すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

目をこらせば浮かび上がってくるもの

2006年08月31日 | 教育ノート
 夏休み明けの校内には、一つのいい雰囲気がある。
 作品が並ぶ。作文や日記などが貼りだされる。担任の注ぐ目の温かさが文となって表れる。
 正直なところ、手抜きしたかもしれないと思うようなモノがあっても、それを丸ごと認めてやることが大事だなと最近思う。
 この子が表したかったことは何なのか。それはどこかにきっとあるはず…そんな目をやれば、浮かび上がってくるものはきっとある。
 その浮かびあがってくるものを、日々の実践に結びつけたいものだ。


 一年生の廊下に「なつやすみ 大はっけん」のコーナーがあって、8人のそれぞれの発見が、絵と文で書かれてありました。その中でも特に「いい目」をしていたなあと思ったのは、S.Rくんでした。

 「おおきなまめのやさいのうえに、みたことのないむしが、十ぴきいて、せんとうのむしにみんながついていくので、びっくりした。」(8月22日)


 豆の実でしょうか。その上の小さな虫たちに目をつけて、その数を数え、行列をつくって進むことを驚きの目で見つめているRくんが想像できます。
字を覚え、植物を育て、観察する仕方を学び、文を書く…様々な学習の跡がそこに表われています。

 「はっけん」や「はてな」を大切にしながら日々の活動を進めたいと改めて思いました。そしてさらに、「かかわる」ことも求めたいと思っています。自分から働きかけて、どうなるか様子を見たり、人に聞いたり、本で調べたり…そんなサイクルの中でこそ、子どもたちの力はどんどん伸びていくはずです。
…明日から9月、「充実の秋」が始まります。(8/31)

見えやすくするのは、実践法

2006年08月30日 | 読書
 およそ10年前に発刊された本である。
『斎藤喜博 教師の実践小事典』(笠原肇著 一莖書房)を読んだ。

 はしがきに次のような文章がある。

斎藤喜博の教育実践法を復活させるしか、もう道はないと言えそうだ。
この真摯な教育実践法と子どもの可能性を信じきった方法以外に、現代の子どもを救う道はない。


 笠原氏には、『斎藤喜博 国語の授業小事典』や『評伝 斎藤喜博』という著書もあり、かなりの研究を進めたうえでの著作であることには間違いない。

 はしがきは、次のように続く。

膨大な全集の中から「出勤」~「帰宅」まで百項目を抽出した。どこから読んでもその日の糧になる。


 確かに、見開き2ページに、半分が斎藤氏の文章そして半分が笠原氏の文章というスタイルは、読みやすく、刺激的で含蓄のある文章が並んでいる。「糧」になり得ると確かに思う。
 その意味で、いい教育書のひとつではある。

 しかし、「斎藤喜博の教育実践法」はあまり見えてこない。
 具体的な記述が少ない、断片的な事実があってもそれにつながる分析や手法が書かれていない。
 まったく斎藤氏のことについて白紙の読者であれば、これらは何のことかと思うのが関の山かもしれない。

 笠原氏は書いている。

私は自分の実践の貧しさ、小ささを実感していますから、斎藤喜博の現出した教育実践のすごさに驚き、共感し憧れるわけです。自分で少しでもそういう実践をしたことがあれば、斎藤喜博の実践がどれほどすぐれたものであるかがわかります。

 確かにそうかもしれない。私が尊敬している何人かの実践者も大いなる影響を受けていることを公言している。わずかではあろうが自分なりに感じ取れるものもある。

 しかし、繰り返すが私にはこの本から「教育実践法」はほんの少ししか見えてこない。
 見えてくるのは「教育実践姿勢」である。本の構成上、断片的な形ではあるが、それでもすさまじいまでの実践姿勢は強く伝わってくる。例えば、次のような文章である。

教育の仕事は、教師や教育研究者が精神の飢えを感じることによってつくりだされていくものである。

学校体制などということを考えるより、自分の声の質なり話し方なりを考えることが、一つの道徳になるわけです。


 「教育実践姿勢」と「教育実践法」は、密接なものではあるが異なるものである。
 上のような姿勢が、どんな方法と結びついていったのか。おそらく笠原氏は、技や方法を提示しその結びつきを指摘できるだろうが、それを進めようとはしなかったのだろう。

 その意図を感じながら、なお思ってしまう。
 見えやすくするべきは、やはり「法」ではないか…。

 改めて自分の立つ位置を確認できたような気がする。

感謝の気持ちをしっかり伝えるということ

2006年08月28日 | 教育ノート
 二学期が始まった。
 休み中の学校評価会議や職員会議などでいろいろと話した中から、いくつかのことを継続的にアナウンスしたいと思った。
 手始めに「親孝行」を意識したこんな文章を書いてみた。



 「猛暑・酷暑」という形容がぴったりする今年の8月、「今夏の顔」を何人か挙げるとすれば、間違いなく早稲田実業の斎藤投手は入ることでしょう。例年以上に盛り上がった決勝戦、そして再戦と手に汗を握ってテレビ観戦なさった方も多かったのではないでしょうか。
 ニュースなどでも再三取り上げられ、その舞台裏を垣間見ることができましたが、さすがに印象深いことが多かったです。その一つに、大会終了後に斎藤投手が、母親宛に送ったメールの内容があります。そこには「4連投できる丈夫な身体に産んでくれた、育ててくれた感謝」が、しっかりした敬語を使って書かれていました。

 7月下旬に由利本荘市で行われたある研修会に参加しました。以前から敬愛している講師の先生が、自らの財布を手にとり、こんなことをおっしゃいました。
「財布か定期入れに、自分の子どもの写真を入れている人は多いでしょう。でも、私は違います。私は、自分の両親の写真を、ここに入れています。」
と、中を開かれました。
 自分をこの世に存在させてくれた親に対する感謝の気持ちを、常に忘れないようにしている先生の心が、ぐっと伝わってきました。

 さて、連日の事件事故報道を見ると、家族関係、親子関係の希薄さが原因となっていることが頻繁に起こっている気がします。もう慣れっこになっているような風潮さえあります。もちろん誰一人それを望ましいとは思っていないでしょうが、ではどうするといった時、そこで立ち止まってしまいがちです。
 親子や家族の絆は、もちろん「家」の中で育まれるものですが、社会や地域の中でも、もちろん学校としても、その意味をじっくりと考えさせる機会を大切にしたいものです。

 「しっかりと伝える」ことは、本校教育の重点の一つです。それは、権利や自己主張だけでなく、相手に対する尊敬、感謝の気持ちを伝えることも大きな内容です。一番つながりの深い親子、兄弟、そして家族、さらに近隣の方々や学校職員、友だち同士など、まず身近なところからしっかり伝え合うことを確認したいと思います。ご理解ご支援いただければ幸いです。
 二学期もよろしくお願いいたします。

「授業の復権」は、単純なものではない

2006年08月26日 | 読書
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 子供たちの学力低下は、授業時間や学習量の減少だけが原因ではない。教師の「授業」技術そのものが低下しているのが最大の問題なのだ。いま必要なのは制度改革ではなく、「授業」という観点に立った真の教育改革である。戦後教育史を振り返ると、子供たちの学力向上に命をかけてきた「授業の達人」たちがいる。創意工夫と情熱にあふれる彼らの実践にもう一度光を当ててみたい。そこに学校再生のためのヒントがあるはずだ。

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 『授業の復権』(森口朗著・新潮新書)の表紙カバー裏に書かれている文章である。
 賛同できる考えである。期待を持って読んだ。

 実は、この本は発刊されたばかりの一昨年に少し立ち読みした記憶がある。
 その時買いそびれ機会を見て、と思っていたのだが、後に書かれた森口氏の『戦後教育によって失われたもの』が結構書棚に並んでいる割に、なかなか店頭で見つけることができずにいたのである。
 今回ネット注文してみたらまだ2刷本だったので、やはりこの手の新書は読者層が限られているのか、とつくづく思った。

 さて、ここで取り上げられた6人の「授業の達人」は私にとってもなじみが深いと言ってもいい。

 新採間もない頃から教育雑誌『ひと』の講読を続けた自分にとって、遠山啓氏は大きな存在だった。「水道方式」によるプリント作りは私の実践の中心だったし、次いで知った板倉聖宣氏の「仮説実験授業」についても授業書を手に入れ取り組んだ記憶は、理科オンチの自分には印象的な出来事だった。
 そして80年代半ば以降、野口芳宏氏、向山洋一氏からは数えきれないほどの教えを受けてきた。そして、今、陰山英男氏、藤原和博氏の実践や取り組みにも、大いなる刺激を受けている。

 いわば節操なく様々な人から学んだ自分から見ても、森口氏が書かれている6名の認識、評価は概ね妥当ではないかと思う。細かい点で異論はあるが、見解の相違を述べたところであまり意味はないだろう。

 それよりも肝心なのは、これからのことである。
 それは、終章の「教育論争の忘れ物」という形でまとめられていた。
 授業を復権させ、学力を向上させていくための「再生プログラム」として森口氏は次の三つを掲げている。

 一つ目は「政治思想停戦」である。
 二つ目は「競争の復活」である。
 最後は、「教師の誉め育て」である。
 
 ここで、あれっと少し腰がくだけたような感じをうけた。
 確かに、三つ目の「見習うべきサンプル」として実践者の授業法を参考にしてほしいという括り方なのだが、それだけではないだろうという思いが湧いてきて、不満足なままに閉じてしまった。

 授業を復権させるというならば、もちろん優れた授業運営、教材開発等を学ぶべきではあるが、もはやそれだけでは不十分である。
 子どもをどう見るか、そして学校、学級の組織をどう作るかといった視点を抜きには成り立たないことは明白である。それは単に競争的手段の復活といったことではないはずである。
 少なくても野口、向山、陰山の各先生方の実践をもう少し突っ込めば、その視点が大きなヒントになってくることはわかったと思うのだが…。

 と考えて、森口氏の略歴に注目。
 「教育評論家・東京都職員」とあり、都庁から小学校・養護学校・高校そしてまた都庁とある。ということは、事務職だろうか。
 
 事務職の方が書いた「授業の復権」というタイトルの本…
 おもしろいと言えば、おもしろい。

縷述「つながる授業」その4

2006年08月24日 | 教育ノート
2学期スタート目前である。
職員会議資料の一部として、1学期の反省を生かして少し提案めいたことを書いてみた。



 研究部にまとめてもらった「一学期の実践の考察」の課題欄に次の二つが記入されていました。

「自分の考えを相手に分かり易く、効果的に伝えるための語彙力が不足している子が多い」
「書いたものを読み上げることはできるが、お話するように話したり、まわりの反応をみてどうしたらよいか判断することが苦手」

 これらに対する具体策としては、よくありがちですがこうしたことが挙げられます。

○語彙を豊富にするためには、なんといっても読書である。読書時間を確保すること…
○語彙を増やすために、国語辞典を常に活用させることが効果的である…
○話す力を育てるために、原稿を話すように読む、メモを作って読む、…という段階が必要だ。
○まわりの人を意識するために、事前に目的意識や相手意識をしっかり確認しておき…


 どれもどれも大切で、それらは授業や日常活動の中に位置づけてほしいことです。全てやりきれなくても実態に合わせて重点的に組んでいくことが必要でしょう。
 さて、この二つの課題を見て、明確な共通点とは言えないにしても、私にはどうも「表現のための基礎的部分が弱い」という印象が感じられました。従って、上の策を位置づけることもさりながら、毎日の授業で次の活動を重視してみたらどうかと考えています。

 ①声に出して読むことを重視する    ② 発言の仕方を教える

 もちろん、先生方は「読ませている」「方法も教えている」はずですが、もうちょっと頻度を上げたり、方法をかえたりしてはどうかという提案です。

 ①に関して言えば、私自身「音読からスタート(教師不在時でも)」というルールを作ったこともありますし、高学年では家での練習は難しいので音読練習5分は常に確保する過程づくりもした時があります。それだけでなく、他教科も「教科書を徹底的に読む」ことを意識して進めたこともありました。
 すらすら読めなければ理解はおぼつかないし、まして表現などは…という考えは、かなり妥当性が高いはずです。
 ②に関しては次へ…

発想、追究の目とババベラ

2006年08月23日 | 雑記帳
 地元の出版社「無明舎出版」の舎主である安倍甲氏の講演を聴いた。

 『地方の時代 秋田から文化を発信』という演題であったが
ダイレクトにそのことを主張したり、推進したりという中身ではなかった。
 しかし編集者、出版経営者として様々な事柄についてのユニークな視点が満載されており、
訥々とした語り口ながら、あっという間と感じた80分間だった。

 「先生になりたくて教育学部に入ったが、今になると、ならなくてよかった」

という冒頭の言葉に、同世代が多い会場からは笑いが漏れた。
 団塊の世代であり、ビートルズ世代である安倍氏だが、一番ぴったりくるのは

 魚肉ソーセージ世代

だと言う。そうなると私自身にも当てはまることだ。
 そして、こんな言い方をした。

 「時代に食べさせられていた」

 本当のソーセージではなくいわば「かまぼこ」である魚肉ソーセージが
1951年に登場し10年間で800倍もの売り上げを記録する背景は
ビキニ沖のまぐろ漁業との関係があることなど、実に興味深かった。
 そして、ある学者が「貧乏人の肉食トレーニング」と名づけたことも
歴史的に見ると、実に納得のいくものだった。

 その後も、書店の消滅、出版社の現状やハンバーグにおける都市伝説、
そしても今や秋田の一つの象徴でもある「ババベラアイス」について等々
実に興味をそそられる話題が続いた。
 「ババベラ」については単行本の計画があるそうで、
商標権との問題があっても裁判覚悟で発刊にこぎつけたいと熱く語っていた。
 本当に楽しみである。

 テーマとの結びつきがなかなか感じられなかったのだが
最後の段階で、「食」を視点にして秋田の文化の区分けをされたことで
結局、安倍氏が何を言いたいのか、つかめたような気がした。
 
 物事の表面、言葉の上っ面だけを見ない
 なぜ、どこから、いつから…、あれはどうするといった疑問を忘れない


 編集の仕事は、発想と追究の塊だなと、改めて思った。
 秋田県人であっても、こうした疑問をもった人は少ないのではないか。

 路上のババベラの売り子は、どこでおしっこをするのか
 

国の教育というチームプレー

2006年08月19日 | 雑記帳
 日本という国は、何を教え、育ててきたか。

 別に靖国や歴史を語ろうとしているのではない。
『オシムの言葉』に載っていた一節が頭に残っているのだ。

 「日本人は、平均的な地位、中間に甘んじるきらいがある。野心に欠ける。」

 なんとなくわかる。
「出る杭は打たれる」「足並みをそろえて」といった感覚は、知らず知らずのうちに私たちの身体に沁み込んでいるようだ。そうした世間の目、習性が教育に影響を及ぼさないわけがない。

 では、なぜそうなったのか。
 岡本薫氏が月刊誌に書いていた次の言葉がリンクした。

 日本では学習指導要領に何の記述もないのに、教師が子どもたちに「日本は資源の少ない脆弱な小国だ」という意識を植え付けている

 なるほど、と思った。自分もそういう言い方を聞いたことがある。そしてそれと似た言い方を社会科の時間にしたような記憶もかすかにある。
 この、いわば自虐的な言い方によって、漠然と不安を抱え、危機感を持っている日本人は、「まとまり」や「勤勉」そして「協調」を好むように育てられる。その結果、「進取」に満ちた性格は養いづらいのかもしれない。

 しかし、その勤勉性や協調性が、外国の教育専門家から多くの賛辞をもらったことがある。
 阪神淡路大震災後の復興にかかわる時だった。負傷者の救援や援助物資の配分における協力体制、犯罪の少なさである。
 国内でもいくらかアナウンスされたとは言いながら、それが教育の成果だと強調されたことはなかった。例えば特別活動における当番活動、班活動、行事等々といった活動の独自性、それによって培われてきたことをもっと検証してもよくなかったかと思う。
 もちろん、一部でそういう動きはあったろうが、広がらなかったのは事実である。
 これも、自らをアピールすることを嫌う控え目な国民性のなせることか。

 国の教育という大きなチームプレーがうまく機能しているか、難しいところである。
 戦う相手が変わってきていることだけは確かで、それに対してどんな策をとるのか。
 新たな戦術は必要だろうけども、自らの良さをもとにするものではありたい。

監督という生き物~『オシムの言葉』

2006年08月16日 | 読書
 話題の本『オシムの言葉』(木村元彦著・集英社)を読んだ。
 サッカーファンでも、東欧情勢通でもない自分だが、伝わってくるものがある。
 
 著者が訪れたサラエボの女性タクシードライバーが、声を詰まらせながら言った。

「間違いなく…、わが国で…、一番…、好かれている人物です」

 出自を背負ってサッカーにその人生を賭ける男を賛辞する言葉は、このように数々あった。
 その半生の凄さ、深さが余すことなく書かれている本だと思う。

 オシム氏に対する周囲の言葉で個人的に一番惹かれたのは
通訳である間瀬氏が語った次の言葉である。

 あの人は監督をやっているんじゃなくて、監督という生き物なんですよ。

 この形容は、どういう意味なのか。
間瀬氏は「常に指導。指導するのが当たり前」という言葉を続けているが
そうした表面上?のことではない気がする。
 「生き物」というからは、どんな習性を持っているかである。
 それを語録の中から、書き出してみると…

  常に考えているのは、選手たちの『勝ちたい』『克ちたい』という強い気持ちを目覚めさせることなんだ

  大切なことは、まずどういう選手がいるか把握すること。個性を活かすシステムでなければ意味がない。

  やることをやってもし負けるのなら、胸を張って帰れるはずだ


 こう書くと、抽象的な精神論に近いようなイメージだが、
裏打ちされていることを知ると納得がいく。
 それは例えば、コーチライセンス研修での次の言葉だ。

  トレーニング方法で言えば、教師がこういうメニューがある、と黒板に書いた段階ですでに過去のものになっている。

 例えば、著者のインタビューに答えた核心の言葉だ。

  モチベーションを高める方法なんて何千通りもある。

 起きている間ずっとサッカーのことを考えている「生き物」である。
 これらの言葉が、強く響かないわけがないだろう。

分をわきまえた授業

2006年08月15日 | 雑記帳
 町内で行われた算数数学の夏季研修会に参加した。
 筑波大学付属小より坪田耕三・細水保宏両先生を迎えての研究会である。

 提案授業は細水先生による「数と図形の不思議」。6年生が対象の「発展的な扱いによる授業」である。
 30℃を越していることは明らかの室内、風もあまりない状態だったので、ぼんやりとした頭で会場後方からの参観となった。
 付属小教官らしく手際のよい進め方であるし、児童への声かけもふんだんにあり、さすがと感じた。時間が延びたことを除いては、かなり好感の持てる授業だった。

 パネルディスカッションという形で小一時間研究協議が行われたが、そこでもまた得心のいったことがあった。

 パネリストでもある坪田先生がおっしゃった「子どもに発見を促す方法の工夫」「アイデアの価値付け」などは、確かになるほどなあと思わされた。
 そういえば、数年前二年続けて参観した坪田先生の授業は、そうした要素が確かにあったと思い起こされる。
 それが、名人芸と言われる所以でもあるのだろう。

 しかし、今回私は細水先生の言葉や手法に強く惹かれた。
「同じことを繰り返す」
「一度使った考えをもう一回使う」
「いつも具体的操作をすることはない」等々
 これは授業運営法としてかなり重要な視点だと考える。
 他のパネリストが言った提示の仕方のアイデアや個別の作業場面の必要は、わからぬではないが、授業者の考えは明快であり、それが私には提案性に見えた。
 子どもは、繰り返しを好む。そして同じことであっても、きちんと手法を適用して解決できたこと自体楽しむものだ。
 その意味で、本時の流し方はかなり子どもの実態に即したものだったと言えるのではないか。

 パネリストの方がやや批判的な問いかけをした。
「楽しいと感じたのはどの場面だったのでしょう」
 それは個々の子どもに聞かなければわからないことだが、けしてパネリストが想定するような思考や作業の場面だけに楽しさがあるわけではない。
 先生に声をかけられ、認められたことも楽しさと言えるはずで、それを多くの子に作り出したのはあの「繰り返し」なのである。

 「もう一歩先を目指しての教師の働きかけ」は結構高度なことだし、力足らずの教師では火傷することも多い。
 子どもが混乱したままに終わる授業を何回見たことか(したことか)。
 
 分をわきまえた授業は子どもを混乱させない。

3がわからない人間

2006年08月14日 | 読書
うっかりというか、視野がせまいというか
同じ本を買ってしまうときがある。
単行本が書名を変えて文庫になったときなど、その罠?にひっかかる。

齋藤孝氏の『発想力』(文春文庫)もその一つだ。

確か『発想名人』ってあったよなと思いながらも買ってしまって、
読み出してある箇所になると、ああと気づいたりする。

それでも全部読み通したので、結構この本は良かったんだなと一人納得する。

「3がわからない人間」
齋藤氏にインタビューにきた編集者が口にだした言葉だ。

 「齋藤先生は3という数を好まれていますが、3がわからない人間がキレるんじゃないでょうか。つまり、社会性がないとキレやすいということです。」

 おもしろい発想だと思った。
 二者択一でないところから社会性に結びつけることはありがちとも言えるが、
それを3がわからないと表現できるところは素晴らしい。
 齋藤氏ものって、次のように発想が展開する。

 ひきこもりも3という数を学びきれていないことと関係あるんじゃないでしょうか。

 ひきこもりは世話をする二番目の人間がいて、はじめて成立する現象だということになる。では、第三の人間は必要かというと、これはひきこもりに必要ない。

 ひきこもりは2という数字に留まって、3を拒否した状態なわけです。


 氏も「もちろんこのような単純な論理が通用するというわけではない」と付け加えているが、
かなり原則的な視点がそこにあるように思った。

 問題を抱える子ども、特に社会性の発達に課題がある子に対して
「3」という数を頭に入れて接していくことは、何かしらヒントになるかもしれない。
 あれかこれか、というだけでなく、できるだけもう一つの視点も示すこと…
 この子とあの子だけでなく、ちがう子の存在もつかってみること…

「3」を意識させ、実感させていく…
そんな働きかけを続けていくことが大切だと考えた。