希望」という連想もおおいに働くからか。

 それにしても「希」の「まれ」という意味はなにゆえか。
 調べてみた。

 「希」は象形文字である。

 爻(コウ)と巾(キン)の組み合わせで、糸を交差させて織った布を表している。
 手元にある『常用字解』(平凡社)と『漢和辞典』(学研)で、その部分は同じであるが、もともと「まれ」という意味を表すという解釈が違っている。

 まれの意味に用いたが、それは布の織り目があらいからであろう(字解)

 すきまがほとんどないことから「少ない」「まれ」という意味になり~ (漢和)


 字解の、織り目があらいから「まれ」というのも変な気がするが、「すかし織りの布の形」と限定しているところから、その織り方そのものを指しているという解釈なのかなとも感じる。
 学研の漢和の方が意味としてはしっくりくるなあ。なんせ続けて書かれていることがこうだから。

 小さいすきまを通して何かを求める意味になった

 あの同点に追いついたゴールといい、沢選手の生き方そのものといい、まさに「希」としか言いようがない。

 しかも「穂」と合わせてそれを「ホマレ」と読ませるとは…なんという符合だろう。

 やはり名付けとは祈りです。

楽観の人、最後の授業

2011年07月19日 | 読書
 「楽観」という言葉を使うときは、どこかその考え方の甘さを指摘するようなイメージがある。
 「事態を楽観視しているのではないか」「君は楽観的な見方をする人だね」のように…。

 確かに辞書においても「好都合に考える」「希望的な見通しをつける」という表現があり、ある意味ではそうしたニュアンスの強さが感じられる。
 
 しかし「楽しく観る」という本来のあり方は、実は望ましく、人生かくありたい、何より毎日を「上機嫌」で過ごせるではないか、そんなふうにとらえられるだろう。

 『最後の授業~ぼくの命があるうちに』(ランディ・パウシュ ランダムハウス講談社)

 2007年秋に、カーネギーメロン大学の講堂で行われたランディ・パウシュの講義のことは、この本を手にとるまで知らなかった。読み終えて、今どうなっているかを調べたら、翌年秋にランディは死去、そしてその講義は確かにyoutubeにあり、惹きつけられるように観てしまった。

 著者は「楽観の人」である。
 もちろん、膵臓癌患者として余命数ヶ月と宣告されている者が、いくら強くていくら楽観的であっても、涙し苦悩し墜ち込んでいく姿は当然のようにあった。
 しかし、絶望しないという一点において、生きる証しのために着実に歩むその眼差しの強さにおいて、「楽観の人」と名づけたい。

 この本には、本当にたくさんの惹きつけられる言葉がある。
 最後の講義のテーマが「夢をかなえる」であり、そのための心構え、処世訓、そして具体的な言動までが書かれてあるからだ。
 それは、死を前にしているという現実を知っているからなのか、よけいに響きを持って伝わるといえるのかもしれない。

 何も飾る必要がなく、全て経験に裏打ちされていることは、同じ字面であっても重みを感じるものだとつくづく思う。
 一つだけ引用するとすれば、これだろうか。

 壁がそこにあるのは、理由があるからだ。

 これに続く文章も感動的であるが、おそらく「楽観の人」の語る言葉は想像できよう。

 自分に引きつけて次につながる言葉を考えたとき、ふと浮かんだのは次の一言だった。

 おかげさま

 著者のランディにはあまり似つかわしくないだろうが、これこそ「楽観の人」になるコツ、日本人バージョンだ。そんなことに気づいた。

なでしこは阿修羅のごとくなり

2011年07月18日 | 雑記帳
 なでしこジャパン世界一の余韻が醒めぬままに、そのままテレビに向かってビデオ鑑賞をする。
 NHKのアーカイプとして放映された『阿修羅のごとく』(1979年)である。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85%E3%81%AE%E3%81%94%E3%81%A8%E3%81%8F
 
 ずっと以前もその再放送を見たような記憶はあるが、向田作品はやはり何度も見たいと思わされる。

 『阿修羅のごとく』の映画版を観て、メモを以前のブログに残しておいたのは2005年の正月だった。
 そこでは、器械運動の思い出をセリフに入れてくる巧みさに感心したものだった。
 「平均台がうまく渡れなくて」という一言によって、三女の生きかたそのものを想像させるところなど、さすがとしか言いようがない。

 今回のテレビ版も改めて観るとなかなかであり、やはり女の生々しさというか、したたかさを十分に感じさせてくれた。
 反面、登場する男の情けなさは、これもチクチクと心に刺さっていくようだ。

 この構図が日本のスポーツ界の現状でもあるか、と無理やり時事ネタに持っていこうとしているわけではない。
 
 とにかくそのドラマでは、登場する「女」の情熱のぶつけ方や仕舞い方、切り換えのはやさや平然と見せる仕草など、四姉妹と母を含めた五通りのパターンが描かれる。
 それに比べて男どもにはそうした、テキパキさというものがない。熱はあるのかもしれないが、どこか決定的なものに欠ける。

 ほらね、やはりこれはこの国の様々なことに通じているではないか。
 サムライという形容はいつの時代のものか。

 それにしても、向田さんは偉かったなあ。