すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

空を見上げた日に

2010年04月30日 | 雑記帳
 こんなに何度も空を見上げた日が今まであっただろうか、そんなふうに振り返ることに出来る一日だった。
 
 昨日は運動会。
 天気予報では朝のうちは曇りだが、昼前から雨しかも雷雨の可能性もあるという。
 数日前からそうした予報が気になり、職場での話題もそんなことばかりであった。
 学校に勤める者であれば、その雰囲気は十分に分かるだろう。

 当日の朝早くから、ネットの「雨雲ズームレーダー」で雲の流れなども飽きるほど見続けた。保護者の中にも関係機関の方がいらして詳細な情報を送っていただいた。
 総合してみれば、室内でやれる広い町体育館を確保してあるのでそちらで行うことがベターかと思われたが、やはり曇りではあるが時々日が射したりしている状況では、「花火」(外でやりますよという合図)を上げざるを得ないだろう。

 6時ジャスト。
 ドーンと打ち上げてもらう。遠方からも小さく聞こえてくる同じような花火の爆音。きっと近隣の職員室でも多少悩みながら決断したことと思う。その後に問い合わせの電話も鳴った。
 子どもたちが登校してくるまで、職員室の窓から何度となくちらちらと雲を見ていたように思う。

 8時50分、入場行進開始。開会式をしている途中で小さい雨粒が落ちた気がするが、雲はまだ明るい。
 しかし、西の遠くの空には暗い雲があるようで、その流れが気になって、本当に何度も何度も空を見上げた半日であった。

 結果、徒競争や応援合戦、リレーなどの得点種目は少しも降られることなく終了。昼間際に小雨を感じたときは、PTA種目が始まるところまでこぎつけ、昼食をはさんで屋内での遊走に切り換えることができた。
 終了は予定通りに3時過ぎ。ほっとした瞬間だった。
 風が強くて気温も上がらなかったが、運動会は外でやるという基本?が貫けたことが何より嬉しい。
 
 今回、改めて感じたことがある。
 天気予報は昔からあったが、ネットの発達などによってより広範囲により詳細にお天気の情報を、多くの人が持つようになった。詳細な情報が共有されているといってもよい。

 判断が難しい場合がある。そんな場合に実施形態を決めていくということは、また別の根拠をしっかりと持っていなければならないだろう。
 天気の可能性だけで論じては駄目だ。どんなふうに決めても100%賛同得られることは少ないものだ。

 判断のための情報を持つことは大切だが、何のためにやろうとしているかまでぶれてはいけない。

 風が強いからこそ子どもたちのたくましさもまた見えてくる。
 http://miwasho.blog68.fc2.com/

「撮る」を続けていきたい

2010年04月28日 | 雑記帳
 しばらく更新できなかったフォトのページ。

 五ヶ月ぶりのアップをした。↓
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-710b.html

 冬にあまり撮れなかったのは環境の変化だろうなと思う。
 勤務校周辺の自然環境に違いが出たことかな。
 
 また学校ブログ↓も継続していて、自分の中で「子どものいる風景」の方に偏ってしまった。
 http://miwasho.blog68.fc2.com/

 身近にある生物や静物、小さなものがテーマの写真集も、「撮る」という行動を続けていきたいと思っている自分には大切なものだ。

 まあ、ちまちまとやっていきたい。

 ちなみに、上のhttp://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-710b.html
は今の写真でなく、3月、自分の誕生日の日の桜である。たまたま東京に行く機会があって、そこで撮った「オオヒガンサクラ」。

 今年は、何年かぶりにサクラを追ってみようかと思っている。
 

免許状はどこで眠る

2010年04月27日 | 雑記帳
 必要があって(本当に必要なのか?政治に振り回されているようなものだが)教員免許状探しをしたのだが見つからない。
 物を捨てられない性質(たち)なので、必ずどこかにあるはずと書棚という書棚を引っかき回してみたけれど、やはりどこか知らない場所に眠っているのだろう。

 引っ越しも結構していることなので仕方ないかとあきらめモードに入った、そんなとき…ふと目に入ってくるのは、埃をかぶったような「遺物たち」。

 まず、「77.12.06」という日付の入ったポスター。
 「MIDNIGHT BLUES-CONCERT」と大きいデザイン文字に、陰影画法とでも言うのだろうか、三人の男が描かれている。その真ん中にいるのが自分だ。
 医師会館小ホールが会場、参加料400円。当時の素人大学生だったらそんなものだろうか。いくらか記憶があって甦る。

 次に当時のフォークソンググループ「ディランⅡ」の曲の歌詞についての論評らしきもの。
 「詩と音楽」というゼミに参加していたので、そのレポートだと思う。音楽科教授の研究室に異分子のように紛れ込んだ自分を思い出す。海辺にある合宿所で何も知らないままに、観念だけで喋りとおしたような日々があったことは覚えている。

 ミニコミ誌というのだろうか、当時の仙台でのタウン誌のはしりでもあったはずだがその冊子が創刊号から三冊ある。
 その三冊目に、恥ずかしながら自分の詩が載っているのだ。ちなみに創刊号に書いているのは「伊奈かっぺい」だった。その詩も、イメージだけで書きなぐった賢治への憧れのような駄作だ。
 
 ぼろぼろのノートには、訳のわからない言葉が綴られている。くだらないけれども愛着も湧いてくる。

 費やした時間からすれば、明らかにこれらが、俺の免許状だな。

 見つからない免許状は、やはり見つからない程度のものだ。

 などと、格好つけている場合かよっ。どうしたものか。

特別な場を取り戻す

2010年04月26日 | 雑記帳
 予備校は受験のためにある。
 職業高校も特定の職業に向けて有利な能力の育成に励むことは言うまでもない。
 まあ普通高校であっても大学進学率が半分ともなれば、そこで行われることはかなり狙いすまされた内容であることは否めない。

 だからそれらは結局のところ「意図的な人材育成」というように括ってもいいのかもしれない。
 しかし、それが義務教育段階の小・中学校まで拡げていいものか、ということがどうしても頭から離れない。

 県の施策はそういう構えで動いている。高齢化、少子化の進行そして人口減少率の高さにどう対応していくかと突きつけられれば、口を閉ざさざるをえないわけだが…。

 このもどかしさを、内田樹教授なら喝破してくれそうな気がする。

 『総合教育技術』5月号の巻頭の文章に勇気づけられた。

 学校は、いまの社会システムを分析し正面から対峙できる知力をつけるところです。

 社会システムに組み込まれるだけの人では駄目なのだ。かといって、適応できないようなヤワな子や頑な子をイメージしているわけではない。

 自分の力でそこそこ戦えるところまで育ててから送り出す

 ああ、これだ。年齢による違いはあれ、その時点で「そこそこ戦えるところまで育て」ること。これが私たちの仕事である。
 今、肝心なのは振り回されないこと。状況を見据えつつ自立のためにできることを粛々としなければ。
 数値化しやすい、見えやすいものだけに目を奪われず、子どもをしっかりと見据えることだ。

 学校の中に、先生や親が社会で流通している価値観をとりこむのは、だから間違っているんです。
 
 学校は特別な場であることを取り戻さなければ。

求めるもので距離が違う?

2010年04月25日 | 読書
 先週読んだ『叱る技術』(上條晴夫著 学陽書房)の中の第1章「叱る技術」のトップにあるのが、「距離をとってから叱る」。

 かつて、上條先生を招いてお話を聴いたとき、それから児童対象の授業をしていただいたときも、「距離感」という点が強く印象に残っている。

 メモ程度であるが、こんなふうに書き残している。↓
 http://homepage3.nifty.com/spring21/CCP028.html

 叱るという特定の時だけでなく、考えや思いを伝える場合に、距離をどうとるかは大きなポイントになってくるのだろう。

 私にはそのことを強く意識した記憶も記録もないので、自分なりに想像してみるだけだが…
 単純に考えると、距離が近い方が音量、表情ともに大きく感じられ迫力があるはずなのに、ある程度の距離をとった方がより強く印象づけられる場合がある。これは表現効果ということなのだろうか。
 
 いや、これはもしかしたら、自分の言葉を伝えたい届けたいというより、対象から何を引き出したいかによって変わるものではないだろうか…ふとそんな仮説を立ててみる。
 
 つまり、深い思慮、反省、論理的な考えなどを求めたいときは、ある程度距離があった方がいい。
 逆に、同意、同調など個人的、恣意的な返答を期待したいときは、すりよっていった方がいい。

 大雑把すぎる暴論か。

 エドワード・ホールという学者の言っている「密接距離」「個体距離」「社会距離」という区分とも関連がありそうに思う。
 単に密接距離だと表情がゆがんでみえ、正しく伝わりにくいので、論理的な思考等に向かないだけなのかもしれない。

 ちょっと観察してみたい。

チカラのミカタ

2010年04月24日 | 雑記帳
 「みんなのチカラ ひとりのチカラ」
 
 20年度、前任校で掲げたスローガンだった。
 なぜカタカナを使ったか、当時の文書にこんなふうに書いていた。

 「力」を強調するためにカタカナを使用した。「力」は肉体の働き、気力、能力、努力、しるし、エネルギー等々さまざまな語意のある言葉であり、諸活動に対応した意味づけができる。 

 カタカナ書きということで、思い浮かぶのは「ヒロシマ」。
 なぜ広島でなくヒロシマなのか。この理由は想像しやすい。
 
 もう一つ、「ゴミ」。
 これは以前別ブログにも書いたことがあるのだが、今はなき名雑誌?『ダカーポ』の金田一秀穂氏による連載のなかの文にあった。
 なぜ「ゴミ」と書く(そういう表記が多い)のか。

 かいつまんで言うと、金田一氏は強調ではないという。
 ゴミと書く漢字はすべて当て字であり、ひらがなだと語の区切りをはっきりしないという点が生ずるためであると説明する。
 そして、もう一つの理由として、ゴミが口語的なことを挙げている。

 別に「チカラ」という表記は一般的ではないので、それが当てはまるわけではないが、口語的であるとは言えるかもしれない。
 「チカラがほしい」「そんなチカラ出せないよ」「チカラをかしてください」…それだけ生活に密着した言葉だから、音声言語優先でカタカナでもいいかと考えてしまう。
 でも結局「力」という漢字がすぐに思い浮かぶので、カタカナに流れてしまうことはないのか。

 三月に創刊された『教師のチカラ』(日本標準)の編集後記に、杉渕鐵良氏がこんなことを書いてある。

 力がカタカナになっています。いろいろな含みがあるのです。
 知から 智から 血から、治から
 エネルギー、オーラ、人間性。いろいろな含みがあります。
 
 そう考えるとカタカナ書きしかないだろうなと思わされる。
 「教師の知から」や「教師の治から」はなかなか考えが広がりそうなイメージが湧く。

 しかし、間違っても「教師の遅から」や「教師の痴から」は避けなければなりませんね。

おはようございますの導入

2010年04月23日 | 雑記帳
 『おはようございます!』

 「おはようございます。」
 まだ目覚めていない声だ。

 『ちょっと元気がないなあ、もう一度。おはようございます!』

 「おはようございます!」
 声は出てきたが、ちょっとそろわない。

 『んんんっ、85点!じゃあ、先生の言う通りにやってみて。…お、はようございます!』

 「お、はようございます。」
 とたんに、にこにこ顔になる。

 『おは、よう、ござ、います!』

 「おは、よう、ござ、います!」
 のってきた。

 『おは、よう、ござ、いま、すう!』

 「おは、よう、ござ、いま、すう!」
 のりのり。

 元にもどって、はっきりと言う。
 『おはようございます!』

 「おはようございます!」
 だいぶ声も揃ってきた。

 『よし、すばらしい!99点!』

 そして、黒板に向かって書き始める。
 『にほんご』(福音館書店)にある、あの有名な一節だ

 ひとの「おはよう」と
 おうむの「おはよう」は
 おんなじかな?
 ちがうかな?
 

 少しの間の沈黙。
 『同じだと思う人?』
 挙手を促す。三人。
 『ちがうと思う人?』
 大勢の手が挙がる。

 『じゃあ、どこがちがうのかな?』
 全体を見まわしてみる。


 ・・・・ここで終わった今朝の夢でした。

 確かにそこは教室だった。
 しかし今思うと、これは20年前に山の小さな学校で全校集会に話したことに思えてきた。

浅瀬を渡るリアリズムか

2010年04月21日 | 雑記帳
 教育雑誌にじっくりと目を通すゆとりがなかったので、今頃になって4月号(もう5月号も出ているのに)の中味をめくったりしている。

 『総合教育技術』(小学館)には、野口芳宏先生の連載があるのだが、それまで読んでいなかったのだから、よほどぼやっとしていることがわかる。

 教師人生を楽しむと題された連載。ファンを自称する者としては幾度となく拝聴している内容であるが、活字になるとまた印象が違い新鮮に思えてくる。
 4月号の初回は「民間研究団体に属するススメ」である。まとめとして先生は、次の四つを提示しておられた。

 ①属する
 ②出かける
 ③問う
 ④まとめる
 
 だいぶ億劫になってきている自分を感じる。
 けれど、老体に鞭打っているので(そんなことでは師匠に笑われるが)「属し、出かける」まではまずまずの及第点ではないか。

 肝心なのは「問う」ということだ。
 これは最近とみに落ちているかもしれない。
 賢くなったわけでもないのに、知識的なことは増えているものだから「あれもあり、これもあり」「あれもよし、これもよし」という「甘からず、苦からず…なので美味からず」という状態になっているのではないか。

 様々な論を知って、情報を得て、ある程度テーマについて語れるようになっても、本当に良いと考えているか、したいのか…という根幹のところが弱くなっている。

 ふと浮かんだ警句…「浅瀬を渡るリアリズム」 …最近これもどこかで見たなあ。
 そんな歩き方ばかりではつまらないだろう、と問いかけてはみるのだが。

声は鍛えられてきたか

2010年04月20日 | 読書
 かなり前のことである。
 地方のある首長の演説を聞いたことがあった。
 低く落ちついた声で始まったその話は、徐々に(本当に知らず知らずのうちに)高く強い声になり、叫ぶような調子で締めくくりとなった。聴衆はそれにつられた様に熱い拍手を送ることになった。

 はああ政治家という人種の語り方とはこんなふうなものか、と感心した記憶がある。
 その後、数多くはないがそんな機会に同じようなことを感じたものである。
 弁論技術としてはポピュラーだと思うが、実際にそうしたことを「習った」経験はないので、新鮮に感じたのだろう。

 『「声」の秘密』(アン・カープ著 梶山あゆみ訳 草思社)は読み応えのある本だった。
 「声の生態」「声を支配するもの」「声の温故知新」という全三部、16章の構成で、言語学や心理学はもちろん人類学、ジェンダーや文化面など非常に多くの視点から「声」が語られている。
 容量の少ない頭脳ではそんなに消化できたとは思わないが、多面的な切り口は興味深く、気持ちをそらさず読み進めることができた。

 声が素晴らしい道具であることは誰しも認めるだろう。
 そして、文字・映像文化の圧倒的な進歩によって視覚優先の世界になっている現状であることもわかる。
 そういう認識をもとに、声の重要性がどんな意味を持つか、意味づけもってどんなコミュニケーションが可能なのか…。

 声は誰のものか 

 著者が終章でこう問いかける。
 ここには、明らかに「声と体が切り離され」る現代社会への危機がある。
 それはネット社会の進展に伴う「装置」が拡大していることが主たる要件だが、身近なことでいえば、声を指導する教育の形骸化も指摘されているようでぎくりとした。

 政治家のようにとは言わないが、教師は声を使いこなすことが出来ているのかという問いかけ、そして「声を鍛える」というテーマにどう向かうか…考えることはいっぱいだ。

週末読書のメモ

2010年04月19日 | 読書
 金曜の夜に寝床で「この週末は読書デーにしよう」と決めた。

 目標は5冊だったが、結局読了は4冊にとどまった。たまったビデオなども結構観たのでまあ仕方ないか。


 『セレンディピティの時代』(茂木健一郎著 講談社文庫)

 『ラッシュライフ』(伊坂幸太郎著 新潮文庫)

 『声の秘密』(アン・カーブ著 梶山あゆみ著 草思社)

 『叱る技術』(上條晴夫著 学陽書房)


 セレンディピティって何と思って、軽く手にとった文庫は、若者向け?の雑誌連載をまとめたものだった。実に読みやすく、やや脳科学っぽい中谷彰宏か(笑)というような印象だった。わが子にも読ませたいと思った。誰だって「偶然の幸運」に出会いたいはずだから。

 さすがの伊坂幸太郎だなと思った。しかし、登場人物の併走パターンの時間軸がまちまちになっているので、注意していないと「あれ、あれ」となってしまう。それにしても事件のエピソード設定が実に上手い。今回は、「人生の充実」を求めて路上強盗をする老夫婦に感動してしまった。この二人はまたどこかの物語にも顔をだすのだろうか。

 「叱る技術」と命名したのは、インパクトの強さを求めたのだろうか。もちろん目次の一部にはなっているが、実際は冠となっている「騒がしい教室を変える40の方法」が内容といえる。そして、それは別の表現でいえば、「騒がしい教室を静かにさせて学習に入る」「騒がしさを引き込みながら学習に入る」「騒がしさのまま、それを学習に転化させる」という三つのパターンが示されている。これもまた、ビジュアル的にもよくまとまった本だ。

 唯一のハードカバー『声の秘密』は、実に興味深かった。もう一度めくり直したい。