すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

何かがつながり大晦日を迎える

2007年03月31日 | 雑記帳
 学校づくりのキーワードを「つながる」として、一年間務めてきた。
 自分としてはある程度の時間をとって考えたキーワードであり、そのなかみについても方向は定まっていた。

 人と人とがつながる~授業づくり、学級づくり、学校づくり、保護者・地域とのつながり

 学びがつながる~学習活動の位置づけに意識的になる

 仕事がつながる~「教育の仕事」をうまく進めていくために必要なことに敏感になる

 一年が過ぎ、自己評価をするために明確な項目立てをするべきだった、ということが第一の反省点である。
 大まかに一年を振り返って、まずまずと言えそうな気もするのだが、「具体的な成果は?」と問われたとき、いくつ指を折ることができるか、少し自信がない。

 例示として掲げた「子どもと子どもがつながる授業づくり」は重点だった。
 「つながる授業」と題してある程度継続して校内報も出し、授業の具体的な場面を切り取ってみたこともある。
 しかし一つ一つの教室で、それがどの程度達成できたか、把握できていないことも恥ずかしい。
 常時教室に貼り付いているわけではないから所詮担任の自己反省をもとにするしかないのだが、その点を意識させる働きかけはしたつもりでも、見取りという面ではもの足りなさが残る。示されたポイントが有効に働き、授業が向上できていたか、それを責任者として掴んでいるとは正直言いきれない。
 これは考えてみれば、自分自身の「つながる」意識の欠如である。

 新年度最初の会議に提示する文書に、次のことを書く。

 よりつながるために…「つながる」を日常で意識することは案外難しい。だから、大切にしたいのは「計画とふりかえり」である。

 自分自身が年度当初に書く文章をひとつひとつ吟味してみること。どこに、どんな形で、どのくらいの強さでつながっていくのか、意識的でありたい。
 ゴールを見通して、そこまでの道筋をたどるようなイメージをもう一度確かにしたい。
 また、どこにもつながるようなオオキナ言葉、とてもたどり着けないキレイナ言葉…そういったものに疑いの目を向け、砕いてみる、切り捨ててみる、そうした作業なしに「つながる」の計画化は成り立たないだろう。

 と、細かい点の反省は多いのだが、総じてこの一年間がどうだったかと言えば非常に充実した一年であった。
 仕事も、学びも、いい回転ができたと思う。
 そして、それは何より人とのつながりによって可能なことであった。
 職場の同僚はもちろんだか、諸々の研究会やネット上を通じて知り合うことができた方々にも深く感謝したい。
 
 いい「学校の大晦日」を迎えることができた。

具体的な展開に心を奪われるな

2007年03月29日 | 雑記帳
 冬休みのことだったろうか。確か昼食時に職員室の隅にあるテーブルで同僚と雑談をしていた。

 「これからどんな時代になるかわからないし、結局どんな力をつけてやればいいんだろうね。」
 「勉強ばかり出来たって、高が知れてるし…」
 「大学を出たって就職できない奴はいっぱいいるからね。」
 「やっぱり挨拶でしょ。挨拶さえ出来れば結構生き抜いていける。要は世間をどう生き抜くかってこと。」
 「あきらめる力が大事でしょ。へんな希望を持たないで地道に生きる」
 真面目とも冗談ともとれる話の末に、まとまったのは
 「やはり、健康かな。体力だな。生きていくには」
といった結論?が出された。

 それはそれとして、新しい年度を前に私たちの務めを焦点化させたとき、いったい何が残るかは、やはり確認しておきたいことだ。

 身につけさせたい力なら、いくらでも挙げることができる。
 それを一つ一つ確実なものにしていく努力はもちろん大切だ。
 しかし、能力にも家庭環境にも違いのある多数の子が集う学校という場で、ぎりぎりのところで、しっかりと叩き込んでおきたいことは何なのか。
 ずばり一言で!

 寝床の中で、あれこれと反芻してみて出てきたことは、次の二つ。

 全力を出す
 人は一人で生きているんじゃない

 具体的な展開のみに心を奪われてはいけない。
 教育活動としての展開の位置づけをこの二つに照らし合わせてみるという作業が必要になってくる。
 大切な時期だ。

教師の目は鍵になる

2007年03月27日 | 読書
 『なぜ勉強させるのか?』(諏訪哲二著 光文社新書)を読む。

 プロローグ~そして「学力向上」だけが残った~から始まり、時代論、学校論、指導論、子ども論、そしてエピローグ~勉強するにも、させるにも覚悟がいる~まで、骨太の理論とさすがの目配せで、納得させてくれる好著である。

 教育は、子どもを近代的個人にしていく「社会化」である
 「学力」だけでなく「人間形成」も大事


 特に目新しい論ではないが、現状を踏まえてそのことがどう捻じ曲げられてきたか、最近の動向とどう対峙しているかがよくわかる。
 また、「近代」とは何か。「個」とは?そして教育の「私事化」「超私事化」といったことについても考えさせるし、身の周りと照らし合わせたくなる文章が多かった。

 題名は「なぜ、勉強させるのか」という大人向けのタイトルであるが、エピローグの文体そのものは「なぜ勉強するのか」と位置づけられ、「近代的個人」になるための「『この私』否定」が強調されている。
 三つの項目立てが要点となる。

 勉強は嫌いでいい
 「ありのまま」から「あるべき」へ
 考えないで、受け入れる


 現場教師としてその論はわかったとしても、「なぜ」の次にどうしても頭に浮かぶのは「どう」という点である。

 「どう、勉強させるのか?」
 この点について、陰山氏やTOSSについて触れた文章があることは手がかりになるのかもしれない。
 諏訪氏は、陰山氏の文章や発言をもとに、いくつかの「注意点」を掲げている。
 また、向山氏の「教師の『低授業力』」論についても言及し、物足りなさを書いている。

 大局論からすれば確かにそうなのかもしれないが、実際に子どもを目の前にしたときどう指導していくかこそ核であり、その面で陰山氏やTOSSが手がかりになる実践を提示していることは、現実である。
 そして「早寝早起き朝ごはん」も「黄金の三日間」も、諏訪氏の次の文章と整合していると思う。

 学校というところはその四割以上もの比率で、毎日子ども(生徒)の「知」へと向かう身体性を訓練していると言っても過言ではない

 自らの感覚からすると、小学校においてその比率は四割どころでなく、六割、七割と言ってもいいように思う。
 その視点で様々な教科指導や学級経営の実践を見ていくことこそ、今最も現場に必要なことであり、繰り返し強調していくことではないか。

 指導マニュアルの背景にそれらを感じ取れるか、という教師の目は鍵になる。

逝く人あり、春がくる

2007年03月25日 | 雑記帳
 その著作を通してしか知らないのだが、「凄み」を感じた方々が相次いで亡くなっている。


 池田晶子…「考えること」を最大の価値と考える彼女の文章は、なんでもかんでも興味を示してしまう自分に、時に冷や水をかけてくれるものだった。

 昨今の教育現場の風潮、何を勘違いしているのか、「よのなか科」?商売の仕方や金のもうけ方を早いうちから教えることが子どものためだなどと、驚くべき勘違いである。世の中のことは世の中に出てから覚えればよろしい。世に出る前は、世に出る前にしかできないことがある。

 下の表現は冗談ぽく書いてはいるが、一回だけでなく繰り返して表されているところを見ると、こういう気持ちも存在したのかもしれない。池田晶子は、それを実現せずに逝ってしまった。

 もう十五年したら、池田が文部大臣になります。


 時実新子…「川柳なんて」と高をくくっていた自分が、この句に出会ったときの驚いた感覚は今でも覚えているほどだ。

 「ほんとうに刺すからそこに立たないで」

 恋も家庭も仕事も、激しく生きてきた人だ。
 感性の熱が圧倒的だと思った。
 時実はすでに墓碑銘を書いていたというが、下の句に書きかえたい望みがあった。それは実現したのだろうか。

 「白い花咲いたよ白い花散った」
 ぜひともそうありたい。いろいろな花、とりどりの色に咲いてはきたけれど、白い花だと言われたい。
 名は不要。ただの路傍の花でよい。



 そして、城山三郎…私の読書の範疇にその経済小説はなかったが、対談集やエッセイ集などは心惹かれていくつか読んでいる。古武士のような印象、まさしく気骨の人である。
 軸がぶれない強さは、昨今の者が及ばぬ境地のようにも思われた。
 
 この日 この空 この私

 城山の一筆求められた時の言葉だという。
 言葉の重みとは、発する者の生き方がどれだけ重ねられるかということである。
 次の言葉も、やはりどこまでも重い。

 人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、深く生きるためには、ただ受け身なだけではなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。

具体的な名前を多く知る

2007年03月23日 | 雑記帳
『授業づくりネットワーク』の4月号のあとがきに編集部の丸山さんが、兵庫県の山田先生のことを紹介している。

 不登校児童を初めて持った20数年前に、先輩教師に児童のことを問われ、「学習がよくできる」「性格がおとなしい」といったことでなく、「彼の好きな食べ物」「水曜日の7時に見る番組」「好きな色」といったことを知るべきである、と気づかされた…

 改めて「子どもを知る」とは何か、を考えさせられる。

 キャリアを重ねれば重ねるほど、類型化しようという傾向が強まっている自分を感じる。
 「子どもが変わってきている」という言い方をよくするが、「変わってきている」というその言い方は方向性を定めた、大雑把な固定的な考え方でないか、とも思える。

 つまり、実際をどれだけ集めているか、という反省である。
 それもアンケートでとるような生活項目ではなくて、先の問いのように具体的な名前で表れるものとしてである。
 「見ている番組」や「よく遊んでいるゲーム」の内容を知らずにその子を真の意味で理解できるかという問題に、私たちは正対しなければならない。

 既存の知識や経験で子どもを「解釈」してみても、それが何の役に立つというのか。
 肝心なのは、実際を知り、その実際に働きかけながら、内面を鍛えていくことなのである。
 そのためにも、子どもが挙げる具体的な名前を多く知ることが必要だ。

「力を入れている」と答える条件

2007年03月22日 | 雑記帳
 『学校マネジメント』(明治図書)の2006年11月号に、高階玲治氏が「抽出学テ結果から見えてくる実践課題」と題して、おおよそ次のようなことを書いていた。

 昨年実施した「特定の課題に関する調査」において、教師の指導意識に関する調査を実施した。教師質問紙調査の「漢字指導に力を入れている」かの項目で、「そうしている群」と「そうしていない群」の比較をしたところ、子どもの漢字の読み書きにおける平均通過問題数にほとんど差が見られなかった。つまり指導に力を入れても入れなくても結果がほとんど同じになっている。実効性のある学習(指導)メソッドが確立されていないのではないか。

 調査の詳細について詳しく知らないままではあるが、一応は頷ける見解ではある。
 しかし、分析の視点によってその取り上げ方が適確かどうか議論のあるところだろう。
 そこを棚上げにしたままではあるが、いったい「教師の指導意識」って何だろうと、改めて考えさせられた。

 「力をいれているか」と問われ、「そうしている」と答えるためには何が必要か、ということだ。
 自分ならば、これはシステムができているかどうかだろうなと考える。
 時間の設定、指導の手順、個別指導の配慮、そして評価と対策、といったサイクルが運用できていると判断できたら「そうしている」にするかもしれない。
 いや逆に、数多い指導項目の中で順調に運用できるシステムなど(漢字指導などは比較的そうだと感じる)は特に力を入れているという自己評価はしない時もあるだろう。
「力を入れている」とは、なかなか難しい規準だなと思う。

 そのことも含めて、高階氏の次の言は、少しピントがずれているように感じた。

 教師は、授業でかなりしっかり指導していると思っているであろう。(略)
特に、中学校の教師は教科専門性を身につけた存在のはずである。そうでありながら小学校教師と同じように「そうしている」群と「そうしていない」群とではほとんど差がなかった。

 「授業でしっかり指導」とはどの程度を指すのか、漢字指導について割ける時間はどの位か、中学校の国語授業時数の問題や家庭学習との関連を考えずには、論じられないことだろう。

 また、実効性のあるメソッド作りに教科専門性は欠かせないことかもしれないが、核とはいえない。
 子供たちの学習活動を組織していくこと、意欲を持続させるための流れを作ることに敏感でない者が、「力を入れている」と言ってもそれは空回りでしかないのである。

節をつくる日々

2007年03月21日 | 教育ノート
 どの子も声がよく出ていて、立派な卒業式だった。
 余韻に浸りたい気分もあるが、早く気持ちを切り替え、次へのステップの準備をしなくてはならない。そのために大切に過ごしたい時期である。


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 昨日、小学校生活の最後にふさわしい堂々とした態度で、六年生がこの校舎を巣立っていきました。はりのある声で返事をし、思い出や夢を語り、別れの気持ちを素直に表現してくれたいい式でした。
 五年生以下の子供たちも立派でした。今日の修了式で、年間の最大行事をしっかりできたことをまず誉め、一年間の振り返りを簡単に行いました。もちろんキーワードは「やさしく、たくましい」です。

 子供たちに「やさしさ」「たくましさ」を育もうとするとき、前提になることが「安全・安心」だなあと強く感じさせられた一年でした。挨拶をしっかりすることも、登下校をきちんと歩き通すことも、そうした一定の基盤があればこそです。
 その意味で今年一年、本校の子供たちが大きな事故もなく過ごせたことを、改めて保護者や地域の皆様に感謝し、同時に喜び合いたいと思います。ありがとうございました。

 今年度スタート時の印象的な出来事として、全国的な話題となった藤里のあの事件がありました。それが驚愕するような結末となり、さらに大仙市の事件も重なり、本県のイメージはぐっと暗いものになった気がします。
 また全国的にいじめの問題も大きくクローズアップされました。一様にとらえられない今の子供たちの実態、また教育制度の疲弊に問題の底深さを感じました。
 今の時点で本校には縁遠いことと把握はしていても、全国どこにもその種はあることは、教育に携わる人間なら誰しも感じていることです。鈍感にならないよう、また近視眼的にならないよう、絶えず気づけあっていきたいものです。

 学校も年度末事務、異動期に伴う諸々のことで慌しくなります。ご家庭でも春休みというと期間も短く漫然と過ごしがちになるかもしれません。
 しかし、今日までの子供と4月からの子供は明らかに違うはずです。いや違えなければなりません。それは、一つ学年が上がったという形式的なことではなく、「よし、がんばるぞ」という心向きのレベルを上げることです。
 この2週間がいわば「節」です。
 この節が固くしっかり結ばれるよう、物の整理等もしながら、機会をみて新年度の抱負などを聴いてやってください。
(3/20)
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言い訳から見えてきた問題

2007年03月19日 | 雑記帳
 『効果のある学校』(鍋島祥郎著 解放出版社)がどうにも読み終わらない。
 実に興味深い本であり、触発される箇所も多かいのだが、どうしてこんなに遅々とした読み進めなのか…自問してみたら、一つは「問題」であるなと思った。

 この本の下地には明らかにそのことがあり、興味深く読んでいるようでも、いまひとつ想像できない自分がいるのではないか。
 私だけでなく、東北地方少なくても秋田県に住んでいる者にとって、その問題をイメージすることは困難なのかもしれない。

 社会科の教科書にある記述によって、今も地域によって「差別」があることを知ったのは、小学生の頃だったろうか、中学生だったろうか。
 映画「橋のない川」を集団で見せられたのは、学校の中だったろうか、地区に一つある映画館であったろうか…。
 入った大学も宮城だったので、「同和問題」という言葉は知っても、その話題について突っ込んだ記憶はない。
 問題についてその程度の認識しか持たずに生きてきた。

 自民党の元代議士である野中広務に関する本を二冊ほど読んだことがある。
 数年前、つくば市で行われた数週間に及ぶ中央研修で、関西地区の参加者より生々しい現実を聞いたことがある。
 
 それらに驚きはしても、なかなかぴんときていなかったことも事実だ。

 「差別」という言葉を、一時の流行のようにとらえていたような記憶さえある。自分自身にある鈍感さは、もしかしたら周辺の教員に共通するのかもしれない。
 だから、鍋島氏のこんな記述にはどっきとさせられる。

 家庭的・文化的条件によって低学力で苦しむ子どもたちの指導方法、学習到達度の把握方法等においては、学校の中では見るべき進歩がほとんどなかったと言っていいだろう

 この表現は、被差別のことだけを対象としているわけではない。
 
 身の周りにそんなことがなかったかを問いかける。
 そして今、社会的な構造の問題として確実に表面化してくると予想される。
 着手は急がなければならない。

よく見つめるべき対象

2007年03月17日 | 雑記帳
 修了式の日に発行する学校報を書いていて、一年間の振り返りとして「いじめ問題」について触れた。
 もちろん本校ではその傾向はないのだが、「いつでもどこにでもその種はあること」、従って「よく見つめていかなければならないこと」と書いて…
 ふと、思った。
 子どもだけを見つめていればいいのか…

 『児童心理』(金子書房)の最新号に、河上亮一氏が文を寄せている。

 「いじめ」を生む教師の言動

 福岡県の中学2年生生の自殺に関して、元担任教師による「不適切」な言動が明らかになった問題を取り上げ、二つの角度から考えている。
 その一つに、「学校における教師の位置」ということがある。

 私は、教師という職業の中に、「不適切」な言動を生み出す要因が含まれているのではないか、と考えている。

 教師と子どもの、「上下」関係と人間としては「対等」であるという二重性の困難について書いている。
 かつての社会であれば、周囲の目による教師への支持、コントロールがあり、自己規制は比較的容易であったが、今は明らかに難しくなっているとする。

 教師は今、自分を律することに全力をあげるべきだ

 この言葉の意味をしっかりとらえなければいけない。つまり、日常に埋没せず自己を客観視できるか、ということである。横暴になりがちな教師だけでなく、上下関係に耐えられない教師も増えているという。

 ただなんとなく教師をやっていれば、自分の言動が「いじめ」の引き金になったり、「いじめ」を深刻化する手助けをしてしまうことは充分ありうる

 よく見つめるべき対象は、「自分」ということなのである。

特化した活動から課題へつなげる

2007年03月16日 | 教育ノート
 全児童に国語辞典を持たせて約一ヶ月半。取り組み自体は学級に任せたゆるやかなものだったが、それなりの刺激合いもあったようで、ほとんどの子が「辞書引き」の速さを数段伸ばした。
 また音読も最終単元の教材を扱い、重点として取り上げていて、これも一人残らず意識的な読みが見られた。
 共通な取り組みをしてみると、課題として見えてくることも多い。次につながるステップとなっていく。

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 国語辞典の10問早引き調査がまとまりました。
 1月に比べてほとんどの子がぐんと記録を伸ばしていることが素直にうれしいです。わずか5週間ほどでしたが、意識的に取り組ませた結果が形として表われ、子供にも励みになったのではないでしょうか。
 また、わずかながら記録が伸びない子もいたわけで、これは何故そうなのか気にかけてみたいと思います。1月の段階である程度の限界だったのか、たまたまある問題に引っ掛かってしまったものなのか、それ以外なのか、今後注視し、また検討を加えたいことです。

 さて、国語辞典活用に関しては今後も推進していきたいのですが、どのように活動として位置づけるかは協議が必要でしょう。
 その点はひとまず置いても、先週の研修で話し合ったことの中から確実なことが一つあると思いました。

 自ら積極的に課題や問題を読み取り、解決していこうという姿勢…本校児童に身につけさせたい点ですが、それを考えたとき「わからない言葉などを指示されなくても自分から進んで辞典で調べる姿」は、まさしく一つのポイントだと思うのです。
 そこを目指すためには、どんなことが必要か、新学年を前にもう一度振り返ってみてもいいのではないでしょうか。

 むろん、国語辞典は一つの技能でしかありません。しかし特化した何かを持つことは、他の活動にも波及しますし、子どもの自信にもつながります。あれもこれもが小学校の仕事ですが、ある程度焦点を定め、必達ラインを設定して実践することは、きっと「強さ」につながるはずです。

「音読名人コンテスト」についてもご協力ありがとうございました。研修時の話し合いでは、設定をお願いしたことで各学年の学習に張りが出たという声もあり、これもうれしいことでした。
 子供たちの音読についての課題は、この前話したとおりです。コンテストという形をとったことで「上手な音読」に対する意識づけが、子供たち自身にも少しできたかもしれません。

 このつながりを生かしながら、来年度の計画立てを進めたいものです。音読を継続していくための具体的な方法や、いい読み方、いい話し方に触れさせていく機会の設定など考えてみたいことがいくつかあります。
 そういえば「耳」という課題も今年の話し合いで何度か出てきた気がします。
(3/15)
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