すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

メディアの複雑さに立ち向かう気概

2007年01月31日 | 読書
 理論社が出版している「よりみちパン!セ」というシリーズの中の一冊であるが、これは、寄り道や道草以上?に、中高生向けの教科書としても通用するような本だ。

 『世界を信じるためのメソッド ぼくらの時代のメディアリテラシー』(森 達也著)
 テレビを中心としたメディアリテラシーに関して、実に筋道立てて語りかけてくれる。
 次の4章が大きく項目立てされている。

 メディアは人だ。だから間違える。

 メディア・リテラシー、誰のために必要なの?

 キミが知らない、メディアの仕組み

 真実はひとつじゃない


 私たちの世界観はメディアによって刷り込まれているという現実から、メディアへの接し方について、歴史的な出来事、または森氏自身がかかわったエピソードを通じて、どうあるべきかを問いかけている内容だ。

 特にテレビニュースの作り方は、まさしく現場にいた森氏ならではの詳細さで説得力があるし、メディア操作の怖さを感じさせる具体例には、真摯な思いが伝わってくるようだ。
 例えばある事件の報道一つとっても、冒頭場面を見るだけで方向性(善悪の判断、解釈、価値など)が大きく左右されるという点については大きく頷かざるをえなかった。

 最近の「納豆ダイエット問題」はデータ捏造という論外のものではあるが、これが「魔が差した」ものであるかどうか、この本を読み進めてテレビ局の実態を想像するとき、非常に疑わしいという気にさせられる。
 視聴率という怪物は、何でも飲み込んでしまうのだろうか。それがダイエットなら許せるが(許せないか)、プライバシー侵害や内政・外交に関わることだったらどうなるのか。いや、現に進行していることかもしれない。

 私自身が今まで知りえなかったことではあるが、日本を戦争に追い立てた新聞社の部数競争についての記述を読み、少し恐ろしくさえあった。
 ナチス、アフリカのルワンダ虐殺、イラク空爆等々で明らかになっている情報操作の例も、十二分な説得力だった。

 しかし、それでもなお、メディアの複雑さに立ち向かう気概が必要だろう。メディアなしでは生きていくことさえ難しくなっている現実。
それを使いこなすのは人間しかいないのだから。

 森氏は、そんなことを思ってこの本のタイトルをつけたのに違いないのだから。

教育の惰性を強化するという厳しさ

2007年01月30日 | 雑記帳
 講談社の月刊誌である「本」で、おもしろい論考を目にした。
 書いているのは内田樹氏(神戸女学院大学教授)。

 「教育に惰性を」がそのタイトルである。

 「惰性」というと、だらだら続く習慣という意が一般的であるが、物理的な慣性という意味もある。後者の意も込めて、内田氏は次のように意味づけている。

 現場にいる人間の個人的資質とはとりあえず無関係に、破綻なく機能された制度のことを「うまくできた制度」と呼ぶのである。(中略)仮にこれを「制度の惰性」と呼ぶ。「惰性が効いている」制度は、多少現場の人間の出来にでこぼこがあっても、それなりに回る。

 そのうえで、教育制度もかくあるべきで、現状のような教員たちの個人的な能力や資質に破綻の主因を求めるのは問題だとしている。
 教育改革はイコール教師の意識改革であるといった言は、ある面で真実をとらえている。
 しかし、そこを核とすることは非常に危ないと感じる。内田氏は、教師個々に関していちいちチェックしていく場にある「査定的な視線」は親も子供たちも共有されると、その危険性を鋭く指摘している。

 教育制度の惰性の強化をするということは、けして改革をしないということではない。数十年前のような安閑な現場にもどるというようなことでもあるまい。
 現状に即してシステムの見直しを徹底して行うということではないか。
 内田氏の次の言をどう受けとめるかによって、現場人の内なる厳しさが問われている。

 教師がどれほど無能でも適性を欠いていても、それによって子どもたちが致命的なダメージを受けないで済む教育制度とはどういうものかという問いを喫緊のものとして引き受けることである。

ミスター文部省のマインド

2007年01月29日 | 読書
 昨年末に、かつて「ミスター文部省」と呼ばれた寺脇研氏が退職したことを知った。
 『格差時代を生きぬく教育』(ユビキタスタジオ)は、その寺脇研氏への連続インタビュー集である。

 「ゆとり教育バッシング」から始まり、現在の教育の流れの発端とも言うべき臨教審答申、業者テスト問題、さらに公務員制度、障碍児(ママ)教育から英語教育まで、教育を巡る様々な問題についての寺脇氏の考えが網羅されている。
 インタビュー当時はまだ文科省在籍していたようだが、既に退職を決めた後であり、本音で語りきっている印象を受けた。

 大きなテーマは、教育の視点から日本の将来像を探ることのように思った。その視点での感想は私には荷が重過ぎるが、寺脇氏の個々の言も十分に刺激的だ。

 個々のスキルを教えるじゃなくてマインドを教えるほうに傾斜していいんじゃないかっていうことなんですよ。スキルは変化していくけど、マインドは変化していかないものだから。

 マインドをどう教えていこうとするのか…結局スキルを教える中でしか培われない気もする。
 そのために、どれほど本気でどれほど工夫するかが全てではないか。教えるべきスキルの変化に戸惑いながら、教師はやはり自分の信じるところに力を入れるべきだろう。
 そこで伝わるのがマインドだ。

 楽しみをつくる力は、明らかに減少していますよ

 インタビュアーの「(昔は)もっと楽しみを造りだしていたでしょう」という問いかけへの返答である。
 「楽しみをつくる力」とは印象深い言葉だ。ここでは「遊び」の面を取り上げているのだが、金銭至上主義社会の中でもしかしたら子供たちの中で一番失われてしまったのは、そういうことかもしれない。
 テレビやゲームの影響が弱まるとは思わないが、自分たちで楽しみを作るという活動や経験を、教育の場でもう少し意識的に考えるべきではないかと感じた。結局「楽しみ」が「幸せ」に通ずるとすれば、これはかなり大きなことなのではないか。

 寺脇氏の社会観を知れば知るほど、「ゆとり教育」の本質は見えてくる。
 どういったスタンスで成功・失敗が語られるのかはわからないが、私にはその理念が誤っているとは思えなかった。
 
 問題はやはり、かつて野口芳宏先生の講演でお聞きした、現場への「歪んだ着地」ということではなかったろうか。
 その責任の所在が明確にされないままに、次の手が進められている。

縷述「つながる授業」その12

2007年01月27日 | 教育ノート
 三学期開始後、自分なりに辞典活用の導入に力を入れてきた。休み時間も読書の時間も辞典を手にしている子もいるという。一過性のものであっても活用のきっかけには十分なり得るだろう。あとは、定期的なチェックである。
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 「辞書引き」つまり言葉を探すはやさの実態一覧と分析は別紙の通りです。全体的な底上げを目指してがんばりたいものです。以前から打ち合わせどおり三学期は実践を模索してみる期間ですので、活動内容について限定はしませんが、各学年で授業をした経緯もあるので、そのまとめとしていくつか活用例などを紹介してみます。
 授業として取り扱った主な内容を、学年ごとにまとめると次のようになります。

【1年】   ○ページを見つける ○見出し語を読む ○知っている言葉に線を引く
【2,3年】 ○二語の語順を確かめる  ○複数の語の語順を確かめる
【4,5年】 ○語順にそって言葉を探す  ○語順にそって言葉を集める
【6年】   ○辞典を使って「しりとり」をする 

 この他、自分が扱ったことのある例としては以下のような内容があります。

 ○言葉の意味を予想して書いてみる  ○「意味」から言葉をあてる 
 ○「一字を使った作文」「同音異義語を使った作文」 ○アナグラム(語順を変えて別の語に)

 いずれにしろ、意欲的な様子も見られる今の時期を逃さずに、何かしらの手立てを打てば効果的だと考えられます。
導入のための形態として、次の四つを考えてみました。

 ①国語の時間の一部(5~10分)を継続的に組み入れる ~オムニバス方式へのアプローチ 
 ②週に1時間ほどとって取り扱う ~作文との関連で可能ではないか
 ③国語以外の教科で意識的に取り扱ってみる ~社会、理科、総合などでキーワードの確認
 ④朝の会、帰りの会などでコーナーを設けてみる ~季節モノ、クイズ的に、ことわざ紹介等

 とにかく辞典に触れる時間を増やすことが、「ページをめくる」「数詞を読む」「語順を追う」などの技能を高め、結果「読む」「理解する」ことへつながっていくはずです。
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連続授業「国語辞典」その3

2007年01月26日 | 教育ノート
 残っている学年は一年生と六年生である。

 一年生は、辞典の導入についての具体的な先行実践を目にしていないので、自分で組み立ててみた。
 導入は
○あるページを拡大コピーしたものを黒板に貼りつける
 
 詳しい内容については、いずれまとめてみたいと思う。
 いずれ、きっちりと45分ほぼ予定した通りに進んだ。
 「指をしっかりあてる」「繰り返し唱えさせる」という点に配慮しながら行った。数が大きいページもあり、その面で難儀した子もいたが、どうにか集中を切らさずに終えることができたと思う。

 授業してみると、一年生の場合は「意味が書いている部分に自分からは目がいかない」ということが改めてわかる。様々な場や方法を使って繰り返し、辞典に触れさせながら、中核的な使い方である意味調べの有効性に気づかせていくことが必要だ。
 そのためには、今のところ音読や言葉遊び・言葉集めなどを豊富に取り入れ、辞典との密着度を高めていくことが肝要だと考えた。

 翌日、六年生の授業である。
 ページを開くことさえおぼつかない一年生に比べれば、それはそれは「教育ってすごい」と思わされる。二~五年生と同じように実態調査をしたが、当然ながら一番速いという結果になった。

 さて、辞典を活用する活動として取り上げてみたのは「しりとり」。
 これも自分なりに開発したといえるプランだ。
○中抜きしりとり
○知らない言葉しりとり
 
 前者は、出題として、完成されたしりとりから途中の語を抜きページを示して探させる。前後の言葉をつないで予想していくのだが、これも単なるしりとりでなく別バージョンを示して変化を与えることで熱心に取り組んだ。
 後者は、文字通りの「知らない言葉」によるしりとりをする。中学生用の辞典を取り揃えているので、語彙は豊富だ。
 「とつおいつ」→「つごもり」と、子どもたちの知らない言葉を示し、10分でどのくらいつなげられるか競争する。発表時に、他の子に言葉の意味や用法を指摘されたらマイナスするというルールを決めて実施してみた。

 どちらも作業形態や発表にもう少し工夫が必要だが、ネタそのものはなかなか使えると感じた。

 一定期間集中して、辞典の授業づくりに取り組んでみた。
 具体化しないものもあったが、様々なプランを頭に思い描く楽しみ、苦しみ、そして子どもたちの熱い目…いい時間だった。

一隅を照らす人生の歩き方

2007年01月25日 | 読書
 地区センターの職員の方が学校に見えられ、一冊の本を置いていかれた。
 発行元より「地域の学校に寄贈してくれ」と依頼されたとのことである。

 『ヤスコサンバの話っこ』と題されたその冊子は、この地区在住の高橋ヤスさんのお話を秋田市の小西一三さんが聞き書きの形で文章化したものである。100ページ近くあり装丁も丁寧なりっぱなものである。

 高橋ヤスさんには、昨年の春から夏まで週1回程度のペースで学校に来ていただき、昔語りなどを聞かせていただいた。それ以外にも校長室でずいぶんと様々なお話を聞くことができた。
 地区の助産婦として「千人位」は赤ん坊を取り上げたヤスさんからは、私の知らない「昭和」の話もずいぶんと聞かせていただいた。夏に入って体調を崩されたので、それ以来お目にかかっていないが、こういう形で「再会」できたことは何より嬉しい。
 仕事の手を休め、思わず読み入ってしまった。

 昭和20年に帰郷し、産婆としての道を歩き始めたヤスさんだが、仕事に関わることだけでなく、それ以前のことも実に味わい深いエピソードに彩られている。姉妹の子守で十分に学校に通えなくても、本が好きで勉強が好きなヤスさんが、人とのめぐり会いを大切にしながら自分の目指す道をしっかり歩んだことに、この世代の女性の持ちえる強さをひしひしと感じる。
 また、お産という重要な舞台に幾度も立ち会ったことによって、生きることの本質を数多く汲み取ってきたのではないか。

 貧乏で電気も止められ、ローソクの明かりで自ら赤ん坊を取り上げたある父親がいた。出生届けをヤスさんに依頼しにくる。民生委員でもあったヤスさんは生活保護を進めるが、父親は首を縦にふらない。
 「俺の責任でなんとか食わせていくから」
 そうした強さは「時代が違う」という一言で片付けられないものだ。

 ヤスさんのお父さんのエピソードにも、思わず目頭を熱くさせられた。
 ヤスさんは「本当の親だろうかと思うほど、厳しい父だった」と書いている。しかし同時に「学用品には不自由させず」「人手不足のなか、東京に行きたいといった時も快くだしてくれた」とも記している。ホームシックにかかって、泣き言の手紙を出したら、母親はたどたどしい字で、こう書いたという。
「父は村の人に『娘は必ず一人前の産婆になって帰ってくる』と言って歩いている」
 本当の優しさとは、厳しさとは何か…親子の情愛の形がくっきりと表われている。

 この冊子は、地方の辺地に生きた一人の女性の記録として、実に価値があると思う。
 おそらくヤスさん以外にも全国にそうした人生を歩まれた方は点在するかもしれない。しかし自らを語ることには不得手な世代とも言えるだろうし、本好き、ことば好きのヤスさんが、その方々の代表として語ってくれたという見方もできる。

 詳しい経緯は不明だが、小西一三さんらは「非売品」としてこの冊子を作られたようだ。
 その仕事と志の高さにも、深く敬意を表したい。
 名づけられたサブタイトルは実に重みのあるいい表現だ。

 歩いた歩いた産婆人生


連続授業「国語辞典」その2

2007年01月24日 | 教育ノート
 辞典の授業二日目。

 4時間目に三年生、5時間目に二年生が予定されている。
 二年生は、担任の意向もあり辞典を全員分揃えてあり、特に重点的には扱っていないが、随時指導はしているとのことであった。

 実態の調査についての流れは四、五年生とほぼ同じである。
 やはり「指定されたページを開く」という段階で、だいぶ時間がかかる子が目についてきた。二年生だと「数の順序、数詞」の定着があやしい子もいるようで、少し丁寧な入り方をした。
 調査する段階で、なかなか探せない子を観察してみると、数詞だけでなく、該当ページを開いても発見できずにめくってしまう状態があり、語を確認していく作業に難儀している。指や目の動かし方の指導が必要のように思った。

 学習活動としてとりあげたのは「どちらが先かな?」と題して、まず二語の掲載順を問うものである。10例準備した。
① あか    あお       ② のうみそ  のうみん
③ てんき   でんき ・・・  ⑩ けいと   ゲーム
 
 シートで予想させ、その後辞典で確認していく形である。拗音が入る言葉に誤りをする子がいて、確認をしていった。

 その後には7枚のカードを準備し、それを黒板に辞典に載っている語順に並べていく活動を取り入れた。三年生も二年生も全体で予想した順番はまったく同じ(こちらの思惑通りに間違っている)。以下の通りだった。

ゆきおんな
 ↓
ゆきだるま
 ↓
ゆくえ
 ↓
ゆけつ
 ↓
ゆげ
 ↓
ゆずる
 ↓
ゆたか

 実際にそこまでの学習はしておらないようで、「ゆけつ」と「ゆげ」の語順が引っ掛けになる。辞典で確かめをしていくと、一様に驚く声を上げたので印象には残ったはずである。
 三年生では、どうして「ゆげ→ゆけつ」と問うと、語数に着目してそうなると答えた子がいたのでいいまとめになった。

 一語一語出しながら、語順通りに貼りつけていく作業は、誤って貼りつけた子もでるが、その場で子どもたち同士の指摘もあることで問題がはっきりし、二、三年生レベルには合っている活動だと思った。

 次は、いよいよ一年生である。

連続授業「国語辞典」その1

2007年01月23日 | 教育ノート
 国語辞典を活用するための授業を始めた。
 初日は2時間目に5年生、3時間目に4年生である。

 最初にどの程度の速さで引けるか調査をする。
 そのための導入として二つを行った。

○指定されたページを開き、数字を指差す
○指定された言葉を探し、ページの数字を指差す

 そして10の言葉があるプリントを配布、時間を5分と定め、何語探せるか、また何分で探せるかを計った。どちらの学年も個人差が目に付いた。

 残った30分ほどの時間で、辞典を使った活動を行う。
 以前からの持ちネタ?である「ことば探し・ことば集め」をする。
 語順の原則などは特に確認せず、クイズ的に進める中で触れられればよいとした。

 まず、見出し語順に並べ、中の伏せた語を当てる。
 使っている辞典は光村教育図書版である。5年生では①から③の三問。4年生は①②と④を扱った。

①「えらい」→ 「?」 →「えり」
②「あるじ」→ 「?」 →「あるく」
③「かふんしょう」→ 「?」 →「かべ」
④「いのこる」→ 「?」 →「いのち」

 
次は、一定の語数が収録されている部分を問い、グループで集めさせる。
(4年生は①を全体で扱った)
①「えいが」→ 10語 →「えいご」
②「あまぐ」→ 55語 →「あめ」
 
 5年生が最初だったので、活動形態や設問数を若干変更、修正をしながら4年生を行うことができた。
 ことば集めは、前任校などで行った6年生の場合、個別作業にしていたがグループにすることによって、「それはちがう」などという声も聞こえてきたので、その段階で語順に関しての教えあいなどもできていた。
 その後の辞典を引いて言葉を確かめていく作業も興味が持てたようだ。

 予想などは大きな紙にグループ全体で書かせる形にしたが、書き込みをカード化するなりして、出てきた言葉を並べ替えて確認するのも一つの手だなと感じた。

 時間的には少したりなかったが、この流れは1時間の授業の組み立てとしてはまずまずだなと再確認できた。

 次は3年生と2年生である。

「思想界の巨人」の実感には

2007年01月22日 | 読書
 『ひきこもれ』(だいわ文庫)とは、なんとも刺激的なタイトルである。

 吉本隆明氏の著書である。
 
 ひきこもりの人は、考えること、感じることを人より余計にやっているのです。

 確かにその可能性はある。
 しかし、と思う。
 吉本氏自身がそうした傾向を持つからと言って、現在のひきこもりと簡単に重ねていいものか、と思う。
 ひきこもっている子の多くが、自分自身としっかりと向き合っていると言えるのか、疑問を感じる。こもっている部屋の様子の時代的変化を想像してみるとき「自分で内密をふくらませる」ことの「内密」に、すべて価値があると言っていいものだろうか。

 そして、もう一つ大きく気になる文章があった。

 教室に流れている嘘っぱちの空気を、ぼくは「偽の厳粛さ」と読んでいます

 それは昔、氏自身を苦しめ、そうした空気に耐えられない子が不登校になっているのだと言う。

 いまの学校でも同じようなことが起こっているのだろうと思います

 もちろん、完全には否定しきれない現実である。
 だからといって「偽の厳粛さを乗り越える実践をしなければならない」などという美しい言葉で括ることはできない。
 「偽の厳粛さ」と「集団におけるルール、規律」とはどの程度かけ離れているものなのか、私の頭では読み取れないこともある。
 そもそも吉本氏自身も「くだらないことや嫌なことがたくさんある。学校などというものは適当にさぼりながら何とか卒業するくらいでいい」と、その現実を認めているふしもある。

 制度としての学校には限界があり、それはまた社会の現実の一つでもある。きれいごとでなく、真の意味で「厳粛さ」を感じることも、「偽」だと判断できることも、学校という集団に身を置くことで可能性は広がるはずである。そうあらねばならない。
 
 吉本氏の不登校に対するスタンス「ほおっておけばよい」も、現実を見据えているのだろうか。確かに次の言は魅力的であり、そうあるべきと私も願う。

 不登校の人も、何らかの場所に踏み出していく日がかならず来ます

 踏み出していく場所は、社会そのものかもしれない。
 しかしもはや、社会そのものが「病的」傾向が大きい今、どこにその位置があるのか。ひきこもっていれば、それは見えてくるものなのか。
 
 どこかで汗を流したり、傷ついたり、もしかすれば血を流したりしながら、手がかりや足がかりを見つけていくものではないのか、そんな気がしてならない。

 「思想界の巨人」は別にぼんやり見ているわけではないかもしれない。
 実感を大事に語っている。肯ける部分も多い。
 ただその実感は少し世間離れしていて、世間離れできない自分にとっては少し荷が重かった。

キャラがたつ教師の条件

2007年01月20日 | 読書
 家本先生は『子どもが育つ教師の言葉 30のアプローチ』(たんぽぽ出版)のまえがきに、こんな文章を残しておられる。

  教師も新卒時代に基礎・基本を身につけ、キャラがたつにつれて創造的実践を試みつつ成長するものである。

 んっ「キャラがたつ」。
 漫画やドラマの世界で使われる言葉のように思っていた。個性、性格・性質が際立つという意味でとらえてもよいだろう。
 それにしても、教育系の論文では目にしたことのない比喩表現である。

 「教師のキャラがたつ」「キャラがたっている教師」ってどういうことなんだと思ってしまった。
 全国区の実践家の顔がすぐ思い浮かぶが、身近な教員の中にもそう言えば、と思う人はいる。個性の強さが表面化している方々と言えばよいか…
 しかし、その解釈でいいものか。

 家本先生は「キャラがたつにつれて創造的実践を試みつつ」と書いている。
 これは教員であれば逆に「創造的実践を試みるにつれてキャラがたって」と言えそうな気がする。双方向の働きなのではないか、と思う。
 
 教員になる前からキャラがたっている人はもちろんいるだろう。
 しかし、ここで示されているのは「教師としてのキャラ」であり、これは基礎・基本の学びや、子どもたちとの出会い、仲間との交流、そして実践創造などそうした営みの中で作られていくのではないだろうか。

 「キャラがたつ」ということは、一つの物語を背負うという意味も込められる。きっとそのためには、ある程度の歴史や蓄積が必要ということだ。
 ただ単に個性的な言動をするから「キャラがたつ」とは言わないだろう。
 「キャラの一人歩き」との見極めをしっかりしなければならない。