すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自分と向き合うべきは

2018年11月30日 | 雑記帳
 「にわか」でも「あとづけ」でもなく、貴景勝は新入幕時からお気に入りだった。なんと言っても、あの両腕が短い体型がなんともいい雰囲気を出していて、どんな相撲を取るのだろうと注目していた。もちろん貴乃花部屋だったという理由もある。どんな声をかけられて、日々の鍛錬に励んでいるのか興味深かった。



 九州場所は言うまでもなく、貴景勝で始まり貴景勝で終わった。初日横綱稀勢の里戦が象徴した意味は大きかった。貴景勝が見せた攻めはもちろん、稀勢の里が立ち合いに選んだ「張り差し」は、正攻法を貫いてきた自分への不安そのものだった。しかしその一手によって「心の師匠」貴乃花にも見離されたという。


 大相撲ファンの目は序盤、稀勢の里の進退に釘付けになった。マスコミもこぞって取り上げた。ある親方の一人が「死に物狂いでやっているのか」と叱咤するコメントを寄せたことが忘れられない。本人しかわからない心の内だが、こうした声があるのは、稽古の姿勢や方法に改善すべき点があったからに違いない。


 そんな喧騒をよそに勝ち抜いていった貴景勝に、本物の強さを感じたのは勝ち越しを決めた9日目の栃ノ心戦だった。調子の良くない大関だったが、あの勝ちには迫力があった。そして取組後のインタビューでは、優勝後にも口をついて出たあの言葉があった。「弱い自分が出そうになるので、自分と向き合いました


 真摯な言葉である。饒舌に語らない力士ゆえに重みを感じた。その精神を今一番持ってほしいのは本人ではなく、稀勢の里ではないか。しっかり今の自分と向き合えないことを別の観点で語った人もいる。あの内館孜子女史が、場所中に地元紙のコラムに持病の再発に触れつつ、横綱に思いをはせた。「思い出と戦うな

教科書と現実を照らし合わせて

2018年11月29日 | 読書
 「文科省著作教科書」であるこの本と、70年経過したこの国の現実を照らし合わせてみる。 

2018読了109
『民主主義』(文部省  角川ソフィア文庫)


 民主主義が最も大切にする考えに「自由と平等」がある。いったい「自由」とは何か。青くさい話と突き放さず文章を見よう。「ひろく個人の自由を認めるが、それをかって気ままと混同するのは、たいへんなまちがいである」…ずっと言われ続けながら、混同され、曲解され、何が本質なのか、見えにくくなっている。


 民主主義における自由の考え方は、次の一文に集約されるのではないか。「自由を活用して、世の中のために役だつような働きをする大きな責任がある」。ここで注意したいことは、昨今話題になった「生産性」という点である。それをあまりに近視眼的にとらえ過ぎている、そんなふうに政治が社会をつくりあげてきた。



 もう一つの「平等」はどうか。こちらがさらに難しい世の中になっている。若い頃同僚にかけられた言葉が忘れられない。「人間はもともと不平等に生まれてきている。学校という組織は、その不平等を狭めるため、それとも広げるためにあるのか」…それまで「機会均等」を疑わなかった自分が揺さぶれた一言である。


 格差社会という語が一般化し、様々な形でそのひずみが拡がっている。この本にも「経済民主主義は簡単に実現できないといわざるを得ない」とあり、論理は理解できる。としても現状況が拡大する方向へ向かうならば、民主主義の対極にある独裁主義に近づいていくのは明らかだ。政治の吟味はその一点でも十分だ。


 ここ数年の我が国について判断すれば、明らかに民主社会としては後退しているとみる。その要因を歴史的推移と割り切ったり、政治家の個人的資質に求めたりするのは簡単だが、何よりその責任は私たち有権者一人一人にある。「民主主義は制度ではない、それは心だ」というある意味偏った極論にこそ、本質がある。

民主主義は干乾びたか

2018年11月28日 | 読書
 書店に行って書棚をずっと眺め、ふと目が留まる。文庫コーナーでその背表紙を見て正直少し驚いた。『民主主義』という今どきあまりにダイレクトな書名もそうだが、上部にある「文部省著」という文字。手にとり帯を見ると「『読み終えて、天を仰いで嘆息した』内田樹(本書解説)」とある。これは買うしかあるまい。



2018読了109
『民主主義』(文部省  角川ソフィア文庫)



 恥ずかしながらその存在は知らなかった。「文部省著作教科書」と表紙には記されている。「1948年に出て、53年まで中学高校で用いられた」と解説にあった。復刻版は以前にも出されていたようが、文庫版として先月に発刊された。ありがちな薄手の冊子ではなく、なんと443ページの重厚な「ほとんど学術書」である。


 内田は「嘆息した」訳をこう書く。「それは今から70年前に書かれたこの『教科書』が今でも十分にリーダブルであり、かつ批評的に機能していたからである。」つまり「本質的な洞察に満ち」ていて、実現のための「課題はそれから70年を閲してもほとんど実現されることはなかった」と推察しているからであろう。


 読みつつ思い浮かんだのは、中学生のときに体育館ステージの背面に掲げられた三つの言葉「自主」「民主」「公開」。これは学校独自の目標ではなく、当時の教員たちが新しく作った組織のスローガンであった。後に教職に就きその組織と深く関わりを持ち、掲げられた精神を具現化できるよう努めたつもりではある。


 しかし環境の忙しい変化を言い訳に、現状肯定に終始したと内省する。民主主義とは、国レベルの政治のやり方に留まらず、地方自治でも、政治以外の働く場所でも、そして暮らしの隅々でも、貫かれるべき根本精神である。干乾びてしまったのは、実は言葉でなく、その心を宿すべき人間の方だと言えるだろう。

理解し合うという信念を疑え

2018年11月27日 | 読書
 外国人労働者受け入れの問題が国会内で喧しい。
 いくつかの論点があるが、どのような形になるにせよ、時代の流れは止めることはできない。
 肯定的か消極的かを問わず、自分の構えは準備せねばならない。

 漠然とそんなことを思う頭の中に、文化人類学者の小川さやか氏が書いたコラムの一節が、鋭くくい込んできた。

Volume.132
 「郷に入れば郷に従え。」日本人の多くはこの言葉を実践しようと努力し、自国で暮らす外国人にも同じ努力を期待する。その期待が容易に抑圧的な同化主義に転化することにあまり敏感でないままに。そして互いの文化を深く理解しあえば、うまく付き合えるという『信念』を持ち、他者に対する無関心を『悪い』とみなしがちだ。だが、他者理解のハードルは高く、結局、他者との付き合い自体を敬遠してしまう。」



 私達は学校で、社会で、何の疑問も抱かず、人間同士が理解し合うことの大切さを教えられてきた。
 そして私も教えてきた。
 だが、生活の範囲が拡がれば拡がるほど理解は難しくなり、国際化の波によって難しさが増すことは一般常識になっている。
 ただ「理解し合う大切さ」は揺るがないままに持ち合わせているといっていいだろう。

 小川氏はその「信念」に揺さぶりをかけている。
 氏はアフリカ研究が専門だ。現在はタンザニアの商慣行をテーマにしており、香港でそうした交易人たちとの友好的な交流も深いようだ。
 その経験をもとに、こんなふうに語る。

 彼ら(中国のタンザニア人)は自身を相手に深く理解させようとしないし、お互いに扱いやすい人間になることを期待しない。

 平気で約束をすっぽかす反面、知り合ったばかりでも気軽に誘いご馳走してくれる彼らの暮らしぶりに、ある強靭さを見ている。

 それは文中から拾えば「異文化『理解』を前提にしない方法」にある。
 今の多くの日本人には難しいだろう。
 学校教育の場で強調して教えられることはためらわれる。


 ただ、誰しもが、いずれ異文化との接触が増えるならば、無理のない形で進めたいと思っているのではないか。
 そのためには、選択肢がたくさんあった方がいい。
 今までの信念からややズレたとしても提示しておくことで、幅の広がる可能性がある。

 無理の少ない形で異文化との接触、交流を進めていくには…。
 「おもてなし」をことさらに強調する国民には難しいのだが、この一言を心に留めておきたい。

 「無理」は、自身あるいは他者を理解しやすい対象としようとする時に起きる。


 ひとまず、理解しようと努めないでその時々に合わせた対応でよくないか。
 言うに易く行うに難い姿勢かもしれないが。

11月25日歴史は作られた

2018年11月26日 | 雑記帳
 11月25日は何かの日だった…と。そうだと思い出したのは亡き祖母の誕生日ということ。明治38年生まれ、夫と跡継ぎの長男を早くに亡くしたが、気丈夫な祖母は長く生き抜き、母と共に私達兄弟を育てた。誕生日を覚えていたのは祝う気持ちを持ち続けていたと、甘く解釈しよう。


 今年は日曜日。一昨年に続いて某番組の収録へ参加した。いつも使っている児童会館が工事で、秋田市文化会館に会場が変更となった。昨年は夫婦揃っての映像デビュー~1.5秒ほどのショット~(笑)を果たしたが、その後オファーが無く(笑)、今年はスタッフとして参加した。



 収録現場を見る楽しみと共に、それぞれの市町村の作品をじっくりと集中しつつ拝見した。毎年テレビ視聴もするが、ほぼ審査結果と一致する。改めてどんなジャンルであれ、主題の明確さ、伝わるエネルギーあたりが評価の分かれ目だと思った。放送は12月8日土曜。ご覧あれ。


 帰宅が6時半。その後打ち上げの懇親会へ向かうが気になっていることが二つあった。競馬のジャパンカップと大相撲の行方だ。結果だけ聞き、後は会終了後にTVで見た。競馬は牝馬アーモンドアイのレコード圧勝。大相撲は貴景勝が賜杯を手にした。この結果には共通性がある。


 勝馬は最も若い3歳馬。優勝力士も幕内最年少。言うなれば若き才能が見事に花開いた日となった。アーモンドアイも貴景勝も来年の活躍が実に楽しみである。11/25がその節目だったと思い出すことができれば、亡き祖母も草葉の陰で喜ぶだろう。全然関係ないか!歴史は作られた

全てが手段という落とし穴

2018年11月24日 | 読書
 昔の有名な?笑い話にこんな母と子の会話があった。

(居間で寝そべりながらまんがを見てゲラゲラ笑っている息子を見て)
母「いつまでもそんなことしていないで、勉強しなさい」
子「勉強して、何になるんだよ」
母「決まっているじゃない、いい学校へ入れるわよ」
子「いい学校へ行って、何になるんだよ」
母「決まっているじゃない、いい会社へ入ることができるわよ」
子「いい会社へ入ったら、どうなるんだよ」
母「お金をいっぱいもらって、ラクできるから幸せでしょ」
子「だから、今 ラクしているんだよ」

 突っ込みどころ満載、現在の社会状況にはマッチしない会話かもしれないが、結構本質をとらえている。
 「目的と手段」ということについても考えさせてくれる。



 映画監督是枝裕和が「手段と目的」というエッセイで、新幹線移動と駅弁のことなどを書いているなかに、こんな一節がある。

Volume.131
 「最近、あらゆるものを『手段』としか考えなくなる傾向が顕著だなと思っているのだけれど、これはよっぽど意識的に抵抗しないと、いつのまにか生活の全てが手段になってしまいかねない。」

 一日の行動すべてが目的になることなど、現実には考えられないが、その逆に手段であることもない。
 端的にどちらに重きを置けばいいか考えると、それは目的の方かなという気がしてくる。

 「食事」を取り上げれば、空腹を満たす手段というより、美味しさを感じる目的のためにあった方がいい。
 「通勤」とは手段そのものに違いないのだが、その動きの中に別の目的、例えば音楽を楽しむ、定点観察行為を続けるなどがあってもいいはずだ。

 もちろん、そんな単純な区別や区分で人は暮らしていないだろう。
 ただ、全てが効率優先、スキマやアソビを少なくする傾向が進んでいく中では、「意識的に抵抗しないと」、心のカサカサ度も同時進行していくに違いない。

 目的の細分化や行為そのものを楽しむ極意など、もっと抵抗「手段」を考えてみよう。
 えっ、…考えること自体を楽しみながらね。

初雪~箱橇にしがみついた日

2018年11月23日 | 雑記帳
 ようやく、という思いがするのは待っていたからか。いや、楽しみに感じていたのは遠い遠い昔のこと。下手なスキーを履かなくなってからもずいぶん日が経つし、風景を撮るぐらいしか能動的な働きかけをしない今、白い季節を待つ理由とは何か。時の流れを目に留めたいだけか。


 大きく見れば、四季のはっきりする国に生まれて良かったとは思う。ただ、雪国に住む者にとってこの季節の厳しさだけは、辛い感覚でしかない。しかしよく言われるように、それがあるからこそ春が待ち遠しく、喜びが湧いてくる。平坦な暦日は楽かもしれないが、つまらない。



 さて、昨日研修で訪問した施設に箱橇(はこぞり)を見つけた。本県なら博物館や資料館等、展示している箇所も多いはずだ。箱橇に馴染みを感じる世代はおそらく私たちが最後と思う。保育園への登所を渋る幼い私を、母は箱橇に入れて送った。しがみついて離れない日もあった。


 防寒用のマントを被せられ、そのまま先生に抱きかかえられ連れていかれた時も多かった。粗末な箱橇の板の色や厚みなどともに今も脳裏に宿っている。そうした周りの大人たちの心は、現在の自分が肉親の幼い命に抱くものと似通っているか。情愛を抑えながら強引に引き離す。


 泣きべそをかきながら保育所生活を送った後は、小・中学校が大好きというパターンで過ごし、高校は…となるとまた波乱で…。何故かこの時期になると、通学時が思い出されるのはやはり顔にあたる雪の刺激から連想するのか。冷たくなった素手に息をかける暖かさも覚えている。

軽快なダンスがお似合いか

2018年11月22日 | 雑記帳
 DA PUMPの「U.S.A」の歌詞を検索したら「C'mon, baby アメリカ ドリームの見方を inspired」や「C'mon, baby アメリカ サクセスの味方 organizer」という部分があり、なんとなく理解できた。しかし我が「ジパング」では先のアメリカ中間選挙への関心は高くなかった気がする。そんななか、ある番組を観た。


 BS1放送の「激動の世界をゆく~アメリカ政治の新たな風」だ。選挙結果は下院で民主党が優勢になったわけだが、この番組では結果的に落選した民主党候補3人が取り上げられていた。その候補者は元軍人、シングルマザー、20代女性で、ウェストバージニア、テキサス、ワシントン州での運動に焦点があてられた。



 NHK夜のニュースも担当していた河野憲治現アメリカ総局長のレポートで、なかなか見応えがあった。自分が今まで知らなかっただけと言えるが、構図がはっきり見えたということだ。既存産業等の将来をどう展望するのか。人権問題、経済格差問題にどう取り組むか。それぞれの立場の主張も明確で衝突は激しい


 特に印象的なのは、保守色の強いテキサス州での場面。民主党女性候補に反する人々へのインタビューがあった。教会に集まった男性たちは皆カウボーイハットをかぶっている。「政策が、聖書の教えに対してより忠実な方へ投票する」という原則を繰り返し主張した。生き方を基準にする強靭さに立ち向かう術はない。


 アメリカが放つ光と闇の色濃さを強く感じさせられた。ただ、立ち向かう若者の存在は我が国ではめったに目にしない風景だ。過日観た『パク・クネ弾劾裁判』での韓国でのデモの様子にもそれを感じた。ジパングのやさしさを纏うひ弱さには軽快なダンスがお似合いか。だからいつまでもbaby扱いから脱け出せない。

歴史とは「なおし合い」だと…

2018年11月21日 | 読書
 「一体全体」という語は使った記憶がない。宮沢賢治の文章によく出てくるイメージがある。吉田篤弘も賢治ファンだろうか。描く世界の雰囲気も似ている気がする。さて「一体全体」は辞書に「『いったい』を強めていう語」と載っている。この場合は「本当に」の意味だろうが、この小説は題名のとおりに複雑だ。



2018読了108
 『イッタイゼンタイ』(吉田篤弘  徳間文庫)


 大きく「イッタイ」と「ゼンタイ」の前後半に分かれていて、それぞれが細かく章分けされている。一言でどんな小説かを答えるには難しい。ただ、初めに登場する男たち…「なおし屋」が本当に面白い。「なおす」は「直す・治す」という二つの漢字だけだが、意味はずいぶんと広い。手元の広辞苑では16項目あった。さて、こんな一節がある。

 そもそも、我々の歴史の要所要所には大きな「なおし合い」があった。というより、正統な歴史とは、じつのところ、内々の「なおし合い」を箇条書きにしたものを意味する。


 どうだろう。「なおす」という語の広い意味を考えるとき、実に納得できる解釈である。例えば歴史上戦争はそれぞれが相手に対して「なおす」ことを要求するために起こる。終われば終わったで様々な「なおし」が進み、その結果また…という繰り返しだ。具体的なモノであれ抽象的なコトであれ「なおし」は続く


 登場する男たちが実際に生業とする「なおし」は、時計や車、洋服等だ。その個性的な語り口が楽しい。特に「パスカルのヨシアシ」の章は傑作だ。「俺」ことウエダが語る、言葉の独特の解釈は、まさに作者の言語感覚の鋭さの真骨頂。葦はアシともヨシとも読む。それをこの題名にしてしまうセンス、想像が楽しい。


 正直、男たちの登場する前半は読みやすかったが、女たちに視点が移る後半は文体が変わったようで、少し頭に入りにくかった。その訳は「後書き」で作者が記すように、即興的に書き進めたことにあるようだ。前後半を表舞台舞台袖という表現で区分けしているが、「」を読み取る理解力が自分には欠けていたか。

積極的無反応主義

2018年11月20日 | 読書
 先週の「今日のダーリン」で糸井重里がほんわりとした本音のようなことを記している。心にじわっと入ってくる。

Volume.130
 「正直言って、ぼく自身も、世の中で語られていることや、語られてもいないことなどについては、『なんにも思ってない』ことばかりです。(略)いつからか、なんについても『なにかを思ってるはず』という決めつけが広がり過ぎてるような気がして、そっちのほうが問題なんじゃないかと『思ってます!』。」


 人間の脳には測り知れない容量があるという説はあるけれど、普通は記憶するにしても思考するにしても限界はあるだろうと思う。

 だから人は様々な事象について、意識するしないに関わらず選別して、思ったり考えたりしているはずだ。それは自然であり、自分の関心のないことまで無理矢理何か思わなくちゃいけないのは、やはりおかしな話だ。



 「三無主義」と称された世代ど真ん中の者としては、そうだ、無関心でもいい、無感動の何が悪い、無気力それで結構!(これはちょっと違うか)と全面的に賛成したい。積極的無反応主義とでも名付けようか。

 ふと思い出したのは、ある若手人気女優の口癖のように広まった「別に」という返答。
 ずいぶんと好感度を下げたようだが…いや、それもウリの一つだったのかもしれない。

 さらに言えば、力士のインタビュー。金星や勝ち越し時の受け答えで妙に饒舌なのも、どこか嘘くさい。「別に考えていない」「ただ一生懸命」というのも、十分ありだと思う。解説者ではないのだから。

 仕事をしている時分にも、どうも美辞麗句を並べる人たちへの疑問、警戒が常にあったし、自戒もしていたつもりだ。


 思っていないことは思っていない、出来ないことは出来ない、無謀な圧力に屈したり、雰囲気に飲まれたりしないためには、さらっとそんなことを言えればいい。

 それは、逃げではないだろう。
 他に惑わされず我が道を進むための、大切な姿勢だ(と思っています)。