すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

その仕掛けを覗く未明

2022年01月31日 | 読書
 未明に覚醒するときの読書は、やはり短編小説がふさわしいようだ。今月、寝床で読み切ったのは4冊のうちと3つは文庫の短編集だ。どれも一定レベルの面白さがあった。ああ、あの場面かと思い浮かぶことが、この後ある気がする。


『1日10分のごほうび』
 (赤川次郎、江國香織、他  双葉文庫)


 昨年手にした「NHK国際放送が選んだ日本の名作」シリーズがなかなか良かったので、続編も読んでみた。といっても同じ作家はいない。あまり読んだことのない書き手が多いので、赤川次郎ってこんな感じかとか江國はさすがに上手いなどと、やや評論家気分で楽しんだ。個人的に気に入ったのは『最後のお便り』(森浩美)。ラジオ番組を担当するアナウンサーの話だが、映像化したら佳品になりそうな気配がする。やはり近い世代が描かれると共感度は強くなる。


『ほろよい読書』
 (織守きょうや、坂井希久子、他  双葉文庫)


 これも上と同じ体裁のアンソロジー。題名通りに「酒」をモチーフにした5編を集めている。昨年夏の発刊だ。並んだ作家は初めての人がほとんどで、柚木麻子は読んだかなというくらいだ。柚木の書いた「bar きりんぐみ」は、コロナ禍におけるリモート呑みが設定となっており、世相に斬り込みながら結構深い生き方まで描いている。「食」を取り上げた作品は多く読んでいて、それは自分の興味が強いだろうし、読み方もそれなりのレベルになるのかと、ふと感じた。




『架空の球を追う』(森 絵都 文春文庫)

 これは再読。書棚整理で生き残った一冊だ。この作家の短編は切れ味がよく印象深いのでもう一度読んでも…という気にさせられる。案の定、再読してもいい余情が残った。特に最後の「彼らが失ったものと失わなかったもの」という小品は見事だ。さて、小説には珍しくページの端を折っていた箇所が一つだけあった。「あの角を過ぎたところに」という、タクシーに乗った二人が思いもかけない出来事に出遭う話だ。覚えておきたかったのは、たぶんこの一節だ。
「この世界の至るところに張りめぐらされた人智の及ばない仕掛け」

いつかページを開くとき

2022年01月30日 | 教育ノート
 今、図書館ブログの内容の一つとして不定期ながら地域文集紹介をしている。そんなこともあり、家の書棚の古い文集を引っ張り出す必要が出てきた。
 案の定、ページをめくり始め、懐かしがったり読みふけったり…。



 「平成9年度」だから、まだ(?)25年くらいしか経っていないが、勤務先の卒業学年文集に寄せた手書きの文章を見つけた。少し気どってはいるが、「文集の価値」について少し綴っている。
 以前から思っていたことであり、似たような思いの人も多いだろう。時代遅れのような形で文集に拘っている自分の原点でもあるかもしれない。

・・・・・

 文集の価値は、時を経てから読むことにあります。
 例えば三か月後…三年後…そして三十年後、皆さんがこの文集を手にして読み直す時、どんな気持ちを抱くでしょうね。
 「ナツカシサ」を越えたものを見いだせたら、とっても幸せなことです。
 いや、丹念に読み込めば、きっと全員が見つけ出せるでしょう。
 かすかな淡い光に包まれて、目を凝らしても輪郭はおぼろげだけど、胸に温かな流れを誘い、君を励まし続けてくれるもの…それは、今、1998年春の、君の心そのものに違いありません。

 卒業おめでとう!本当におめでとう!
 そして、三か月後、三年後、三十年後…の君に問いかけさせてください。
 私の好きな俳句です。
 ある言葉を伏せました。
 その時、君は、どんな言葉を入れますか。

 わが胸に住む人(      )冬の梅


・・・・・・・

 後半に何故か俳句を登場させたのは、この子たちと俳句作りの授業をしたせいかなと想う。
 ほとんど可能性はないだろうが、偶然にもこの文章に目を留める子がいたとして、今なら直ぐに検索などして、その語を見つけてしまうだろうか。

 「なんだろう」と、ひと時思いを巡らす楽しみ方を知っていたら、それで十分満足なのだが…。

その答えは、お前さんが…と

2022年01月29日 | 絵本
 この絵本と出会ったのは、去年2月に蔵書点検をしている時だった。点検はかなりスピードで機器操作し、一冊一冊に目を留めている暇はないのだが、この本は大判なので棚から引き抜く必要があったので、表紙が目に入った。題名と三木卓という訳者への興味があり、少しめくってみた。あっ読んでみたいと思った。


『3つのなぞ』
 (ジョン・J・ミュース作  三木 卓・訳 ) 





 いい人間になりたいと願うニコライ少年が、そのために何をしたらいいか、3つのなぞを持ち、それを問いかける作品である。その3つとは「いつが いちばん だいじなときなんだろう」「だれが いちばん だいじな人なんだろう」「なにをすることが いちばん だいじなんだろう」。哲学的な問いかけと言える。


 友達であるサギ、サル、イヌに問いかけ、それぞれが考えを述べるが満足しない。そこで訪ねたのは、カメのレオ爺さんである。畑を手伝った後に起こる嵐の中の出来事を解決したニコライは、翌日レオにもう一度問いかけ、レオはそれに対して「もうそのこたえは、おまえさんが出してしまっておる」と言い放つ。


 そこからのレオの語りが、この話のハイライトになる。なかみは今風に言えば「マインドフルネス」に近い。高学年以上が対象だろうが、その意味を捉えられるかどうかは個人差もあろう。とすればどう語りを説得力あるものにするか…ここは実力(笑)が試される。象徴的な「赤いカイト」と共に印象づけられるか。


旗印を掲げてきたと…

2022年01月28日 | 読書
 「○○力」の本はやや時代遅れの感がある。「○○という病気」もそうか。だから古本屋でこの背表紙を見ても、最初はあまり心が動かなかったのだが、ぺらっとめくってみた時、自分が求めていた世界に近いような感覚がよぎった。そうだ、そうだ。わが師匠、伝説(笑)のキーワード『ずばり、一言で』ではないか。


『一言力』(川上徹也  幻冬舎新書)





 章名は次のように並ぶ。「要約力」「断言力」「発問力」「短答力」「命名力」「比喩力」「旗印力」。『ずばり、一言で』は、冒頭の二つ及び短答力が中心になる。授業で子どもたちの発言に対してその習慣をつけるのは、そこに力が集約されるからだ。これこそ、長年心酔してきた「野口国語」の核心ではないかと思う。


 「発問力」は、そのまま教育で通用する用語だが、ここでは教師の発問づくりという観点はあまりない。それより「問いかける力」「問題をつくる力」の育成には参考になる。これも継続的に取り組んできた「質問力」ということに深く結びつく。質問力を汎用的に使いこなせれば、仕事も毎日の暮らしも深くなる。


 「命名力」は、自分が一時期考え続けたことでもある。「名づけ」という行為がいかに大切か、人とはかくも名前にこだわるものか…と、そうあれは市町村合併が進んだとき、頭の中にずいぶんと宿っていた。どんなふうに意味を込め、何が課せられるか、どう発展していくか…名づけを重く考える思考は今もある。


 その考えを具体化させたのが「旗印力」に近いと言っていい。かつて関わった学校の目標や研究テーマについては結構書き散らしている。今思い起こすと学級目標まで遡る。「旗印」という意識はとても強かったし、それに頼ってきた。力を発揮できたかどうかは心許ないが、この著者の主張には大いに共感できた。

思い出したように大相撲話

2022年01月27日 | 雑記帳
 初場所が終わったというのに、観戦記(笑)を書いていなかった。序盤で貴景勝が駄目になり、正代はいつもの調子なので、これは横綱独走かという雰囲気だった。しかし日替わり伏兵のような状態で、かなり面白い場所となった。初場所初優勝のジンクスが続き、阿炎が勝ってくれたらなあと思ったが、届かなかった。


 ずいぶんと足踏みの長かった御嶽海が落ち着いた姿を見せ、昇進を果たした。個人的に好みのタイプではないので、関心は低い。ただ長野県出身の大関が「雷電」以来と聞き、書棚の「講談えほん」シリーズの一冊を改めて見直す。何度か読んでみたが、読み聞かせするにはかなりの強敵だ。いつか土俵に上げてみたい。




 さて、場所を振り返ると若い力士たちの将来展望が少し垣間見えた。期待通りに勝ち上がった者もそうでなかった者もいたが、調子の良し悪しを超えて「気力」の占める割合が大きいと痛感させられた。ほとんどの場合、顔をみると察せられる。闘争心が顔に出るのはモンゴル勢に多い。日本人は秘めるのが流儀だ。


 昨日、一人の力士の引退がネットで話題になっていた。三段目の華吹(はなかぜ)。51歳、現役最年長力士である。初土俵が昭和と聞くと、とてつもない気がする。約36年、一般人が想像する以上に特殊な世界に身を置き続けたことは、才能と呼んでもいいだろう。昨年の一月場所には勝ち越したというから驚きである。


 コロナ禍で力士の練習不足の中、華吹は経験値がモノをいい差が縮まったからだ、と語った親方がいた。世の中が順調に行くことだけを追い求めている者には沁みる話である。引退後のチャンコ屋は繁盛するだろう。ところで初場所印象深いのは12日目「溜席の妖精」の姿が見えず心配したこと。なんとミーハーな…。

あと何目か石を置けば

2022年01月26日 | 読書
 一昨年夏、逝去された著者の本は結構な数を読んでいる。『思考の整理学』に限らず、論旨が明快で言葉遣いも易しい(もっともその類だけ選んでいるのだが)。この2冊は5,6年前の発刊だが、書き下ろした部分を入れながら、以前の文章を再構成しているようだった。同じエピソードが著されている部分もある。

『本物のおとな論』(外山滋比古  海竜社)

『大人の思想』(外山滋比古  新講社)


 上著は、「・・が大人である」という章の見出しが端的に主張を表わしている。よく言われている内容のものも多いが、少し惹きつけられる章を拾うと「『私』を消すのが大人である」「裁くのではなく、他人を応援するのが大人である」「矛盾しているのが大人である」…求められているのは何か、考えさせられる。


 「Ⅳ 大人の育成」に「エスカレーターではなく、階段が大人をつくる」という見出しがある。これは日本社会の特性を表わしているとも言える。ただ現状の社会は一旦ラインに乗れば、というほど甘くない気がするが、いずれ「階段」意識が薄れ、特に教育の場では導く側の引き上げ力の弱体化が気になっている。



 下著は少し断片的内容が多い。「人生とは自分という雑誌を編集しつづけること」という喩えになるほどと思った。「人生の集積」は毎日の「生活という雑誌」の面白さにかかってくる。それは「本文」と「埋め草」によって構成され、兼ね合いはエディターによる。仕事、暮らし、趣味のバランスを考えさせられた。


 最終章は「フィナーレの思想」…これは読んだ記憶がある。96歳まで書き続けた著者だからこそ、「”余生”などというものがあってはならない」と一節が今また力を持つ。囲碁に喩え「あと何目か石を置けば」生き返る石もあるという。それは断片につながりをつけること、先日書いた「回収」に似ていると思った。

皆「いいね!」と思う訳

2022年01月24日 | 読書
 読み聞かせ用にヨシタケシンスケの名前で検索をかけていたとき、「絵」で引っかかった一冊だ。「作」つまり著者の名前に見覚えがあった。去年、ある雑誌で亡くなった脚本家を偲ぶエッセイを書いていたな。さて、この書名はいかにも今風ではあり、確かに児童書と言ってよい内容だが、なかなかユニークだった。


『いいね!』(筒井ともみ  あすなろ書房)



 「○○っていいね!」と題づけて3~4ページの短いお話が続く。ある学級の子どもたちそれぞれを話者にしながら、様々な観点で「いいね!」が展開される。最終的に、ほとんどの場面で登場する「ネコ」がいて、終盤で「ネコ新聞」の形でそれぞれが回収される構成も面白い。著者が取り上げた観点に共感する。


 全部で20個あり、「ヒーロー」「ひざ小僧」「鼻の穴」「眠れない」等々、ふつうに「いい」ものだけが挙げられているわけではない。つまり何気ない物事、普通あまり良くないと思われる事態、悲観的なことなども含まれている。また、ごく普通にいいと思われること、例えば「あいさつする」も考えさせられる。


 そこでは「あいさつする」のが大嫌いなアタシが語る。何故好きでもないヒトたちと一緒に混ざらなくちゃいけないんだ。そこへ転校生の「あのコ」が登場し、最初のあいさつは「右の肩を、アタシの右の肩にゴツンとぶつけた」こと。それが繰り返されて、アタシは「あいさつするのって、気持ちいいかも」と思う。


 ボクは「口がくさい」おばあちゃんがイヤでだんだん離れていった。ところが病気のおばあちゃんが亡くなり、ボクはそのくさい匂いを思いきり吸い込み懐かしむことをいいね!と思っている。遠ざけたい、否定したい物事にも宿る心があり、それは距離をおいてみれば煌めいて見える。「さびしい」「会えない」も。

崩れた努力さえ糧にする

2022年01月22日 | 読書
 そういえば伊奈かっぺいの姿を見かけなくなった。青森県内ではまだ活躍しているのかな。年末からの書棚整理で見つけ、少し懐かしくなったので再読してみた。方言ブームを巻き起こすとまでいかずとも、彼の語りは独特の魅力があったしなんといっても次の名言がある。「努力というのは、積み重ねるから崩れる




『あれもうふふ これもうふふ』(伊奈かっぺい 草思社)


 上手いこと言うよと思った。単なる駄洒落も含めて言葉に対する見方がユニークでモジリ、ヒネリ、語呂合わせなど、津軽弁以外でも十分に面白い。通常なら「冗談」の一言ですむのだが、ここまで徹底して考え、作り、残すことは職人レベルだ。語を額面どおり受け取らず、意味を惑わせる。つまり「言葉を疑う」


 例えば「上手に泳ぐ、サメ」…読み過ごしそうだが「じょうず⇔ジョーズ」に、へっと思う。例えば「いつも『ぬれぎぬ』を着ている、水泳選手」…解説するまでもないが、週刊誌あたりの秀逸な見出しにも使えそうだ。このような発想が、あの「努力が…」にも結びついたのだろう。しかし、当時1980年頃の学校現場では中学生相手の講演では、大人の目がそこまでこなれてはいなかった。


 よって、青森県教委が伊奈の話を聞かせてはいけないという「カゲの条例」を作ったとか…。それから二十数年後には国語教育研究会の東北大会での記念講演をしていたから、時代の流れは正直だ。ただ、「言葉を疑う」という点に関して、学校教育とどの程度の親和性を持つかは、依然としてなかなか難しい問題だ。


 むろん発達段階を考慮しつつだが、教育は言葉を信じなければ成立しない。さらに多義性、多重性を獲得するには個人差も大きい。伊奈は教育に関して「先生を尊敬しないこと」と提言する。それは盲目的、従属的な姿勢への警告だ。「笑い」で培われるのは、「崩れた努力」さえ「糧」にするたくましさではないか。

寅年トラブルとらの皮

2022年01月21日 | 雑記帳
 元日午後だったろうか、少し天気が良かったので、久しぶりに玄関前に出している自家水道の消雪用水栓を締めた。翌日夜にまた降り出したので、開栓しても水が出てこない。これは詰まったか。次の日、上水道の水をホースでつなぎ圧力をかけてみるが、所詮素人考えである。結局4日朝に業者に電話することに…。


 11日から12日にかけての暴風雪の影響だったろう。BS放送が映らなくなった。去年も二度あり、その度に業者に調節してもらい、大きな異状はないのだが…と説明を受けていた。風が強い立地条件は隣家も同じであり、どうして繰り返すのか。また調節してもらったが、金具が特に緩んでいるわけでもないという。




 昨年に比べ積雪量は酷くはない。しかし除雪は連日あり、一番頻度の多い玄関の3段アプローチ、30㎝角のタイルが1枚外れてきた。そしてその隣のタイルも…。もう二年ほど前から少し欠けてはきており、自前で修理の真似事はしたのだが、もう限界になっている。破損部を寄せて、これは春になってからだなあ。


 日課になっている朝風呂のため、いつものように追い炊きスイッチを入れて10分ほどしてから浴槽を見たら、なんと湯が溢れんばかりになっていて、まだ設定温度に達していない。今までに経験のない状況。水回りトラブルは珍しくないが、とうとう寿命が近いか。その後、復旧して今は恐る恐る使用している。


 自宅を建て替えてから18年目。様々な箇所にガタが来る時期なのかもしれない。便利な生活とは結局機器等に頼ることだから、故障や破損するととたんに途方にくれてしまう。「あれ」がなかった時代、どうして代用していたか。また無くとも平然としていた心はどこへいったか。トラ年のトラブルは自省を迫る。

モシモではなくイツモ

2022年01月19日 | 読書
 月曜日に読み聞かせする絵本は決めていた。しかし、ちょうど1月17日だったので、震災に関する本の紹介ぐらいはしたいと思い、図書館内の本を検索して見つけた一冊だ。「この本は、阪神・淡路大震災を経験された167人のかたのお話をもとにつくられました。」とあとがきにあり実にユニークな仕上がりだ。


『親子のための地震イツモノート』
 (地震イツモプロジェクト編  ポプラ社)


 
 表紙見返しに書いてある文章が、この本の趣旨を端的に言い表している。子どもたちにも紹介した。「地震が起こる可能性は、モシモではなくイツモ。イツモしていることが、モシモのときに役立つ。」副題が「キモチの防災マニュアル」とあり、物的な準備が網羅されている内容ながら、説明が詳しくわかりやすい。


 「地震の瞬間」の「理想の対応」と「実際の対応」が図化され、こうまとめられている。「『なにかをする』のではなく、『なにもしなくていい』ようにそなえておく。それがいちばん大切な防災のこころえなのです」今さらながら、社会的ハード面だけでなく、家庭・日常の細かな原則にも当てはまると思い知る。


 被災者による「地震の直後」の状態、心理などが端的に書かれ、それにそった準備や対応が示される。「水がなくなる」というページでは、イツモの水の扱い方、備えの仕方、そして起こった後の工夫「ラップをお皿に広げて」「新聞紙で食器をつくる」「三杯のバケツで(汚れをとる)」と、実用的に記されている。


 イツモの心がけは、こんな形でも提案されている。「あいさつという防災」で近所との付き合い方、「アウトドアという防災」「スポーツという防災」で、被災時に役立つこと、関係づくりなどを強調している。東日本大震災から10年過ぎ、正直気持ちに緩みもあるし、イツモの防災習慣化のネジを締める時だと思う。