すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

あざやかに、おだやかに七月

2007年06月30日 | 教育ノート
 学校生活にリズムがあるとすれば、それは以前に比べればずっと速くなっている気がする。それが何をもたらすか深く考えてみる必要もあるようだ。
 ともあれもうすぐ学期末、わずかな期間であるがじっくりと落ち着いた時間の流れも位置づけたいなあ、などと思いながらこの字を選んだ。


---------------


 国語辞典をひくと「ブン」でも「モン」でも最初に出てくる意味は「もよう・かざり」です(二番目が「字・文字」です)。それはこの字の成り立ちに由来しているからでしょう。
 「文」は土器に描かれた人の形から出来上がった字です。そこに描かれた正面を向いて立つ人の胸部には、まじないの飾りがつけられていたと言います。従って「文」はある意味で美しさやあざやかさの象徴でもあります。
 また「武」という言葉との比較で考えると「おだやかさ」という意味も含みます。

 暑い日が続き水泳の授業に歓声を上げる子供たちですが、教室での落ち着いた学習にも力を入れたい時期です。
 来週はもう一学期最後の月、七月…「文月」とも呼びます。
(6/29)
--------------


やはり、言葉をそぎ落とすこと

2007年06月29日 | 教育ノート
 今月も授業研究会を2回実施し、さまざまな訪問の度に授業参観もしたが、やはり「言葉」が大きなポイントであることは確かだ。
 もちろん子どもの言葉もそうであるが、その前に教師の言葉…。その意識は絶えず持ち、問題提起していくべきことだと改めて思った。


--------------
縷述「つながる授業」19

 教育事務所訪問の折の指導で特に強調されたのは次の2点でした。

    ○活動と指導のバランス   ○組織的な授業改善

 訪問時のわずかな学習過程の参観から汲み取った問題点ということではなく、一般的な傾向としてとらえた提示だと思いました。特に、前者については日常的な点ですので、先生方も自分なりの考えをお持ちでしょう。一つの視点としてどう解釈するか、私なりに書いてみます。

 「活動のさせっぱなしではないか」、「教師主導で子どもが受身になっている」こうした相反する授業評価の言葉を私達は耳にすることがあります。しかし指導者の考えが活動重視であれ指導重視であれ、どちらか一方100%という授業は常識的にはありません。「比率」は何%が正しいという固定的なものではないはずですし、教科の特性や単元の段階でも大きく異なるといえます。もちろん子どもの実態に大きく左右されます。つまり、バランスとはその折その折で違うという前提があるのです。

 しかしそうは言っても、現状では一般的に「教師の言葉(説明・助言など)が多い」のが現実ではないでしょうか。つまり多くの場合、教師の言葉をどう精選していくかという一点で改善(子どもたちが意欲を持って活動し、学びを広げたり深めたりする)に向かうといってもいいように思います。先日の学級活動でも似た話題があったはずです。
 特に少人数の場合は活動時間に余裕があるのが一般的ですし、そこに教師が甘えると「過剰な説明」「言い直しによる曖昧な発問・指示」という傾向がなきにしもあらずではないでしょうか。言葉をそぎ落とすことによって生ずるメリットは大きいはずです。といっても「心がけ」だけで上達するほど簡単な課題ではないのも事実です。

 私たちが具体的にそれを考えていくために有効な場が授業研究会であることは言うまでもありません。そこでの個別事例を解読し、解釈し、分析し、有効な活用を見つけ、自学級での授業にどう適用させていくか…そのあたりも今後の研修の場で取り上げたいものです。組織的な授業改善の下地として、そうした校内での学びを深めていければ、共通して実践している事項も益々生きてくるでしょう。
(6/29)
--------------

授業の姿として実現させるには

2007年06月28日 | 雑記帳
 内田樹教授(この書き方がぴたりするなあ)のブログを久しぶりに訪ねたら「国語教育について」という剛速球みたいな記事があった。

「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。
だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。
 
 この提起はもちろん否という結論になる。
 齋藤孝氏との対談本を読んでも二人の考え方は近いものだし、「型」の教育優先は納得済みである。
 表題から考えれば、このブログ記事の結論はここの部分となる。

 「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。
 国語教育とは畢竟それだけのことである。
 
 この考えを現実の学校教育の枠組みの中で実現させてみたいものだ。
 もちろん現実としてこの三つの活動で国語科指導は完結しない。では、どんなことになるのだろうか。
 指導の核として、「『力のある言葉』を繰り返し読み、暗誦し、筆写する」ことを導入することになろう。時間的に多く見積もることは当然であるが、では年間でどの程度なのか、どんな単元や授業づくりをするのか… 検定教科書を使用するという現実を踏まえたとき、ここらあたりが検討しがいのあるところになるだろう。

 一つは今本校がやっているような、授業以外の枠の中で継続的に「音読」などを取り上げていく方法があろう。
 もちろんそれは授業との関連も持たせながら進めていくことがキーになるし、結構難しい部分もある。
 もう一つは授業時間内に固定的に組み込む方法があるだろう。これは自分自身も以前から何回か取り組んだことだ。最終的に、詩などの音読→辞書引き→教科書単元内容といったオムニバス的な授業に自信を持ってたどりついたのが今から5年ほど前である。

 子どもたちにより多く活動させ、より密度の高い授業を展開するためには、各言語活動をテンポアップし、変化をつけていくことが有効である。その面では一定時間で区切って内容を盛り込んでいく方式は安定した形で運用できると考えている。

パワー全開で言語感覚に迫る

2007年06月27日 | 教育ノート
 月に1回ある音読集会も3回目となった。さすがに継続は力なりで、当初と比べるとぐんと迫力があるものになった。
 とにかく始めてみようと取り組んだものだが、やりだすといろいろな要求も顔をのぞかせる。しかし、それはその「欲」は子どもたちを高みに連れていくと思う。またそう信じて実行することが大切だ。


----------------
 縷述「つながる授業」18

 6月の音読集会の感想から今後の展望を少し記します。同じ設定だった4月の集会と比べてみて、明らかに良くなっているなあと思うところがいくつかあります。

 ○全体的な声のボリュームがでてきた
 ○形態や速さに工夫を取り入れた発表があった
 ○同じ詩を扱っていたこともあるのか、集中した聞き方になっていた

 とにかく子どもたち全体が「声を出す」ことに慣れてきたように思います。斉読のパワーが強く感じられる学級もありますし、分担読みの楽しさが伝わってくる発表もありました。毎日の継続に支えられて、まずは順調に成果が上がっているように思います。

 次のステップを既に構想中の先生もいるでしょうが、まずは今日の発表から感じたことを確認し、学級の実態に合わせながら課題設定していただけるとありがたいです。

 □声のばらつきが感じられる→滑舌や発声に差がでている
 □「暗唱」も一つの目的だが、「表現(声を届ける)」が大きな目標。そのために読み方の工夫をどうしていくか、もっとバリェーションがあっていい
 □視線や姿勢についての意識も必要になってくるだろう
 □発表・感想形式にひと工夫あってもよくないか→「聴き所ポイント」発表、発表即感想等

 司会の声や感想の声などとのギャップも確かに感じますが、ダイレクトに結びつくものではないはずです。集団の声から個の声へのステップ、読みの声から考え、思いの声へのステップなど細かい段階も必要になってくるはずです。

 私たちが取り組んでいる音読・暗唱などが「力」のあるものだと言う論は、浸透しつつある考えのようにも思います。つい先日も思想家として名高い内田樹氏(神戸女学院大教授)が書いている文章を見つけ、励まされましたので、ごく一部を紹介します。

 名文には名文にしかないパワーがある。それに直接触れるだけで読み手の中の言語的な深層構造が揺り動かされ、震え、熟してくる。そして、論理的思考も、美的感動も、対話も、独創的なアイディアも、この震えるような言語感覚ぬきには存立しえないのである。
(6/27)
------------------

何度も「!」してと呼びかける本

2007年06月26日 | 読書
 文庫本のコーナーで気になった本があったのだが、どうにも前に読んだ気がする。
 『プチ哲学』(佐藤雅彦著 中公文庫)
 この題名は確かに記憶があるが、ぺらぺらめくってみても内容に覚えがない。マンガつきの読みやすさもあるし、まあいいかと思って購入。

 休日の午後にごろんと横になって読み進めていたら、半ばを過ぎたページで見覚えのあるフレーズが…。
 確か、別ブログにメモした記憶があると探したら案の定見つかった。

 それなりの冊数を読みこなしてはいるが、いかに読み流しているかが証明されたようなものだ。単行本から文庫本で題名が変わった場合なども二度ほどこんなことがあったが、今度は題名はしっかり覚えていたのに…。
 老化と言い訳できそうな齢にはなってきたが、それは集中力や姿勢の緩みなんだろうと思う。

 この本で強調されていることが、もう一度読み直してわかった。
 似たような内容が繰り返されているし、長いあとがきのように添えられた著者の日記の最後で記されているからだ。
 そして、それは自分が初めて一年生を担任したとき、教室正面に大きく掲げたものでもあった。

「!」 

 著者は書いている。

「考える」ということを、自分は何のためにやっているかというと、このパン!という瞬間に生まれる「!」の「喜び」のためにやっている、といっても過言ではない。

 ぼんやりした読み方であっても、発見があった本である。
 例えば「古いシステムと新しい価値」、例えば「『アフォーダンス』という考え方」…
 ちょっとサイズは小さめながら確かに「!」だった。
 
 ただしもし書店でまた手にとってしまったら、これはもう言い訳できない。

咀嚼してみたい「読解」の言葉

2007年06月24日 | 読書
 『言語技術教育』(明治図書)の第16集を読む。

 「読解力」がテーマである。むろん、PISA調査に基づく読解力の現状から立てられたものである。いつものごとく私にとっては刺激的な論考が並んでいたが、特に目がいったのは井関義久氏(桜美林大名誉教授)の文章である。

 「読む力は『批評力』に極まる」と題した文章は、この問い立てから始まる。

 この際、「読解」という用語をあえて使わないことから始めてみよう。そこからどういうことが見えてくるか。「読解」という用語の中にあったあいまいさがあぶりだされてくるのではないか

 題名といい、手法といい、いかにも分析批評の大家らしいと正直感じた。

 井関氏が「読解」という言葉を使わないために、導き出した言葉は次の四つである。
 小見出しの付け方もなかなか見事である。

「解読力」!  「解釈力」!?  「分析力」!!   「批評力」。
 
 全体の流れを強引にまとめれば、まず解読があり、個々の解釈がなされる、しかしそのためには客観的な分析が必須であり、論理的な批評をすることで完結する…ということになろうか。

 小説『博士の愛した数式』の映画化、舞台化という具体例を引きながら、そこでの表現をもとにした解説はわかりやすかった。

 ぐっと心に残る文章は自分なりに解釈ができているが、まだ自分自身の咀嚼が足りないとも感じている。口に放り込むつもりでここにいくつか書き記しておこう。

 生き方にもいろいろあるように、「解釈力」にもいろいろある。当人の生きる力になるような「解釈力」こそが、求められる力だ。

 文章の表現に目を向けるのだ。内容を読むことは、ほどほどの所で打ち切る。

 「批評」するということは、まず褒めることができるかどうかにかかっている。


世の中の傘になれなくても

2007年06月23日 | 教育ノート
 あまりに好天の日が続いたので、梅雨入りを待っていたわけではないが、ほんの少しほっとした気持ちになっていることも確かだ。
 昨年も感じたことではあるが、山際の道を色とりどりの傘を差しながら登校してくる子どもたちの列が、妙に美しく感じる季節である。


-------------


 この字は象形文字で、雨傘を開いた様子から作られています。中国から渡来したので「からかさ(唐風のかさ)」という言い方もあります。
 辞典を開くと「からかさ○○」という言葉はいくつもあり、どれも今使われなくなっているなあと改めて思いました。
 さて「傘」には「傘下」という言葉が示すように、多くの人が身を寄せることのできるものという意味もあります。骨組みの形でしょうが、実際には「人」が四人いるような見え方もしますね。

 演歌の名曲『おふくろさん』のフレーズにある、世の中の傘になれという教えには届かなくても、濡れている友達がいたら傘を差しかけてあげる気持ちはしっかり持たせたいなあと思った梅雨の一日でした。

(6/21)
-------------

子どもの自由に対して授業を作る

2007年06月22日 | 雑記帳
 来校者と一緒に各学級の授業を見る機会が多い月となっている。

 限られた時間での参観となるが、授業者それぞれの持ち味がでるものだし、どんな空気感がそこにあるかを見つめるのは楽しいものだ。
 また「いけない性」とでも言うべきか、「ああ自分ならこうするのになあ」と思い浮かぶことも正直しばしばある。
 しかしそれは傍観者的な一つのプランでしかなく、結局のところ子どものとのやりとりで作り出していくしかないのが授業の本質だと今さらながらに感じる。

 新潮社の宣伝誌でもある『波』の表紙が、とても素敵だった。
 赤を背景に著者のモノクロ写真、そして生原稿も映されている。
 映っているのは、故伊丹十三。
 その原稿には得心がいった。

 「映画」を「授業」に、「観客」を「子ども」に置き換えてみたときに、珠玉の授業論となる。

 保証済みの方法で、読者の鼻づらをとって引きまわし、自在に泣かせたり笑わせたりするために書くのではなく、読者の自由に対して書くのだ、というのですね。僕は映画も全く同じだと思う。われわれは映画を半分しか作れない。そして残り半分の完成を観客の配慮にゆだねるため、観客の自由に対して映画を作るということです。われわれの映画は、これからもさまざまな観客に出会い、各人の中でさまざまな形で完成されてゆくでしょう。私としては、それぞれの出会いが幸せなものであることを祈るのみです。

 

「かつての価値」を磨くことの難しさ

2007年06月21日 | 読書
 『なぜ日本人は劣化したか』(香山リカ著・講談社現代新書)を読む。

 「劣化」をキーワードに現代社会世相を斬ってみせた、というところだろうか。
 概ね理解できるし、はっとさせられることも多い。
 特に、アメリカの犯罪学者の説を紹介している次の一節には考えさせられた。

 「衰退と欠乏が問題にされると、そこにはいつも決まってノスタルジーが続く」とヤングは言う。社会民主主義者から保守主義者までが「ほのぼのとして家族や職場、地域共同体の思い出に浸」り、「かつての価値」を復権させようと目論んでいる。狭量で不寛容な排除型社会の裏には、このノスタルジーというやっかいな怪物が潜んでいる可能性がある

 著者は「ゼロ・トレランス方式」の導入に見られるような、排除型社会への進行に懸念を見せている。そしてそれを「寛容の劣化」という言葉でまとめている。

 監視・管理の強化、厳罰主義…こうして言葉にして並べてみると拒否的な感覚がわきあがるが、現実ではテレビ報道などを見ながら「もっと厳しく」と犯罪者へ向けている眼もたしかにある。世界への貢献といった言葉も美しく響いてくる。
 その背景に「ノスタルジー」があるという指摘は、きちんと考えなければいけないことだ。ブーム、情報による操作、そうした政治や社会の動きの受け止め方、そして何より自身のなかにある「価値」の吟味が必要だ。
 
 「かつての価値」という言い方は、様々なことを考えさせてくれる。
 その価値は、その時代にしか通用しないものなのか。
 その価値は、もうすでに役割を失ったのか。
 価値の中心となっていることに普遍性はないのか…

 こうした自問をしながら、自らの頭の劣化を防ごう。
(この言い方自体がもはやノスタルジーと言われたらどうしよう)

暑さを肌で受けとって育つ

2007年06月20日 | 教育ノート
 ここ数年、梅雨前の暑さが際立つような気がする。災害には結びつかないが、不順な天候の一つと言えるのかもしれない。しかし今のところ人間にはどうしようもないことだ。
 ただ、それに対応する人間側の意識も不順?になっている気もする。
 暑さを暑さとして受けとめる、淡々と受けとめる心が失われつつあるのかもしれない。これも便利さの追求の結果の一つか。せめて、子どもたちはもっと太陽の下で…とおもう。
 
--------------


 梅雨入り前に暑い日が続いています。
 この字は「日」と「者」であり、単純に人が日に照らされてあついと予想しそうですが、実は違います。
 「者」はもともと「こんろでたき木をもやすようす」から出来たようです。そう言えば「煮」という漢字は「火力を強くして物をにる」ことです。とすれば「暑」は太陽の熱が集中していてあつい、という意味になるのが理解できます。

 夏の暑さによって稲もコスモスも育ちますし、確かに四季の感覚は目に映る植物などの変化が一番わかりやすいのですが、実は肌でうけとる暑さ寒さはそれよりほんのちょっと早く感じるのではないでしょうか。
 肌で感じることは大切にしたいものです。
 子供も暑さで育ちます。
(6/18)
--------------