すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自分で考える、自分たちで考える

2005年12月31日 | 読書
教育のように、将来にわたって大きな影響を及ぼすテーマにもかかわらず、感情的な反応や、一人一人の体験や印象だけでいろいろいな意見が飛び交い、物事が決められていくことの多い領域では、自分たちで考える力はとても大切な力だと思います。それも、たんに自分たちのアイデアを出すということだけでなく、考え方や見方を支える「学問」をベースにすることで、思いつきでない議論ができるようになるでしょう。
苅谷剛彦『学校って何だろう~教育の社会学入門』(ちくま文庫)


教育という大きなテーマに対して
意見を言ったり、何かを決めていくためには、まず勉強が必要である。
個人的な体験や思いも大切だけれど
それらをもとにして自分で考えること
そして、考えを交し合いながら自分たちで練り上げること
そうしたステップを、地道に踏んでいこう。

適切に出発点を選択できる力

2005年12月28日 | 読書
そうした「論理的に正しい」ものがゴロゴロある中から、どれを選ぶか。その能力がその人の総合判断力です。それにはいかに適切に出発点を選択できるか、が勝負です。別の言い方をすれば「情緒力」なのです。
藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)


ここに、家庭教育と幼児教育、初等教育の使命がある。
かつて、普通に過ごしていれば得られた情緒の力は
その力を育むための機能が弱くなった家庭、社会により
急速に衰え始めている。自明のことだ。
それをどうやって取り戻すか。
声かけだけには終わらない、組織的な取り組みが強く求められる。

本質を見る目は、尺度にとらわれない

2005年12月27日 | 読書
草が一本一本違っている、クラスの全員がそれぞれ違っている。そうした「ものの本質を見る」ことができる目を獲得できた生徒は、「うまい」か「へた」というひとつの尺度ではなく、それぞれのすばらしさを自分の眼で見ることができる。そうなれば「3」がついたからといって、自分自身に「3」の価値しかないのだという発想は起こらない。
山本美芽『りんごは赤じゃない~正しいプライドの育て方』(新潮文庫)


数字で表される尺度は、質の全てを語ることはできない。
いかに質を見ていくかを鍛えれば鍛えるほど
一つの尺度など取るに足らないものだということがわかる。
深く追求したり、多面的な思考を積み重ねたりすることで
他からの評価にぐらつかない力が獲得できる。

整合性を考える責任はどこにあるか

2005年12月18日 | 読書
最近、運動会のかけっこで順位をつけない学校が出てきていると聞きます。必ずしも賛成できませんが、結果よりプロセスを重視するという意味ではひとつの見識だと思います。だとしたら、こうした教育を行うことと、その教育を受けた子どもたちが競争社会に送り出されることの整合性を考える責任があります。教育現場だけが特別であることは、子どもに混乱を与えます。
荻原博子「総合教育技術 2006.1」(小学館)


教育の場が、競争社会の縮図であるという考えは容認できない。
その意味では、「特別」であっていいと考える。
社会に合わせる力だけが求められているわけではないし
社会を作り上げていくという志の根をはらせることが
もっと必要になってくるのではないか。
学校の存在そのものが、整合性ではないだろうか。

自然に、力まずに見る

2005年12月16日 | 読書
「何としても見てやるぞ!」「何としても理由をつかんでやるぞ!」というように力んでしまうと、逆にみえなくなる。子どもを理解しようとか、子どもをつかもうとか力むと、ちょっとしたことを大げさに見てしまう恐れがある。
これは、わたしにも経験があるのでよくわかる。自然に、力まずともみよう。

有田和正「授業研究21 2006.1」(明治図書)


「自然に」と「ぼんやり」とは違う。
自然に目に入ってくるまでには、長い道のりがある。
ポイントを決めた見方であり
見方をもとにした自身の対応の積み重ねであり
自分の見方に対する分析である。
だから、ぼんやりと見ないために
多少の力みは、必要になってくる。

教育の営みの基礎と呼応しあう感動

2005年12月14日 | 読書
魂を揺さぶられたような感動を、最近の子どもたちはしなくなってきた-そのように周囲のおとなには思えることもある。あるいは、子どもと感動を共有できないことを、寂しく思ったりする。
しかし、それでも、私たちは、子どもの感動にこだわざるを得ないように思う。なぜなら、感動が、自他の可能性への信頼低下を揺さぶるのであれば、それが教育の営みの基礎と呼応しあうからである。

戸田有一『児童心理 2005.12』(金子書房)


子どもたちにとっては、能動的であれ受動的であれ
感動場面が作り出されることが肝心だ。
その心の動きこそが、「人間」としての力を高めるための
基礎工事的な部分を担っているはずである。
丈夫な基礎はそうして作られてゆくのではないか。

順序は定まっているのか

2005年12月10日 | 読書
社会の現実は、社会の現実を生きるようになれば、自ずから学ぶことである。子供のうちには、子供のうちにしかできないことがある。それが、考えることである。内省する習慣を持ち、正確に思考する仕方を覚えることである。生きているとはどういうことか、自分であるとはどういうことか、それを考えて知るよりも先に、金のもうけ方、世の中の処し方は、あり得ないではないか。
池田晶子『勝っても負けても』(新潮社)


学校教育の原則は
「生きる根本」を教えることにある。
教科の授業も、清掃の時間も
俯瞰すれば、身につけさせたいことは決まっている。
「挨拶の仕方」や「お金の儲け方」を
どこに位置づけていくか明確に定めていないと
薄っぺらなものにしかならない。

子どもの持つ建前の心

2005年12月05日 | 読書
子どもは親に対する建前の心がある
教師や大人に対する子どもの建前があるんです

手塚治虫『明日を切り拓く手塚治虫の言葉201』(ぴあ)


本音を語れない子どもを
素直でないとか、嘘で逃れようとしているとか
そんなふうにとらえていないだろうか。
「建前」として理解してやれば
内に抱える様々なことが見えてくるかもしれない。

生活全体での学習を視野に入れる

2005年12月03日 | 読書
「自ら学び、自ら考える力」を子どもにつけるというのは、「授業の中で学ぶ子」から「授業を活用しながら学ぶ子」にしていくことにほかならない。そのためには、教師も授業だけでなく、子どもの生活全体での学習を視野に入れるべき時期にきているように思う。
市川伸一「総合教育技術 2005.12」(小学館)


子どもの追究心に火をつけるような素晴らしい授業の創造が
原点になるのは間違いないにしろ、
特に小学校の学級では、中期的、長期的な観点を持てば、
生活全体に学習のシステムを根付かせることこそ
より計画的、効率的な学びを構築できるはずである。

相手に何とかしてもらおうとする力

2005年12月02日 | 読書
将棋って、基本的に他力本願なんですよ。こちらが指した瞬間に相手がすべての選択肢を持てるわけですから。ほんとに自分の力だけではどうにもならないところがあります。技をかけるときにも、自分の動きで、というより、相手の力も利用してかけにいく。自分で何とかするというよりも、相手に何とかしてもらおう、という部分は、かなりあります。
羽生善治「プレジデント 2005.12.19」(プレジデント社)


授業場面を思い起こす。
「相手の力」をうまく利用できるためには
まず相手を、その力量を把握していること
反応のいくつかを予想できること
反応を受けとる引き出しが十分に用意されていること
…と、条件が続く。
しかし、何とかしてもらおうとする発想は面白い。