すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

それは、幸せな出会わせ方

2024年12月16日 | 雑記帳
 『野口芳宏 一日一言』(野口塾文庫)には、こう記されている。

 9月29日 <詩を虫食い(□の空欄)にして扱うことに関して>
 虫食いは完全なる回答が明らかになっていないと、学力形成にはならない。『これ以外に正解はない』という時に虫食いを指導に位置付けることができるが、そうでない場合は単なる当てずっぽうとなる。



 伏字を使うとクイズ的面白さになり、どういう学力を形成するのかが曖昧になりがち…という意味で心しなければいけない警句である。私の「詩の伏字クッキング」という実践及び提案を改めてみると、当時その危険性に対する意識はどうだったろうか。指導のメリットを挙げ、授業づくりのパターンも例示していた。


 先行実践(青木幹勇氏)から「理解することと密接な関係にある」「詩を読みながら、詩を作るという、学習をする」という考えをもとに、パターンとして「①伏字を予告する②伏字に気づかせる③展開法(巻き物)法」を用意し、予想から始まる授業展開を細分化している。読解に留まらず表現(作文)へ視野を広げていた。





 学力形成を十分に意識したではないか…と言いつつ、何より「楽しさ」が勝っていたと正直に言わざるを得ない。そう、自分自身が学んだ野口先生の「うとてとこ」も、俳句を扱った虫食いの模擬授業もいまだに楽しく心に残っている。その経験は詩や句をまるごと味わえた、つまり「読む醍醐味」が感じられたからだ。


 忘れられない講座がある。90年代半ば、2月の仙台だったと思う。野口先生が板書された俳句には、伏せられた字があった。「わが胸に住む人(    )冬の梅」。この予想は、まさにイメージを結ぶ作業だった。明らかになったとき納得感が「生徒」を包んでいた。詩歌との出会わせ方の有効な手法であることは間違いない。

「最後から二番目の…」という心地

2024年12月04日 | 雑記帳
 『最後から二番目の恋』…続編も含めてもう十年以上前のドラマだ。中井貴一と小泉今日子の主演で、鎌倉を舞台にした物語は本当にお気に入りだった。「事件」らしい出来事はほとんどなく、日常風景を織り込ませ中高年の恋模様を淡々と描いていた。脚本は岡田惠和。かの山田太一から褒める手紙が送られてきたという。


 極楽寺駅が印象的で、鎌倉観光をした折に立ち寄ったことが懐かしい。さて内容はもちろん、この「最後から二番目の恋」というタイトルが洒落ていた。実際にそんな台詞があったわけではない(と思う)が年齢設定からのイメージだろう。では、なぜ「最後」ではなく「二番目」なのか。そんな些末なことに気を留めてみる。





 「最後」の持つ本気度、切実感が、「二番目」と添えたことで多少和らぎ、それが肩の力の抜けた雰囲気に結びつくのだろうか。しかし、実際のところ、その恋が最後かどうかなど、神のみぞ知るである。もちろん、それは恋だけでなく、仕事や趣味、様々な目的行動に限らず日々の暮らし全てに言えるわけだが…。


 先日、段ボールに詰められて刷り上がった拙著が玄関先に届いた。性懲りもなく第2作目である。さっそく取り出して「これが、最後から二番目の本かあ」と呟いたわけではないが、夜に寝床でふいに思い浮かんだ。こう書くと誰かに「えっ、まだ書くつもりなの!!」とツッコミを入れられそうである。…予定はない。


 まとまった原稿がまだ残っているとか、新しいジャンルを計画中ということもない。従って実現可能性は高くないだろう。しかし今回の制作過程はそれなりに充実していたし、学びもあった。何より愉快だった。それゆえ、この齢になっても「最後から二番目の…」にしようかと後付けながら思えることの、この幸せよ。

霜月晦日に何思う。

2024年11月30日 | 雑記帳
 上旬に行きつけの理髪店で、ずいぶんご無沙汰していた人と逢って話が弾んだ。「あの頃はよかった」はこの齢では定番中の定番だが、実に多くのエピソードがある。学校勤めが苦しいと感じたことは少ないが、それらさえもうみんな沈殿してしまい、上澄みのきれいな水がゆらゆらと光に照らされているひと時だった。


 ほぼ一年ぶりに参加した研修会は「道徳」が内容だった。学力の落ちこぼれはなんとかなる?が、道徳の落ちこぼれは大変だ…この考えの意味するところを大方の者は理解できる。しかし、問うべきは大人だ。子どもが道徳を学ぶ多くは、けして教室の場ではない。はるかに多くのことを、現実社会で、家庭で身につける。





 取りかかっていたプロジェクト(笑)が終わり、では…と考えた時にまた片付けかと、今年何度目かの書棚整理に手をつける。今回は段ボール一個分を古本屋へ。悩んだ末に手離した全集モノがある反面、しまってから戻した谷川俊太郎の詩集等もあった。読む気ならどこでも読めるが、手元に置きたい所有欲が消えない。


 大相撲と競馬のこと。大相撲は待ちに待っていた展開となった。やはり番付通りの取組が最後を飾るのが「正道」だ。それが見たいのだ。その意味で横綱相撲になったのはジャパンカップ。ドウデュース&武豊が一番人気に応えて見事な勝利を収めた。これに絡んだ二頭の馬予想がピタリと当たった結果に我ながら驚愕!!(もちろん小額です)


 読書は量的にも質的にも散漫だ。今も読みかけが数冊あり、感想もまとまらない。古雑誌を読んでいると面白い記事に出会うことがあり、小春日和にぼやっーと広げてみたかったなあ。読み聞かせボランティアは今月も順調に進む。来週には、その内容をメモしておこう。2024年、あとひと月でぎゅっと締めたい

訃報は初雪の日に

2024年11月19日 | 雑記帳
 兵庫県知事再選から何を学べるだろう。情報社会の困難さと一言で片づけられるのか。マスメディア、SNSいずれにしても何かしら加工された情報であり発信者の主観を伴う判断、見解が述べられる。万人共通の「正しさ」など幻想と分かっているならば、極力、第一次情報以外の事に関心を持たなければいいのか。


 そんな暮らしに憧れはあっても、地縛と自縛の世界で生きている者としては、半径5メートルの幸せに貢献するためにも、まず思慮深くありたい。明快さはほしいが単純化しないように…喜びも哀しみも。今朝は芸能人同士の結婚が話題となったが、共に評価している俳優であり、持ち味がいい方向へ行くことを願う。





 同時にもたらされた詩人の訃報。その存在は大きかった。詩を読み始めた頃『二十億光年の孤独』を目にしているのは確かだし、詩集に限らず、対談集やエッセイ…今、身の周りその名前はいくつ散らばっていることか。つい昨日も『ココロのヒカリ』(文研出版)という絵本を手にし、近々読もうと決めたばかりだ。


 実は今回の蔵書整理で、『わらべうた』(集英社)シリーズ等を処分しようと箱詰めをしたばかりだが、もう一度取り出して改めて読むことにした。かつてLP盤で持っていた小室等『いま生きているということ』のCDまで注文した。合掌の意味を込め、かの詩人にもう一度真摯に触れる。冒頭の話題に返って一節を…。

 うその中にうそを探すな
 ほんとの中にうそを探せ
 ほんとの中にほんとを探すな
 うその中にほんとを探せ

   谷川俊太郎「うそとほんと」より 


握りしめる刀を想う映画

2024年11月16日 | 雑記帳
 映画館へ行くのは、夏前に『碁盤斬り』を観に行って以来だ。その程度の頻度だから、今回は迷ってしまった。結構な話題作が並んでいる。「踊る~~」の室井慎次はTVの予告編で観た気になった(笑)。『八犬伝』は面白そうだし、『碁盤~』の白石和彌監督が撮った『十一人の賊軍』も惹かれるなあ…と思いつつ…


 選んだのは『侍タイムスリッパー』。自主映画のロケ隊が東映京都撮影所を使い撮った作品。昨年京都国際映画祭で取り上げられ、都会での単館上映から話題になり全国拡大開催になって…。なんと大曲イオンでやっているではないか。こういう機会を逃すと観られないだろうからと、朝の最初の回に入ることにした。




 確かに有名な俳優はいない。武士がタイムスリップするという設定や構想自体は以前にあったはずだ。しかし、なかなか物語の筋がよく、喜劇的側面を織り込ませながらも、主人公らの精神性が強く伝わってくるようだった。CGを使わなくとも派手なBGMでなくとも、いや使わないからこそ「映画」らしく思えた。


 タイムスリップできるとすれば…と幼い頃からよく夢想していたが、今はおそらく「過去」志向が強いかもしれない。「未来はとても怖くて…」という思考は、私達自身が作り上げてきたものにほかならない。どのような環境に置かれても生き抜くためには、やはり「侍」の精神か。握りしめる刀はあるかと心に問う。


小春日和に小春おばさん

2024年11月13日 | 雑記帳
 まさに小春日和の続くいい週となった。昨日は、午前中にほんの数か所だが冬囲い作業をしてからタイヤ交換を1台分終えた。自力で作業できるうちは、なんとかやりたいと思っている。一つの体力のバロメーターかなとも考える。まあ、何はともあれ天気がよいと、気持ちよくやれるものだ。今日も1台取りかかる。




 さて小春日和からの連想で、ふと井上陽水の歌った「小春おばさん」を思い出す。その曲イメージが温かい日和と通ずるからかと言えば、ずいぶん離れているが…。しかし、♪小春―おばさんー、会いにいくよ♪というサビのメロディは妙に耳の中で騒ぐ。あのアルバム『氷の世界』から半世紀が過ぎているというのに。


 youtubeで改めて聴いてみた。哀調を帯びたメロディ…、歌詞を改めてみてみると、陽水らしい独特の世界観を展開させているようだ。検索をすると、あるサイトにこんな記事が…「陽水作詞作曲の『小春おばさん』って怖いよね~」…ああ、確かに。リリーフランキーとみうらじゅんが言っている意味が頷ける。


 「絵本」で表現すれば、かなり不気味なタッチになるだろう。子どもが貸本屋のおばさんに引き寄せられていくような…。下手なギターをかき鳴らし唄っていた頃は思いもしなかったなあ。50年後の小春日和の日に頭をよぎるなんて。さあ、元気に作業するぞっ…と、近くの電柱の陰から誰かがこちらを窺っている(笑)

闘争心を持って逃走しても…

2024年11月11日 | 雑記帳
 ほぼ一年ぶりに野口芳宏先生にお会いし、お話を拝聴した。今回の内容は道徳。「思うようにならないこの世」と題された授業提案は、世の中に蔓延している、見せかけの優しさと思いやりに満ちたこども中心主義の教育を厳しく警告するものだった。まさしく、毎日営まれている実践、大人の言動が問われている。


 変化の激しい社会にどう対していくか。認識と行動で区分し粗く四つ考える。つまり「変化を良しとし進める」「変化を認めるが、是としない」「変化は認めないが、流れに任せる」「変化を認めず抗う」。多数は、中間項がより細分化され、具体的な姿になって現れるだろう。それを講座のテーマに照らし合わせてみる。


 思い通りにならないことにどう向かうか。それは「トーソー」の判断、かの『スマホ脳』にある「逃走か闘争か」となる。価値観の基底をそこに据えれば、私なら「闘争」を選びたい。しかし、その状況判断や場面打開の力をつけることこそ教育ではないか。結果それが逃走になっても目的地がなくなるわけではない。



 心に据える一つの芯で、世界や国の「騒動」を見据えることはできない。その必要もない。それより目の前の、身の周りの現実への処し方として、「強く、厳しくあれ」は片手から手離されない。そうでなければ、社会全体の緩みが自分を襲うことも防げない。思うようにならないから面白いと吹っ切る強さも欲しい。


 さて今回、久しぶりに山中伸之先生のお話を聴き、もう12年も前にお招きし研究会を開いたことを思い出した。このブログにもある程度のまとめをしている。

2012.8.12

2012.8.20

 もちろんその後も何度となくお会いしたが、今回は自ら会長を務める「実感道徳」の大会であり、メイン講座の「語り」が実に身に沁みた。参加者は多くなかったが、20代から60代までそれぞれの感受力や、瞬発的な話力が印象的な会だった。

神無月、面倒だが許す

2024年10月31日 | 雑記帳
 今月は珍しくアナログ日記のつけ忘れが少なかった。わずか4行ほどの紙幅であるが、しばしば三、四日空けてしまっている。その意味ではリズムある暮らしぶりだったか。これは「修活第二弾」の雑文集執筆が大詰めで、少しずつ取り組んでいたことが大きい。同時に編集者との数度の往信返信で学んだことも多い。


 プロにはプロの目のつけどころがある。当然とわかっていても実感するには直接の見聞ややり取りが必要だ。面倒だがこうした場を今でも持てていることは老化防止には何よりだろう。プロと言えば、昨日見たイベントは少し残念だった。ある分野では間違いなく能力があるのだろうが、対象への洞察が足りなかった。




 ドジャースのポストシーズンがあり楽しみが増えたひと月でもあった。一人の傑出した者が動かす力の大きさを感じる。選挙・政治の話題も多かったが、そうした魅力ある人物はその世界にいない。それゆえ、競技スポーツなどと同一化してはいけないし、「人気」などを利用する輩がいることは、細かく注視したい。


 何年か貯め込んでいた500円硬貨を両替し、温泉行きに使おうとした。制限や手数料の問題は知ってはいた。しかし実際に行うと煩雑だし「同じお金なのに…」とつい考える。同じ価値であっても扱いにくいモノは減らしていく流れ…最終的には「交換」に集約される行為は、一体何が欲しいのか、一度突きつめたい。


 一番有利な金融機関はかのY銀行。そこで硬貨限界額まで預金し、通帳記載後に同金額を引き出せば、手数料は掛からない。ただ回数は原則一度らしい。取りあえず行い残りは後日と考えた。窓口の若い担当者に声をかけられる。20年近く前に勤務した学校、当時一年生のメンコイ女の子だった。面倒だけど許す(笑)。

境界をはるかに超えて…

2024年10月26日 | 雑記帳
前日よりつづく

 男の「後厄」であり、冒険家等がその齢で死ぬ者が多いのには理由があり「43歳が人生のある種の頂点を形成しているからだ」と持論を展開している。一個の生命体として見た時、肉体的な強さは20代の方が強いかもしれないが、精神的能力を加えた「総合力」として、43歳までは「登り坂の局面がつづく」とする。


 大きな視点では納得できる。経験値はそれ以降も上昇するが、肉体的な低下傾向は顕著になり、何かを成し遂げるための限界がある例は、長く続けたプロ野球の一流選手の引退時期等を見てもわかる。「冒険家・登山家」という極限のチャレンジをする者たちにとって、その意味はさらに深く重いことも想像できる。




 同じ遭難死に何故意味の軽重があるのか。角幡は「他者への訴求力」という判断基準を持つ。人生の登り坂の方が人々に訴えるというのである。感覚的に理解できても、訳を表現するとなると難しい考えである。しかし彼はこう言い切る。「冒険活動においては、生きようとする努力が死に近づくこととまったくひとしい


 「登山者には死への憧れがある」と、かつて誰かが言った言葉として覚えている。それはきっと「生命の燃焼」体験を求めているのだと解釈していた。一般的な愛好者と一緒にできるわけはないが、やはりこの文章にも「生への希求度」という語があり、齢をとるとはその減退であり不満を募らせる過程になることは明らかだ。


 「全能力、全体力を駆使して、死の瀬戸際まで近づき、そして生還すること」の価値とは、その完全燃焼感こそが他者に訴えるという論は、現実的な冒険行動と常に向き合う著者ゆえの力強さが伝わる。しかし「人生の減退期」の真っただ中の我に響く結論は、とたんに現実的な一言だ。「生きようとして死ぬしかない

43歳という境界

2024年10月25日 | 雑記帳
 今年は町の図書館だけでなく、隣市施設も利用している。先日、予約していた本を取りに行ったら、エントランスで除籍されていた月刊誌が並んでいた。一昨年までの分が十数冊揃っていて、誰でも自由に持ち返ることができる。歴史ある雑誌だがあまり馴染みのなかった『中央公論』があったので、手に取ってみた。


 風呂場読書には最適かと思い、2冊頂いてきた。一つは「非・保守という選択肢」と「人生後半戦の作法」という特集が組まれていて興味をもち、それなりに面白かった。なかでも、尾辻参院議長の「気づけば『左』に立っていた」の記事はいわゆる「右」の象徴的存在の氏が「軸のずれ」を指摘していて、目を惹いた。



 一通り見た中で、ぐっと惹き込まれたのは、「連載再開」と銘打った冒険家角幡唯介の文章だった。著書を読んだ記憶があり、検索したら10年以上前だったが、今改めて読み返しても著者の凄さが伝わってくる。この「届かないものについて」と題した文にも、彼の持つ信念、そして歩んだ景色が色濃く出ていた。


 この冒険家は「意味ある遭難死と、無意味な遭難死をわける境界は何歳にあるのだろう」と問いを立てる。自ら「年齢論が好きな私」と書いてはいるが、それを堂々と論じられる経験値は、凡人がたどり着かない境地かもしれない。彼はその年齢を「43歳」とした。それは「遭難死する者がやけに多いから」と記す。


 登山家や冒険家を対象とした詳細データの有無はわからないが、確かに著名な名前が43歳の遭難死者として複数挙げられていた。それは「冒険家の落とし穴的年齢」であり、それ以前つまり三十代の遭難死は、四十代後半以降のそれと比べて深いとし「人生の膨張期と減退期」を区分しながらその意味づけをしていた。

つづく