すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「正しく繰り返す」国語科のために

2007年07月31日 | 雑記帳
 堀裕嗣先生を迎えての講座を持った。
 読解力をテーマにした模擬授業と講話であったが、明快な提案があり参加者には日常の授業づくりを振り返るいい機会になったと思う。

 概要や感想は主催する研究会が後日紹介してくれるはずなのでさておくが、個人的なメモとして記しておきたいこともある。
…と思って書き出すと、やはり懇親会か!
 情報量満載(オフレコも満載)の宴席であったが、講座での話題について尋ねてみたことが実は印象深い。
 「PISA型読解力」の目標の話になったとき、その一つとして次のような点を挙げられた。

 見慣れないテキストの中の見つけにくい状況を扱ったり、細部を理解したり、どの情報が理解に役立つか推論したりできる

 この目標に近づくためにいくつかの手立てが必要だろうが、間違いなく「多様なテキストにふれる機会をもつ」は挙げられる。それでは、堀先生の実際はどうなのか、こんなふうに尋ねてみた。

「教科書教材以外のテキストは、年間でどのくらい取り上げられますか」

 2秒ほど間があったろうか、堀先生はこう言い切った。

「4割」

 この数字がどれほどのものか小学校勤めである私には明確な判断はできないが、「時数が足りない」と嘆く周囲の教員のことを考えると、驚異的なのではないだろうか。
 そして、堀先生はこんなふうに言葉を続けた。

「このことは危険なので言わなかった」

 その意味も理解できた。明確な意図と周到な準備なしには叶えられない数字だし、何より使いこなすタフさが要求される。クリアすべき課題が見えているかどうかが問われることになると考えた。
 講座での模擬授業は教科書教材であったが、その多彩なテキスト提供は私自身初めてであった。そうした周到さに込められているものを正しく理解できるかどうかも鍵になる。

 それにしても、「教科書以外のテキスト○割」という設定は魅力的に響く。
 授業の仕方を大きく変える可能性を持つものである。
 堀先生の著書から多くの点について共感を覚えるが、特に深く肯ける次の主張へのアプローチには欠かせないと思う。

 「覚えて答える」国語科から、「正しく繰り返す」国語科へ
 

教育の仕事に自覚的であるということ

2007年07月26日 | 雑記帳
 モラロジーの教育者研究会に参加して、例年のように野口芳宏先生のお話を聴きながら、頭に思い浮かんだことがあった。

 堀裕嗣氏がその著書『学級経営力を高める』(明治図書)で野口芳宏先生の授業実践追試について記していることである。
 堀氏は、次の三つに区分している。
 一つは微細技術(例えば、小刻みなノート作業、二者択一での事前予想など)
 次は、授業全体がシステム化されているもの(詩『うとてとこ』など)
 そして、『論破の授業』や『なぜ』発問に代表される実践である。
 初めの二つについて追試は有効であるが、最後については「警戒して使わなければならない」という。それは一種の「芸」であり、野口先生のキャラクターに依る部分がかなり大きいとしている。
 国語科の実践について述べたものであろうが、会で聞いた講話『人生のバトンパス』の後半部にあった天皇制の問題や平等意識の問題についても、最後の例と似たようなことが言えるのではないかと思った。

 確かに、野口先生の主張に対して思想的な共感を覚える部分はある。
 が、しかしそこで耳に入った言葉をその通りに学校現場で主張することが、私たちの年代にできるものなのか。少なくても私には自信がないし、慎重にならざるを得ない。
 野口先生には確固とした信念があり、それを支える知識も歴史的認識も豊富だ。
 それに比べて…自分が育った時代つまり価値観が大きく揺らいだ次代に刷り込まれたものは大きい。それゆえ、教えを受けて自分が発しようとする言葉を自分でもう一度聴いてみたとき、様々な反論に対して正対できるほどの力を持ちえていないことがわかるのだ。

 もちろん、そこに立ち止まっていては何の進展もない。
 現況をみたとき、再興すべき学校教育があり、それが叶えば大きな力となるだろう。そういう願いを持ってできることを見極めながら進めていくしかない。
 そのためにいかに日常の仕事に自覚的でありえるか、を思い知らされる。つまり「教育の目的」と現状をつなぎ計画的意図的な営みに結び付けられるか、ということだ。それを抜きに、仕事の処理能力など上げてみたところでいったい何が得られるというのか。
 その意味で課題を突きつけられたような気もする研修会だった。

 野口先生をお送りする車中で教師論の話になったとき、先生はあっさりと言い切られた。

「教師はねえ、影響者なんだよ」

 わが身を振り返させられる一言だった。

内なる「座布団一枚」の空間

2007年07月25日 | 雑記帳
 先日、落語を聴きに出かけたときのことである。
 「二人会」と銘打ち、名の知れている若手落語家と俳優の高座があった。俳優の落語もなかなかであったが、改めて本職の落語家の見事さを感じた。滑舌、間のとり方など微妙な点でやはり違うなという印象を持った。
 もちろん俳優も一流であり、いくつもの舞台で賞にも輝いている人である。数年前に見たその一人芝居の見事さは今でも忘れられない。
 それでもなおかつ、高座という場で違いが出るのは何故だろうと考えてしまった。

 高座のあと、その二人で短い対談があった。
 俳優が、落語との出会いなどを話したあとに、落語家をこう持ち上げた。

 「座布団一枚の空間で表現する」
 
 言われてみればしごくもっともなことだが、改めて「制限された空間での表現」について考えざるをえない。
 俳優には自由自在に動く足がある。それによる身体表現の幅は落語とは比べ物にならない。従ってそれを生かさなければならない。それに比べれば落語家は口一つ、表情の変化とあとは上半身の動きぐらいか…
 つまり、表現手段をいくつも持つということは、その一つ一つのレベル向上を図るのは結構難しいことではないか…などとそんな考えが浮かぶ。

 教育の場に置き換えてみる。
 授業における子どもに対する働きかけの場面だけとっても、教師のことば(説明、発問など)、動き、板書、カード、IT機器等々いくつもに分かれる。
むろん、総体的にレベルの高さを持つ教員はいる。連動して上達するという方が多いかもしれない。
 しかしあえて厳密に、手段が多くなればなるほど一つの重みが薄れ、表す側の意識がそこに入りにくくなるのではないか、と考えてみる。

 集会のたびに何か「モノ」や「カード」を持ち込んで話をしている。子どもたちの目をひきつけようとしているが、実はそうした小道具に頼っているのではないかとずいぶん前から少し迷いが生じていた。
 モノを準備することで安心してしまうような自分もいる。話す厳しさに欠けてきているのではという思いである。

 内なる「座布団一枚」の空間を設定してみることも必要なのかもしれない。

自分にとっての夏河を越せ

2007年07月23日 | 雑記帳
 夏河を越すうれしさよ手に草履


 かつて6年生の国語教科書に載っていた蕪村の俳句を終業式で紹介し、全校児童で暗唱してみた。草履を見せながらその情景について簡単に説明したが、今どきの子どもたちにぴんとくるものではないかもしれない。
 それでも、この句のもつうれしさは夏にぴったりという気がしたので、気持ちを込めて筆で書き詠んでみた。

 そのかいあってか?夕方からの学期打ち上げ懇親会で、その俳句について少し話題になった。
 その句を詠むと、自分にとっての川が浮かんでくるという職員もいた。
 ある程度の年配であれば、誰しも川に足を入れた感触を忘れずにいることと思う。

 身近にある自然で、川の持つ記憶は大きいものだ。
私自身、裏手に川のある家に育ったので、ずいぶんとお世話になった。つりの趣味を持つまでには到らなかったが、ごろごろとした石の感触を感じながら毎年川遊びをした。
 小学校高学年の頃だったろうか、堤防が整備され降りていくことができなくなったのは…
 そんなふうに、失われた自然体験について今さら語ってもと思う気持ちを持ちながら、結構川にまつわる話題はつきなかった。

 さて、この句のもう一つの読み取り方は「夏休みを越す」ことではないか、とふと寝床で考えた。
 今まで履いていたものを脱ぎ去って、休みという時間、空間を満喫するというふうなコジツケもできるなあ、などと思った。
 手にした草履の汚れに目がいく人もいるだろうし、草履などに目もくれず越していく人もいるかもしれない。
 いずれにしろ、「うれしさ」が欲しい。

 この夏が終わったとき、うれしさをいくつ数えることができるか…。
 それは子どもも大人も同じだ。
 そのためには動かなければ…そんなふうに感じさせる季節が、夏だ。

夏は踊ることで大きくなる季節

2007年07月22日 | 教育ノート
 一学期の終業式、子どもたちには蕪村の俳句を紹介しながら、「うれしさのある夏」であるように、ということを話した。
 一番の活動期である夏を張り切って過ごしてもらいたいと願っている。「夏」という漢字の字源にも活動性が表れていた。


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 ものの形からできた象形文字です。かんむりや大きなお面をかぶって踊る人の様子がもとになっているそうです。両そでを振り、足を前に上げて舞う姿という辞書もありました。なんとなく想像できそうですね。

 もともと「大きい」という意味で、大きく栄える民族を表したようで、季節の「なつ」を指すのはその後です。草木が盛んにしげって大地をおおう季節に、大きいという意味が重ね合わされたのでしょう。

 明日からの長い休み、とにかく子供たちには活動的であってほしいと思います。外遊びであれ、水泳であれ、また部活動であっても精一杯汗をかきながら「踊り」まくり、夜はぐっすり眠る…そんな姿が心身を「大きく」させていくはずです。
(7/20)
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どんな「型」をいくつ身につけさせたか

2007年07月21日 | 教育ノート
 小学校は「型」の教育と割り切って進めたらどうだろう、などと思うことがある。きわめて限定されたいくつかの型を徹底する、そんなことができないものかと考えたりする。
 学期末に何か、と思って書き始め少しまとまりのない文となったが、自分の思いが書いているうちに滲み出てきた。

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縷述 「つながる授業」21

 PTA講演会の「食」をテーマにした内容で、フィンランドのことが出てくるとは思いませんでした。様々な面から検討してみることも大切だなあと感じました。
 さて、いわゆる「フィンランド・メソッド」については、かなり多数の出版物が出回っていますが、私も昨年二冊ほど読んだ記憶があります。PISA調査に基づいた「読解力」に焦点があてられ、その指導法が注目を集めているわけですが、入門書的な本を読んだ印象として、一見自由に見えるフィンランドの教育とはいえ、明らかに「型」を重視していることがわかります。

 「子供たちはどのような意見を言うのも自由ですが、必ず理由付けをしなければいけない。理由付けをしなければ、意見として認められない」のです。つまり「意見+理由」という型が徹底しているわけです。
 もちろん日常の授業における下地づくりが肝心なわけで、教室でもっとも聞かれる言葉は「ミクシ?(どうして)」だと言われています。常に担任の「ミクシ」攻撃にさらされていることで、子供たちは短絡的な思いつき発言では通用しないことを知っていくのです。

 考えてみると、私たちの実践にも、「型」を身につけさせるという言葉に置き換えられる面がたくさんあります。「知識・理解」とは異なる「思考」や「技能」といった視点と重なる気がします。
 また各学級の担任によってしか身につけさせられないのが「型」であるとも言えます。それは、意図的・継続的な指導によって身につくものだからです。(なかには意図的でない場合もあるでしょうが)この一学期どんな「型」を身につけさせたか数えることも、いい自己評価の一つではないでしょうか。

 「型」は授業場面だけでなく、学級での活動全般にあるはずです。朝の会の進め方、掃除・給食でのルール、そして家庭学習の仕方なども含まれるでしょう。「全員がある程度安定した形で運用できている」という基準で身についたかどうか判断してみると見えてくると思います。
 一旦覚えた泳ぎ方は大人になっても忘れないものですが、そんなふうに考え方や話し方が身についているとすれば素晴らしいことです。難しい面も感じながらそうありたいと思っています。
(7/20)
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水で洗われ風にさらされ良くなっていく

2007年07月20日 | 教育ノート
 「人」を「良」くするのが「食」か、と単純に考えていたが、良そのものも調べてみると奥が深い。漢字のシリーズも続けているといろいろ考えさせられるものだと改めて思った。
 
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 保護者のご家庭向けに週1回程度のペースで学校報をお届けしていますが、それに「今週の一字」と称して、漢字の字源などを紹介していくコーナーを設けてあります。学期末のPTAの教育講演会で「食育」のことが取り上げられたので、「食」について調べようかなと思っていました。

 「食」は「人(ひとやね)」と「良」の組み合わせだなと単純に思いましたが、実は「食」そのものが部首で、「穀物にふたをしている様子」から出来た象形文字でした。すると「良」というのは穀物のことかなと考え、さらに調べ進めると…
              
 「良」は右の図(略)のように、稲や麦のつぶを洗ってきれいにするようすを描いたということが書いてあります。別の辞書には似たような図が書かれてありましたが、意味は少し違っていました。穀物に風を送ってもみ殻を取り去って実だけにする道具ということです。よいものを選ぶという意味に通ずるということです。
 いずれにしても、穀物を水や風によって質の良いものにしていくということが表されていると言えます。
                 
 子供を穀物に喩えてはいけないかもしれませんが、教育という営みも似ている気がします。水で洗い、風をあて、質の良いものにしていく。洗われたり、風にさらされたりする過程では様々な出来事があるに違いありません。しかしそれらを経て、粒は磨かれ、しっかりした中身を備えていくのでしょう。
 
 夏休みは学校という風が止んで、地域の水、家庭の風という面が強くなります。具体的には生活リズムを守って過ごしたり、近隣のイベントに参加して交流したり…とすべてが磨く場となります。休み明けには浅黒くぴかぴかになった良い姿をみられるものと楽しみにしています。
(7/15)
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偶有性の世界を泳ぎきるために

2007年07月19日 | 読書
 ネット時代を牽引する一人であろう梅田望夫と今を時めく脳科学者茂木健一郎の対談本『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)を読んだ。

 新書でありながら少し難解な用語もあったが、十分に刺激的な内容だった。
 まず、インターネットをどうとらえていくか、十二分に有効性を認めその価値を享受しながらも私自身何回か批判めいた言辞をしたことがある。いわば迷いといってもよいその考えを、こんなふうにあっさり切り捨てた。

 たしかにいま、ネットにはいろいろな危険性がある、子どもを遠ざけたほうがいいとか、いろいろ議論がありますが、そういうなかで考えないといけないのは、ネットというのは鉄道や自動車や飛行機ができたときとすごく似ているということです。(略)不幸で悲しい事件も実際に起こるのだけれど、それを乗り越えていかなければならない。いまはまだ犠牲者が出ている試行錯誤の時期だと思います。新しい道具で、しかも強力な道具だから。それがあることを前提にリテラシーを身につけてサバイブしていかなければならないと思います。(梅田)

 「ネットという道具」に対する姿勢がはっきりしている二人だからこそ、力強く感じる言辞は他にも多い。

 公共性と利他性こそが、インターネットの特質でなければならないと思います。(茂木)

 グーグルの便利さばかり目についている自分であるが、その思想については、二人の論じ合う姿によって納得できたような気がする。
 といってももう二人の目は将来を見据えており、今の若い世代への期待がところどころに顔を出している。
 同時に「教育」について語る部分も興味深かった。

 「世の中」はそもそもグーグル的な偶有性にみちているものです。だからたとえば日本の学校教育のような、与えられた教科書をひと通り覚えれば世の中にでてだいじょうぶという考えではうまくいかない。(茂木)

 結局教育ってポジティブなものを与えるということ以外に何の意味もない。(梅田)
 ポジティプなビジョンを与えること以外に教育はない。(茂木)
 
 ネットがもたらす偶有性の世の中に身をさらして生きていくためには、何を身につけさせるべきかが問われているし、それは従来の価値観がある面では通用しなくなっている現実があることと重なっているのだ。では、学校教育はどうする…ここは冷静に、状況を見つめなければならない。
 浮き足立ってはいけない。
 母校である慶応義塾の中学2年生に、特別授業として語った内容の終末に梅田は、「普通部の頃を思い出して二つ後悔すること」として、次のことを挙げている。

 身体をもっと鍛えておけばよかった
 あんまり興味がない科目でも、授業中だけでいいから、もうちょっと真剣にやっていればよかった
 
 一日の大半をネットとともに暮らす梅田にしても、こうである。
 ネットともにあるフューチャーは疑いようもないし、輝くようにありたいと思う。
 しかし、それは道具でしかない。(もっとも「言語」と同等くらい強力なものであるが)

 使いこなす人間のリアルな感覚を鍛えていくことこそ、基礎というべきである。

評価から浮かび上がらせる

2007年07月18日 | 教育ノート
 一学期もいよいよ大詰め。仕事を効率よく進めることに頭が向かいがちだが、今の作業は何のためにあるのか忘れずにいたいことだ。
 例えば通知表にその子の課題を書いたとすれば、それは言うまでもなく指導者の課題でもあるし、アンケートの悪い結果はそのまま「仕事のなかみ」になるということだ。


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 縷述「つながる授業」20

 昨年と同様な形で「児童アンケート」をお願いします。子どもたちの自己評価の信憑性や質問の文章に検討の余地があるにはしろ、同じ設問での比較もいい資料となると思いますので、継続していきましょう。集計できたらまた話題にしたいと考えています(たぶん個人ごとの資料の方が参考になるのかもしれません)。

 さて、学習状況調査等でも児童が自己評価する設問があり、そうした機会は増えているわけですが、本校のテーマ「かかわり」に関する類がないものかなあとふと思いました。この人数ですので教師による見取りですむのかもしれませんが、それにつき合わせる形でデータ的な面も多少進めていく必要は感じます。いい資料がないか夏休みに読書の機会でもあれば少し意識していきたいものです。

 直接結びつくとは言えないかもしれませんが、前任校のあった地区で生徒指導に関する児童生徒アンケートを実施したことがあります。担当だったので少し文献を調べて見つけてきたものに「人間関係を築く力」という項目がありました。全国的に知られているある会社のデータに、こんな質問紙があり、それを活かして(比較もできるので)作成し、実施しました。次の7項目です。

けんかしても仲直りできる   
困っている友達を助けられる    
失敗したらすぐあやまれる
初めての人ともすぐ話せる   
気持ちを相手にうまく話せる  
ケンカしたくてもがまんできる   
おこっている人をなだめられる

 その地区でも課題として「表現力」があがっていたのですが、児童生徒の意識調査でも関連のある項目がデータとして低いものでした。本校の子どもたちだったらどうなるのでしょうね。

 今の時期、通知表に伴う作業はもちろんですが、ぜひ学級の目標・活動に照らし合わせた評価(教師による評価・児童による評価)は記録しておきたいものです。その中から二学期に向けて重点化する事項が浮かび上がってくるのだと思います。
(7/10)
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素材を知り、相手を知る

2007年07月17日 | 雑記帳
 三連休最後の日、録画したままになっていたNHK『プロフェショナル 仕事の流儀』の2回分を視聴した。
 宮大工・菊地恭二の回とソムリエ・佐藤陽一の回である。

 菊地は、あの西岡常一の最後の弟子だという。
 棟梁の仕事のハイライトは、原寸引きといわれる設計図をベニヤ板に書き写す作業であった。そして、その書き方に棟梁の棟梁たる所以があるように思った。

 設計図通りに描かない

 木組みにおいて木の癖を知り抜いているからこその信念である。
 そのポイントをはずすと、歴史的な建造物の美しい曲線は表現されないという。

 今日本一といわれる佐藤は、小さいレストランを自分で経営していた。
 「ワインは料理に合わせるもの」という一般的な考えが、いかに浅いものかと思わされた。

 人を見てワインを選ぶ

 客の表情や会話はては荷物に到るまで佐藤はよく観察し、店にある600本のワインの中から適するものをお客に示していく。その観察力は、やはり接客を自前で行うという決断からついてくるのだと思う。

 私は、授業づくりにおける原則的なことを、この二人の仕事の仕方から学びとるができる。
 それは、次の二つに集約される。

 素材を知る
 相手を知る