すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

一服しながら読んだらいい

2008年11月30日 | 読書
 たばこのパッケージに、喫煙の害について警告する文章がついたのはいつからだったのだろう。

 おかしくないかと思いつつ、タバコ農家もいるし専売公社(古)も困るんだろうからなあ、なんてぼやっとしか考えていなかった。
 そんなもやっとしたところのカラクリも見えてきて、この新書はなかなか面白かった。

 『禁煙バトルロワイヤル』(太田光・奥仲哲弥著 集英社新書)

「太田総理」に対するのは、呼吸器が専門の奥仲医師。
 喫煙=肺がんのリスク、副流煙も危険です…程度の知識しかなかったので、奥仲医師の話は実に興味深かった。肺がんより怖いCOPD、苦痛の最高レベルは呼吸に関することだと聞くと、ああどうしようと思ってしまう。日常的な喫煙者から遠ざかってからしばらく経つが、逆戻りはしないと宣言しよう。

 しかし、太田総理は屈しない。
 まあそれは予想できたことだし、私自身喫煙だけが悪者にされる世の中の傾向に違和感を覚えていることも確かだ。
 結局、人生にかかるリスクにどう決着つけていくかであって、その点で徹底抗戦する太田に、手を変え品を変えリスクの巨大さを説明していく医師もなかなかのものである。

 健康問題はともかく、先に書いたタバコをめぐるマーケット、税収、こうした問題が興味深かった。
 結局、アメリカのダブルスタンダードという位置づけは、たばこに限らず多くの事象に関わってくる。その点に関してもっと意識的に教育の場で取り上げてもいいのではないかと思った。

 さて、禁煙運動に対しての批判などもちろん声高にできない自分をわかっている。
 しかしいつもこの国は一方的な論や運動が展開しやすいので、太田のこうした見方は的をとらえているし、動きに背を向け、肩越しにぶつくさ言ってみるのもまんざら悪くないことだと思う。

 なにか一つのことを訴えたいとか、夢中になっている人というのは、だんだん本来の目的からずれてきて、それをやる生活のほうが当たり前になってきちゃう。

 一服する余裕がなければ、足元も見えなくなる。

道徳はみ出し者の戯言

2008年11月29日 | 雑記帳
 どうも喉に引っかかった魚の小骨のように、つい思いだしてしまう。
 先日も書いた、道徳の授業研究会のことである。

 ある教師がこんなふうに言う。
「教師がしゃべり過ぎる」
 まあ、そうだったのだろう。
 参観者の発言からその内容を想像するに、だらだらとした説明であったり、お世話やきの助言だったりしたのだと思う。
 では、教師はしゃべらなければ「いい授業」なのか。
 一概には言えないが、できるだけ子どもの発言する機会が増えるように整理して、その話し合いの中で自分たちが変容していくことが理想の授業に近い…というのが妥当なところか。
 しかし正直、道徳は一時期の「読み物資料」至上主義からほんの少し抜け出した感があるようだが、授業観そのものはあまり大きな変化がないのでは、と感じてしまう。

 何かつまらない括り方をして、自分の苦手さを正当化しているような気もするのだが。
 自分の本音は…

 教師は価値についてもっとしゃべっていい。
 わからなくなったら、黙ってしまっていい。
 腑抜けの発言に突っ込んでみてもいい。

 こういう青臭い考えは単なる素人か、と道徳はみ出し者は時々そう思うが、自分はここにいるという姿を見せないで、発言を操るような構えで子どもの何が育つのだろう。

 その日参観した授業では、真摯に考えていた子も多くいたが、積極的に発言する生徒の中には明らかに教師の意図に迎合していくように感じさせる子もいて、痛々しい気がした。
 もっと多様な素材、過程、形態があれば、教師の自由度、本気度もコントロールできるのではないか、とそんなことも考える。

 道徳に関しては限定された時間枠からはみ出していく自分の思考がどうにも止まらない。

かますにかまされ

2008年11月27日 | 雑記帳
 2年生の国語の時間である。
 「回す」という漢字を勉強したので、
 黒板に「○○す」と書いて、言葉集めをさせる。

 いろいろ出てきた。もちろん動詞がほとんどである。
 出させた後にどうしたかはともかく、出てきた一つの言葉が気になった。

 かます

 2年生なので、その言葉を特に取り上げたりはしないが、結構これは渋い。
(小学生用の辞典には見出し語としてはなかった)
 つまり「噛ます・咬ます」という動詞と、「叺」(わらで作った袋)、さらに魚の「魳」という名詞があるうえに、私たち(つまり周辺の秋田人)が使っている「かきまぜる、かきまわす」という意味の「かます」があると思った。

「かます」は方言だろうな、何気なく愛読書「秋田のことば」を調べると、えっ、ない。
「かんます」ではないし、「かもす」でもないはず。
 では、標準語なの。
「噛ます」という意味の中に「相手に何か仕掛ける」のがあって、なんとなく「かきまわす」「もます」ニュアンスに近いので、それかなあとも思うが、ここでもう一度「秋田のことば」の標準語訳索引というのを使って「かきまわす」を調べたら、「ぶっちゃがます」という言葉にたどりついた。

 そして、その説明を読んでいくと…こんな言葉があるではないか。

「かます」は「かきまわす」の音変化した形
 
 「ぶっちゃがます」は私自身使ったことがないし、使用地域が遠いようだ。
私の住む地域では「かます」だけが残ったと言っていいのか。あまりポピュラーでない形で。
 でも結構使っているんだけどな。

 納豆をかましたり、机の中をかましたり、議論をかましたり…

 たぶん子どもが出したのも、そういう使い方だろう。
 見出し語に昇格させてください。

言葉には対象があるんだね

2008年11月26日 | 雑記帳
 今日の研修会で、講師が掲げたのが次の演題である。

 現場主義~春風秋霜

 現場主義はともかく、春風秋霜が気になった。
 どこかで見かけたが、と思ってすぐさま電子辞書を引いたが「春風」と「秋霜」はそれぞれあるにしても、四字熟語としては載っていない。

 講師の資料によると、人に接するときは春風のように、自分に対しては秋霜のように、ということらしい。
 帰宅してネットで調べたら、佐藤一斎の言葉であることが判明。

 春風を以て人に接し秋霜を以て自らを粛む。

 なるほど。わが身を振り返れば遠い境地だな…と少し遠ざけて、

 気になるのは「春○」「秋○」があったらそれに対応するような「夏○」「冬○」がないものか、ということだ。
 単純に考えると、「夏日」「冬雪」などかなと思うが、それはあんまりか。
 大漢和辞典で、「夏」「冬」それぞれ調べてみるが、そこにはないようだ。
 しいて挙げれば「夏炎」は近いが、「冬」はない。
 春と秋の対比が作りやすいのかもしれない。「春秋」という言葉も一般的だ。「夏冬」はそれに比べれば頻度が落ちるんだね。
 でも、調べたおかけで、こんないい言葉もあることを知った。

 冬温夏清
 
 なんと、グーグル検索でもあまりヒットしない。
 かろうじて、ここのサイトに意味が載っていたが
 それだけじゃないんだよ。
 対象があるのさ、へっ
 ざまあみやがれ、って誰に言っているんでしょ。

意味不明な遠さを笑う

2008年11月25日 | 読書
 連休中の読書は、文庫本と新書それぞれ一冊。
 相変わらず、少し緩めが続いている。

 『同姓同名小説』(松尾スズキ著 新潮文庫)

 著名人の名前を持つ人物を登場させる短編集だ。フィクションとは言いながら、全くの同姓同名とは言いながら妙にリアリティのあるところが面白い。
 しかし、演劇人らしい?シュールさやドタバタさはなるほどで、テレビでやかましく騒ぎ立てるお笑いとは多少違うところがさすがである。

 汚れつちまった贅肉に今日もカロリーが降り積もる

 心の中で落涙しながら、腹を揺すらせる名文句である。
 また数多くの駄洒落におやじ世代としては共感してしまうが、それを突き詰めていく?と結局意味不明なものに近づいていくらしい、ということがぼんやりわかる。
 今、お笑い番組に登場するいくつかの芸人にも、そういう要素を持つ者がいることを思い起こしている。
 本質は、こういうことかな。

 笑いをわかろうとするな。わかんない。その距離がいい。
 その意味不明な遠さに人は笑うんだ。

構えは二者択一ではない

2008年11月24日 | 雑記帳
 道徳の授業研究会での話題である。

 授業者は、資料本文や要約文などを黒板に貼りつけ、ほとんど板書なしで授業をした。それは板書することで生徒から目が離れ集中が途切れることを避けたかったという意図だったようだ。
 同僚の先生もその考えに同調し、この手法をとったから話し合っている生徒たちの一体感が出ただろうと感想を述べた。
 一方参観者からは、それにしても流れを押さえる板書は必要だろう、主人公の心情の葛藤が見えることが大切だ、といった意見が出た。
 助言者からも生徒に背を向けずにという授業者の意図はわかるが、板書の重要性は大きいということが強調されたように思う。

 二者択一的な傾向になっていることが気になった。
 道徳の授業づくりに関しては自信がないので(というより、自分がはみ出した考えを持っているのだと思う)、その観点からではなく、板書と子どもたちの集中ということを考えていたら、ある一つの言葉が頭に浮かんだ。

 四分六の構え

 故大西忠治氏の言葉である。
 黒板に体を向けきってしまわず、四分だけ黒板を向き、六分を子どもの方へ体を開くということを示している。
 結構難しい技術であり、練習も必要になる。
 これは授業が子どもの考え、思いをつなぐものであり、そのために教師は何をなすべきかという原点のところで多くの教師によって行動化されたものだと思う。

 これを協議会の場で持ち出すことが有意義とは言えないかもしれない。しかしこの授業研究をもとに改善策を考えようとしたとき、構えについて思考を巡らせ毎日の授業の中で意識的にやってみようという教師はどれほどいるだろうか…。
 いや、たぶんそれがわかっている人は既にやっていることだろう。

 ぎりぎり必要なことを煮詰めて授業を考えている人は、自分の動きに敏感なものである。

声と目で惹きつける

2008年11月22日 | 雑記帳
 声と目

 やはり、これが教師の一番の武器?だなあと思ってしまう。

 今週は、小学校1年生から中学校3年生までの学級の授業を見る機会に恵まれた。
 全部で20以上の教室は回ったと思うが、その4分の3以上は一斉授業の場面だった。そうすればどうしても教師の動きに目がいってしまう。

 その中でも自分の関心がいっているのは、やはり声と目だなと思う。

 惹きつける声  惹きつける目

 具体的にどんなことか、自分なりの考えを端的いうと、それは「表情がある」ということになろうか。

 もちろん、子どもの思いや考えをひき出すために、「無表情」を装う場合もあろう。
 しかしそういう場合も取り込んで、表情豊かな目と声が子どもの前にあることは、教室の空気が濃密になるような気がする。

 その意味でやはり大きな目の人、声に特徴がある人は得かなあと思ってしまう。
 反面、それを生かしきっていない人もいる。
 声の出し方、目の動かし方に特化した研修などはないだろうが、パフォーマンス的な要素についてもっと研修があってもいいように改めて思う。

 教材提示の工夫も大切、コーディネートする学習も必要、しかし子どもたちの力を伸ばす場所へ連れていこうとする教師には、身体というもっとも根本的な資源を生かさねばならないだろう。

 私が会った一流の方々は、ほぼ例外なく声と目が印象的だ。

あがきのようなあとがき

2008年11月21日 | 雑記帳
 昨夜、一つの「あとがき」を書いた。
 まるで「あがき」のようなあとがき。
 一人で、だらしねえなと苦笑しながらつらつらと…。
 以下に。

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 とんだ結末になった。

 この集約の構想を立てたのは夏だった。全ては自宅のPCネットのプロバイダー変更を決意し、実行させたことから始まっている。
 ホームページにアップしたものだから、簡単にできるはずとたかを括ったのがそもそもの間違い。
 さらにブログを二つ抱えていて、そのうちの一つもサイトが無くなったものだから、これもついでに少しは残しておきたいなあ、などと目論んだのがまったく駄目。

 えっ、こんなにあったの…とため息をつくことになる。しかしどうしたわけか、いったん始めると最終まで行きたくなる性分ゆえ、休み休みながらも原稿整理に取り掛かっていた。これが9月から10月初めの頃。
 どうやら整理はついたが、どうにも量が多い。これは2冊分としてやってみようと思い、ほぼ目次も完成させ、ページ打ちの九割かた出来てから…。

 11月、知っているところで印刷を始めたら、とたんに負担を感ずるようになってきた。
 2冊合わせて250ページを越えてしまう、時間はかかるし、第一こんな文章誰が興味をもつかしらん…などと逡巡し、決意の60%削減である。当然1冊にする。労働力半減。ああ楽ちん…じゃあなんで始めた?

 なんとも情けない顛末である。

 ともあれ、私にとっては8年ぶりの紙面集約である。
 その間にずいぶんと学校現場は変わった。取り巻く環境も変わっている。書いたこと自体、懐かしく思えてくる内容もあるほどだ。
 確かにそこにいた自分が、なんだか遠い別人であるように思える時もある。もしそうだとしたらその理由をどこに求めるか。それは仕方ないことなのか、悲しいことなのか、いや喜んでもいいのではないのか…様々な思いが巡る。

 「すべてはフローという覚悟」とこの夏にブログに書いた。谷川俊太郎のインタビュー記事を読んでいて思ったことである。
 「流されはしない」と大言できるほどの力量も覚悟もない自分であれば、せめて流される自分の位置と顔ぐらいはしっかりと心に留めておきたいものだ。

 もの覚えが悪いので、そのことを書いています。そのために溜めておきます。時々、見直します。
 つまりは、そういうことです。 2008 初冬
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詩の種を育む眼差し

2008年11月18日 | 雑記帳
 地域文集の審査会で、中学校2年生の教科書に載っているという汐見稔幸氏の「人はなぜ書くのか」という文章の一部を引用して挨拶をした。

 言葉によって、自分の心が刻まれて磨かれる

 時間がかかり面倒な「書き言葉」は、そうしたチャンスを持つということだ。
 文章の上手さだけでなく、そういう面を想像力を発揮して見抜けるかも大切なことだと思う。

 さて、このところ審査員の不足もありもっぱら中学生の詩を担当しているのだが、これは、と思う詩はなかなかないものだ。
 多いのが、形は整えているが観念的な言葉のオンパレードという類である。
 しかし、考えてみれば、自分も少し詩を齧ろうとしたときは、そんなものだったのではないか。
 今になって思うのだが、そんな詩は一読すると、伝えようとする相手がいないことに気づく。
 いや、対象はいるにはいる。
 まさしく、自分。

 自分に向かって書き殴った印象を持つ詩。
 そんな詩が力を見せているとすれば、やはりぎりぎりの体験や言葉を掘り下げていく根気を持つ者に限られるだろう。
 残念ながら、今の中学生にそれほどのものはある子が多いとは思えない。

 改めて汐見氏の文章を読み、障害を持ったTちゃんという子の詩をみると、かなり古典的な言い回しとは思うが一つの言葉が浮かぶ。

 詩は願いであり、祈りである

 それを見つけることに難儀する世の中だ。
 仮に見つけたとしてもその種のようなものを育むための眼差しが不足しているし、周囲も見過ごしていることが多いといえないか。

ラクをすることはラクではない

2008年11月17日 | 読書
 「ラクをしないと成果はでない」(日垣隆著 大和書房)

 不精者にとってはなかなか魅力的な書名である。
 以前読んだ『知的ストレッチ入門』もいいネーミングだったし、今回も中身は予想つくこともあるが、購読することにした。顔がいい本は私のような者には売れる、これも一つの真実だ。

 目次に並べられた100の項目だけでも結構おもしろいではないか。
 ビジネス書としてはいくつか意表をつく項目もある。

  4 お金で自分の時間は買えない。他人の時間なら買える 
 70 休暇中も仕事をしたほうが、のんびりできる 
 78 出欠を迷うイベントには行かない 
 
 読んでみれば納得の話になっている。
 多くのビジネス書や自己啓発書と重なる点はあるが、それらをスピード感を持って書き進めているところが著者の特徴かなと思ったら、なんと項目だけがあって「語りおろし」だそうである。うなずける。

 結局、仕事における「3M(あるのかな)」…ムダなことをしない、ムリをしない、ミエをはらないということに集約できるように思った。見栄をはるにしても「身の丈を知って」という前提が必要になっている。そのために周囲を分析し、自己を分析し、効果的な方法を探るという姿勢が貫かれている。

 ただ、肩の力を抜いて自在に仕事をしていくためにはそれなりの努力が必要だと思うし、著者がいう「ラク」の意味合いは結構難しいことなのかもしれない。インプット編の項目だけでも想像がつこう。
例えば
 
 74 人を待たせない。待たされても怒らない

 「待たせない」はともかく「待たされても」の所はなかなか難しい。心がけだけでは達せないのではないか。そのために筆者は「『待たされるための準備』をしておくこと」と言う。どれだけ準備の幅を持つか、そのあたりは頭の使うところだ。

 とにかく、ムダやムリやミエを積み上げてきている人間が、それを壊していくためにはかなり慎重になる必要がある。
 ラクをすることもラクではない。
 一挙にいかないで、まず何から取り崩していくかだ。