すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

情報公開がおよぼす学校の退廃

2005年06月30日 | 読書
学校の情報公開の流行は止めどもない勢いで進んでいる。こうして、やむなく、あるいはそれを口実にして、教師の言葉がおざなりなものになっていく。あるいは公開は名ばかりで真実は隠される。いずれにせよこれは学校の退廃である。
齋藤武夫「学校マネジメント 2005.7」(明治図書)


公開すべきではない真実が多い学校現場である。
何を、どういう形で、伝えることが
学校の営みにプラスになるか、
という視点を頑固に持ち続けることが
「子どもを守り、育てる」ことにつながるのではないか。
大事な役目である。

真似をするなら、丸ごと真似して

2005年06月29日 | 読書
よく分かったと言ってくださったけれども、もしも、これを聞いた方が、面白そうだ、簡単そうだ、という程度のことで気軽に真似をなさつたら、きっと失敗するわ。教室の現場はそんなものじゃない。真似をするなら、丸ごと真似してくださらないと、十分な結果など出ないですよ。
大村はま「総合教育技術 2005.7」(小学館)


「真似」から始まる「学ぶ」ではあるが
教師の実力を高めるためには、安易な「真似」ではいけない。
真似の意味を探ったり、反復して身につけたり
徹底した時間、空間に自らをおかなければ成果は見えない。
それは教師の一つの覚悟だと思う。

目前三十センチに焦点を結ぶ働き

2005年06月25日 | 読書
生まれて間もない赤ん坊の手におもちゃを持たせる、絵を見せる、はいはいをさせるなどきちんとした働きかけをさせると、目前三十センチのところにきちんと焦点を結ぶ働きが生じます。けれども、手におもちゃを持たせず、絵本も見せず、はいはいもさせず、テレビを見せて、焦点を遠くに結ぶことしかしていない子どもは、六歳の時点で、文字読みの難しい子どもに育ってしまうのです。
七田眞「子どもの右脳を鍛える作文練習帳」(,ネコ・パブリッシング)


文字がうまく読めない理由を探るために
新しい視点が授けられたように思った。
テレビ視聴の時間が長かった子は
もしかしたら、教科書の動かない文字列に対して
一定時間焦点を結ばせるのが困難なのではないか…
「指で挟んで読ませる」といった
昔ながらの方法の有効性にも光があたる。

見え方を理解することの困難さ

2005年06月24日 | 読書
うまくできるようになるということは、その知識が頭の奥に入っているということです。表層からは消えるということです。専門家は専門家の見方をするから専門家なので素人とは違った見方をします。実はできない子どもも見ています。見ているものが違うだけなのです。しかし、すでにできるようになってしまった教師にはできない子の『気持ち』(見え方)を理解することはきわめて困難なことなのです。
西川純「授業づくりネットワーク 2005.7」(学事出版)


例えば「単位量あたりの大きさ」がどうしても理解できない子に
様々な説明をし、図をつかい、例を出しながら
教師が教えたとしても、どれほどの進展があるのか。
「身近な子どものわかり方を伝える」という考え方を
(もちろん、それはやってきたことなのだが)
授業運営に使っていく、いや核としていくと、どう変わるのだろう。

授業力とは行動力の謂

2005年06月23日 | 読書
授業というのは、要するに「行動で示す」ものである。授業とは行動なのである。授業力とはつまり行動力の謂である。行動で示せなければ授業にはならない。
野口芳宏「学校マネジメント 2005.7」


頭の中で組み立てたことは、授業とは呼ばない。
働きかけてこそ成立する授業、
いくらたくさんのキャリアを持ち、
平均値、反応の予測が可能であっても
授業の良し悪しの判断は、その時の行動でしかくだせない。

教育者がいちばんやらなくてはいけないこと

2005年06月22日 | 読書
社会をつくるということは、お互いに助けたり助けられたりの関係をつくることです。教育者がいちばんやらなくてはいけないのは、社会をつくるそういう基本的な考え方をあらゆる機会を通じて、子どもに教えていくことでしょう。「弱い奴は死ね」というメッセージは絶対に伝えてほしくない。強者の論理を振りかざしてはいけない。そういう醜い心に染まる前に、子どもたちに人は愛することは何なのか、教えてほしい。
森永卓郎「児童心理 2005.7」(金子書房)


私たちの仕事には今様々な目標があり
様々なノルマも課せられている状況である。
しかし、本当に大切なことは何かと振り返れば
それはいくつかのことに絞られるはずだ。
目にはあまり見えない大切なことを、今日伝えただろうか。

勉強したいなら、月謝を払ってください

2005年06月21日 | 読書
ある県の教育委員会での話である。文部科学省から出向してきた三十代の課長が四月、教育現場から指導主事として赴任してきた教師から「委員会は初めてなので何もわかりません。勉強したいと思います」という挨拶を受けた、という。そこで、彼が「先生、役所で勉強してもらっては困ります。仕事をしてください」といったところ、教師は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたそうだ。課長は多少嫌味っぽく「先生は勉強したいなら、月謝を払ってください。給料をいただくならば仕事をしてください」と言った、という。
明石要一「授業研究21 2005.7」(明治図書)


こういう言い回しが好きな日本人の姿を見事に描いている。
しかし、もう一歩突っ込んでみると
「結果でなく姿勢や過程を重視する」という見方もできる。
もちろん結果優先の世の中であることは承知しながらも
姿勢や過程を大事にしてきた教育の良さは発揮されてもいい。

教育版゛総合芸術゛

2005年06月20日 | 読書
杉渕氏の授業は、昔ながらの教師としての厳しい一面を保ちつつも、あるときはディズニーランド、あるときはドラゴンクエスト、あるときはポケットモンスターと、エンターテイメント性を大胆に取り入れ、同時に巧みな話術やパフォーマンス、小道具をも用い、子供たちとのやり取りすらも演出効果として利用する、教育版゛総合芸術゛なのだ。
出来斉「検証学力向上」(プレジデント社)


かつて「芸術的な授業」という言い方があったように思う。
久しくそんな言葉を使ったことがないし
私がイメージできるとすれば、
どちらかといえば静的な風景が思い浮かんだりする。
杉渕氏の授業は、そのイメージと対極にあった。

競争的価値への囚われ

2005年06月17日 | 読書
他人と「比較」されることにとどまらず、自分自身のなかにあっても、「できない」ことより「できる」ことの方が価値があるという競争的価値への囚われによって、「できない」ときの自分自身が否定されてしまう。「比較」することでの序列化と、「序列」づけられることでの「自己否定」に敏感に反応するのである。
深澤広明「現代教育科学 2005.7」(明治図書)


「自己否定」をエネルギーに変えられる強い子を育てたいと思う。
目の前にある「競争」や「序列」は
目的ではなく、方法やツールであるという意識を
まず教師自身が持ち、使いこなせるようにならなければ…。


杉渕学級参観記…その3

2005年06月10日 | 雑記帳
スピードにのって、バリエーションのある活動をこなすのが
杉渕実践の大づかみなとらえだ。
しかし、絶対に見逃せないキーワードがある。
イメージである。

朝の全校活動で、各学年が思い思いに練習しているとき
6年生だけがトーンの違う声を出し始めた。
発声練習も当然あろうが、この声はイメージを重視する姿勢がなければ絶対生まれないと思った。

授業では、たとえば国語の音読場面。
ただはっきりと、ただ速く、ということではなく
「どういう景色か、気持ちか」そうした助言が、さりげなく入れられる。
言葉を大切にするために「間」を使うことも多い。
たとえば、算数の分数の説明。
「通分は、人間関係にたとえる。」
そういう生活と結びつけていくことを大切にしている。

「イメージ豊かな」などと簡単に口にはするが
それは数値化できないものだ。
しかし測ることはできなくても、推量るくらいならできるだろう。
子どもの表情や動き、出てくる言葉や声調、そうしたまるごとの活動を通して
多少なりともキャリアを積んだ教員なら
子どもの持つイメージの豊かさを感じることができると思う。

わずか三時間ほどの参観ではあるが
杉渕学級の子どもたちのイメージする力は鍛えられていると推量った。
国語の短歌の読解で、指名なし発表を聞いていると
自分たちでイメージを広げよう、深めようとしていることがよくわかった。
「なぜこの句を作ったのか、は明日話し合いましょう」
と杉渕先生が打ち切られたとき、明日その時間を見ることができないことを本当に残念だと思った。

スピードとバリエーションを型の指導ととらえてみると
イメージは、その型に「熱」を与えるように思う。
熱があるからこそ、実践は高みを目指して加速していく。