すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

久々の宅麺リポしたら

2017年09月30日 | 雑記帳
 華々しくうどんエキスポが開催されているのを横目で見ながら…そういえば今月の外食は、某レストランの「もりそば」しか食べていないことに気づいた。

 基本的なパターンとして自宅昼麺が多いのはいつもだが、季節の変わり目だったので、多少移り変わりが見て取れるかなとデジカメの画像を見てみた。

 月前半の画像がないのは、おそらく「素麺」と「冷麦」が多かっただからだろう。


9/19 冷やし中華…もはやスーパーなどに袋物が売っていないと言われたことを覚えているが、一年中好きな「冷中族」なので…


9/21 濃厚醤油ラーメン…少し涼しく感じた一日、初めての温モノだったと思う。


9/22 冷ぶっかけうどん…再び、冷系へ。少し太めのうどんに昆布、天かすがよく合い、歯応えも良し。


9/25 肉中華…これはビジュアルでは見分けがつかないが、実は冷。山形の冷やしラーメンという感じ。すっきりしていいスープ、真夏に食べたかった。


9.28 塩ラーメン…見た目はさわやかさだが、温。塩味のあっさりは久々で堪能した。


9/29 かき揚げうどん…もはや温だけになってしまった。小海老と春菊のかき揚げがぴったり合う。美味し。



 たべびと、さあ、明日はうどんエキスポへ…出かけ…

驚く余白がある

2017年09月29日 | 雑記帳
 九月も明日を残すばかりとなった。今月は私的なことが結構忙しく、外部との関わりも多かった。秋田市でのある会に出て、世代や立場の違う方々の話に触れると、いかに自分が狭い範疇で過ごしていたかを実感させられた。しかしそう感じられるのは、伸びしろとは言わないが、まだ吾身に余白があるからだろうか。



 先日、近所の学校周辺を散歩していると、後ろからパトカーが接近してくる。通過したのはいいが、再び、そして三度四度…これは警戒されているのか。ここでもし走りだしたら追い駆けられるだろう。そしてすぐに捕まり、初めての、憧れの(笑)職質だ。なんと答えようか…妄想していたら、いつの間にか遠ざかった。


 秋山の自然の恵みに今年も感謝しながら、さあ出かけよう!いきりたったはいいが、熊警戒の立て札が圧力を掛けてくる。それでも毎年入る場所へは挨拶をしに出かけ、禁断の茸(笑)をほんの少しだけいただいた。次は栗の実を…と恒例の場所へ出向いたら、なっなんと林一帯が病気なのか枯れ木となって…ショック!


 何かに特化していない雑文主体のブログなので、訪問者は限られている(ふだんは多くて200台)が、一昨日珍しく300を超す方がアクセスしてくれたのは、きっとこの言葉に釣られたに違いない…「希望」。最近あまり使わなくなったのは、達成や実現すべき対象を見失っているからではないか。さあどうする!新党。

おとなは、引き寄せる

2017年09月28日 | 読書
 中学生の頃からラジオの深夜放送にハマっていた友人Yから、何度「レモンちゃん」の話を聞かされたことか。当時夜10時になれば瞼を閉じる生活をしていた自分に、そのレモンちゃんがいわゆるフェミニズムの旗手と登場したのは、ずいぶんと時間が経ってからだ。作家活動は知っていたが、小説は読んではいない。


2017読了95
 『おとなの始末』(落合恵子  集英社新書)



 数年前から「終活」という言葉を頻繁に聞くようになった。団塊世代に限らずこれだけ長寿化が進めば、確かに大事な問題と言えよう。しかし、なんとなくそこには経済感覚が強調されるようで、今一つ馴染めない。それよりは「始末」という素晴らしい日本語があるではないか。始末の意味を把握して臨む人生がある。



 大きく「片づける」がある。そして「問題解決」や「仕上げ」という意味も含む。「料理の始末」の本質は「材料を全て使う、活かしきる」ことにあるという。著者もそんな視点で「仕事」「人間関係」「社会」「暮らし」「わたし」を取り上げ、加齢とともに向き合い方を変化させるための考えや行動が綴ったように思う。


 一番ページが割かれているのは「社会」。それは彼女が今まで信念を貫いて活動してきたことと深く関わる。堂々と先頭に立ち、差別を廃し平和を希求する活動してきた著者が今、「『正しい』という狭さ」と題して、より多面的により緩やかに怒りを発しようとする姿は、運動家の一つのモデルとも言えるのではないか。


 それは確かに「おとな」の姿だなと思う。冒頭で「おとなの条件」を語っている箇所をもう一度振り返ってみたら、著者はこのように記していた。「おとなとは、『引き寄せ・引き受ける』ことのできるひとのことなのかもしれない」目の前の仕事に追い回されているようでは、引き寄せる感覚はなかなか生まれてこない。

そこに「希望」はありますか

2017年09月27日 | 教育ノート
 「あっ、その言葉」と思った。東京都知事が最近会見などで連発するというアウフヘーベン」。学生時代に活字として見たかもしれないが、研究者でもない限り使わないだろうから、出会ったことのない言葉と言ってもよい。しかし教職に就いて間もない頃、何気なく読んだある文章で輝きを放つように目に留まった。



 それは国語関係の冊子(地域文集のはずと思い書棚を漁ったが見つからなかった)に載った、K先生の文章だった。「アウフヘーベンすべきこととして…」のように書かれていた。こんな言葉遣いをする教師が身近にいるんだという驚きと、その言葉の意味が目指す「志」が響いてくるようで、妙に印象に残っている。


 日本国語大辞典にはこう記してある。「弁証法の基本概念の一つ『否定する』『たしかめる』『保存する』という三つの意味あいを含めて物事についての矛盾や対立をより高次の段階で統一すること」身近な問題として、教育実践と文集づくりに対する疑問が生じた頃だったように思う。擦り合わせのためのヒントを得た。


 その後、アウフヘーベンの意識がずっと続いていたわけではないが、教育の仕事に関して、かなり有効な概念かもしれないと今さらながら感じる。ざっくり言うとここ十数年、学校教育の実状はダブルバインド(二重拘束)の様相を呈している。そこからの完全脱出は極めて困難であり、ベターを探り続けるしかない。


 それはどちらに偏るといった選択ではなく、目の前の子どもの現実と職業人としての矜持、さらに一個の家庭人として事情も含め、考慮されて形を成していく。肝心なことは単なる妥協ではなく「止揚」であるために、問題所在をしっかり把握し、より高次な目で認識することだ。それを忘れては「希望」はなくなる。

危機に強くなるしか

2017年09月26日 | 読書
 「危機」とは「大変なことになるかも知れないあやうい時や場合」を指すが、目に見える時とそうでない場合がある。危機が突然訪れるのは天災や不慮の事故等が代表的だ。それ以外の多くは徐々に迫ってくると言えるだろう。その道筋を読み解くこと、気配を感じ取ること、リーダーに限らず凡人にも必要だと思う。



2017読了94
 『日本人へ 危機からの脱出篇 』(塩野七生 文藝春秋)


 この女性作家の存在は知っていたし、月刊誌で論考を読んだこともある。しかし世界史に興味がなく縁遠い存在と感じていて、単行本は手にしたことがなかった。イタリア在住半世紀を超えるという「外から祖国を見る人」の先駆者的存在の、日本論はいかなるものや…理解できない箇所もありつつ、なかなかだった。


 「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」を「真っ赤な嘘」と宣う。その訳を「歴史は経験の集積に過ぎないから」と言いきった。なるほど、そうであれば愚者がなぜ歴史や経験から学べないかがわかる。つまり、愚者は自らの思想や事象にとらわれるからだろう。賢者と愚者を分けるのは、俯瞰性と想像力か。


 ジョークとして流布している、世界に絶対ないものの一つとして「日本人のプレイボーイ」がある。それは外交下手を指しているわけだが、つまりは「悪知恵」がないことらしい。「相手と良識や善意を共有する」環境に恵まれている我ら日本人が、グローバル化に対応できるためには、悪知恵を鍛えるしかないのだと…。


 今、日本を覆う危機は…外交面は心配だが、それ以上に人間を重視しない政策進行に歯止めが必要だ。この書の結びにある「イデオロギーは人々を分裂させるが、危機意識は団結させる」を私達はどんな形で実感できるか、ここ数年が肝心だ。もはや「脱出」などできない。危機に強くなることだけが求められている。

耳澄ませ収穫の秋

2017年09月25日 | 読書
 土曜日曜と「鎌鼬の里 芸術祭2017」のお手伝いをさせていただいた。  
 →鎌鼬美術館ホーム



 パフォーマンスや伝統芸能が中心ながら、二日間にわたってシンポジウムが開かれ「アートと芸能、暮らしと自然」「東北学・秋田篇 歴史と民俗」をテーマに興味深いお話を聞くことができた。
 アカデミックな内容に関しては消化しきれない面もあるが、シンポジストの先生方が語る言葉が面白く、キニナルキハンター(笑)としては充実した時間となった。
 そこから三つばかり拾ってみると…


Volume77
 「わからないことの面白さ」

 今回のシンポの司会でもあったM先生の言葉。
 昨年の美術館オーブン時に舞踏を行った方でもある。
 その時の周囲の感想に「わからない」という声があり、それに関していろいろとお話をされた。
 確かに「わかるけれども面白くない」物事は世の中にありふれていて、「わからない」と拒むのではなく、面白がるという感性は、かなり人生を楽しくするようにも思えてきた。


Volume78
 「想像力をころがす」

 この言い回しは初めて耳にした。
 ふつう「想像力」につく動詞は、「働かす」「広げる」「生かす」「発揮する」…あたりだろうか。
 力を拡げるという意味合いでは似たようなニュアンスになってしまうが、「ころがす」となると、やや「連想」というイメージが強くなるのかな。
 しかし本来、想像とはそんな動的イメージを持つことばのように思う。
 自然に使えるようになりたいと思った。
 「東北学」で著名なA先生。非常に知性的な話をする方でした。


Volume79
 「衰弱体である秋田」

 思わず会場から笑いがもれたこの一言。
 課題山積みとか消滅可能性などというより、雰囲気(笑)が出ている。
 発したのは県内の大学にお勤めのI先生。
 むろん、馬鹿にしたり貶めたりするニュアンスではなく、ユーモラスにしかも実態をとらえておっしゃったのだと思う。
 ではその「衰弱体」に必要なものは…「悪」とか「毒」のような存在という言葉にも納得した。
 リスク承知で、改善させるための薬とはそんなものだろう。

「さわり」から「ぞっとしない」話

2017年09月24日 | 雑記帳
 文化庁の今年度「国語に関する調査」結果が公表され、ニュースになった。冒頭で報じられたのは「どちらの意味か」の設問、取り上げられたのが「話のさわり」「ぞっとしない」「知恵熱」の三つであった。一応教育に携わってきた者としては恥ずかしながら、一つ間違えて覚えていた。「話のさわり」…えっと思った。



 「話の最初の部分」と思っていて「要点」だったとは…「話のさわり」という言葉を耳にしていても、自分から話したことはないような…。若い頃バンドをやっていて演奏練習のときなど「さわりだけやってみようよ」と声をかけあって、その時にはイントロから始めた気がするが、どうだったろう、思い出せない。


 広辞苑には②として「義太夫節の中に他の音曲の旋律を入れた箇所。曲中で目立つ箇所になる」そこから転じて「最大の聞かせ所」さらに転じて「話や物語の要点」「最も興味を引く部分」ということになっている。「さわり」という解釈は、自ら直接何かに触れるではなく、ものを取り入れて良くなったという視点だ。


 もともと「触る」という動詞には「かかわりあう・関係する・近づく」という意味がある。それを肯定的にとらえれば「魅力・要点」につながっていくだろう。しかし「さわる」は、もう一つの漢字「障る」があるように消極的否定的な面もあるはずだ。そもそも「触」は「角のある獣が争う」が字源という説もある。


 そこからあの代表的なことわざ「触らぬ神に祟りなし」(ちなみに「障らぬ神~」は誤用である)が連想される。世の中を渡っていく処世術の一つだが、触らないわけに行かない現実のあまりに多い事よ。なんだか変な方向へ行き、「話のさわり」も何もなくなった。まあ、こういうのを「ぞっとしない話」と言うのだろう。

応援する価値

2017年09月22日 | 雑記帳
 多くの休場者を出した今場所の大相撲。週刊誌の見出しに「学級閉鎖」とあったのには笑ってしまった。相撲ファンならずとも、これだけ看板力士が休むということには何か理由があると思うだろう。解説する多くの人が語るように、体重の問題、巡業の問題、稽古の問題等々に違いない。このままでは廃れてしまう。



 三横綱初め人気力士が休場し、興味がその分失せるのは当然だが、別の見方もある。普通だとこういう場合はどんな競技であれ、たいていラッキーボーイ的な存在が出現するものだ。しかし、序盤はともかくそうはならずに誰も予想しなかった大混戦のままに終盤へ。その拮抗が相撲界の現状を示しているのだろう。


 その中でひと際目を惹くのが嘉風である。幕内二番目の高齢、けして恵まれていない身体…しかし、その相撲は本当に観る者を沸かせてくれる。「勝ち負けよりも内容」と繰り返し語っており、内容とは「観客に拍手をもらえる」ということを指している。従って、立ち合いの変化についてきわめて否定的なのである。


 その意味で三日目の某大関戦は残念であった。嘉風の相撲とは一言でいえば「退かない相撲」。その姿はずばり「闘志」。単なる格闘技ではないが、格闘技の一つの典型だ。ひるまず顔面に張り手をうけ続け、鼻血を出すことも多い。顔を腫らして戦い続けた場所もあった。月並みであるが、それは勲章のようにも思える。


 ちょうど去年の秋場所、国技館で観戦した折、傍に陣取った一組の家族連れが横断幕を掲げ盛んに嘉風を応援していた。嘉風が見事に勝ち、大喜びするその家族に対して、周囲の観客が送った温かい拍手も印象深い。応援する動機は人様々だが、その中で応援する価値をしっかり見つけられる喜びは捨てがたいものだ。

この日、この聖人を

2017年09月21日 | 雑記帳
 「世界の四大聖人」とは、一般的に孔子、釈迦、キリストそしてソクラテス(マホメットを挙げる説もあり)とされている。歴史的に考えると、日本にはいないのが当然かもしれない。いや某巨大宗教団体の某会長を挙げる人もいるにはいるが…。個人的には「聖人」という言葉で思い浮かんでくる一人の人物がいる。



 それは宮沢賢治。かつて吉本隆明はこう書いた。「すべての命の幸せのために何のためらいもなく、我が身を投げ出した宮沢賢治というセイントがいた。その生き方を僕たちひとりひとりが心に刻んでおく。それが時に安易な日々を清新なものに立ち返らせ、困難に向かう勇気を与えてくれる」…名解説であると思う。


 様々な考えがあり、貧富の格差も開き、地球上に抱える問題は余多あるけれど、さらにここしばらく繰り広げられている不穏な世界情勢に心曇る。「対話ではなく圧力」という言い方が、このまま進めば最終的に何を意味するか、誰しも想像がつく。そんな時は煩い画像から目を離し、賢治の言葉に目を落としてみよう。


世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索(たず)ねよう
求道すでに道である

 ~『農民芸術概論綱要』序論より~


 短い生涯ではあるが数々の資料から、賢治が生涯目指したのは「偉い人」ではなく「清らかな人」であると想像がつく。世界中の「偉い人」たちに、賢治の清らかさが少しでも伝われば、民衆は、環境の違うそれぞれの場所で見上げている空の青さを、素直に心晴れやかに感ずるだろう。今日9月21日は賢治忌である。

カレーライス、幸せのフレーズ

2017年09月20日 | 雑記帳
 この頃、頭の中で繰り返される「♪カレーライス、カレーライス♪」のフレーズ。その訳は…BSフジ「東京会議」という深夜番組。小山薫堂主宰で公開企画会議&エンタテイメント的内容だ。いくつかの企画を並行させて放送しているが、その中のひとつに「カレーライスのうた」がある。山形のとある店が起点だ。



 店の主人の口ずさみから歌をつくり、流行らせようという試みだ。つくった本人(当然素人)をメインボーカルにして、スタジオミュージシャンや歌手、俳優などを登場させ、ある面豪華な楽曲が試作的な形で作られている。会議参加者のそれぞれの発想が生かされ、なかなか楽しい。アットホームな雰囲気に憧れる。


 親しみやすいフレーズ、軽快な調子の「カレーライスのうた」を聴いていて、こんな感じの歌は前にもあったのかなと、Youtubeを見た。確かに「カレーライス」はいくつか取り上げられているが、やはり子供向けが多い。自分らの世代が懐かしがるのはかのフォークシンガー遠藤賢司の曲だが、どうにもシュールだ。


 国民食と呼ばれることがある「ラーメン」と「カレーライス」。この二つに対する個人の意識(というほどでも…)はそれぞれだろうが、外食と自宅での食という対比は浮かび上がる。市販のカレールーを使うにしても、カレーには「家」の個性が出る。また、加齢による味覚の変化?を感じさせる食べ物の代表でもある


 甘口から辛口、そして大辛へ。バーモントからカリーなどへ嗜好が変わる、それも成長か(笑)。そしてまた共通するのは、カレーとともによみがえる思い出の多さだ。家庭の食卓はもちろん、小学生の頃のキャンプ、サークル合宿などそんな場にはいつもカレーがあった。きっと「♪カレーライス」は幸せのフレーズだ。