すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

スランプ,データ,バカヤロー

2014年02月28日 | 雑記帳
 プロでも特技でもないのにおこがましいが、写真スランプである。「すぷりんぐ+フォト」と名づけた写真ブログは、なんと10月末で止まったままだ。ちょうど4ヶ月間ご無沙汰である。その間も結構な量を撮っているとは思うが、アップする気にならないのは、お気に入りの一枚が撮れなかったということだ。


 素人のあさはかさゆえぐだぐだ考えるが、技術がどうのこうのという問題ではない。ただ、きっと心が揺り動かないのだ。最後のアップは「紅葉」という素材を撮りにわざわざ出掛けて構えがあったわけだし…。この期間に狙ったものは…やはり、なかったかもしれない。いや、それ以上どこか消費感覚的なんだよね。


 デジカメを何台も揃えて、バチバチとシャッターを押す行為は、やはりどこか鈍感さを助長してしまうんだろう。「取りあえず撮っておくか」という感覚で量的な心配をせずに撮りまくっていることで、麻痺しているのかもしれない。結局、全てを記録しておけばなんとかなる、という発想に陥っているのだろうか。


 「総記録社会」と言ったのは東浩紀だったと思う。ネットワークの進展に伴うデータの蓄積がそういう方向にあるというのは卓見だった。個人的な陥穽を、そこまでの大きな問題と結び付けるわけではないが、どこかしら共通点も感ずる。多く録っておけばいいという考えは、大切な何かを見つめる芯を弱くする。



 実は必要があって、数年前から学校で記録された写真データを見直している。その膨大な量にちょっと呆然とし、かなりくたびれる。そこでつい自分のこの状況にも目がいってしまったわけだ。大昔「写真を撮られると寿命が縮む」という俗説があったが、これだけ撮られていると人はいったい何回死んでいるのか。


 とにもかくにも、ちょっと仕事や生活にゆとりがないと「趣味」の撮影には手が届かない。雪消えが進むこの季節感を撮っておきたいとは思う。三月は更新できるといいなあ、と言いながら忙しさが進むのは自明。なんでこんなに時間が速く過ぎるのか「時間のバカヤロー」と叫びたい。(バカヤローの日にちなんで)

己巳

2014年02月27日 | 雑記帳
 【己巳】(きし)

 干支の一。つちのとみ。(大辞林)


 こちらのサイトに詳しい。
 http://巳の日.com/


 日めくりカレンダーを見ていたら、その文字があった。
 戊辰や庚午程度なら読めたが、読み方もはっきりしなかった。

 とにかく金運・財運の縁起がいい日らしいが、勤め人にはあまり縁がないか。

 この頃、週刊誌・月刊誌に、よく「お金」の問題が特集されている。
 団塊世代、そして次のリタイア世代の読者層をねらっているのだろう。

 時々、ページをめくったりすると、現状分析から展望、節約法から投資のテクニックまで、まあいろいろとあり目まぐるしい。
 本当はきちんと考えるべきなのだろうが、じっくりは入っていけない。
 それだけ切実感がないということか…。


 ちなみに「金」にまつわる慣用句を調べてみた。
 自分が知らない、使ったことのないものをいくつか挙げてみよう。

 【金に飽かす】…金銭を惜しまず十分に使う
 【金は湧き物】…金銭は思いがけなく手に入るものである。
 【金のくつわを食ます】…金銭を与えて口止めをする

 まあまあいろいろあるが、【地獄の沙汰も金次第】系が目立つようだ。

 【阿弥陀の光も金次第】
 【金の世の中】
 【仏の光より金の光】


 その通りと7割程度は思っているが、残り3割は【金は天下の回りもの】という精神を持ちたい。

 金運・財運が期待できないのなら、せめてそういう運気を与えてくれはしまいか、己巳の日。

数字で振り返って気休め

2014年02月26日 | 雑記帳
 あと2日で3月と思うと、少し心が浮き立つ。ここ数日は雪もちらつくが青い空も見えている。4年続きの豪雪と言っていい積雪量ではあるが、実際のところはどうなのだろう。学校報に載せているウィークリークイズのネタとして、天候を取り上げようと気象庁のデータを調べてみた。はたして豪雪だったのか。


 湯沢市のデータをみると、12月からの3ヶ月間で一番降雪量の多かった日は、12月14日。47cmの記録がある。その前々日から降り出し、その日の積雪量が81cm。ここからいわゆる「根雪」となっている。平坦部の観測データなので、山間部はおそらく倍はあるはずだ。しかしその辺りまでは当然と受け止めていた。


 そこから3週間以上降ったり止んだり、積雪量はそれほど変わらないままである。ところが1月11日に37cmの降雪があり、3日間続き、14日始業式の日に積雪量は144cmとなる。この時期はさすがに除雪が追い付かなかった。豪雪対策本部が設置される。その後10日間ほどは積雪量が140cm前後で推移している。



 1月下旬からは降雪が少なく積雪の高さが落ち着く。90cmをきったのが2月3日。「雪まつりのためには…」と雪乞いしている関係者もいた。4日からは10cm以上の降雪が続き、再び100cm越えの日が続く。そして先週金曜日に23cm降り、翌日には積雪は134cmとなる。2月下旬とはいえ、やはり雪は多い。


 と思いつつ、昨年のデータを調べたら同時期に1m越えの積雪量、なんと2月下旬からの降雪が長く続く。まだ安心できない。しかし今冬は東北というより、関東甲信越の雪被害の年と記憶されるだろう。予測や予想がある程度できても、人は自然の力に対抗できししない。できるのは数字で振り返るぐらい。気休めだ。

ソチ,一瞬のさえずり

2014年02月25日 | 雑記帳
 ソチオリンピック。そんなに興味を持ったわけではなかったが、年齢相応に早起きなので、いくつかの注目競技を見ることができた。生中継で視聴したもので印象深いのは、葛西紀明のLHジャンプそして浅田真央のショートPである。明暗は分かれたが双方に考えさせられる点があった。極私的にメモしておきたい。


 「レジェンド」って何だと口にした方も多いだろう。私は焼酎の名前で意味は知っていた(笑)。競技者からそういう言葉で尊敬を集めるのは、その佇まいを直に接する人間が見ているからに違いない。長く現場に居た、その重ねられた日々によって熟成される。その味わい、色は時間の重みによってしか出せない。


 真央チャンの最初のトリプルアクセル。緊張はいつの大会でも同じかもしれないが、そこに入り込んだ不安とか迷いが足元に狂いを生じさせた。比して隣国の女王の堂々たること。二人を分けたのは精神力と称していいのかもしれない。しかしその弱さをとらえた表情も含め、多彩に揺れ動く貴方を日本人は好んでいる。


 素人考えだが、放送が種目によってずいぶんと偏っている気がした。取り上げられるのはやはり見栄え?のする競技のようだ。以前はスキーアルペンなどが花形だったが、今はフリースタイルの方に移っている。単純に言えば「カッコヨサ」が変化してきているのか。小回りのきく、融通さが求められる時代の象徴か。


 何の本だったか…スポーツ競技を映像で見ているだけでも、ミラーニューロン?が働き、自分の脳の中でも一緒に動いているような感覚がわずかにあるそうだ。それが強くなると実際に動いてみたくなるのか。その意味では多く放送されれば競技人口増加にプラスの要素となる。輝きを目指す才能が出現してほしい。

先生!と呼びかけられたら

2014年02月24日 | 読書
 「2014読了」25冊目 ★★★

 『先生!』(池上彰編  岩波新書)


 岩波新書もこんな感じで出版するんだなあと正直思った。
 お堅いイメージだけでは、書物受難の時代?を生き抜いてはいけない。

 さて、池上さんが編集というところからも想像できるように。執筆された諸氏が、堅苦しくなく「先生」というテーマで思いの丈を述べている。

 こちらに内容が→http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1307/sin_k717.html


 依頼原稿のしばりは、エッセイの中に「先生!」という言葉を必ず使うということだけで、それがまた興味をそそる。

 この「!」という感嘆符をどこで使うか…

 読んでみると、自分の思い出の中の呼びかける場面に使ったり、自分が呼びかけられた場面であったり、あるいは読者としての「先生」に呼びかける文体として使ったりしている。

 それを単なる執筆上の制限に対するクリアとみることが普通ではあるだろう。
 しかし、もしかすればそれは一番言いたいことにつながるのかもしれないという考えも浮かんだ。


 自分から「先生!」と呼びかけた人は、大抵の場合、先生との強いつながりを欲している。

 先生の立場にあって、「先生!」と呼びかけられた人は、その場面に込められた「子ども」の思いをしっかり受け止めようとしている。

 そして、読者である先生に呼びかけようとしている人は、一緒に歩もうと連帯の気を送ってくれる。


 いや、もちろんこの分類が新書全編に渡っているわけではないが、「先生」という呼称はそういう背景を持っているのではないか。
 「!」マークは、それをきっと強調している。

 たとえば、対照的な最終行を書いたお二人がいる。


 先生!頑張って!(武富健治)

 先生!逃げて。 (石井志昂)


 内容に沿っての最終行であるから、これだけを取り出して論じることはできないが、いずれ、かくも多様な人たちに囲まれながら、学校の仕事は綿々と続いていくわけである。

 執筆陣はバラエティに富んだ人選だと思う。
 そんなに頑張らず、しかも逃げずに仕事を続けていきたい「先生」にとって、自分の歩幅や視野を広げるために参考にしたい著である。

大小あれど驚きの週末

2014年02月23日 | 雑記帳
 金曜日の会議で,来年度からの本県教員採用試験に関する情報があった。新聞にも概略が載っていた。今までは本県教員の高齢化への対応が問題視されていたが,今後は「年齢の二極化」が焦点化されることになる。十分に予想されたとはいえ,今まで大胆に策を打ち出せなかったのは何故か,思案してみたいことだ。



 昨夏公開された映画『少年H』を遅ればせながら観た。そういえばずいぶん前にテレビドラマ化されていたが印象はあまりない。スクリーンで描き出される空襲シーンと,慎ましやかな日常生活とのコントラストが鮮やかだった。キャストの自然な演技が印象に残るし,古沢良太の抑えた脚本にもちょっと驚いた。



 suicaカードの切替え,チャージされているお金を一時引き出す必要があった。駅員に専用機の場所を訊くと,待合室内にあるという。ボックスじゃないのと思いつつ,マニュアルに従って行う。お金が払い戻された瞬間に,まるで警報のような音が喧しくなる。背中に待合室全員の不審者をみるような視線を感じる。



 昨年龍角散CMで香川照之と共演したことが話題になった本県知事であるが,今回はもっと驚いた。ロシアのプーチン大統領に秋田犬を贈った返礼によって自らの猫好きが大きくクローズアップされたようだ。なんとあの「ほぼ日」サイトに登場したではないか。このインタビュー記事,写真のみでも必見ものである。


ミカタをふやす本

2014年02月22日 | 読書
 「2014読了」25冊目 ★★★

 『学校がよくわかる本Ⅲ 授業篇』(大西貞憲  PLANEXUS)
 
 
「学校を応援する人のための」と前置きがあるシリーズなので、保護者対象かなと思い積極的に手は伸びなかった本だ。
 しかし、研究会受付に並べられていたので、ちょっと手にしてみたら、案外面白いかもという気にさせられた。

 「授業」と「学級経営・生徒指導」の二章立てで、項目は20と10の計30、それぞれの項目が4ページで構成されている。

 1ページが趣旨で、2,3ページが見開きで事例①と②、そして4ページ目が「大西流の読み解き方」で解説とまとめが記されている。

 大西先生の授業を見る目の確かさ、分析の鋭さは、前著『大西流・授業の見方』で感服したが、今回の著はその具体的場面展開(の一部)と言っていいだろう。


 ここに書かれてある事例(よりベターな形で示されているのは②)の考え方はいろいろな意味づけができる。
 しかし、中心となるのは、学級集団「全員」の「学習意欲」を「持続」させていく手立てと言っていいのではないか。

 そのために、どこに目をつけ、どんなふうに導くかというヒントが満載である。
 キャリアのあるなしに関わらず参考になるだろう。

 教員であるならば、事例①と②の違いについて大西先生の「読み解き方」を読みながら、実際場面への適用を考えたい。
 自分なりにいくつかの原則を確認できたり、見いだせたりすれば、それは確実に教室に活きる力になるのではないか。

 例えば私なら、まず「教師の言葉は個に向けられながら、常に全体に発せられる」という点を一番強く浮かび上がらせる。
 そして、「挙手や発言を促す時の教師の目」を想像してみる。
 個々のうなずきや視線を感じ取れる目があってこそ、この②の流れが具体性を帯びると思う。

 日常的に授業をしている現在ではないが、こうした具体的な提案のある場が示されると、優れた教師の模擬授業を見たときと同様に、授業ゴゴロがくすぐられる。


 あとがきで、大西先生が怖いこと?を書いている。

 この本を読まれた方は、授業を見る目が厳しくなるかもしれません。教師の足りないところが今まで以上に見えるかもしれません。

 そうだろうなあ。この本を手にするほど教育に関心が高い人たちなら、趣旨を読み取ることに苦労はしまい。
 そして、そうした方々を味方につけるほど心強いことはない。

 そのためには、そう、まずこの本を手にとってみることですね。

 授業の見方をふやす本であり,教師の味方をふやすための本でもある。

落ち

2014年02月21日 | 雑記帳
 【落ち】(おち)

 ~略~⑧落語などの、人を笑わせて終わりを結ぶ部分。さげ。(広辞苑)



 誰でもよく知っている言葉と意味には違いないが、「落語豆知識」という箇所を読んでいて、その種類の多さに少しびっくり。
 もっとも今までそんな分類をしながら聴いたことがなかっただけか。

 ぶっつけおち
 間抜けおち
 途端おち
 考えおち
 さかさおち
 地口おち
 仕込みおち



 そもそも「おち」の語源は何だろうと、辞典をひいてみた。

 「おちを取る」という江戸語が、よい評判をとるということから生まれた洒落ことば。つまり、喝采の意が転じたもの。(角川語源辞典)


 今ひとつぴんとこない部分もあるが、いずれ動詞の「落ちる」から派生して、物事の最終決着に対する称賛という意味になるのだろう。

 そう考えると、「おちを取る」ことは様々な研究会や授業においても望ましい。
 どのくらいのパターンがあるのか、落語と比べてみても面白い。


 ちなみに「おちおち」という「落ち」の畳語があるが、関係性は薄い。
 ただ、この「おちおち」も普通は打ち消しの語を伴って使う言葉だが、昔はそうでもなかったようだ。
 「おちおち寝る」という用例があった。

 毎日の様々なことに「おち」がつけば、一日の最後は「おちおち」眠ることができるんだなあ…これが「おちつく」ということか。



 「2014読了」24冊目 ★

 『古典落語100席』(立川志の輔・選  PHP研究所)


個性が邪魔な作家

2014年02月20日 | 読書
 「2014読了」23冊目 ★★★

 『幸福な生活』(百田尚樹 祥伝社文庫)


 京都から帰る時に,伊丹空港内の売店で買い求めた。

 いろいろと話題の多い百田尚樹。
 文庫本がほとんど平積みされている。
 そのうち読んでいないのが3冊あったが,どれにしようかとぺらぺらめくってみて,帯に書かれてあった「宮藤官九郎さん『嫉妬する面白さ』」というセールスコピーに惹かれて手にした。

 結局読み始めたのは数日後だった。
 収められた19の短編の最初「母の記憶」を読み終え,「おおうっ,さすが」と思った。

 帯にあったコピー「衝撃のラスト1行!」は誇張じゃないなと思うほどだった。
 最終行がめくる形のページに配置されている形式であり,いわゆる落語のオチやサゲ的な構成をとっている。

 次の「夜の訪問者」も,「ほお,ナイス」であった。
 三番目の「そっくりさん」四番目の「おとなしい妻」…百田尚樹やるなっ,と楽しい気分で読み進めた。

 しかし…だんだんにラストがどうなるか謎解きモードに入ってしまい,そしてまたそれが7割ぐらいの確率で当たっているという顛末になり,わくわく感がなくなっている自分に気づいた。

 解説の宮藤は「先読みする快感を覚え,その読みはことごとく外れる」と書いてはいるが,それは思考パターンが違うからだろうか。

 そうすれば,作者と自分がどこか共通点があるということ?
 そんなオソレオオイことは考えられない。

 ただ,バラエティなどの構成作家をしていた履歴や,作家として次々に異なるジャンルを取り上げている(そして,ほとんど面白い)百田をみると,八方美人的な興味のあり方は似てなくもないか。


 宮藤は構成作家としてのキャリアを取り上げてこう書く。

 誰が書いたかわからない。そういう場で経験を積んだ作家は強い。個性で勝負できないぶん,純粋に面白いもの,娯楽性の高い作品を書くしかない。読者(視聴者を)楽しませることを第一に考えたら,文体なんか気にしていられない。個性は邪魔になる。


 それゆえ,取材力や構成力が問われてくるし,その縦横無尽さに魅力を感ずる読者も多いだろう。
 しかし,それをまた一つの個性と呼ぶこともできよう。


 さて,作品と現実は違う。

 多彩な作品群に比べると,百田個人としての発言はややステレオタイプであるような気がするのは私だけ。

千里如面

2014年02月19日 | 雑記帳
 先日、ちょっとしたお遊びで、少し大きめの付箋に手持ちのスタンプを押してみた。
 毎日結構な数を使うので、そういうデザイン?があってもいいと思った。

 第一弾は「相田みつを」だったが、今回は机の底に眠っているハンコを使ってみることにした。

 いくつかある中で、その意味を失念した言葉があった。
 
 【千里如面】(せんりじょめん)

 遠く離れていても顔を合わせているような感じ。
 遠く離れていても、顔をつきあわせている如く、お互いの心が通じていること

 http://wagen-memo.jugem.jp/?eid=205参考

 手紙の封印に使われる。
 ああ、そういえばずいぶん前に銀座のあの有名店で買ったような気がする。

 封書などほとんど書くことがなくなったので、その時は知っていたが、やはり使っていないと、言葉はモノにならないな。

 それにしても今、千里如面はかなり現実的になっていると言える。

 パソコンや携帯電話を使って、実際に顔をみながらの会話は簡単にできるし、コミュニケーションが瞬間でとれてしまうわけだから…。

 ビジネスの場では一般的になっていくだろうが、プライベートではどうなのだろうと思う。
 そういえば、なぜ携帯等によるテレビ電話機能が思ったほど使われていないのか、ということについて言及した文章を先日何かで見かけた。

 明確には覚えていないが、つまりは「共有できる範囲の限界」のことだったと記憶している。
 情報機器の進展が止まらないことを考えると、実に興味深い。