すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

神無月、面倒だが許す

2024年10月31日 | 雑記帳
 今月は珍しくアナログ日記のつけ忘れが少なかった。わずか4行ほどの紙幅であるが、しばしば三、四日空けてしまっている。その意味ではリズムある暮らしぶりだったか。これは「修活第二弾」の雑文集執筆が大詰めで、少しずつ取り組んでいたことが大きい。同時に編集者との数度の往信返信で学んだことも多い。


 プロにはプロの目のつけどころがある。当然とわかっていても実感するには直接の見聞ややり取りが必要だ。面倒だがこうした場を今でも持てていることは老化防止には何よりだろう。プロと言えば、昨日見たイベントは少し残念だった。ある分野では間違いなく能力があるのだろうが、対象への洞察が足りなかった。




 ドジャースのポストシーズンがあり楽しみが増えたひと月でもあった。一人の傑出した者が動かす力の大きさを感じる。選挙・政治の話題も多かったが、そうした魅力ある人物はその世界にいない。それゆえ、競技スポーツなどと同一化してはいけないし、「人気」などを利用する輩がいることは、細かく注視したい。


 何年か貯め込んでいた500円硬貨を両替し、温泉行きに使おうとした。制限や手数料の問題は知ってはいた。しかし実際に行うと煩雑だし「同じお金なのに…」とつい考える。同じ価値であっても扱いにくいモノは減らしていく流れ…最終的には「交換」に集約される行為は、一体何が欲しいのか、一度突きつめたい。


 一番有利な金融機関はかのY銀行。そこで硬貨限界額まで預金し、通帳記載後に同金額を引き出せば、手数料は掛からない。ただ回数は原則一度らしい。取りあえず行い残りは後日と考えた。窓口の若い担当者に声をかけられる。20年近く前に勤務した学校、当時一年生のメンコイ女の子だった。面倒だけど許す(笑)。

とぶことが、生命力

2024年10月29日 | 絵本
 先月末日に読み始め、今月5回つまり6回も取り上げた絵本がある。名作『とべ バッタ』(田島征三 偕成社)だ。秋の定番の一つと言っていいだろう。どこの教室でも、この本を出すと「知ってる」と声を上げる子がいた。しかしそう言った子も含めて、どこでもじいっと絵を見入り、聴き入ってくれる時間が続いた。



 4つのこども園では大型絵本を用いた。著者の絵の迫力を存分に伝えるにはふさわしい。改めてふりかえると、題名の「とべ」には2種類の意味が込められている。最初は、周囲の捕食動物たちの恐怖に負けず、思い切って「跳ぶ」。もう一つは、落下しながら羽根の存在に気づき、それを使って「飛ぶ」ということだ。



 「跳ぶ」は逃げるため、渾身の力を振り絞る。それに目的地はなく、ただ「たかく のぼりつめ」限界をむかえる。しかし、落ちる過程で知った自らの新たな能力の「飛ぶ」は、どんなにみっともなくとも「じぶんの ゆきたいほうへ」行けるのである。「あれちをこえて」着いた、はるか向こうにハッピーエンドがあった。


 シンプルな展開の中に強く伝わってくるのは、やはり「生命力」。これは田島作品に共通する。昨年から読んでいる『つかまえた』も同様だ。この星を征服したような気になっているヒトという種が、実は失いかけているその力は、やはり自然の動植物の中に溢れている。その輝き、煌めき、囁きにもっと目を向けたい。

境界をはるかに超えて…

2024年10月26日 | 雑記帳
前日よりつづく

 男の「後厄」であり、冒険家等がその齢で死ぬ者が多いのには理由があり「43歳が人生のある種の頂点を形成しているからだ」と持論を展開している。一個の生命体として見た時、肉体的な強さは20代の方が強いかもしれないが、精神的能力を加えた「総合力」として、43歳までは「登り坂の局面がつづく」とする。


 大きな視点では納得できる。経験値はそれ以降も上昇するが、肉体的な低下傾向は顕著になり、何かを成し遂げるための限界がある例は、長く続けたプロ野球の一流選手の引退時期等を見てもわかる。「冒険家・登山家」という極限のチャレンジをする者たちにとって、その意味はさらに深く重いことも想像できる。




 同じ遭難死に何故意味の軽重があるのか。角幡は「他者への訴求力」という判断基準を持つ。人生の登り坂の方が人々に訴えるというのである。感覚的に理解できても、訳を表現するとなると難しい考えである。しかし彼はこう言い切る。「冒険活動においては、生きようとする努力が死に近づくこととまったくひとしい


 「登山者には死への憧れがある」と、かつて誰かが言った言葉として覚えている。それはきっと「生命の燃焼」体験を求めているのだと解釈していた。一般的な愛好者と一緒にできるわけはないが、やはりこの文章にも「生への希求度」という語があり、齢をとるとはその減退であり不満を募らせる過程になることは明らかだ。


 「全能力、全体力を駆使して、死の瀬戸際まで近づき、そして生還すること」の価値とは、その完全燃焼感こそが他者に訴えるという論は、現実的な冒険行動と常に向き合う著者ゆえの力強さが伝わる。しかし「人生の減退期」の真っただ中の我に響く結論は、とたんに現実的な一言だ。「生きようとして死ぬしかない

43歳という境界

2024年10月25日 | 雑記帳
 今年は町の図書館だけでなく、隣市施設も利用している。先日、予約していた本を取りに行ったら、エントランスで除籍されていた月刊誌が並んでいた。一昨年までの分が十数冊揃っていて、誰でも自由に持ち返ることができる。歴史ある雑誌だがあまり馴染みのなかった『中央公論』があったので、手に取ってみた。


 風呂場読書には最適かと思い、2冊頂いてきた。一つは「非・保守という選択肢」と「人生後半戦の作法」という特集が組まれていて興味をもち、それなりに面白かった。なかでも、尾辻参院議長の「気づけば『左』に立っていた」の記事はいわゆる「右」の象徴的存在の氏が「軸のずれ」を指摘していて、目を惹いた。



 一通り見た中で、ぐっと惹き込まれたのは、「連載再開」と銘打った冒険家角幡唯介の文章だった。著書を読んだ記憶があり、検索したら10年以上前だったが、今改めて読み返しても著者の凄さが伝わってくる。この「届かないものについて」と題した文にも、彼の持つ信念、そして歩んだ景色が色濃く出ていた。


 この冒険家は「意味ある遭難死と、無意味な遭難死をわける境界は何歳にあるのだろう」と問いを立てる。自ら「年齢論が好きな私」と書いてはいるが、それを堂々と論じられる経験値は、凡人がたどり着かない境地かもしれない。彼はその年齢を「43歳」とした。それは「遭難死する者がやけに多いから」と記す。


 登山家や冒険家を対象とした詳細データの有無はわからないが、確かに著名な名前が43歳の遭難死者として複数挙げられていた。それは「冒険家の落とし穴的年齢」であり、それ以前つまり三十代の遭難死は、四十代後半以降のそれと比べて深いとし「人生の膨張期と減退期」を区分しながらその意味づけをしていた。

つづく
 

本に求める「言葉の躍動」

2024年10月23日 | 読書
 全く日本列島の気象はどうなっているのか…天気予報では毎日のように気温変化が流動的だと知らせている。それに伴って植物や動物の生態も変わりつつあることが常態化している。だから…と何の脈絡もなく「読書の秋」も捗らない…ってことはないか。先月下旬から数少なく読んでいるのは、ドリアンの本ばかり。



 「旨辛ラーメン」。辛みが勝っていました。75点。


 Re74『新宿の猫』(ドリアン助川 ポプラ文庫)。講演で著者がかつて勤めた放送関係の仕事や、自分が色弱で苦労したことを話していたので、この小説を読むとかなり重なっているという印象を持つ。書名から連想できるのは、都会に住む者の孤独や集散、個としての自立の姿という点か。ドラマとして象徴性がある。


 マガジンハウスから出ていた隔週刊の『ダ・カーポ』を愛読していた。連載がいつも楽しみで、ドリアンもその一員だったと思い出した。それがまとめられていた。Re75『言葉ノート』(ドリアン・T・助川 マガジンハウス)、数えてみると四半世紀ぶりに読むことになる。もちろん、かつて読んだ記憶は消えていた。


 当時活動していたバンド「叫ぶ詩人の会」に絡む出来事、世相や下ネタまで約四年間のことが記されている。個々の内容は古いものもあるが、ともかく文体に惹かれる。その訳は「はじめに」に納得する一言で著される。それは「言葉の躍動」。わかるかどうかより、読み手とは書物に対して本質的にそれを求めている。



 今年出た一冊でRe76『太陽を掘り起こせ』(ドリアン助川 ポプラ社)を、隣市の図書館から借りてきて読む。これは正直難解だった。出版社の紹介ではこうなっている。「語りの構造」は斬新に感じたが、その物語に出現するファンタジー性についていけなかった。ただ、ある時ふいに「場面」が蘇りそうな予感もある。


鍛えられた瞬発力を観る

2024年10月14日 | 雑記帳
 先月下旬、大曲市で開かれた「おおまがり寄席2024」を聴きにいった。いつもなら感想は記しておくのだが、それほど心動かされなかったからか手が動かなかった。ただ、瀧川鯉昇はさすがベテランの味だったなと思い起こす。「時そば」という初心者向け噺にアレンジを加え、こなれた口調で会場の笑いを誘った。



 会場の笑いから連想した事を思い出し、実は昨日見に行ったTV番組の公開収録の様子を書こうと思う。長寿番組である「なんでも鑑定団」が我が町にやってきて(2回目)、出演者の応援に誘われて観に出かけた。正直あまり期待していたわけではないが、2時間ちょっとの間、非常に興味深く、楽しませてもらった。


 大きな理由はMC役の存在だった。アルコ&ピースの平子祐希は、この番組の司会は初めてと言っていたが、さすが場慣れしているツッコミとはこういうものかと思わされた。流れに関する事前打ち合わせはあったとしても、素人相手の問答をあれだけ笑いにできるのは凄い。「鍛えられた瞬発力」と称してもいい。


 多少分析的にみれば、まず特徴的な点を誉める、一般的な誉め方だけではなく、聴衆がわかるような形、同調できるように変化させていく。さらに突発的な言動に対するフォローを笑顔でうける、これは「全く分からない」「全然ダメ」という否定的な評価をしても、オーバーな誉め方であっても、短くすっきり表す。


 いずれ、どういう箇所に目をつけるかを含め、豊富に経験を蓄積していないとできないものだ。TV番組にお笑い出身のMCが多数いるには、それだけの理由が下地にある。この放送は冬らしいが30分以内に収められるはず、どこを残しどうつなげるか。番組制作者がプロの仕事をするだろう。その結果も愉しみだ。

神無月寒露の頃日記

2024年10月11日 | 雑記帳

10月7日(月)

 土曜日の学習発表会の代休で孫が一日いる。この機会を生かそうと初めての電車体験をさせる。湯沢駅から横手駅まで一緒に行った。目的地は新施設Ao-na。図書館が開館する10時ちょうどに到着。ずいぶんと贅沢なつくりだなと感心する。孫は絵本を横目に、自走する清掃ロボットに興味津々だった。そりゃそうだ。

 

10月8日(火)

 「寒露」。霜はまだだが、徐々に寒さを感じる。室内温度が20℃近くまで下がる。「長い夏」がようやく終わる。親類から川蟹(モクズガニ)を頂く。学校から帰ってきた孫は、その姿に夢中になり、いろいろとちょっかいを出して遊んでる。今月から久しぶりにNHK放送モニターをするので、リポート送信をした。

 

10月9日(水)

 大リーグポストシーズンの試合をちらちら見る。それにしてもパドレスの応援は熱狂的だ。ドジャース苦戦だが頑張ってほしい。午後から来週の読み聞かせに向けてPPT作成のための取り込みをする。調べていて読んでみたい本が見つかり、隣市図書館へネット予約申込する。便利だが「散歩」も忘れちゃいけない。

 

10月10日(木)

 崖っぷちのドジャース、今日は反攻だ。大谷のホーム突っ込みはいくら何でも、と思った。しかしそのガッツ(懐かしい)も大切。夕方、年中児の孫が来て、久しぶりに散歩に付き合う。グラウンドでは野球部のノック練習、校舎からは盆踊りの笛の音…日暮れがだんだん早くなり、学校がぎゅっと締まってくる季節だ。

 

10月11日(金)

 とうとう朝の外気温は10℃以下に。午後から某小高学年へ読み聞かせがあり、確認していたら、PPT作成時のコピー落としに気づく。もう一度図書館から借り直しだ。読み聞かせ後に、今度は隣市の図書館へ予約していた2冊を取りに行く。読書の秋を満喫したいが、実は公私ともに(笑)忙しくて、本を開けない。


あの頃、渾身の演出を

2024年10月06日 | 雑記帳

 孫の学習発表会を観に出かけた。9年ぶりの「学校」の発表会。長く続けているこのブログには、何度となく発表会のことやその時期のことを書いている。直截に「発表会の季節が好きだ」と綴った文章もあるほどだ。担任をしていた時と離れて携わった時の違いはあるけれど、時季の醸し出す雰囲気が好きなのだ。

 

 孫は一年生なので、見終わってふと思い出したのは、唯一自分が一年生を担任していた時のこと。これは拙著には記していないが、実は印象深い出来事だ。発表会の定番はいつも一年生によるオープニングである。ここにも自分はある工夫を凝らした。山間小規模校のわずか9名の子どもたちを、存分に照らしたいと。

 

 舞台だけでなく会場の体育館をフルに使った。5人を幕の後ろに控えさせ、4人は体育館の四隅に一人ずつ配置した。観客を取り巻くように声を響かせてから、全員がステージに揃うように姿を見せる。「はじまるよう」「はじまるよう」…と走ってこさせる。「こっちだよう」「そろったよう」…で、全員が舞台に上がる。

 

 凝らさなくとも一年生は喜んでもらえる。ただそれに甘えられないと、渾身(笑)の劇脚本を書いた。話は「ねずみの嫁入り」である。一番身体の小さかった女児をネズ子に、当時一番おとなしそうな男児をネズ夫にした配役だ。婿候補に様々なキャラクターが発揮できるので、少人数にはお似合いのストーリーだ。

 

 ハイライトはネズ夫のプロポーズ場面。ネズ子に「ネズミは小さくて、弱くてすぐ死ぬから…」と言わせて、ネズ夫に返させる言葉は「ボクは死にませーん」。ご存知、あの有名なドラマの名セリフ。間を置かずにタイミングよく、あの曲が流れ出す…ねらい通りに会場は一瞬あっけにとられ、笑顔に満ちあふれた。


長月の世の中を緩く語れば

2024年10月01日 | 雑記帳

 九月前半は暑さが続いた。しかしそれもここ最近当たり前になったようにも感じる。彼岸入りを前に能登半島を襲った豪雨被害は、正月の地震のこともあり本当に同情を禁じ得ない。報道ではわからない部分も多くあるだろう。結局、傍観者のような言い方になるが「明日は我が身」という構えは捨ててはいけない。

 

 ニュースを賑わした某県知事のパワハラ騒動。普通に報道に接すれば、本人はいったいどのような心持ちでいるのか、想像してしまう。メンタルが強いだけは確かであり、周囲とどのような軋轢を重ねても我が身を貫く姿となる。政策上のことを評価する向きもあるようで、問題の芯は何なのか見えにくくなっている。

 

 明るい話題と言えば、レギュラーシーズン終盤になっても衰えない大谷の活躍か。シンプルに競技スポーツの素晴らしさを甘受できる気がする。ただ、付随する情報はまさに玉石混交とでもいおうか。情報を誘導したり誇張したりする点が常にある。直接観戦できない者は、間に入り込む濁ったバイアスに気をつけよう。

 

 政党内の代表選びも賑やかだった。与党も野党第一党も多くの候補者が出たことはいいことだろう。ただ「終わればノーサイド」という言辞がいかに信用できないか。権力争いに終始している姿だけがクローズアップされる。まとまることだけがいいわけではないが、結果それで政策が行き渡らず不幸になる者もいる。

 

 

 だらだらと世の中を括ったが自分はどうか。読み聞かせはこども園から高校まで計9回。少し噛んだことがあった。ほんの一箇所でも集中を切らすので要注意だ。老化もしくは緊張感の欠如か。中旬にいい朗読を聴いたので、レベルアップしなければと思う。10月から選書に一つの縛りをつけてやると決意(笑)した。