すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ポンコツ、トコトコ走る

2015年12月31日 | 読書
 【2015読了】130冊目 ★★★
 『文藝別冊 長渕剛』(河出書房新社)


 『文藝別冊』はめったに買わない。今まで宮沢賢治、金子みすず、そして音楽関係では尾崎豊ぐらいだった。今回、手を伸ばしたのは、長渕本人への興味はもちろんだが、ロングインタビューの聞き手に武田砂鉄の名があったことも大きい。昨年ごろから注目しているライター。やはり的確な時代認識の言葉があった。


 何かを真っ白にしようと強制する力によって、むしろ黒が濃くなってしまう。そういう流れが、そこかしこで起きている。(武田)


 学校の仕事を振り返っても、まさしく当てはまる。例えば○○調査は典型的だろう。数年続けられたこの調査は、今年またグレードアップしている。その内容をみたとき、思わず「えっ」と声が出たものである。ここまで来たかという怒りの気持ちも長持ちせず、諦めと落胆に変わってしまう自分もまた不甲斐ない。


  この本には「民衆の怒りと祈りの歌」と添えられている。フォークブームから台頭した一人である長渕の異色さは、万人の認めるところだろう。その本質はまさしく「怒りと祈り」に象徴されるかもしれない。ただ「民衆」と規定するとき、どの程度認識を共にできるか。長渕の提示を受けとめる感性の問題もある。


 なかみを見ていくと、対談相手は藤原新也、柳美里。エッセイは湯川れい子、和合亮一など、結構なビッグネームが並んでいる。特に藤原との対談は、長渕自身が藤原に尋ねることによって、自分を捉え直すような進み方で実に興味深かった。対談の最後で長渕は「いちばん腑に落ちて勇気が出たこと」を語っている。


 社会を変えようと思っていないことです。こんな社会に自分が変えられないように生きているということ(長渕)


 この結論めいた感想は、藤原がインドでの体験を語るなかで、引用したガンジーの言葉に端を発している。そういった指針を、長渕も藤原も「表現者」としての役割と矜持を持ちつつ噛みしめている。その行方は大衆の前に、隣人の心の支えに向かうことも共通している。凡人はどうするか。藤原の言葉に救われる。


 人間にはその人ごとに持って生まれた排気量があると思うんです。排気量の多い人は表現する。排気量の少ない人はそれを受け取って走ればいいんです。(藤原)



 小さい排気量で、トコトコ走った一年でした。だいぶポンコツになってきて(今年は連続更新が年末3回途切れた。いずれも体調不良…実は○日酔い)まどろみっぱなしになることも心配です。しかし、様々な刺激を取り入れて長く走り続けていきたいです。今年もご愛読に感謝いたします。よいお年をお迎えください。

今年もまどろんで過ごしたか

2015年12月30日 | 読書
 【2015読了】129冊目 ★★
 『苦しまない練習』(小池龍之介 小学館)

 ベストセラー『考えない練習』を読み、「『考えない』は、よく考えるために」と書いたのはもう五年以上前だ。先日読了した『平常心のレッスン』からの流れもあり読んでみたのだが、なんだかようやく著者の考えが納得できた気がする。それにしても、年越し近くなってこんな本とは、よほど苦しかったのか!オレ。


 傍から見てそうは思えないだろうし、自分でも別にそれほどでもなかったとは思うが、些細な苦悩の繰り返しには結構参ることも多かった。たぶん癖だと思ったら、こんな記述が…「『苦しみ』を一度感じると何度もリピートしてしまうのは、苦しむことを心が実は歓迎しているからにほかなりません」、ああと思った。


 「不快信号」による「危険回避」という生存本能に根差しているらしい。それがクセになれば苦しさは増すし、ネガティブ思考のパターン化に陥るそうだ。従って苦しみを認めつつ減らすか増やすか…そこに焦点を当てた練習なのである。著者の提案が今回するっと入ったのは、今までの読書の積み重ねもあったろう。


 「非難に備える~必ず誰かが、あなたに反感を抱く」

 「自己を整える~自分が実践できていないことを、他人に諭さない」

 「業を良くする~嫌な思いをするのは、悪業の借金を返す機会」


 この三つと共に、具体的に「身体を見つめる」「呼吸を静める」という体の動きを伴う「術」がいい。やってみると少し実感できる気がした。「ブッダにならう」と前置きのある本書は、つまり「今日、今ここ、この瞬間」に集中していく姿勢だろう。もう一つ凄いと思った言葉は、今読んでいる『文藝別冊』と重なり合う。

 世の中の人は二つに分けることができるでしょう。
 一つは「目覚めている人」であり、もう一つは「まどろんでいる人」です。

「光の糸」を聴き続け

2015年12月29日 | 雑記帳
 今年はかつてないほど音楽を聴かなかった気がする。車での通勤距離2,3分だし、徒歩のときにヘッドホンを耳にする齢でもないし…。自宅でのんびりするときも映像の方が多いし、CD購入もぐっと減ったように思う。中古を含めてもおそらく10枚には満たない。そんななかで比較的聞き続けたのは浜田省吾だ。


 新アルバムは4月末の発売だったが、買ったのは夏過ぎだったように思う。まあ休日の運転するときに流していて、その時はそんなに良くも思えなかったが、NHKのSONGSで特集をした番組は、見入ってしまった。スタジオ演奏が主でなくて、イメージフィルムのような手法で曲を流していき、それが魅力的だった。


 「地上波の音楽番組で単独特集」されるのは初めてだったそうな。つかず離れずという感じではあるが、注目してきたシンガーだったので、そのことを今意識できたのも不思議な感じだ。やはりアーティストとしての矜持みたいなものなのかな。考えてみれば、好きになるきっかけはジャクソンブラウンだったからな。


 で、改めて車で聴きなおすと、一つ違った感じで聞こえてくる。これは映像の効果なのかなと思いつつ、歌詞カードを見る。ああ、曲のポップスさで聞き流してしまいがちだが、浜省なりの世界観はやはり表現されているなあ。と同時に、還暦を過ぎたシンガーの歌声は果たしてどこまで届くだろうと思ってしまう。


  未来へ連なる光の糸を紡いでいこう
 暗闇に支配されないように
 つないだ手の温もりを闘う勇気にかえて
 残された僅かな時間の中で
 焦らないで緩まないで生きる

 命の炎を高くかざして道を照らせ
 来る日も来る日も燃え尽きるまで、友よ共に
 (「光の糸」より)

学校ブログの120日

2015年12月28日 | 雑記帳
 8月25日から12月25日までの二学期。びっしりと詰まった感じのある四ヶ月だった。例年ではあるが地区住民運動会からスタートし、9月初日に東京フィルハーモニーの演奏会、そしてその翌日から修学旅行の引率があった。どれも印象深く、学校ブログとしても、絵になりやすい日々が続いたスタートだった。


 9月の中盤以降はスポ少の大会や相撲大会などもあったが、なんといっても学習発表会に向けての練習開始が、学校に活気をもたらしていた。いつも思うが一番好きな季節でもある。10月に入って発表会直前に、住民避難訓練が本校会場に実施され、体験車にのって震度7の揺れを体感したことも個人的には忘れ難い。


 今年の学習発表会は、昨年よりまたパワーアップしたまとまりのある内容だった。特に六年生は最高学年らしい堂々としたレベルで終えられた。私の挨拶は昨年バージョンの変形(ビデオによる職員紹介)で、出来は昨年並みだったが、観客が慣れたせいか(笑)、まあまあの反応だった。文化の秋は常にそうありたい。


 文化の秋からスポーツの秋へ。好天に恵まれたマラソン大会なべっこ会だった。外での行事はなんといっても天候に左右され、学校職員にとって心配の種だが、今年は満点に近い。校外へ出る学習も盛んに行われていた。大人にとってはエネルギーが必要だが、意識してどんどん出ていく姿勢は崩してはいけない。


 11月を中心に校内研修も充実を見せた。数回続いた指導主事訪問の他に、なんといっても11月20日の校内セミナーが印象強い。部外からの参加はわずかであり、あれだけの上質な内容を広められなかった残念さはあるが、本校職員にとってはその分かなり濃い収穫をもたらしたと信じたい。まさに深まる秋だった。


 雪の少ない12月(その分、昨日から降り続いているが)。新年度には統合小学校としてスタートする本校なので、全校PTAの日に閉校式典も行った。そんな慌ただしさを感じながらも、一番肝心な「子どもの育ち」という点は忘れず歩みを進めてこれたかなと思う。大詰めとなる三学期も「ぜんしん」していきたい。







心より大事なもの

2015年12月27日 | 読書

 【2015読了】128冊目 ★★★
 『日本人の心はなぜ強かったのか』(齋藤孝  PHP新書)


 この書名の問いかけに対する結論は、結構「齋藤孝本」を読んできた自分には一定の予想はつく。しかし、それをどんな切り口で説明してみせるか、そんな興味を持てるところがある。副題として「精神バランス論」が挙げられ、読みだしたら、まさしくと思った。今、目の前に起こっている事象がすっきり見えた。

 「心」と「精神」に「身体(習慣)」も加えた三点によって、私たちの存在は成り立っている。


 「心」と「精神」、辞書で調べれば明らかに類語となろうが、著者は「基本的にまったく別物」と言い切る。端的には、心は個にあるもので、精神は共同体や集団によって共有されるものと区別する。そう考えたとき、現在の世の中で一番肥大しているものが何か、言わずもがなであろう。当然、他の二つが弱っている。


 「心の教育」という言葉を否定するわけではない。しかし、それは個の心を大事にしたり、個に寄り添って共感したりすれば、それで成立するわけではないことは自明である。精神、そして身体(習慣)こそが鍛えられなければならない。学校教育でも当然意識してきたことだが、現在の風潮は明らかに後退している。


 私たちは今、子どもに面と向かって「心より大事なものがある」と言えるだろうか。少なくとも悩みを抱えている者に対してぶつける言葉ではない。だから逆に言えば、かなり計画的組織的に、そして綿密にそうした下地を作っておく必要があるのだろう。精神と身体を鍛え、バランスを良くすることで心を強くする。


 「失われた精神文化」…これを取り戻すことは難しい。高度成長期に育った私の年代などは「失われた」と言うことも躊躇われる気がする。著者が示す「精神の鍛え方」の様々な方法によって、確固たる精神の在り方をしっかりと示さねば、子どもたちには当然伝わらないし、肥大した心の弱体化の歯止めはきかない。

あったかい聖夜の一日

2015年12月24日 | 雑記帳
 艶っぽい話ではない。朝のラジオで言っていたが「これほど雪のないクリスマスは記憶にない」というほどの、天気のよさが続く。そこそこに温かい。今日の街頭指導には思わず手袋を忘れてしまったが、なんとか凌げる。もっとも「雪の(降らない)心配はしなくていい」のがこの地方の格言。明日から降るだろう。


 4,5年生が隣校との交流も兼ねて、秋田市へ文化体験活動ということで博物館や美術館へ出かけた。県主催事業を教委に薦められて活用したものだ。遠足ルートに取り入れる場合もあるが、学期末のあれこれを終えて、いい体験になるだろう。できればクリスマスプレゼントになり得るようなモノと出会ってほしい。


 以前の日記を見直したら、通知表を見ていたり、それが終えて終業式の挨拶ネタに迷っていたり、当然だが学期末の雰囲気のある一日を過ごしている。おっと驚いたのは、昨年の今日、第一回目の学校統合のための運営部会(教職員のみ)を開催したこと。あれから一年…いろいろあったが、実務はこれからが本番だ。


 明日の終業式、通知表所見の一部紹介のあとに何を話すか思案した。日数クイズから紙を折って「積み重ね」という形でまとめる案も思いついたが、資料を見ていて三日遅れの「冬至」ネタでいくと決めた。2011年にちょうど終業式と冬至が重なり、その時考えた。さっそく自宅へ「南瓜を買っておいて」と電話する。


 このネタの核は、この辺り(秋田県南部、特に西馬音内が中心)では南瓜のことを別名「ぼんぼら」と言っていることだ。そしてこの言葉は「中味が空」というイメージから、叱られたり、馬鹿にしたりするときに使ったものだ。この方言がポルトガル語「アボ―ボラ」の変化というのも興味深い。鉄板ネタの一つか。

健康オタクの読書日誌

2015年12月23日 | 読書
 【2015読了】126冊目 ★
 『長生きしたけりゃ ふくらはぎをもみなさい』(槙 孝子  アスコム)


 久々の健康本。「○○は第二の心臓」などという言い方は、足裏などにも当てはまる比喩だ。要するに「血流」だということがわかる。それも末端部分が大事なんだなということが、世に出回る健康法のパターンだとつかめた気がする。納得できたのは「ふくらはぎがある動物は人間だけ」という記述。なるほどねえ。

 様々な動物に「太もも」らしきものは見つけられるが、ふくらはぎというと、やはり二本足歩行が関わる。そこがこの健康法の核と言えるようだ。様々な健康本には劇的なエピソードが載っていてびっくりするし(ある面ではホントかいなと思いつつ)、あとは「水」と「呼吸法」がほとんど必須ということも共通点だ。


 【2015読了】127冊目 ★★
 『人生百年 私の工夫』(日野原重明 幻冬舎)


 「はじめに」にある「本書のキーワードは『60』と『100』という二つの数字です」という文章。なんとも心強いではないか。60歳は人生のハーフタイムともある。寿命が伸び昔ながらの言い方は通用しなくなり、今は「天命を知る」のは80歳であるそうな。20年以上もあるのか。ハーフタイムで退場しないように。

 この本自体は10年くらい前の本なので、団塊ねらいか。書かれている内容は同類の本とほとんど変わらない。健康、ライフワーク、ボランティア、好奇心…「私の工夫」として挙げてある「自分の二十年先のモデル化」「新鮮なストレス~ユーストレス」は確かに面白い。しかしそれらは各世代共通といえることだ。



 今年は齢相応に、いろいろな症状が出た。飛蚊症に不眠症、それに最近は不安症ではないかと思ったりする。はずみで「不安症」と書いてみたが、そんな病気は実はない。きちんとなると(笑)「不安障害」というらしい。そうなったら怖いなと想像が続くのは、不安症としか言いようがない。語彙のなさには不満症か。

ぶれずに作り続けた人

2015年12月22日 | 雑記帳
 先週、岡本おさみの訃報がネット上に載っていた。岡本おさみと言えば、私ぐらいの年代で言えば、「旅の宿」「落陽」「祭りのあと」といった曲で、吉田拓郎との関連で覚えていたり、あのレコード大賞曲「襟裳岬」の作詞者として知っていたりするのが、普通だろう。量的には少ないが印象深い書き手の一人だと思う。


 今考えると、「落陽」や「祭りのあと」にある厭世感がぴったりとはまってしまう十代には何か笑ってしまうが、当時は普通にいた。世をすねている、斜に構える、反発するがあまり社会的な行動に出るわけでもない…こう書き出してみると、いわゆるポスト団塊世代という奴ら(自分!)はどうしようもないと気づく。


 それはさておき、個人的に岡本おさみには多少の興味があった。2003年に発売された一枚のCDを持っているのは、その証でもあろう。『岡本おさみ アコースティックパーティーWITH吉川忠英』。ギタリストの吉川をプロデューサーに迎え、全編岡本の作詞の曲に、様々な歌い手が参加して作られたアルバムである。


 SION、加川良という渋い人や、福山雅治、南こうせつというメジャーな人、かつてファンだった桑江知子、ビギンの比嘉なども参加している。吉川のアコースティックが心地よく、岡本の世界を引き立てている。一曲だけ岡本自らボーカルをとっている。「たまには、雨も」というその曲は、まさにあの頃と同様だ。


♪時の流れにのったやつもいたし
 酒に愚痴を注ぐやつもいたぜ
 憂鬱も夢も飾り飽きたから
 忙しいことは 悪くないと思う
 雨が街をぬらしている

 たまには雨に 濡れてみるのも
 たまにはいいね♪



 ラストは吉川が歌う「祖国」という曲で、これも心に響く。「落陽」に登場する人物に似ているとも考えられるし、その後の人生をどんなふうに生きたか想像できる。その題名はかなり重い気がするし、ぶれずに詞を作り続けた矜持もあるだろう。どこまでも風来坊で在り続けたい願いか。一部を引用しよう。合掌。


♪さまよってゆくよ
 やせた魂が
 願うことはいつもひとつなのに
 ぼくらは静かに許されるだろうか
 幼い者が願うだろう未来に♪

フォルトゥナの瞳は持たなくとも

2015年12月21日 | 読書
 【2015読了】125冊目 ★★★
 『フォルトゥナの瞳』(百田尚樹 新潮文庫)


 久々の百田小説。読ませどころを熟知している作家らしく、冒頭から惹き込まれた。途中で若干くどい面も感じたが、土曜から読み始め日曜朝で読了。次ページが待ち遠しく感じられる設定や展開の巧さは相変わらずだ。今回の主人公は「他人の死の運命」を視る力を手に入れた若者だ。…超能力だが欲しくないなあ。


 主人公はその能力に気づき、当初他人の死を回避させようと動くが、そのうちに能力を持つゆえのジレンマに襲われる。この話は「運命は変えられるものか」という不変で解決困難なテーマも底に流れているようだ。また、誰かの些細な言動が見知らぬことに影響するという、日常考えない感覚を引きずりだしてくれる。


 「バタフライ効果」というカオス理論が紹介されている。「たった一匹の蝶々の羽ばたきが何千キロも離れたところの天候に大きな影響をおよぼす」ことを指しているらしい。たとえ話の域を出ないが、スケールが小さければ十分にあり得る話である。もしあの時正直な気持ちを伝えていたら…誰しも考えることである。


 主人公は能力を得て、今までの自らの人生を振り返る。結局幼児期のつらい体験が最終的な結末へと導く形になっている。それほどドラマチックでなくとも、人は誰もが生きてきた経験から逃れることはできないはず。「1日9000回」と言われる選択は、それまでの日々の選択によって狭められていることは確かだろう。


 先日放送された「世にも奇妙な物語」傑作集の『昨日公園』が思い出された。親友の死がどんなシチュエーションに戻っても回避できず、最後は何を一番大切に思うかが問われ…という展開だった。悲しい結末。しかしそれは自分の死を想定したときに、どんなレベルで「後悔」があるかということに収束されていく。

英語の日本化という姿勢

2015年12月20日 | 読書
 【2015読了】124冊目 ★★★★
 『日本人はなぜ英語ができないか』(鈴木孝夫  岩波新書)


 久しぶりにこの表現を使う…「目から鱗」の本だった。横山験也先生のブログで紹介されていたので注文、しばらくの積読状態を経て今週読みだした。英語教育については概ね賛同しながらも、何かひっかかりを感じていた。それが何故か深く突き詰めてこなかったのだが、この本の内容に首肯する自分がいた。


 「日本のこれまでの外国語教育には自己改革、自己改造の傾向がきわめて強い」


 他の教育でも考えられるが、外国語を習得しようとするとき、それは明らかにその国及び人から、固有の、もしくは関連付けられた知識を得、そこから認識を深めていきたいという心がある。ごく当然の思考だと思ったが、例えばアメリカ人はそうでなく「相手を変え」自分に合わせることが目的になるというのだ。


 国民性という言葉で括りがちだが、外国語習得に関する思考パターンが典型的と言えるかもしれない。単純に英語で話せたらいいな、コミュニケーションをもっとスムーズにという思いは、実はその奥で相手に合わせるという心性の表れになる。そういう姿勢の是非は時代の流れによって変わるという認識を持つべきだ。


 「日本人の、社会的な場面における自己規定のしくみ、つまり『私は誰か、何者か』という自分の座標決定が、相手に依存する相対的なものであるためと考えられます」



 日本人が米国人から英会話を習うときの不安定な心理状態の構造を、そんな言い方で解き明かしている。依存性の強さは国際社会における日本の政治的行動を見れば明らかだ。その意味で強いリーダーを求める気持ちが湧くのは自然だ。現在の体制が志向するものと結びつきそうだが、そこは目を凝らさないといけない。


 「日本人が今や国際補助語になった英語を使って、日本側からの情報発信を増やす」ことが、著者の英語教育のねらいと言える。例えば「国際理解」を中心にした内容は非常に優先順位が低くなる。あくまで「入れ物」としての英語に盛るのは、日本人の精神、文化。「英語の日本化」という言葉はとても魅力を感ずる。


 この新書が出てから十数年。著者が提案しているような英語教育になっているか、否か。小学校英語の現在でいえば、流布している教材では、まだまだと言える。中高等教育につながる教育課程も大きな変化はないようだ。まずは指導者の姿勢か。ちなみに私はALTに対する朝の挨拶は「お早うございます」である。