すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

一気読みゆえの落胆か

2012年05月31日 | 読書
 久しぶりに文庫本を一気に読み切った。
 日曜朝,いつもどおりに5時前に起床し,朝風呂に持ち込んで読み始め,再びベッドで8時過ぎに読了した。

 『モンスター』(百田尚樹 幻冬舎文庫)
 http://www.gentosha.co.jp/book/b5486.html

 『永遠のゼロ』や『風の中のマリア』にも引き込まれたが,また筋の違う面白さがあった。
 放送作家を経験している小説家は珍しくないだろうが,この著者もやはり映像的だし,場面転換などもなかなか巧みだった。
 「美」から見離された女の復讐劇といったパターンは,好き嫌いがあるだろうが,どこか裏の人生訓めいたものが散りばめられて,読み応えがあった。

 「見た目か,内面か」という議論?はいつの場合も本質を突いてくる。
 改めて考えてみても,私たちの感じる情報量の多くの部分は視覚であることは間違いないし,内面が外面に与える影響の大きさを考えると,見た目の圧倒的優位は絶対に揺るがない。
 ただ,見た目の判断,好き嫌いは確かにあるのに,それは時々の流行や周囲からの同調圧力によって,大きく左右されるという現実も改めて感じる。

 結局,この主人公の内面を規定したのは,どんなふうに努力しても這いあがれない現実に,唯一対抗できた「美容整形」という技術と,それを買うお金,この二つをどこまでも追求しつづけたエネルギーである。
 心に潜むそのエネルギーがこんな形で結晶化したことを,多くは不幸と受け止めるが,そこに一種の心を打つ真実があることは見逃せない。

 一気読みした割に,そのエンディング(予想の範囲を大きく離れたものではなかったにしろ)に少し落胆を覚えてしまったのは,人の残酷さがまだ見えていないということなのか。
 人にはそれぞれ期待する物語,描いてほしい括り方があるのだろうと思う。

一番美しい水の移し方

2012年05月30日 | 読書
 その人を自ら行き着かせるような伝え方をしなきゃ。たまっている水を別の場所に移す時,バケツで汲んで運ぶのではなく,流れる導線をそっと作って,自然に流れていくようにする。それが「一番美しい水の移し方」だと思う。

 小山薫堂~『日経ビジネスAssocie』 (2012.6号)~

 この喩えは絶妙だ。

 まず,人の言動を支配する考えや思いを「水」に置き換えている発想が素晴らしい。
 水は動くもの,動いてこそエネルギーになるし,地を潤していく。

 そのイメージを日常生活に置き換えてみると,自分のするべき指針のようなものが浮かび上がってくる。
 仕事上のことでもそうだし,これは「授業」という場にも当てはまる部分が相当あるのではないか。

あれもこれも直球返答

2012年05月28日 | 雑記帳
 休日昼,勤務校のスクールバンド部が地区の定期演奏会に出演するというので出向き,その帰り道に車中でローカルFM局の番組を聴いていた。

 地域内の高校生へのインタビューのコーナーのようだ。
 地区内の道路清掃ボランティア中の高校1年生へ,新学期が始まって1ヶ月半経ち,どんな様子かを聴くのがその内容らしい。
 
 途中に,「好きな教科は何ですか?」とアナウンサーが尋ねる。
 その男子高校生は,ポツリとこう答えた。

 「国語です」

 いやあ,今どき国語を好きな教科として挙げる高校生は珍しいのではないか,と思いがけない返答に,次への期待が高まる。

 アナウンサーは「国語って,どんなことを勉強しているんですか?」と続けて問いかける。
 
 おおう,どんなことを言うんだろうこの高校生は…と耳を澄ましたならば

 「ええと,文章を読んだり…あと,漢字を習ったり,ですね」

 はあ?思わず一人でずっこけた。
 そりゃそうだけど…。

 訊く方も訊く方ではあるが,その,直球的な,しかもかなりユルイ答え方に戸惑ってしまう。


 翌朝,通勤時に同じチャンネルで今度は保育園児へのインタビューを聴く。

 保育園児に,好きなものを訊ねたりする他愛のない,それでいて可愛いコーナーだ。
 途中に「好きな男の子の名前は?」という問いがあって,その女の子は「タダシくん(仮名)」と答えた。
 アナウンサー「タダシくんのどこが好き?」と続けると,ちょっと間を空けて,こう答えた。

 「かお」

 思わずクスッと笑みがこぼれる。なるほど,なるほど…人間の真実だわなあ。
 この直球返答は可愛いので,これは許せる。

 アナウンサーが後半の質問として,「一番好きな人は誰かな?」という実は家族(たいていは父母を挙げる)を対象とした問いをその子に向けた。

 そしたらなんと「アキラくん(仮名)」という男児名が発表されてしまった。

 なかなかお盛んな?子ではないか。
 アナウンサーも,ちょっと驚きながら「あっ,そうか。タダシくんの他にも好きな子はいるんだ。」とフォローする。

 続けて,「じゃあ,アキラくんのどこが好きなの?」と繰り返しの問いかけをした。
 またちょっと,間があいて,くだんの女の子はこう語った。

 「からだ」

 その明快な答えに,ブラボーと言いたくなってしまう。
 直球返答,ずばりときまった。

「わからない」の時間を

2012年05月26日 | 読書
 学校で、生徒も先生もいっしょになってさ、
 「わからない」の時間を、やらないかなぁ。
 条件は、ひとつ、
 「先生もほんとにわからないこと」をテーマにして、
 しつこく授業を続けていく


  糸井重里~『ボールのようなことば。』(ほぼ日文庫)~


 「?→!」が授業の筋道ではあるけれど、「!」には実は多くの「?」が眠っていて、その一つを揺り起こして次の時間に向かっていくはずだ。
 つまり「!→?」。

 そして、そういう姿勢や心がけと同時に、時には「ドデカイ?」とか「見たことのない色の?」とか、「目をよくよく凝らさないと見えない?」とかを取り上げて、ああでもないこうでもないと語り合う時間があるといい。
 本当は、あの時間もこの時間もそう使って悪かったわけではないけれど、知らず知らずのうちに、「わからない」は悪者にされている。

「将来の夢」立ち読み

2012年05月25日 | 雑記帳
 取り立てて珍しいわけではないが,本校では一人一人の子どもの写真に「がんばりたいこと」などを下に添えた形で掲示している。
 「将来の夢」という欄があり,これを読むのもまた楽しい。

 やはり多いのは,スポーツ関係,料理関係などだ。
 これはおそらく全国的に似たような傾向ではないか。
 となると,やはり目は「ユニークな夢」を書いた子の方へ向ってしまう。

 ある5年生の男の子。

 「漁し」

 山間地域に住む子がどうしてそう思ったのか。釣りが好きな場合もあろう。テレビなどの影響もあるかもしれない。
 そして「師」と書くべきところを「し」とした?表し方も巧みである。
 私はそんな大した者にはなれませんよ,と言っているみたいだ。武骨で無口な「漁し」が網をたぐる姿が見えてくる。
 まさか,「猟し」の間違いではあるまいな。

 同じ学年の隣の男の子は,こう書いた。

 「花屋になる」

 一昔前であるならば,100%女の子が書く内容だろう。
 エプロン姿に笑顔の似合う花屋の若主人というイメージか。
 いい身分である,きれいなお花に囲まれて過ごしたいだろうが,現実は仕入れがどうのこうので悩むんだよ(誰に難癖つけているのか)…。

 3年生の一人の男の子が,こんなことを書いた。

 「かみになって,いろんな人のゆめをかなえたいです。」

 素晴らしい…が,待てよ。もっと現実的な仕事をして,人々に貢献したいと思わないのか。「かみ」などというある意味お気楽な存在にあこがれるのは,どうも信用がおけない。
 「かみ」は「神」だと信じるが,「紙」や「髪」ではあるまいな。
 そういえば「守」も,「かみ」と読めるんだったな。

 どうも男は甘いなと思わされる。
 たとえば,2年生の男の子はちょっと異色の書きぶりである。

 「めざましテレビに出る」

 出たらいい。何度でも出たらいい。
 問題はその出方なんだろうけど。
 アナウンサーとか俳優とか具体的な仕事ではなく,テレビ番組に出るというイメージの描き方はどこかいびつな感じが残ってしまう。
 低学年の子の素朴な夢にケチをつけている自分も大人げないなあと思いつつ…。

 かと言えば,こんなことを書いた5年の子がいる。

 「とくしゅめんきょをとることです」

 「とくしゅめんきょ」とやらをとってどうする。何をするんだ,はっきり書け!
 とればいい日銭になるとか,とにかく免許はとっておいた方がいいという考えか。誰が吹き込むんだ,そんなこと。
 それにしても「とくしゅめんきょ」とは,また何か特殊な免許で,持っているだけで幸せが呼び込めるのかもしれない。
 欲しい,と呟いてみる。

 そこへいくと,やはり女の子は違う。

 ある一年生の子はこう書いてある。
 上の男の子たちと較べても,圧倒的な強さを感じた。

 「スパイになりたい」

 女はスパイを目指すものだ。

「文武両道」の新?解釈

2012年05月24日 | 読書
 昔から、「文武両道」と言いますが、僕が思うに、「文」は入ることで、「武」は出ることです。それぞれ別の違うもので、その両方を習得するという意味ではなくて、実は両方が脳の中で回ることです。

 養老孟司~『バカの壁をぶち壊せ!正しい頭の使い方』(ビジネス社)~

 実に養老先生らしい意味づけだなと感心する。
 入力だけでなく出力も、という単純なとらえではなく、出力することによってそれが入力されるという脳の働きそのものを言っている。

 これは、生きる、暮らしていく姿勢でもあるし、具体的な身体、筋肉の使い方でもある。

 自ら働きかける、できるだけたくさんの部位を動かす…出力の原則を意識して励めば、それは豊かな入力となる。

一瞬、血のめぐりは良かったが…

2012年05月23日 | 教育ノート
 月曜朝、起きたらのどがひどく痛む。
 さらに週末に酔いつぶれて眼鏡を壊してしまい、度の合わない予備を使用しているし…体調最悪模様のなか、昨日は今年度の初授業が待っていた。

 対象は4年生。「新聞」についてのミニ単元があり、遠足で新聞社見学をする前にやっておこうと担任と相談していた。
 その1時間目である。
 たいした中味ではないが、一応メモしておこうと思う。

 「今日は、何の勉強をするか知っている?」と問いかけて、「新」と板書した。「新しい」と読んだり、担任が予告していたこともあって「新聞」と言ったりする。そこでボケて、「ああ、しんぶんね」と言いながら「文」と続けてみる。
 「ちがう、ちがう」
 「えっ、じゃあ『分』だな」
 「ちがう、きくだよ」とか「耳があるの」「門と耳だよ」という声を出させて、「新聞」にたどりつかせる導入。

 「新聞について何でも知っていることを発表してください」ということで、わずか19人の学級だが、3人ほどを除き様々な視点から出された。
 出来事、新しい情報、スポーツ、政治…という記事の内容面、小見出し、広告…といった形式の面、さらに「ギザギザがある」といった作成につながる面など、結構広範囲で見てとれるものだ。

 その後、新聞の1,2面だけを各自に渡し、グループになって「別々の日の新聞です。同じところを見つけてください」と指示すると、「共通点」などとつぶやく子がいる。
 さっそく取り上げて板書しておく。
 作業は10分。シートに15個ほど書けたグループ、3個に留まったグループとちょっと差が出てしまった。

 6グループ全部あわせてみると、新聞の要素はほぼ網羅される。
 この辺りの整理がちょっと難しく、準備不足を感じたが、教科書の該当のところを開かせ、音読しながらポイントを押さえた。
 子どもたちから出てこないことばに「記事」があるので、「見出し」とともにきちんと用語として位置づけて、まとめに入った。

 最後にふりかえり、「もっと知りたいこと」を書かせたら、「新聞の作り方」などというものに交じって、「もし大事なニュースが重なったらどうするか」などといういい「問い」も生まれて、ちょっぴり嬉しかった。

 授業後は体調も少しよくなったかなと一瞬思う。血のめぐりが良くなったということか…。
 しかし、その後のデスクワークでまた沈没しかけた。

振り返れば、脚本家

2012年05月22日 | 雑記帳
 勢いや流行ってことなのか,定かではないけれど,やはり「好み」というのはあるものだなあ。(これは何か変な文章だ)。

 毎週続けてみるドラマが1,2本あるのだが,今クール4月からのドラマに『リーガル・ハイ』というややコメディタッチの弁護士ドラマがある。主演の堺雅人がちょっと合わないかなあと最初思っていのだが,テンポのいい展開,堺の滑舌のいいセリフが,なんとなくしっくりくるようになった。

 NHKの土曜に『外事警察』という,渡部篤郎主演のテロ対策専門の刑事ドラマが始まった。シリーズものらしいが,その初回もなかなか面白かった。渡部の演技は相変わらずだか,そのしたたかさの描き方が秀逸だった。

 『相棒』シリーズの再放送がやっていて,たまたま見ていたシリーズ7の岸恵子がゲストで招かれた回が実によく練られていた。心理の描き方がなかなかで,『相棒』の1時間ものはいつもちょっと物足りなさを感じていたので,珍しく見ごたえのあるストーリーだと思った。

 これらの脚本を書いたのが,古沢良太。
 今まで気に留めたことはなかったが,一気に注目度が自分の中でアップした。

 調べたらあの映画『Always 三丁目の夕日』も書いているではないか。
 しかし,それ以上に,おっこの映画もか,と思ったのは『キサラギ』である。世間ではB級の評価なのかもしれないが,私にとっては実に印象深い作品だ。

 きっとどんでん返し的な要素,伏線の描き方が上手なのだろう。
 古沢良太,ちょっと追いかけてみたい。

もっとカンファレンスを

2012年05月18日 | 雑記帳
 今週は月曜が振替で火曜日から4日の勤務なのだが,今日まで午後からの対外的な会議になんと6回出席した。
 定期的に持たれた例会もあるし,時期的に「総会」もまだ残っているので,集中する期間となったのだろう。

 先月「会う,贅沢」というようなことを書いたが,
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/fda50a52a32549434a6e66269d5e49ea
 やはりなかには形式的過ぎるというか,形骸化しているというか,少し惜しい時間だなと感じてしまうこともある。
 

 確かに,何かを変えることはエネルギーのいることだし,同じことを続けていく価値も否定はしないが,「ちょっと変えてみる」とか「こんな要素を取り入れている」といったことで,会をメンテナンスしていくことも必要ではないかなと,これはいつも思っていることだ。

 さて,会議はふつう英語では「meeting」だろうが,もう一つ「conference」という言い方もある。医者が出てくるドラマなどでも使われていることを思い出した。meetingと比較すると,専門的な問題の協議を行う集まりに用いるとある。なるほどね。
 教員の場合は,どちらがふさわしいのかな,と思ったりもする。

 conferenceは「con」は「共に」,「fer」は「持ちよる」,そして「ence」は「こと」である。
 会議がそもそも「共に持ちよること」という意味であるのは,当然なのだが,なかなかそうならない実態がある。

 すべてが予定調和に向かっていき,それをスムーズといったり,スピードディーと誉めたりすることは,どこか違うんじゃないかという気がする。

 せめて「持ちよったことを出す場」は必要だ。そのための工夫に不断に力を注ぐこと,それは授業づくりにも言えるのではないか。そんなふうに思う。

そいつは、敵じゃあない

2012年05月16日 | 雑記帳
 ある会議で「少子化との戦い」という言葉を耳にした。

 どこか違和感が残った。
 それはなぜか、と思い始めるとまた話に身が入らず、そちらの方ばかりに考えがいく。思考中断。

・・・・会議が終わり、考えをめぐらすことのできる時間となった。

 「戦い」には相手がいる。
 つまり「敵」である。
 この場合の敵は、誰、何が想定されているのか。

 まず「少子化」をくい止めようとするのか、そうでないのかが問題である。
 聞いた場においては、直接少子化そのものをくい止め、多子化を目指すということではないだろう。つまり、そのものではなく派生した何かが相手である。

 おそらくは、少子化に伴って仕事のあり方が変化しているので、その対応を急がなければならない、それを「戦い」と称しているに過ぎないのだろう。
 この表現には、直接それに関わる者を鼓舞する、叱咤するという意味あいが込められている。

 もう少しこだわってみれば、様々な現象、傾向がでてきて、その対応を「敵」と見ることは、いったいどうなんだろうという気がしてくる。これは支配したい人が使うことばなんだろうか。


 『そいつは、敵じゃあない』

 という糸井重里の呟きのような言葉がある。

 少なくとも、少子化や高齢化は、敵じゃあない。

 少子化や高齢化によって、困ることは出てきても、それは当然。まったく逆のことが起こっても、困ることはたくさん出てくるのだから。

 今の状態と仲良くしよう、味方につけようという発想…具体的にこうだと特定できないけれど、寄り添う気持ちが一番かなと思う。
 ある点だけを取り上げてそれを攻撃の対象とする傾向はないか、まずは自己点検から。