すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

すべてはフローという覚悟

2008年08月31日 | 雑記帳
 最近、「ストック」と「フロー」という言葉が頭から離れない。
 詩人谷川俊太郎が、ある雑誌のインタビューの中でこんなことを言っている。

 インタビュアーが「ネット上にこれだけ言葉が氾濫しているんで、言語を商売とする者たるやストックを目指さないとダメなんでしょうか」と問うたときである。

 いや、目指してもダメだと思います。全部フローになると思います。

 経済学用語だと思うが、自分の中では単純に「ストック=ためる、たまる」「フロー=流れる」といったイメージでとらえていた。
 その意味でネットであれば、ホームページはストック的な意味づけであり、ブログはフローとして考えていたのだと思う。ホームページにアップしたものは整理の苦手な自分にとっては引き出し的に活用もできていた。
 しかしそういう現実的な面も少し高みで見れば、まさしくフローでしかあり得ないことに、今さらながらに気づかされる。

 日本を代表する詩人さえ、こんなことを書いている。

 そのフローの中でたとえ一瞬であれ、あるいは3日であれ、人にある程度何かを提供できるものを作ろうという感じですよね

 すべてはフローという覚悟。
 私ごときがそんな大袈裟なことを言っても仕方ないのだが、それなりの潔さは持ち合わせていたい。

 さてネット環境を変更したことがあって、8年維持してきたホームページがおそらく明日から使えなくなる。アドレス移動もうまくいかないので、少しの間は閉鎖か。いい機会なのでリニューアルもしたい…と少しストック的な未練を残しているところが、いかにも自分らしい。

語り合いへの成長ということ

2008年08月29日 | 読書
 『子どもが語り合い、聴き合う国語の授業』(佐藤康子・大内善一著 明治図書)
 夏休み中に聴いた講話を思い出しながら読み終えた。
 聞き耳メモという形で三点にしぼった感想を記したが、それ以外にも大いに頷けることがたくさんある。その中でも以前国語教育誌に紹介された点が特に共感できる。以前も書いたことがあった
 著書の中で、「語り合い」を目指すステップの重要なポイントとされている箇所である。

 前置きの言葉を使って話す

 「比べて」「でもね」「例えばね」「似ていて」「付け足して」などの言葉を、言って挙手させるという約束をしているという。この前置きは思考のためのスキルであり、「考える武器」である。
 他人の話を聴くためのポイントになっていて、そうした場を繰り返し経験することで鍛えられるものは多い。しかも国語に限らず全教科・領域に場が設定される。それをどの程度徹底できるかが、力量といえる。
 そして、それはこんなふうに進んでいくという。

 前置きの言葉を使った「話し合い」は、次第に影を潜めていきます。「語り合い」に成長していくのです。

 考える武器が内面化していく姿とも言えるだろう。きっと教えられたパターンはもっと多面的になり、幅を持って他者の語りに自然に反応していける子どもが出てくる。
 もちろん個人差はあるのだろうが、自然に周囲の子どもたちが言葉を補ってあげたりする様子に、学級全体の成長が見てとれる。素晴らしい。

 今は大人になった当時の子どもたちの感想が、終章にほん一言二言書かれてある。そこにある「結束力」「励まし合えた」という言葉は、重みを持ってこの著書を締めている。

モンスター化への対策は

2008年08月26日 | 読書
 『あなたの隣の<モンスター>』(齋藤孝著 NHK出版)
 するりと読めた。
 この本は「モンスターペアレンツ」や「モンスターペイシェント」について解説している本ではない。

 「あなたの内なるモンスター」に気づいてほしい
 社会全体の「モンスター化」を受け止めて対策をとろう
 

という立ち位置で書かれている。
 状況の分析そのものに特に目新しい視点はないように感じたが、独特の身体論をもとにした「対策」については具体的に語らない研究者、評論家が多いなかで、やはり目をひく。
 大きく二つの方策を提示していると思う。

 一つは、学校教育の中にどんなプログラムを取り入れるべきか
 もう一つは、モンスター処理についての専門的な人材の活用

 特に前者に注目したい。
 以前から齋藤氏が提唱している「身体性」の重視ということだが、具体的に挙げてみると一線で活躍している教育実践者と共通点があることにも気づく。

 授業中の呼吸法
 演劇的音読の効用
 自分と考えのちがうもの(本)の読書
 宮沢賢治をひたすら読ませる

 物事に対してじっくりと取り組み、生産的な態度で社会へ参画していけるために、どういう点をポイントにすべきか、学校現場で明確に絞りこんでいく時期だと思う。
 新学習指導要領を、様々なあれもこれもと捉えてしまうことは避けなければならない。

中庸の否定の否定

2008年08月25日 | 読書
 『人間集団における人望の研究』(山本七平 祥伝社黄金文庫)
 この文庫本に懐かしい名称が載っている。

 革自連

 単行本の発刊が昭和58年であるから、なるほどである。
 もちろんその団体に入っていたわけではないが、支持?はしていた。
 学生だった頃から雑誌「話の特集」を愛読していた自分にとっては、その時期の一つの指針のようにも思えたからである。

 この本では革自連のゴタゴタを巡る批判が具体例として出され、「徳」「人望」ということが語られる。そのいちいちを理解できたわけではないが、ふりかえると結局自分に足りなかったのは何だったか、などということまで思いが及んだ。

 この本のキーワードの一つとも言えるだろう。

 中庸

 若い頃、「革自連」に心がときめいていた頃、そしてそれから結構しばらくの間…この言葉は受け入れがたかった。それは妥協の産物であり、事なかれ主義であり、と心の中で声を荒げていたと思う。
 しかし当時の自分は、今二つの面で真っ向から否定される。

 一つは中庸という言葉そのものの意味の捉えを誤っていること。
 もう一つは、中庸の持つ強さに気づいていないこと。

 いくらか見えてきたとはいえ、この本に書かれている人望のための不可欠の条件「九徳」には程遠い道を歩んでいる。
 たまにはその徳のあり方に思いを寄せて、一時でも中庸の道を歩いてみたいものだ。とりあえずは、その(七)を目指して。

 簡にして廉


battleにおける責任と権限

2008年08月24日 | 読書
 堀裕嗣先生からメールで薦められた『内側から見た自衛隊』(松島悠佐著 幻冬舎文庫)を読んだ。

 自衛隊の内部のことは、作家浅田次郎のエッセイなどで少し読んだことがあるが、この本は元総監によるものだ。私たちがふだん知りえないこと(明らかにされていないことと言ったほうがいいか)がたくさんあり、実に興味深かった。愚痴っぽい論調になっているところもあるが、冷静に考えて頷ける箇所も多かった。

 飛ばない弾丸

 文中にある言葉で、自衛隊の現状を比喩的に表わせば、上の表現がぴったりだ。
演習場の狭さ、周辺への被害防止のため、開発されたこの「飛ばない弾丸」に、日本の技術力の高さを見るし、同時に悲哀も感じる。
 私にはそれが自衛隊そのものを象徴しているような気がしてならない。

 さて、第一章の第一項には次の表題がある。

 大きすぎる責任と不十分な権限

 これは、そのまま学校現場にもあてはまりそうな言葉である。
 ただ、どの程度具体的に「責任」と「権限」について語れるだろうかと自問したとき、安易に話を進めてはいけない。

 品川区教育長の若月秀夫氏はかつて「私たちはwar、彼ら(教員)はbattleをしている」と表現したことがあった。
 そのどちらにも確かに向かう相手はいるのだが、battle組は自らの権限が制約を受ける中で、責任もまた萎ませているような現状がないか。相手に対する「武器使用制限」「手続きだらけの規定」が多く、緩んだ戦いに疲れきっているのではないか。そんな不安もよぎる。

 火曜日から二学期。
 battleがまた始まるが、自分に何が可能か改めて考えてみたいと思った。

夏の聞き耳メモ…8

2008年08月21日 | 雑記帳
 『近代日本の文化と秋田県人の気概』と題した講演を聴いた。
 講師は高橋秀晴氏(秋田県立大学教授)である。
 近代文学には正直あまり興味がないのだが、話の中心となった内容については心惹かれた。
 
 佐藤義亮

 その名や存在については、全く知らなかった。
 文庫や新書でずいぶんとお世話になっている?新潮社の創立者が本県出身とは少し驚きだった。

 高橋氏の語る数々のエピソードは、まさに「気概」に満ちた人生だった。
 戦時中でも文学の出版にこだわり続けたその強い意志と発想。独占契約をした有島武郎に対して、自社の利益など省みず「友情を大切に」と契約解除をすんなりと受け入れる度量の広さ…

 その佐藤義亮の気概は、次の言葉によく表れていると思う。
 それは「新潮社の社則三か条」の冒頭にある。

 一、良心に背く出版は、殺されてもせぬ事

 新潮社を巡るトラブルもかつてあったが(今もあるのだろうが)、社員は皆この社則を肝に銘じています、よね。 

善導への道

2008年08月19日 | 読書
小さなことの正しい善導が継続し、蓄積されることによって、徐々に健全な常識が回復していくことになるのです。
 
『子供の発信 親の決断』(野口芳宏著 モラロジー研究所)

 冊子連載シリーズの2冊目である。
 この本にも数々のエピソードが収められている。戦時中の話題もいくつかあり、改めて人間にとっての幸せとは何か、としみじみ考えさせられることも多かった。
 あとがきに記された上記の文章は、ごくありきたりのことを書いているようで、実はとても難しい現実がある。

 野口芳宏ファンであるならば知っている方が多いだろう「割れたガラスの弁償」のことや「集金方法の変更への苦情」のことなど、「善導」と呼ぶに値する対応が教師である自分にできるか、と問われれば甚だ自信がない。

 ただいつも肝心なのは、問題への正対である。
 そして、その分析であり、問題に関わる人々の意識の想像であり、具体的な提示である。
 正直、善導とよべる決断ができないと思っても、ではどこまでが可能かと考えること、違った手立てはないものかと頭をひねること…あきらめないで、疲れないで、向き合っていきたい。

目的地へ行くための目標値

2008年08月18日 | 読書
 かつて「必達目標」を掲げる学校経営に取り組んだ吉永順一氏はこう書いた。

 数字の良さは解釈が一つしかないことである。 

 目標に数値を入れて文章化する難しさはあるが、同時に経営や実践の評価として大きな有効性を示していると私はとらえた。
 いくつかアプローチを試みているが、正直徹底できていないもどかしさを感じている。これはやはり自分自身の経験や勉強の浅さに起因しているのだろうと思う。

 注文して書棚に横になっていたままの『数値目標が学校を変える』(小堀道和著 学事出版)を今日読み終えた。

 民間人校長と言えば、中学校・高校のみがクローズアップされていたが、ようやく小学校校長職の書籍が出た。
 第一章のテーマは「給食」であり、体制・運営に大きな違いがあるので直接的に参考になるとは言い難いが、そこに表れている精神については共感を覚えた。
 それは、常に「できない理由を考える」ような文化からの脱却であり、「どうすればできるかを考える」意識の向上へネジを巻きなおしてみることであった。

 目的と目標の違い

 この点についても改めて認識させられた。「目的地」と「目標値」という言い方の違いがわかりやすい。そして目標の項目を「結果系」と「要因系」に区別し、

 学校文化は意欲向上という面を考慮すると要因系が特に大切かつ重要である

という指摘にも納得した。

 何が結果で何が要因かをあまり明確にしていないのが学校教育の場である。例えばテスト点数を取り上げてもどちらと捉えるか見解に相違があるだろう。
 しかしそれを乗り越えて、「教育はすぐには結果が見えないものだから」といった言い方に甘えないで、「目的地」を定めそのために必要な「目標値」を設定してみる…それが自分自身の求める「結果」につながるのだと思う。

夏の聞き耳メモ…7

2008年08月15日 | 雑記帳
 ネットワーク集会の感想…その3、最後。

 最終講座は「フィンランド教育に学ぶ対話型授業」。講師は、かの北川達夫氏(日本教育大学院教授)である。
 「疑問1 フィンランドは本当に学力世界一」から始まり「対話教育の必要性」に終わる、プレゼン資料を使った理路整然とした講座だった。

 「教育」の比較は難しい

 これが話の前提にある。しかしその点を越えて、今なぜ「フィンランド教育」に学ぶ必要性があるかを、ご自身の経験や情勢の的確な把握を元に展開しておられた。特に後半に提示された点が心に残る。

 無意識のバイアスからの脱出

 情報が大量に流通している現況、そしてとかく軽薄に様々なものから影響を受けやすい自分にとって、肝に銘じなければならない言葉だ。

 ところで、「対話型授業」とは何か。
「教育科学 国語教育」の臨時増刊号に、大内善一先生が次のように書いている。

 「対話」は話し合いの<形態>ではない
 
 「対話ブーム」とまではいっていない気がするが、新学習指導要領の中に文言が示されたことで注目度は高まっている。どういう形で教育現場の中に位置づけられるか、注視しなくてはいけない。
 
 今回のネットワーク集会でも、多くの講座に「対話者」が位置づけられていた。その意図と結果がどうだったか検証も必要だろうが、北川氏の講演が、現在、教育における「対話」を考えていくうえで貴重な内容であったことには間違いない。
 北川氏が言う「対話」の位置づけは、「討論」「対話」「会話」と並べたところである程度把握できる。そして、こんなこともおっしゃっていた。

 対話はスキルだが、発想の部分が大きい

 つまり、学習活動としての対話にはスタイルやポイントがあるのだが、それ以上に多様な価値観を認める、「教養主義的発想」にとらわれない、といった姿勢こそが大きいということだろう。
 その点では、大内善一先生がおっしゃることと重なっていて、「対話的姿勢」「対話的能力」という使い方こそその精神に合致すると考えられる。

 とは言っても、そうした力や資質を養うための形は必要だ。
 フィンランドの国語教科書に多く見られる「単元最後の集団活動による表現」が、いい例とも言えるかもしれない。そこでは、互いに考えをすり合わせていくことはもちろん、仮に自分の考えに合わなくても作り上げてアウトプットすることが優先される。やはりそうした具体的な営みを通じて身につくものだろう。
 こうした例をもっと豊富に持つ必要がある。

 ただ、北川氏が最後に話した一言は、警句として心に残る。

 あせっちゃいかん、対話というのは

 じっくり「自己と対話」しながら進めましょう、ということですね。

夏の聞き耳メモ…6

2008年08月14日 | 雑記帳
 ネットワーク集会の感想…その2

 楽しみにしていたMini-1グランプリ。
 見事に「王者」となった中嶋さんの授業には恐れ入った。
 わずか5分間(決勝も含め2回)であったが、並々ならぬ実力を感じさせる内容だった。
 審査員でもあった上條先生が、講評として分析していたが、その一点目に挙げた「話す力」が特に他を圧倒していたと思う。他の授業者も多くの工夫がなされていたが、聞き手の内面に迫る言葉の選び方、トーン、タイミングが絶妙であり、これは多くの聴衆が納得しところではないか。
 ネタや奇抜さで惹き付けることも大事だが、それを越えた言語技術力が授業を支えるということの証明でもあったか。

 両日にあった分科会(レポート検討、ワークショップ)は、自分にとって今まであまり勉強が進んでいないと感じているところを選択した。一つは「グループ学習」であり、もう一つは「学び合い」である。

 「安心を生むグループ学習」で示された二つのレポートは、内容的に何か新しいことがあったかと言えば残念ながらそれはない。
 しかしコメンテーターであった石川晋先生の話から改めて認識できたことは大きい。つまり、レポートの書き方が、その人の授業観や児童観そして授業者としての強み弱みを明確に示すことがあるという事実だ。
 何を選択し何を取捨するか、どう組み合わせるか…書き続け、検討の場を持つことで授業力が鍛えられる。北海道の先生方は実にいい関係を築いておられると思った。

 「『学び合い』授業、最初の一歩」。以前、西川純先生と数回メールのやりとりをした経緯もあり、実際に体験的活動をしてみたいと思った。阿部隆幸先生の説明や進め方も実にわかりやすくスムーズで、ある程度知識は深められたと思う。
 提案された形式はある程度限定的でありながら、発展性を備えている。特に最後の質疑応答で、実際に運用していくためのあれこれが語られたことが参考になった。
 この考えと実践をどう導入するかまだ考えあぐねているが、子ども同士による学び合いが無益と考える教師はいないはずだし、どこかで何かでという思いが少し前進したことは確かだ。

 二日目午後の「お笑いが教室を変える!」…どちらかと言えばパフォーマンス型の教師であった自分としては、もう少し遅く産まれていれば…という思いが心をかすめた。見方によっては品がなく映ることもあるが、そんな個性も発揮できる学校のあり方は自分も求めている。
 信念を持ち子どもと向き合うことが土台となっていれば、様々な方法があっていいし、そうした幅の広さを今学校は持つべきだと考えている。