すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

元気にいこうぜ

2009年03月31日 | 読書
 今の職場を異動することの慌しさに加え、私的なアクシデントがあり、結局この一冊しか読めなかった。

 『街場の教育論』(内田樹著 ミシマ社)

 あとがきに内田教授は、こう記している

 私はとにかく「学校の先生たちが元気になるような本」を書こうと決めていました。
 
 ぼやけた脳みそでは飲み込めない箇所もあったが、確かにこの本のいくつかの記述には現場教師として勇気づけられる。
 ただその基となっているのは、「教育にかかわる諸問題を解決する主体」は教師なのだという強い自覚と奮起を求める声でもある。
 それに応えるには、しっかり足元を見つめながらも一方で視線を遠くに求め自分の立ち位置を意識できるという構えが不可欠である。

 グローバル資本主義の中に置かれた学校が、子供たちが学問をする場として機能していくためには、おそらく学び続ける教師の姿勢や日々の細かな声にある価値観が決定的である…そんなことを年度末ぎりぎりになって考えている。

 微視的な読み方としては、教師の世代論や「日本語によるロック」(松本隆が出てきた)というところが面白く、ぜひ別の本で展開してほしいなあと強く思った。
 
 いよいよ明日から新年度。
 花粉がきびしいが元気さだけは失わないようにしたい。

ジャパンを支える人々

2009年03月26日 | 雑記帳
 祝世界一である。
 昨年の北京五輪以降、結構切れずに興味を持ち続けていた。
 前回のときも凄い凄いという思いがあったはずだったが、記録が残っていない。
 とりあえず、自分が感じた「名言」を書きとめておきたい。考えさせられたという意味での言葉である。

 ジャパンの上に個人の名前をつけるのは好ましくない

 この通りの文言ではないかもしれないが、王相談役がそう言ったという。
 「○○が率いる日本チーム」という意味で使っているのであるが、○○が求心力?個性?が強い場合に使われている感じである。そういった使い方そのもの、報道の煽り方に疑義を呈していることかもしれない。
 いずれ、あの人の名前がついたチームよりはずっとよかったというのが今回の勝利に結びついていると思う。

 痛覚を伴わない痛み

 イチローのコメントの頻度は少し食傷気味であるが、それだけに言葉が変化していることも興味深い。優勝直後の「心の痛み」から微妙に変化したのがこの言葉。イチロー独特の言い回しのようにも思う。辞書的な意味では単に「苦しさ」でいいのにねえ。
 自分のニュアンスをわかってほしいという思いが伝わってくるようで、ある意味痛い。

 今回の一番は、この言葉である。うーんとうなった。

 日本人なら、並びなさい。

 優勝直後に号外を配るおじさんが、群がる人々に放ったこの一言。
 ジャパンはこうでなくては。

つながりは見えてくるはず

2009年03月24日 | 教育ノート
 学校報に書いている雑感と職員向けの連絡に載せた駄文をホームページにアップする形で整理している。今年度の分を集約し終えた。

 計画的に書いているわけではなく、その折その折に感じたことや考えたことを記しているので、時に似通った表現になってしまう場合もあったようだ。

 しかし、そのことにあまり神経質にならないようにした(これは根がそうなのかもしれない)。全体として見れば、似たようなことを書いても「繰り返し」による強調ととらえることもできるし、結局自分が言いたいことしか頭の中には浮かんでこないだろうし、見かけの容量は確かにあるが、機能しない部分が多い脳みそのようだ。

 まずはその自覚からということで、地道に進めていきたいと改めて思う。

 職員向けの駄文のタイトルを「つながる授業」と気取ってつけてみたが、果たして自分の中でつながっていたか…。

 最初にこの言葉を考えたとき、「つなぐ」や「つなげる」にしなかった自分の感覚がある。確かに積極的に向かう姿勢は大切だが、あまりにその点に意識的であることは、何か体裁だけになるのではないか、というちょっとした思いがあった。それは自信のなさとも置き換えられるが、目指す方向さえ見失わなければある程度の量をこなしていくことで、時々つながりが見えてくることがあるはずだ、という確信めいたものも持っている。

 計画的継続的であることは確かに大事である。もう一つの意図的はもっと大切にしたい。意図的であるからこそつながりが見えてくる…そんな思いが浮かぶ。

愚かという徳

2009年03月21日 | 読書
 『長崎乱楽坂』(吉田修一著 新潮文庫)を読む。
 吉田修一の小説を読んでいると、人間の「業」とか「性」とか言っていいのだろうか、どうしようもなく切なくなることがある。
 この話も確かに昭和の頃にはそういう世界が存在したと思わせ、どうにも納まりのつかない結末なのだが、描く人間像に曳きこまれるような気がした。

 川井湊という批評家が解説を書いているが、その一節に妙に考えさせられた。

 世の中が「愚(おろか)」という徳を持っていた時代と社会

 「愚と徳」といういわば反対の意味である言葉を並べる比喩表現をどう解釈するか。辞典的な解釈ではどうにもならぬが、なんとなくわかるイメージがある。
 人間は愚かなことをする生き物であり、それはどうにも認めざるをえないのに、その範囲を酷く狭めてきていることがわかる。その窮屈さは、徳と呼ばれる心そのものも縮めてしまってはいないか。

 ビートたけしの「振り子」の話ではないが、いわば愚かさも全て含めて徳として成り立つ、愚かさは徳の一部なのだという解釈ができるのではないか。
 愚と見える行為をどこまでも糾弾し、排斥していくことに夢中になっている世の中こそ、もっと大きな愚かさに包み込まれてはいないか。

 「愚か者」という曲、もちろんマッチじゃなくショーケンに尽きるでしょう、などとふと思う。

手にとって選ぶ楽しみ

2009年03月19日 | 雑記帳
 行きつけの小さな書店とネットだけでは、どうしても読書の範囲が狭まってしまう(と言い訳がましいことを書いてしまった)。最近、教育書に手が伸びない理由をそんなところに求めるのは、まったくの見当ちがいだろうが、やはり何か刺激がほしい。

 ふた月に一度ぐらいは大型書店で実際の本を手に取りながら、選んでみたいものだなと、休日に仙台まで足を運び駅前の書店に入った。ぶらぶらしながら教育書のある棚へ行き、ずっと端から端まで見渡し、背表紙のタイトルを見て手に取る、著者名を見て引っ張り出す、めくって目次を見る、ぺらぺらめくって中身に少し目を通す…、乏しい財布のなかみでは次から次へというわけにはいかないが、いろいろなジャンル、違う著者の本を合わせて6冊購入した。

 ああ、やっぱりいいなあと思う。こんなふうに本を選べる時間が無性に好きだ。(選んだ段階で、何かもう半分読み切ったような雰囲気になっていることが少し可笑しい)

 大型の書店は、ここからが少し難関。レジで会計を済ませた後、予定の時刻まで少しあると、つい文庫や新書、選書などの棚へ向かってしまう。近所にはないものがたくさんあり、ついつい手が伸びる。だめではないか、と心で叫んでみて戻すけれど、その瞬間にまた隣りの書棚の背表紙が見えてきたりして…。

 本もやはり実物だなと思う。ネットも確かに便利で恩恵に与っているが、やはり手にもってこそ選べるような気がする。

 春休みは(といっても余裕あるのか)は、少し真面目に教育関係書を読もうと思う。様々な情報は仕入れているつもりだが、やはりきちんとネジを巻くためには、そういう時間が必要だ。

怖れしらずのムービー製作顛末記

2009年03月17日 | 雑記帳
 恒例のように卒業祝賀会で職員による出し物?を依頼される。

 今まで勤めていた学校の多くでそのまとめ役をかってでて、寸劇づくりなどをしてきた。これは職種が変わってもあまり変わらず、昨年はよびかけ風の「リアル卒業式」、一昨年は「将来の卒業生へインタビュー」など企画し、ほとんど練習なしであるが(できる時間もない時期である)それなりに楽しんでもらったようである。

 長年やっていると、ネタもつきてくる。そこで、思いついたのが「映画」づくり。…この単純さが浅はかさであり、泥沼化の始まりだった。

 パソコンに、ムービーメーカーというソフトがあることは知っていたが使ったことがなかった。昨年、写真編集などのソフトを購入し、学校行事や親類の結婚式などの様子をまとめたときがあったが、その時にああパソコン内のソフトでも近いことができることを知った。それを使って動画編集もできるらしい。まあ大丈夫だろう…この楽観的なところがどうしようもなくいい。

 内容を「殺人事件仕立て→夢」のような展開にして、配役を決めセリフをつくり、職員にそれぞれお願いしたまではよかったが、いやビデオカメラによる撮影、ICレコーダーによる録音、そして効果音のダウンロードぐらいまではあまり支障なくくるにはきたが、その次に待っていたのは「編集」という大仕事だった。

 最初のうちはサクサク動いていたのが、どうにもスムーズにながれず、絵と音の合致、切り換え効果のタイミングが微妙に計れない。効果音をコピーにして長くしたいがずれてしまう。そのうちパソコンが誤作動?したり、固まってしまったり…、再起動をかけてもソフトが立ち上がってこなかったり…まさに泥沼のような状況が三日ほど続く。

 自分から言い出したので途中挫折はしない、という変に意固地になりながら、まずは80%ほどの出来までこぎつけ、タイムアップとなった。

 ああすれば、もっとこうすれば、ということはいくつも挙げられるが、世の映画監督たちもそうではないのか…なんて生意気なことも考えたりして懲りない奴だと思う。
 なにしろ、その映画のタイトルにしたのが「おくるびと」ですから。怖れを知らないというかなんというか。

やけに使えない言葉

2009年03月16日 | 雑記帳
 「わりに」なんていう言葉のことが頭にあったからだと思うが、ぺらぺらめくっていた読書誌に載っていた文章の一節にまたひっかかってしまった。

 オレの女房はアメリカという国の社会システムについて、ヤケに詳しくなっているじゃん、と。

 「ヤケに」である。
 「わりに」といったらやはり「やけに」でしょう、という思考が働いてきた。この文章でのカタカナ使用はおそらく強調だろう。なにしろ「ヤケに」が4ページ中、8回も登場している。やけに多いのである。ちなみに筆者は向井万起男氏。

 一昨日書いた「わりにできる」という選択肢があったら、その上に「やけにできる」というレベルがあってもよくないか。頻度、程度を表わす比較の言葉としてはそうあるべきだろう、なんていう思いが浮かぶ。

 まあしかし「やけに」という言葉の持つ響きは、実際あまり好ましい印象ではないからなあ、と思いつつ電子辞書で確認してみる。

 広辞苑「むやみに。やたらに」
 明鏡「程度がはなはだしいさま。やたらに。むひどく」

 文例も「~寒い」「~暑い」というものしかなく、何か人為的でない方向での使い方のようにも思う。この言葉が使えないのはそんなところかと思いつつ、例のシーソラスのグループで出てきた言葉は、なんと「とんでもない」である。

 やはり公的なアンケートには無理か…でも、もしあったら少し面白い。ICT活用は「やけにできる」…そういう選択肢にマルする存在がいてもいいだろうし、ある種そこまでの自信を持っていることも時には必要ではないか、って、あなた少しヤケになっていませんか。

わりに便利な言葉

2009年03月14日 | 雑記帳
 ICTの活用についてのアンケートがきて、その用紙をみたら選択肢の言葉が、こうなっている。

「わりにできる」「ややできる」「あまりできない」「できない」 

 四択なので意図はわかるにはわかるが、気になった。
 「わりに」である。
 今までも同じアンケートはあったが、こうした言葉遣いではなかった気がする。他のものでもこの「わりに」は記憶がない。

 「わりに」と「やや」の比較の問題である。確かに使い方として「やや」は「少し」ということだろうし、「わりに」はそれ以上なのかもしれない。しかし、その境目はなかなか難しい。

 早速、電子辞書である。広辞苑は「わりあいに。わりと」だけだが明鏡だと「思ったよりも」が足されている。あまり、ぴんとこないなあ。
 和英辞典の語意がぴんとくる。「比較的comparatively」そして、なんと「かなりfairly,rather」とでているではないか。そうか、「わりにできる」は「かなりできる」と同義なのだ。じゃあ、なぜそう表現しない。

「かなり、とか、よく、とかにすると、その選択肢にマルをつけづらいんじゃないですか」
と同僚がいう。
 なるほど、もっとも。「わりに」に惹かれて?一番左を選ぶ人が多い…つまり、教員のICT活用能力は高まってきていますよ、という展開をねらっているわけか。ちょっと穿った見方でしたね。

 しかし、電子辞書検索はまだまだ続き、「わりに」を類語のシソーラスで検索すると、こういうグループになるのです。

「平凡 無難 割に」 

 ICT活用において、この仲間であることは喜ぶべき…かな。
 なんとまあ便利な言葉であることよ。いや、わりに便利というべきか。

国語辞典をはやく引くこと

2009年03月12日 | 教育ノート
 勤務校で、国語辞典の活用を重点としたのはもう二年前の話だが、今年度も一つのまとめとして「はや引き」という形で記録をとってみた。その一こまは、毎日アップしている学校ブログへ載せている。

 一文字の言葉から七文字ぐらいの言葉を、難易度を考えながら(長音や撥音、カタカナ語などを混ぜて)十題提示し、どのくらいの時間で見つけられるか、というごく簡単なものである。

 今年度は途中での記録化ができなかったので、ややトーンダウンしたきらいがあるが、二年以上の各学級でそれなりに取り組んでもらっていたので、やはり子どもたちの伸びはたいしたものだった。

 特に六年生の二人の子が、一分台に突入したには驚いた。前年で二分台前半だったが、そのあたりが限界ではないかとも思っていたので、鍛えればまだまだ伸びることを実感させられた。

 子どもたちのデータを見ながら、いくつか考えさせられることがある。
 個人の能力差が目立つ活動のようにも思えるが、学年(年齢)による「壁」があること。
 順調に伸びている子が多い反面、どうしても記録があがらない子がごく少数いること。これは何が原因か探ってみることはとても興味深い。

 学習意欲との関わりはずいぶん大きいように感ずる。
 「学ぶ力」としての学力を測る一つの目安と言い切っていいだろう。
 少なくても「言葉へのアタック力」(これは野口先生の言葉)を高めるには、小学生のうちに電子辞書を持たせるよりはいい、というのが今のところの結論である。

時には自ら縁を起こす

2009年03月11日 | 読書
 ごく普通に使っている言葉でも、本の一節などで出会うと改めて考えさせられることが多い。

 今『北の人名録』(倉本聰著 新潮文庫)を読んでいるが(ずいぶん昔の内容だ)、冒頭の章に富良野のことが書かれてあり「ヘソ」で売り出した経緯が内容になっているのだが、そこで目が止まったのが次の言葉だ。

 縁起の発生である

 私などは「縁起がいい、悪い」という吉凶にかかわることでしか使っていない言葉なのだが、よく見ると「縁」が「起こる」ということなんだなと思う。
 小学生用の国語辞典でも第一義は「物事の起こり」である。
 広辞苑だともちろんもっと詳しく「因縁生起の意」とある。
 マイペディアだと「○○縁起」がいくつもあると説明があり、とても覚えきれない。狭義には「業感縁起」つまり人間の幸不幸、成否などはすべてその人の行為(業)の結果である、という考えらしい。「因果応報」に近いものなのかな、と思う。

 縁起が「発生する」となると、なんとなく通ずる気がするが、これを、縁起を「発生させる」となるとどうなのだろう。
 富良野の町おこし?は昭和の40年代頃からではないかと思うが、北海道の真ん中という地理的位置に縁起を見いだして発生させ、観光的なメリットをとったというべきか。となると、縁起は発生させるもの、積極的に取りにいくべきものということか。

 吉凶を表す縁起も確かに伝統や習慣によって形づくられたわけで、十分に敬意を払うべきだろうが、またそれとは別に「物事の起こり」としての縁起をどんどん見出し、つなげていくような発想が今必要ではないか。
 時には自ら縁を起こすという気持ちを持つことを、縁起と呼んでもいいのではないか。