すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

幕の引き方、あれこれ

2022年06月30日 | 雑記帳
 読了した北方謙三のエッセイ集のなかで、葛城ゆきがお気に入りの歌い手として挙げられていたので、先日の訃報に少し驚いた。癌であることを周囲にも知らせつつコンサートを続け、先月も歌ったという。亡くなる前病院へ向かう連絡をしたことから、覚悟も見えるような気がした。そんなふうな幕の引き方もある。


 人生に「幕を引く」わけではないが、吉田拓郎の実質的な引退発表にも心が動いた。自分より10歳年長なら無理もない。似たような年齢でもまだ衰えない者、かなり目立つ人と様々だが、表現者としては、どんな引き際、幕の引き方をするのかはとても大切だ、時々、ちょっと観たくなかったと感じる方々も多い。


 フォークソングからニューミュージックで育った年代が相応の齢になっているので、商業ベースでは成り立つのかもしれない。しかし人前で歌うレベルかどうか自ら判断できないのは困る。それは歌に限らないことだが、幕の引き方は潔さが大切だと思う。そして、もちろん第二幕、第三幕があっていいわけだから。



 さて、「幕引き」からの連想で、ドラマ「相棒」。仕事のない日の午後は、再放送を観ながらうつらうつらと昼寝に入るのが常であり、それだけに?長く続いた冠城亘の後の相手役が誰かになるか気になっていた。ネット上では様々な俳優が取り上げられていた。もしこの役者がなったらと想像するだけでも楽しかった。


 個人的には予想しなかった亀山薫に決まった。考えてみれば長いシリーズをどう終えるのか話題になっていた。誰で締めるかとなれば、これ以上はない人選か。さて、制作側の様々な事情がありエンドにできない訳もあると聞く。それならいっそ杉下右京後も(笑)様々な役者でつなぎ、何幕もある形では…駄目かな。

「飲む」ことはエネルギーの証し

2022年06月28日 | 読書
 巻末にある「初出一覧」をみると、2020年3月号の「小説新潮」が7編、あとは2021年1月号と書き下ろしがそれぞれ1編ずつである。小説だけでなくエッセイもあり、書名から予想されるように「酒のある風景」が共通している。「飲む」は酒に限る語彙ではないが、連想として圧倒的であることを今さら思う。


『もう一杯、飲む?』(角田光代、他  新潮文庫)


 冒頭の角田の小説「冬の水族館」もなかなか渋いが、個人的にはラズヴェル細木と小泉武夫のエッセイが好みだ。つまりは、様々なシチュエーションで登場する多様な酒や、珍しい酒、それらまつわる実話の方が興味深い。まあ、酒に関する恋愛沙汰のエピソードなドラマのようなことはなく、平凡な人生ゆえなのか。


 ただ、現職教員時代の思い出話はかなり多い。現状の世間の目があまり厳しく、暴露(笑)するのは控えるが、今となっては実に楽しく、痛快めいた気持ちにもなる。それはやはり「酒」は人を愉快な気持ちにさせるからだろう。ミスチルの曲にもある「世界一のお酒」を味わう、仕事上の経験も何度かできたように思う。




 「酒の力を借りて」といった表現がある。これは、例えば精神を高揚させ何かの行動に踏み切る場合に使われる。その結果がどうあれ、強い味方になる。いや待て、「泣き上戸」や「絡み酒」等を考えれば、そうは断言できないか。ただ精神を解放しているのは確かなので、人格の一つを引き出すことだけは間違いない。


 訳あって現在断酒中。二日三日ではない期間はおそらく30年ぶりだ。アル中にはなってはいなかったなという安堵感、結構飲まなくとも大丈夫なものだなという自信と、裏腹に寂しい気持ちも湧いてくる。これは「飲む」行為は一つのエネルギーの証しと言えるからだ。末永く飲んでいたいという欲が湧いてくる。

ブッダとブタをお手本に

2022年06月26日 | 読書
 呼吸法に興味を持ったのはいつだったか。日本語ブームの折の「斎藤孝本」もずいぶん読みこんだが、それよりもっと早い時期だった気がする。そう書いていたら、大学時代の保健体育か、と思い出した。息と身体の動きについて想起できるものが結構ある。器械体操やとび縄運動、そしてドル平泳法もそうだった。


『息の発見』(五木寛之・玄侑宗久  角川文庫)




 「息」が発音から「生きる」に通ずるとはよく言われる。死んでいることを「息をしない」と表すし、当然と言えば当然。慣用句にも「息を引き取る」があり、逆の「息を吹き返す」を考えれば、まさに息こそ生である。呼吸法はロングブームなのは、自然な行為を意識化して活動を高めるか、筋道が見えやすいからだ。


 だから、多種多様な呼吸法の教えがあり、書籍化などもされている。私も複数の本を持っている。この対話で二人が語っている大切なことは、まずその点だ。「どの呼吸法が正しいと言ってしまってはいけない(玄侑)」「どの呼吸法も、創始した人にとっては、ベストなものだけれど万人に向くものではない(五木)」


 何かに縋りたいと思っている者(自分も含め)にとっては、のっけからそう言われると迷いが生ずる。しかし、この二日にわたったという対話は、ただやみくもに個人に合う方法を探せと言っているわけではない。芯はある。まずよく言われるが「息を深くする」ことの大切さだろう。深呼吸ほど万能なものはない。


 次に呼吸に「イメージをもつ」こと。その例が様々に紹介されている。玄侑氏は「色」を挙げていた。お手本に魅力を感じたら「一定時間の集中」も必須だ。何よりユニークな具体例は、禅の呼吸の話題で「ブッダ」ではなく「ブタの呼吸をお手本に」という点。吸う息が速く、吐く息が長く豊かだから、筋肉が赤いと…。

読者は悲しい65歳以上

2022年06月25日 | 読書
 『隣りの女』(向田邦子 文春文庫)を読んでいたら、たまたまニュースであるテロップを目にした。「もはや昭和ではない」…内閣府が発表した男女共同参画白書の中で使われた言葉だそうだ。当たり前のように見えていて結構残っていることがあるから、キャッチフレーズに使われる。昭和を知りたければ向田作品だ。


 五編の短編小説集。不倫などと言わずに浮気。テイクアウトではなく出前。アパートの壁の薄い部屋。台所の包丁を使う音、そしてミシン。もちろん無くなったわけではないが、それらが醸し出す人間のねっとりした感じは遠い過去になった。昭和前半に生まれた人間に文章で伝わってくる情景は数多くあるもんだ。


 『生きるための辞書』(北方謙三 新潮社)。馴染みはないが、顔ぐらいは知っていた。シリーズ化されたエッセイ集を初めて読む。豪快な生き方を「旅」「食」「観」などに章分けして綴っているが、要は自分らしくということ。悲しいのは、この無頼に見える人も「六十五歳以上はきっと悲しいと思う」と著したことだ。


 『新聞記者』(望月衣塑子 角川新書)を読む。先月の『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したか』からの興味で手を伸ばした。話題になった本だが、今さらだが面白く読めたし、映画化されるのにもふさわしい。ぜひ映像も見てみたい。描かれているのは間違いなく日本の暗部の一つだし、それを照らす個人の輝きだ。



 かつてこの国の首相だった人は「新聞を読まない人は全部自民党」と講演で話し、若い世代を取り込む心底を見せた。簡単とは思えないが「新聞」というメディアが本来目指す精神は、時代を経ても存在意義を手離せない。その一つは「権力監視」。「記者」こそ担い手である。「読者」は悲しい65歳以上だとしても…。


思いの外、慣らされている

2022年06月24日 | 雑記帳
 ふだんあまり使わない言葉がふっと頭をよぎることがある。もちろんそれは知っている言葉であり他人が口にしてもなんとも思わないのだ、自分の頭に浮かんだら、珍しいお菓子を食べたようなそんな気になる。昨日、そんな役割を果たしたのが「思いの外」。一度、味わったら繰り返し食べたくなるように使ってみた。


 今年も人間ドックへ。宿泊コースは、初日の検査が終わればラクチンである。夕食を終え、18時からのBSで「楽天vs日ハム」中継をみた。秋田県民にとっては待望の吉田輝星先発である。結果は5回一死で2失点の降板。「思いの外」よくやったではないか。テンポのよい投球だった。限界は見えるが期待も残る。


 さて、肝心の検査。馴染みの病院なのでストレスはないが迷っていることがあった。胃カメラである。失念していたが、以前ピロリ菌検査を受けて異状なしだったので、続けて受けなくても良いのではと相談してみた。OKが出てさらに安泰な一泊二日だった。終了時の会計が去年の半額以下。「思いの外」安かった。



 帰り道、やや遅い昼食を隣市ラーメン屋Rで取る。一年ぶりぐらいに入った。コッテリ、ボリューム感たっぷりの麺、女性客も「ニンニク入り」を断らないのが特徴。女性が三人いたが「思いの外」各々個性あり。一人は大盛り+トッピング、次はライス付き、最後の客は食べる前に、粉末を出して水に溶かしこんだ。


 自宅に帰り、昨日録画していた「クローズアップ現代」を観た。桑田佳祐が同齢のミュージシャンたちに呼びかけてセッションし、「時代遅れのロックンロール」という曲を作りインタビューを受けていた。ウクライナ侵攻により混迷している情勢へ向けたものだ。66歳のグループ、「思いの外」楽しそうにしている。


 こう書いてみて別に使わなくともいいような「思いの外」。正直な気持ちだが、一歩客観的にみるとその「思い」がどうにも縮こまってみえる。もっと自由に、もっと緻密に、もっと強く願って、心を動かしてもよくないか!! 先行き不透明と言いつつ、予定調和的な世界に「思いの外」慣らされている自分が透けて見える。

梅雨時の独り視聴者委員会

2022年06月18日 | 雑記帳
 録画したままになっていた「ズームバック×オチアイ」を観た。「新しい戦争、その先へ」と題された内容は、考えさせられた。情報戦とはよく言われることだが、そうした展開は昔からあった。結局、人を動かす「言葉」「ことば」(二種類使い分けられていた)の力は大きい。「伝え方」のテクノロジーをどう生かすか。


 その番組で落合陽一が柳宗悦にシンパシーを感じていることを知り、少し意外な感じを持った。もちろん民藝運動に詳しいわけではないが、「民」の文化にどれだけ敬意を払うか、この視点を生きていくうえで取り落としてはいけないと改めて思う。それは地球規模、国家規模はもちろんだし、日常でこそ見据えたい。


 9年前の夏 民藝の聖地と言われる場所で

 緩い見方ながらNHKドラマ「今度生まれたら」を楽しんでいる。内館牧子原作なので予想はついたが、類型的でありながら「さもありなん」という気にさせられる。70代夫婦、40代前後の子世代、そして10代の孫世代の考えのあり様がくっきり見え、近い年代に対しては自嘲めき、他世代へは分析的になっている。


 先週日曜の陸上競技選手権は凄いと唸らされた。女子中・長距離の田中希実の5000Mのロングスパート優勝だ。約一時間前の800m決勝も見ていた。インタビューで複数種目出場の意図等に関して、臆せず動ぜず応える姿には驚かされる。心身の強靭さを久々にTV画面の中に見た。久しぶりに前向きさに共感できた。

単純に測れない姿を見よ

2022年06月15日 | 教育ノート
 昨日の朝刊文化欄に久しぶりにK先生の文章が載った。数年前にかつて勤務した学校の職員等による集まりがあってお会いした折は、多少足腰が弱っていたように見えたが、相変わらずにこやかにお話をされていた。今回のエッセイも非常に淡々としてはいるが、先生独特の観察眼を駆使され達意の文章になっている。


 プール清掃の季節…2009.6.16という日付がある

 K先生とは何度も作文の審査をご一緒させていただいた。印象深いのは、競技スポーツと作文審査の違いを語られたときのことだ。今、図書館ブログで続けている町文集作品紹介をしており、当時発刊代表だった先生の巻頭言も読み直す機会があり、懐かしく思い出した。同時にずいぶんと時代が流れたと改めて思う。


 先生は陸上競技の走り幅跳びの順位ならば、距離の測定は専門家でなくともできると書いたうえで、「子どもの詩や作文の審査となるとそうはいきません」と続ける。そして一篇だけ選ぶ「せり合い」になると、そこには選者の好みとともに「しっかり見分ける力量」が必要である旨を強調する。その「基準」は何か。


 公的な到達目標がありそれによって判断するのは表向きで、本当のところは「抽象的な枠の中におさまらないのが、子どもの作品なのです」と書き、結論として「子ども(作者)の姿がみえてくる作品」「その姿(よろこび、かなしみ、考えていること…))がよくわかるように表現されているかどうか」と作文の本質に迫った。


 もちろん、今も授業の中で「書く活動」は重視されているだろう。しかしいわゆる「生活作文」や「日記」のような文章を書かせる機会は激減していると予想される。文集作成の頻度は明らかに減っている。「自分のことば」をじっくりと文字表現させる場の衰退は、「単純に測ることのできる世界」の増殖を強化する。

超乱読で作り笑顔を

2022年06月14日 | 読書
 『文豪たちが書いた 泣ける名作短編集』(彩図社)を読む。太宰治の『眉山』に始まり、菊池寛の『恩讐の彼方に』まで計10篇。半分は未読の作品だった。「泣け」はしなかったが、まあ味はあるわな…やはり芥川の『蜜柑』はドラマだ…鴎外『高瀬舟』の深い色調は独特だ…と、このような感想しか持てずに読了だ。


 文藝春秋誌がかつてSPECIALとして出版した2冊を再編集した『老後の真実』という文庫。健康や経済、住宅から恋愛まで、その道の専門家が「新しい常識」を記してある。脳研究者池谷裕二の「歳のせいで物忘れがひどいという誤解」は真面目に読み入った。要は思い込みをなくす…それが老いへ向かう唯一の姿勢だ。



 このシンプルな表紙絵に惹かれつい手にとった。『満月笑顔はすべてを解決する』(佐藤康行 河出書房新書)。「心の専門家」と称する著者の経歴をみると、メンタルヘルスの塊のような気配が漂う。熟読しなくても言いたいことは予想できるし、その通りだった。自分で格言を作れば「作り笑顔が、作る幸せ」となる。


 お気に入りの作家なので再読しようと手に取った『ショート・トリップ』(森絵都 集英社文庫)。48篇の掌編集だ。読みだしたら何だかつまらない。7年前に単行本を読んだメモにもそう書いていて納得。名手にも合わない設定があるのだろう。巻末にあるいしいしんじによるエッセイ「旅のかす」の方が味わいが深い。


 どこか集中しきれないまま活字を眺めた感のある4冊。その訳はある程度はっきりしているのだが、それでもただ「読めばいいのだ」という根本義に従う自分というものも見えてきて、思わず「作り笑顔」をしてしまう。いつか思い出す。

最も伝えたい「にゃーご」

2022年06月11日 | 絵本
 3年ぶりにこの絵本を取り上げてみた。図書館に勤め始めボランティアグループと一緒に学校へ出向いた2回目、初めての1年生で読み聞かせた大型絵本だ。物語性があり、ユーモア、やさしさの詰まっている名作だ。今、改めて読むと、キャラクター色が強く出ているので、自分好みだし声には合っていると思う。


『にゃーご』(宮西達也  鈴木出版)

 


 「ネコにおそわれないように」という先生の注意を聞いていない3人組のねずみ。ネコが出合いに発した大きな「にゃーご」という声を平然と受け止め、桃狩りに誘う。その言葉に釣られて行動をともにするネコの計算高さと迂闊さが入り混じる。桃狩りが終わり帰路で欲望を果たそうと「にゃーご」と叫んだのだが…。


 他者を信じて疑わない、そして他者の状況に思いを寄せる、素直であっけらかんとした3匹のねずみ。ネコとしての欲望はあるのだが、目の前に繰り広げられることについ応じてしまい、結局相手のやさしさにほだされていくネコ。一つ一つのセリフは、その心情が際立つように配置されて、しみじみとした魅力がある。

https://ugotosyokan.hatenablog.com/entry/2022/06/10/113558
 こんな感じで…

 今回はこども園の主として年長児が対象だ。キャラクターに沿った声の変化は効果的だろうし、十分に間を取りながら語っていきたい。「にゃーご」というそれ自体意味を特定できない叫び声は、どんな心も込められる。受けとめる側の姿勢によって他者との関わり方は変化するのだという、最も伝えたいことの一つだ。

悪態吐く独り視聴者委員会

2022年06月09日 | 雑記帳
 いやあ、それにしても今回は酷いなあと悪態を吐きたくなってきた。もちろん高尚な話題ではない。NHKのいわゆる朝ドラのことだ。前クールの「カムカムエブリバディ」もその前の「おかえりモネ」も指摘したい点はあったにしろ、振り返れば見所が多い内容だった。それらと比較できないほどに、今回の「ちむどんどん」は出来が悪い。


 本土復帰50周年という意味づけもあったろうし、沖縄という舞台は頻度の高い設定だ。主人公が故郷での体験を経て都会へ向かい活躍するという、朝ドラ不動?のパターンは納得できても、どうにも穴の多さが気になってしまう。以下、三つに絞って悪態を述べてみよう。まずは、主要なキャラクターたちのあまりに鮮明な単純さであろう。


 主人公暢子の前向きさや快活さを描こうとしているのはわかるが、あまりにも短絡的な姿に映る。演技がどうのというレベルではない気がする。主人公の学びの浅さが強調されているような感じだ。家族にもそれが当てはまる。特に兄の言動はこれ以上ないほどステレオタイプであり、またこのパターンかと、繰り返される筋書きに辟易する。


 わずかにいいと思うのはタイトルバックのイラスト

 次に、ストーリー自体に無理がある。父親が亡くなってからの苦闘場面は半端で、特に最初に東京行を断念してからどう展開したのか、全く触れられないで流れた。苦労を背負う母親役が仲間由紀恵では「皺」が刻まれないのかもしれない。この後、レストランオーナーとの関係が詳らかになるだろうが、そこにあっと言わせる仕掛けはあるのか。


 さらに、主人公たちが暮らし、仕事をしていく場所の位置関係や存在感が浮かびにくい。とってつけたような場面転換が多いからかもしれない。時代考証はしているだろうが甘さを感じるシーンもあった。脚本、演出ともに今のところCランク。片桐はいりが再登場し場を高め、本田博太郎が存在感を持って関わってきたら、通の見方(笑)は変わるかな。