すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

黒いグラウンドコートの姿が…

2024年07月30日 | 雑記帳
 四十数年前にT先生と初めて出会ったときの姿を今でも覚えている。先生は黒いグラウンドコートを着ていた。当時おそらく野球部担当で監督をしていらしたのではないか。ただその場所は、球場ではなく作文審査会をする和室であり、昭和50年代とはいえ諸氏とは異なっていた。新米の私に寄せた目つきも鋭かった。


 それから数年後、先生は私の教室にスーツを着こなした指導主事として入って来られた。たしか文法の授業であった。研究協議で「演繹法と帰納法」の用語を出して、提示した指導法について助言してくださった。その年、国語教育研究の東北大会で分科会発表者となった私の指導助言者も務めていただき、縁が深まった。


 「いいじゃないですか。これを参加者の前で堂々と語る先生の声が聞こえるようだ」と事前指導の折に励ましていただいたことも懐かしい。明朗快活に人に接するお手本を常に見せてくださった。地元での研究大会事務局でへとへとになった自分を、大会後に四次会までつき合って労わってくれた優しさも覚えている。




 思い出深い研修会がある。「詩の朗読」をテーマに今も活動している谷京子さんらを招いて実施した。その折に俳優の山谷初男氏も駆けつけてくれたことに、先生の交友関係の深さを見る思いがした。小宴では教育畑の方々とはまた異なる楽しさを感じた。山谷氏の送迎の運転手も務めたことも得難い経験の一つである。


 先生は、学校退職後にも不登校等の支援に関わる施設に務められ、お世話になった。しばらくご無沙汰をしてしまい、知らずにいたが、4年ほど闘病生活を送られていたという。「つらいとは一言も言わなかった」「120歳まで生きると笑っていた」と喪主の息子さんが語られた。ああ、T先生らしいと胸に迫る。合掌。

興行は格好よく、面白い

2024年07月29日 | 雑記帳
 名古屋場所が終わった。今場所は直接足を運んでもいるので書き留めておこう。大相撲観戦は三回目。国技館を諦めての名古屋行きだったが、今年で終わりになるという歴史ある体育館での開催も思い出になった。やはり生はいい。下衆な言葉で言えば見世物、正式には興行だから実際の目耳で感じるものはやはり強い。




 今回は「西」の真ん中の席で、仕切りや立ち合いについては見えにくい位置だった。その点の不満が残る。相撲を見続けるとその二つはポイントとして外せない。いわゆる儀式的な部分にある形式美と精神性は、実際の勝負への期待と予想を高める。テレビ観戦をする多くの高齢者にもそうした要素は多いはずである。


 人気の高い大相撲本場所には、様々な層のファンが入り、掛け声をかける。それを現場で耳にして「格好いい」響きについて考えた。酔客や集団での大声は該当しない。子どもの声援も論外だ。それは明らかに「芝居」への声かけと共通している。短く明確、もしくはリズムを持ってしこ名が叫ばれると気持ちいい。


 さて、肝心の結果は序盤を見ての予想通り、そしてある面期待した通りに横綱の優勝で終わった。琴櫻の取りこぼし(いや、それは実力であり、つまり力を発揮できない弱さということだ)がなければもっと白熱しただろうが、現段階の差がくっきり出た。隆の勝の奮起に驚きつつ、力量からは全くおかしくない流れだった。


 二力士の大関陥落、大関復帰ならずという現実は、新しい力の台頭を求めている。今年中の二場所で望みが出てくるようなら楽しい。大の里は当然にしても、小結平戸海の頑張りは、注目してみていきたい。体格、体重差を超えての戦いの面白さこそ醍醐味である。格闘技に関しては、五輪競技とは比べるべくもないと思う。

自分を信じて元気になるために

2024年07月28日 | 読書
 ミシマ社の出版物を検索、久しぶりに健康本をと思い注文したRe62『ナンバ式!元気生活』(矢野龍彦・長谷川智)。冒頭第一章のタイトルは、やや肩透かし的だ。「『健康』よりも『元気』が大事!」…しかしこれは単に語の解釈ではなく本質的な視点かもしれない。もはや通常の健康体とは言えない高齢者には響く。


 「健康にふりまわされない」というのは、なかなかの警句だ。「元気」との関係性で考えればわかる。人間関係や生活術について語っていることの肝は、「ナンバ」に見られる、無理をしない、自分の感性・感覚を信じるという点だ。自己点検して、様々な「排出」「設定」「心構え」を照らし合わせてみることにしよう。



 夫婦の脚本家ユニットの本も久しぶり。町の図書館にはなかったが隣市にあり借りてきたRe63『ぱくり ぱくられし』(木皿泉 紀伊国屋書店)。夫婦の対談(会話?)、妻の連載エッセイ、ラジオドラマ脚本で構成している。インプット担当の夫の本のチョイスと引用部分に改めて感心しきり。自分も読んだはずの一つはこれ。

 「ものごとだけでは、じきに沈んでしまう。<ことば>になることで、文章は羽根をつける。四方に飛び散っていくのだ。思考もひろいところへ出ていくのだ。読む人をうるおすものになるのだ」
 (荒川洋治『日記をつける』)

 脚本はどうも読みにくいのでほとんど飛ばした。エッセイは変な魅力が感じられる。文章の上手い下手というよりも、書き手そのものの味がダイレクトに伝わる。それは美味とは言えないが、癖が強くハマるイメージだ。何事も「やってみなければ本当のところはわからない」と開き直っている姿がゆったりしている。

文化旅というほどの…参

2024年07月24日 | 雑記帳
 三泊目のお宿は三河湾沿いの温泉地。「天空の~」という響きに誘われ、海が見える絶景を求めたのは、やはり山間地に住む者の習性のようだ。入り組んだ昔ながらの小さな温泉街だった。それでも売り物のロケーションはとてもよく満足できた。食に関してさほどの特徴はないが、「深海魚」がウリということだった。



 温泉にはいつものごとく計3回入り、十分に温まってから(笑)酷暑の地の最終日。空港までの道のりで目ぼしい所は…と探し、ミツカンミュージアムという施設を訪れたが予約制であるとのこと。ショップ利用に留めたが、結構見所はありそうだ。思わず購入したのは「納豆かまし棒」。これは毎日使えそうな一品だ。



 かなり余裕を持って空港へ向かったが、レンタカー返却場所にたどり着かず、周辺をもう一周してようやく見つける。これは老化か。注意力の衰えは確かにあるから…。ただ名古屋市内も東名高速も、見知らぬ土地の細い山道も一通りは運転できたので良し。ほっと一息。空港レストランの名古屋揚げが美味だった。




 旅のチョンボの一つは、向かってくる時の飛行機の中で開いた文庫本を機内に置き忘れたこと。時間に余裕ができた帰りの空港ロビーで代替を探そうとしたが、ショップに本はなし。空港内コンビニの一軒にかろうじて週刊誌があるくらいだ。スピード化の時代に紙版活字は添え物程度であることが、はっきりわかる。



 振り返って心に残る景色は、遠景ながら岐阜城のライトアップに月が映えていた夜。数年間で様々な変化が定着した感じがするけど、残しておきたい日本の風情は大切だ…とつらつら思い起こしながら秋田へ到着直後、高校野球県大会で金足農業の勝利を知る。そういえばちょうど六年前。あの再現があればいいなあ。

文化旅というほどの…弐

2024年07月23日 | 雑記帳
 国内で今まで宿泊していない県がいくつかあり、その一つが岐阜県。今回はそのクリアも一つねらい、当初は温泉地と考えていたが、この時期であるし「鵜飼い」に決めた。長良川沿いのホテルを予約していて、そこへの経路でどこかと思い…調べてみたら「岐阜のマチュピチュ~天空の茶畑」というのが目に入った。



 山際の細く急な道を登りつめると数台入れる駐車場があり、仮設の店舗が立てられている。案内図を見ると結構な距離があり、これは高齢者夫婦には無理だなと途中まで…「岐阜のマチュ」まで行ったことにと合意する。様々な巨石も置かれ、それなりに見応えはあった。ただしヤマヒル?なのか、右足に吸血の跡が!!


 長良川沿いの宿に着き少し休んだ後、夕食をとり、鵜飼いを見に出かける。よくTVなどで放送されるが、宮内庁職員となっている鵜匠の姿はまた一種独特である。これも地域の自然、歴史に即した文化の一つであり、川という舞台に繰り広げられる、色、動き、音、声…それらがマッチングされて実に風情がある。



 翌朝、ごくありきたりのビュッフェスタイルの朝食に、「これはうまい」という逸品があった。「小鮎の天麩羅」である。揚げたてが供されていることもあるが、この苦味はいいなあ。ビールには合うはずだが…。宿をチェックアウトして近くの鵜飼いミュージアムに入る。凝ったつくりの見せ方に感心することが多かった。



 酷夏、いっそ暑さで有名な場所を…というわけではないが、再び愛知へ向かうので多治見市に立ち寄ることにする。「モザイクタイルミュージアム」という施設に興味がわいた。外観も外国風で小さい施設ながら見所があった。体験工房も実施され、この材料なら楽しい夏休み工作ができそうと、一瞬、爺モードになる。


文化旅というほどの…壱

2024年07月22日 | 雑記帳
 飛行機に乗るのは何年振りかなあと思い起こしてみたら、2018年に中国へ出かけた時以来でもう6年が経っていた。その翌年に図書館に勤め始め、年明けにはコロナの渦に巻き込まれたから、一泊の近場温泉旅行はしていたが少しまとまった日程で遠出するのは久しぶりだ。行先は中部国際空港…プロペラ機である。



 この空路は以前も通ったが、佐渡島をはっきりと捉えたのは初めての気がする。山や川、自然の姿を鳥瞰できる素晴らしさと同時にゴルフ場など人工的な姿から感じる経済開発志向など、いろいろと考えさせられる時間だ。予定通りに到着、そして予想通りの暑さ。この期間連日35℃は軽く超え、最高値は39℃だった。



 で、何が目的かというと実は大相撲観戦である。今年こそと五月場所はチケット取得に精力を傾けたが、あっけなく撃沈。名古屋こそと臨み、ようやく手にすることが出来た。数年ぶりの場所前完売ということで会場は熱気溢れる。両脇のマス席はいずれも外国人。観光の目玉になる「文化」か。盛り上がってほしい。



 「旅」と「食」は切り離せるわけがない。相撲会場ではバカ高いビールやツマミ(推定、通常の2~5倍)を仕方なく口に入れた。しかし、夕食はなんとしてもあの名物を…ということで出かけた「ひつまぶし」の名店。ここにも外国人(アジア系が多い)が目立つ。40分待ちでありつけた、その味はお見事に尽きる。満足。



 繁華街栄のホテルに一泊。二日目からはレンタカーであちこち出向く予定である。何はともあれ名古屋の朝は「モーニング」しかないでしょ、ということで近くのそこそこ有名な喫茶に入り、注文してみた。額面は480円なりだが、売り物のウインナーコーヒーと小倉餡つきで+200円。これも「文化」ということで。



希望はどこから生まれてくるか

2024年07月15日 | 読書
 『月の満ち欠け』は実に印象深い小説だったが、それ以来書いていなかったのだろうか。図書館で見つけたRe60『冬に子供が生まれる』(佐藤正午 小学館)を読んだ。これもまた、ある意味で幻想感に包まれる作品だった。作家のこのテンポは懐かしく、最初は分かりづらく厄介な展開に思えて、後半に揺さぶられる。


 話者の正体が終盤で明確になったのは仕掛けなのか。とすれば、ほぼ同齢の元教師を設定し、どうしようもない「悲しさ」に泣き続ける場面で終えた意味はどう受け止めたらいいか。様々な記憶を持ったり、消したりするのは愚かしいことか。そんなふうに「泣く」行為で振り切れば、そこに希望は生まれるか。




 『希望学』(中公新書クラレ)に続けて読んでみたRe61『希望のつくり方』(玄田有史 岩波新書)。同時期に出版された2冊なので、当然内容は似ているがこちらの方が読みやすかった。読むきっかけが本県の新聞記事だったと書き、「希望最下位」の中味を解釈したいと考えた。自分なりには、あるエピソードに頷いた。


 米国の優良IT企業を辞めていった優秀な女性たちに、その理由を訊いたときに大きく二つに集約されたという。一つは「このまま会社で働いてとしても、先が全く見えないから」、そしてもう一つは「先が見えてしまったから」なのだ。「働く希望を失った」理由は実に対照的だが、結局将来の想像力を喚起しないことか。


 そこに本県のデータを重ねて見えることがあるかもしれない。個人レベルに留まらず、少なくとも地域社会レベルで考えてみたい。本書は最後に「希望をつくる八つのヒント」がまとめられている。八番目が「空欄」となっていて自分で見つけるように促す。これが著者の姿勢であり、最終的な結論だ。共感できる。


盆地男、「海」を語る

2024年07月13日 | 絵本
 今月の学校読み聞かせは2校で、5年生そして高学年(5,6年)だった。期日も近いので同じラインナップにした。季節に合わせ、来週月曜は「海の日」ということでテーマは「海」。盆地に住んでいるので、「海の近くに住んでみたいなと思っている人はいないかな」と問いかけてみた。そしたら、意外にもほんの一握り。


 「どうして?」と訊くと「津波が怖い」という声が…。気持ちはわかるが、ちょっと複雑だ。軽く受け流し、さっそく一冊目を読む。これは「お誕生月おめでとう」と添えられている絵本シリーズであり、7月は『うみ』(文・中川ひろたか 絵・はたこうしろう)。「おかあさんの おなか」と切り出す詩的な文章である。



 「海」という漢字、フランス語で海と母は同じ言い方をすることなどが記されて、後半は少年が海へ入り、ぷわりと浮かんでお日様に話しかける場面で括る。実に雰囲気のある話だった。これは低学年から中学生まで、その段階に応じた受け止め方をしてくれるのではないかな。このお誕生月シリーズは、いい企画だな。



 二冊目は『海は広いね、おじいちゃん』(五味太郎)。これは絵本ナビで見つけて、思わず中古本を買ってしまった。結局到着が間に合わないと察して、隣市図書館から借りてきたが…。五味らしいユーモアにあふれている。こども園でも読めそうな一冊だが、ちょっとした仕掛けもあり、その点を触れると反応もよかった。




 最後は『海のおっちゃんになったぼく』。これは一昨年に読んだお気に入りの一冊だ。これは一種のファンタジーで、内容からすると、やはり高学年に合っていたようだ。関西弁の語りは自己流だが、これも一つのハードルだろう。「海」であれ「関西弁」であれ、どちらからも遠く離れた盆地男には、良き負荷になる。


「実現可能性」だけでは語れない

2024年07月11日 | 読書
 Re58『闘え!ミス・パーフェクト』(横関大 幻冬舎)。『ミス・パーフェクトが行く!』を一昨年読んで、それなりのエンタメ感を味わえたので続編も読む。総理の隠し子という元女性キャリア官僚が、次々と難問を解決していく設定。今回は冒頭の第一問が「限界集落である某村を活性化させなさい」。これは…切実な現実(笑)。


 本編通りに、もはや「集落」ではなく「限界自治体」である。結末は、自然を活かす大胆な事業提案それは高齢者の雇用も促し、なるほどと思うが、誰しも感じるように要は大胆な行動力。TVドラマ「ナポレオンの村」を彷彿させたが、それを夢物語としないための二の手、三の手を、「現実」が作り出さねばならない




 先月3日の朝刊一面の「『希望』最下位、どうする秋田」という大見出しが頭に残っていたので、関連の新書を読んでみた。Re59『希望学』(玄田有史 中公新書クラレ)。もやもやした気持ちで読み始めながら、まず当たり前のことに気づかされた一節がある。「希望とは、文字通りに読めば、希にしか叶わない望みである


 日常的に使う語とはニュアンスが違う気がする。従って、ずいぶんと幅、範囲が広いと言ってよい。つまり個人的感覚に差があるわけだが、学問とするからには「言語化」「類型化」が必要で、その点が興味深い。類型化の切り口として、著者は「実現可能性」と「個人の考えや行動への影響」の二つを挙げる。頷ける。


 ある事柄に対して実現する可能性が高いかどうか(その程度をどこに置くかを含めて)。そして、伴う動きをどのような手順、頻度で行い、結果をどう受け止めるか。その分析を行うことで、個人の私的事項から組織や団体の動静などが改善できるのではないか。そう思わせる。6章、7章の対談が面白くわかりやすい。

くだらなさ。まだ完結せず、

2024年07月06日 | 雑記帳
 ハラスメントの最高峰(笑)は「ハラハラ」(正当な行為に対して「ハラスメントだ」と主張する嫌がらせ行為)だと思ったからだろうか、他の様々な語も一般的用語になってしまい、最近はあまり関心がなかった。しかし「マルハラ」(LINEやチャットで句読点を使う相手に恐怖を感じる現象)という語には、さすがに唸った。





 句点という「文の終わりを示す用法」にも文句がつけられるのか…絵文字やスタンプなどの表現が持つ緩さが蔓延して、普通の正しい用法は堅苦しさが強調されるということか。考えてみれば全て人間の生み出したルールだから、それが時代に添わなくなるのはやむを得ないというべきか。いや、句点も表現の一つか。


 芸名では「モーニング娘。」が有名だし、「キンタロー。」「ゲスの極み乙女。」などもあった。そういえば「藤岡弘、」の読点の意図は「我はまだ完結せず」らしい。そう考えると句点をつけるコミュニケーションは「そこで終わるんですか、まだでしょ」という未来志向に反するので×と捉えられそう、いかにもこじ付け。


 ところで、秋田県警が警官の一部にサングラス使用を認めたニュースが数日前流れた。そうかあ、警察官がサングラスをかけるのは禁止だったんだあ、舘ひろし、かなりヤバいよねえ。あっ警視庁は違うのかあ。最近じゃ、キムタク主演ドラマで捜査一課の竹内涼真が掛けていたしねえ、などとクダラナイ妄想していたら…


 偉い役職の方が「けして威圧感を与えるということなく…」と弁解めいたことを喋りはじめた。そうか威圧感や権威などというものは全く嫌われており、とにかく打ち消しに一生懸命らしい。いつもどこでも優しく、柔らかい空気に包まれて安心安全か。そうだよねえ…でも本当に怖いのはそんな世の中じゃないのか、