すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

形として残っても残らなくとも

2020年12月31日 | 雑記帳
 年頭に決めた今年の一字は「肯」。写真を撮ってあるので忘れてはいないが、詳しい中身はさすがに正確ではない。改めて1月4日のブログ記事を見直してみた。「小さな肯定」を積み重ねていくこと、そして「肯ずる(がえんずる)」の精神、つまり「あえて…する」という物事への関わり方を記していた。おっと思う。


 感染症拡大によって大きな制限をうけた年であることに間違いない。非常勤ながら職を得て2年目、新規構想を具体的に動かす年だった。「参った」と思うこともあった。しかし、今振り返ると年頭に決めた「肯」の精神はある程度発揮できたのではなかったか。数日前アップした図書館ブログが、形として示している


 ワークショップもブックフェスタも中止とするのは容易だった。仮にそう決断しても批判は受けなかったろう。安心して過ごせたかもしれない。しかし、あえて実行すると決め、結果的に盛会に終わったことに充実感はある。思い描いた理想形には届かなくても「ここまでは出来た」という小さな肯定を持てたからだ。


 元旦から「絵本」のことを記事にした1年。読み聞かせは記録をみると延べ50冊以上になっている。『リンドバーグ~空とぶねずみの大冒険』から始めたことが印象深い。この大作は「挑んだ」というイメージが残る。そして年末は落語絵本・講談絵本に挑んだ。この齢になって、少し背伸びをすることは刺激的だった。


 結果ずいぶんと絵本は買い込んだ。その分、他の読書は捗らないような気もした。今年はカウントを止めた。それでも100冊近くはなっているかもしれない。キーワードは「わかりやすさ」になるだろうか。いくつかの読書メモで書いたように、そういう社会風潮がもたらす「陥穽」は意識しなければ、益々深くなる。



 私的には孫たちの成長に目を見張った一年だ。週の半分以上は一緒にいて、世話補助(笑)と観察できる時間は有難いことだ。この子らが生きる世の中を変えていける力はないが、伸びる今に向き合って適度な負荷をかけてやりたい。学校退職の年に新しく切り替えた5年日記も、今日が最終日。どうにか書き終えた。



 今年も多くの方に訪問していただき、本当にありがとうございました。
 マンネリにつきあっていただける嬉しさが年毎につのります。
 実は、このブログを勝手に「素振り」と称しています。
 素振りにも体力、精神力が必要だなあとつくづく思う年の瀬です。

 よいお年をお迎えください。

平場を掘れ、漂うな

2020年12月30日 | 読書
 去年の直木賞候補になったときだったか、この題名が少し気になっていた。「平場」という表現はあまり使わない。競馬では障害以外の一般レースを指したりするが、恋愛モノのようだから何の比喩かと頭の隅に残っていた。年末用読書の一冊にと思い、借りて読みだしたら、この「平場」は重なり合って、しかも重い。


『平場の月』(朝倉かすみ  光文社)

 この著者は初めて読む。感情や動作表現がずいぶんと冗長のように感じた。だからこそハマる人はハマるだろう。似た環境に居たり、同年代だったり、そして性格的に類似点があったりする者は痛いほど見えてくるのか。五十代の恋愛が特別なのかどうかわからないが、人に寄せる思いの機微を追求しまくっている。


 冗長とは、物語の表現に添って考えれば、つまり「正解に至るショートカットをしない」ということになる。人を思うことは、おそらく明日を前向きに想うことと、過去の時間の厚みに寄り添うことが表裏の関係にある。それは簡単ではない。挫けてしまう者が多いなか、誠実にそれに向き合おうとした二人の話だった。



 何処にも居る噂話の散らかし女が登場し、主人公がその知り合いの背中をこんな心で見送る場面があった。「平場中の平場」。そこには俯瞰的な見方があるわけで、脱却可能性も含まれるが、簡単に浮上することなど出来ないのが現実だ。「平場」にどう居るのか、結局それを問う話だ。とすれば「」はどこにあるのか。


 アパート角部屋から顔を出した彼女の顔と表情が「その夜の月に似ていた」と描かれる。それは彼女に贈った三日月のネックレスに重ねられ、死ぬ前に駐車場の「菜園」に埋められていた。主人公はそれを掘り出し、話は閉じられる。平場を掘れ、平場に漂うな、浮かんでいる月もあれば、深く埋められた月もある。

沁みる「挽歌」のドラマ

2020年12月29日 | 雑記帳
 NHKで2夜連続放送した『チロルの挽歌』というドラマを観た。高倉健主演、山田太一脚本そして舞台が北海道とくれば、なんとなくイメージが湧く。その通りに思えたことも多かったし、懐かしさや寂しさなどいろいろと感情が押し寄せた内容だった。題名の「挽歌」はかなり先の現在まで見通しているようだった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%8C%BD%E6%AD%8C

 バブル期、90年代初めに地方が置かれた状況を見事に物語っているし、そしてその考えや願いの辿った道が、まさに衰退・転落だったと30年後にしみじみ思う。もちろんドラマが描きたかったのはそれではなく、その場所にいる個の在り方や佇まいであるのは山田脚本の特徴でもある。どう現実に向き合うか、だ。


 登場した俳優の大半はもういない。高倉健、大原麗子、杉浦直樹、河原崎長一郎、岡田英次、菅井きん…健さんはさておき、40代半ばの大原麗子は若い時とは違う魅力があった。言ってみれば彼女の役がこの物語を結論づけた。その着地の仕方はある面で現在にも通じる。大原が自ら「生涯の代表作」と語ったとある。


 岡田英次の印象的な台詞があった。観光施設のためには自分の土地を売らないと突っぱねる牧場主の役だ。「人民は抵抗しなければならない。そうしなければ、向こう(行政側を指す)もこちらも腐っていく」。古臭い言い回しではあるが、その力が緩くなり、予定調和で進めてきたツケがこの国や自治体を覆っていないか。


 新聞を見ていたら、各政党党首の年末年始の私的な予定が記事になっていた。多忙の政治家にもゆっくり休んでほしいし、当然その権利はある。一部しか伝えない分量で判断してはいけないと思いつつ、どうにも「上」への信頼感が益々揺らぐ内容だ。大晦日の紅白歌合戦はこの国の「挽歌」となって響くのだろうか。

つい雪対策へ授業へ自助へ

2020年12月26日 | 雑記帳
 録画していたNHKドラマ『ノースライト』を観た。確かにミステリではあるが、横山秀夫の作品としては珍しい建築物で小説が発刊された時は話題になり、評判をとった作品だった。ドラマの中核をなす、主人公が設計した「Y邸」は格好良かったなあ。モダンなスタイル、採光、窓から見える景色など憧れてしまう。


 https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_01109/より


 それにしても雪国に暮らしていると、つい「こんな形状は、この辺では無理だよなあ」と思ってしまう。今の時期、繰り返し考えてしまう「雪対策」は、家を建てる際の大きなポイント、いやかなり制限が加えられるということか。我が家にしても、新築してから、屋根の雪対策には3年もかかったことを思いだす。


 もちろんそれでも車庫の屋根など、通常の冬であれば何箇所か雪下ろしが必要である。十数年経ち、自分の身体も利かなくなると、「いかに楽をするか」をメインに取りかかることが肝要だ。雑な性格なので大雑把な作業は否めないが、この頃「段取り」を大事に「小刻み」に「変化」をつけて行うことをしみじみ思う。


 授業もそうだったなと思うのは、教師思考がまだ抜けないからか。さて「段取り」に関して言えば、我が家では自家水道で消雪している場所もあるので、今年は夕方に屋根の周囲を下ろし、夜のうちに水で融かし、翌日に残った箇所を行った。一気にやるよりずっと効率的だ。天候把握や道具を複数持つことも大事だ。


 方向転換の少ない動線、腕や腰等の同じ動きを長くしない工夫…肉体労働的な仕事をする人なら当たり前だと思うが、季節限定たまにしかやらない者は、忘れず思い出さなくてはいけない。雪国では快適さを得るには、まず「自助」(笑)のための工夫なのだと…。ノースライト(北の輝き?)を求めて、思考が彷徨った。





サンタに祈ったこと

2020年12月23日 | 教育ノート
 町広報の原稿締切が近づいていた。ひと月前に仕上げるので今回は2月号。今年度は6月から始めもう9回目となる。館の蔵書紹介をメインにしながら、気ままに書かせてもらっている。一応の構想はもっていたが広範囲な分野を包括する力量はなく、いよいよ手詰まり感も出てきた。そこで思いついたのが国語辞典


 どこの図書館にも辞典類は豊富に揃えられているだろう。ただし多くは「禁貸出」であり館内閲覧のみとなる。まあ「辞典を読む」という奇特な者はかなり少数だろうが、そこに見出せる価値を知らせることは意義があると考えている。そんなことを思うのは、やはり自分自身の教員時代の実践があるからとも言える。


 これは学級担任時代も多少あるが、校長になってから取り組んだ印象がより強い。残っているはずだなあと検索してみたら、確かにあった。深谷圭介氏の「辞書引き」実践に刺激をうけ、立命館小学校の研修会などに参加しつつ構想を練ったものだ。小規模校だったので、篤志家による図書費の寄付を全部使わせてもらった。

 国語辞典に頬ずりして


 その後の授業の様子も楽しそうに綴っていた。その後2年勤めたので、実際に子どもたちの成長の跡も見ることができた。驚くべきと形容していいほど、スピード感を持ち辞典を操る子も出てきていた。もちろん、各担任の指導のよさに支えられてだが、継続的な刺激を与え続けた(と思う)この実践は満足できる。


 結局広報に辞典の薦めは記したが、そんな思い出話は必要ない。少し感傷に浸っただけか…と思っていた矢先に、当時の子どもと偶然再会する。図書館を訪問した某学校の講師として勤務しているという。学習・運動共に優れた子で印象深い。こういう若者に県の教員として残ってほしいと痛切に願う。サンタに祈ろう(笑)

大人の「明日」と「百年」

2020年12月22日 | 読書
 年に二、三度あるだろうか、書評に促されて読みたいと思うのは…。いや書評よりも、最初はPR誌『波』表紙の筆蹟の言葉に惹かれたのだった。この「明日死んでも、百年生きても。」に何がどう続くか、想像をかき立てられるし、ある程度の年齢なら、決まっていることかもしれない。さらに、この書名もいいなあ。

『自転しながら公転する』(山本文緒  新潮社)



 まさに等身大で描かれる日常の物語といってよいだろう。世間を揺るがすような事件が設定されるわけでもないし、信じられないほど強烈な個性の人物が登場するわけでもない。予想される、あり得る程度の出来事が起こるべくして起こり、それぞれの人物が見せる反応や抱く思い、考えも「そうか」と納得できる。


 主人公の都を含め家族、恋人や友人、上司、同僚等々…誰一人、読み手である自分とは違うけれど、理解できる範疇にあり、もしかしたら自分もそんな言葉を言うかもしれない、そんな行動をしてもおかしくない、そんな気持ちが時々わき上がり、共感度の高い読書となった。「小説」の醍醐味の一つと言えるだろう。


 書名は、主人公「都」が「貫一」と知り合った頃に、貫一が語る言葉のなかにある。地球の自転、公転の理屈はある程度知っていたが、確かに人間の生き方と似ている。様々な物事の中で回り続ける日常と、重なる大きな社会という対比だけでなく、「軸が少し傾いて」「同じ軌道には一瞬も戻れない」ことも暗示的だ。


 「何かに拘れば拘るほど、人は心が狭くなっていく」という名言は、「幸せに拘れば拘るほど」につながり、現実の難しさを教える。ただ雑誌連載をまとめたこの小説は、プロローグとエンディングを書き下ろしたことで一抹の希望を念押ししてくれたようにも感じた。「明日…百年…」の場面は、明るく話を結んでいた。


 立ち食い寿司屋で主人公の傍にいた会社員たちの言葉に頷いてしまう。

明日死ぬかもしれないって思ったら、ウニだの大トロだのもっと食べちゃえって気になるけど、百歳まで生きちゃうかもしれないなら、そんな値段もコレステロール値も高いもん食べている場合じゃないって思うわ

その矛盾を受け入れてこその大人だ!

まさに一陽来復を願う日

2020年12月21日 | 雑記帳
 今の家を建てたのが2004年、その時に一緒に一台分のカーポートを玄関先に作った。積もったら割とこまめに雪下ろしをしていたと思う。毎年のことなので、あまり積もらないうちにやった方が、後々楽になると身体で理解していたからだろう。そして去年は初めて一度もカーポートの上に上がらない冬を過ごした


 そして今年、この雪である。丸々一週間降り続いた。窓から嵩を増す雪を眺めながら、今日は仕事も休みだしやらなければと思った。幸いにも昨日までとは少し降り方も違うようである。脚立を使って上がると予想以上に多い。これは新記録だなと思う。これは撮っておこう…とまだこの辺りは余裕が少しあったが…。



 昨年、一度も上がっていない(もちろん屋根にも)ブランクなのか、いやいや齢相応ということだ。すぐ息がきれる。「息たえだえ」という慣用句はオーバーな表現だが久しぶりに思い出した。車で通りかかった知り合いにも「齢を考えてやれよ」と激励される。そうだよなあ、あと何年こんなふうにやれるのだろうか。



 一瞬だけ見えた青空を気持ちいいとは感じるが、すぐにまた降り出し黙々とした作業に心を切り替えた。いつもなら1時間程度の作業だったが、今回は物置等もやったこともありなんと3倍を要した。いやあ今年の冬至は、感染症のこともそうだが、まさに「一陽来復」を願う日となった。南瓜もしっかり食したい。

これがほんとの最後の…

2020年12月20日 | 雑記帳
 一昨日「今年最後の読み聞かせ」と書き、アップしてから、そうだ今日もイベントで読むのだと思った。昨年から始めた「こどもブックフェスタ」で読み聞かせはサークルの方々がいらっしゃるので、私はクイズとゲーム担当をすることにしていた。しかし2年続けて「冬のクイズ」ではないなと絵本を使うことにした。


 絵本を読み聞かせ、そこからクイズを作って答えてもらう形だ。前後はふつうの読み聞かせなので、こうした変化球もいいだろう。選書には悩んだが、閉架書庫を探して見つけた『ゆめのゆき』というエリック・カールの作品にした。適度な長さでクイズをつくるのには都合がよいし、他の発表とも内容が重ならない。


 PPTに取り込み、PC操作してくれる職員とも打ち合わせた。簡単にリハも行い、まあ大丈夫だなという感触はあった。これが正真正銘の最後の読み聞かせになるな、と思っていたら、当日の開会直前にちょっとしたアクシデント。私の出番の前に「大型絵本」を読む方に急用が生じピンチヒッターを依頼された。


 『トラネコとクロネコ』(宮西達也)である。実はこの大型絵本は少し前に某小学校で読み、面白かったと勧めた経緯もあった。もはや観客の皆さんが入り始めた時間だったが、軽くさあっと目を通すぐらいはせねばと、若干焦った。2匹の会話のやりとりが主なので、声の調子を換えるタイミングを間違わないことだ。

 こどもブックフェスタ無事終了

 まずは無難にこなすことができた。続けて担当の「絵本クイズ」の読み聞かせに入る。こちらは少し落ち着いたトーンを感じさせるよう意識できたと思う。

 イベントの感想紹介

 頭の隅に常にコロナ禍があり、またそれに大雪も加わり、不安の中での開催だったが、それなりに集客でき、中身もまずまず満足できるものになり、嬉しかった。

今年の最後のお話は…

2020年12月19日 | 雑記帳
 今年最後の読み聞かせは何をテーマにしようか。対象は、M小学校中学年である。時期からいって定番はクリスマス関連だ。昨年も同じ小学校で低学年を相手に読んだ。『はやくおきてよ、サンタさん』という話は、下読みに結構難儀したぶん、読み終えた時の反応がよかったことも印象に残る。やはり、そうするか。


 しかし待てよ、と物好き?へそ曲がりな心も湧いてくる。あまりにストレートすぎるではないか、もっと何か…あっ、今年はもちろんコロナもそうだが、県内・町内のクマ出没が何度も話題になった。M小と言えば山間部でもないのに、頻繁に現れたとの情報があり、登下校時も大変だったのではないか。よし、クマだ


 館内の図書を「クマ」で検索すると、児童向けだけで113冊もヒットする。書名になくとも、最近『どこ、いったん』というクマが主人公の絵本も見つけて読んだところだ。これは選びがいがあるかもしれない。紹介も少し入れるつもりでピックアップしよう、と絵本コーナーで漁ってみた。次の6冊を選び出す。

『くまくん』
『もうじゅう はらへり くま』
『くまとやまねこ』
『ただしい? クマの つかまえかた』
『かわにくまがおっこちた』
『どこいったん』


 時間がたっぷりあるならば、全部見せて選ばせたいところだが、実質15分では2冊か3冊。中学年の興味やわかりやすさなどを考慮して『もうじゅう~』『ただしい?~』を読むことにする、この二つはどちらも「オチ」があるし、中学年には向くような気がする。それなりのエスプリのきいた話にもなっている。


「こんにちは。今日はたくさん絵本を持ってきたけど、何の本だと思う?あたまに『ク』がつくものと言ったら…そう、クリスマス。正解!と言いたいところですが…、実はM小で『ク』と言ったら…クマじゃないですか。そこで今日はクマが出てくるお話を選んできました。実際のクマは怖いけど、お話の中のクマはどうだろうねえ。」

 こんな感じで始めた。
 2冊目、読み進むにつれて子供たちの視線が動かなくなっていく様子が心地よかった。

「控える」「しない」で身につくか

2020年12月17日 | 雑記帳
 所属組織の発行する文集の巻頭言を依頼されていた。去年は大会挨拶で喋った原稿をもとに、「当たり前」という応募作文にあったキーワードで書いていた。今年は、入選作文の部分紹介に時間を割いた原稿だったのでそうもいかない。さて、どうする。やはり、コロナ禍には関わらざるを得ない、と思い出したのが…。



 あの大震災のときの卒業式のことだった。あの時、新聞に載った養老孟司の言葉は今も強く心にある。それは震災の前も、そして震災後も変わらず、災害や犯罪や鳥獣被害まで含めて「安全・安心」が絶えず強調された現場に居たからだ。そして、だんだんと確実に「控える」「しない」が多くなった現実を見てきた。

 「安全・安心な環境の中では本当の学ぶ態度は身につかない」

 些細な目前のことからいえば、赤ん坊の動き一つとってもそれは感じる。以前書いたが「子どもはいたずらをしている時に一番能力が発達する」という説がある。やらせないのは安全のため、怖い思いをさせては後々引きずるだろう…といった言辞は、実は親や保護者の安全・安心のためであることに気づいている。


 今回の感染症拡大予防に関する大きな決定については当然従うが、今自分が任せられている仕事において「控える」「しない」という選択は、安易に決めたくない。出来るだけの配慮、注意を払いながら実現しようという方向を見るべきではないか。それが「当たり前は変化する」「変化するのが当たり前」に沿うことだ。


 このまま止めればいい、無くなってもいいのだ、という思考に慣れてはいけない。新しい動きの促進はいい。しかし、それをうみ出す精神は何か明確にしないと次代へ伝わらない。子どもたちの「学ぶ態度」を保障するのは、やはり大人だと思う。安全・安心な環境づくりは受け身では出来ないことを、まず教えたい。