すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「ない」ことに配慮して環境を整える

2006年02月28日 | 読書
余計な物が掲示されていれば、授業者以外の物を見てしまう。それを省くために、この教室は、必死になって環境を整えてあるんです。
横山浩之『科学の目による授業検証』(私家版)


注意欠陥のある児童がいる学級では
こうした配慮が必要になってくるという。
「ある」ということに対して教室環境を考えたことはあったが
「ない」ことについて配慮をして
教室環境を考えることはあっただろうか。
環境を整えるということの意味はむしろそこにある。

「幸せ」のための教育

2006年02月25日 | 読書
教育であれば、子どもの幸せのためだけに学校はあり、すべての行事、すべての授業、それが子どもの幸せのためになっているのかどうかを問い続けろと…。先生や学校の都合で何かを決めているのではないかと…。
渡邉美樹「総合教育技術 2006.3」(小学館)


この若き経営者の言動には関心を寄せている。
熱く、強い思いが教育には必要で
それは自らに課せられた、いや自らが選択したというべきか
仕事の中身によって様々に具現化されるべきだ。
理想論と笑うことなかれ。
かつて「学力とは、幸せをつくる力だ」と喝破した先輩あり。
今の授業がどう幸せと結びついているのか
端的に答えられるような姿勢を忘れてはいけない。

今伸ばすべきは、関係把握の力だと思う

2006年02月23日 | 読書
未知の相手や、未知の状況の中で、「理解する→考える→表現する」術を、試し、磨き、工夫する機会は、学校でも、日常生活でも、だれでもおとずれています。
年のわりに関係把握が弱い人は、なんとなくその機会を逃してきてしまったのではないか、やった人と、なんとなくやらずにきてしまった人の差、ではないかと、いま、私は考えています。

山田ズーニー『おとなの小論文教室』(河出書房新社)


「関係把握力」はあまり取り上げる人はいないけれど
教職にあれば、かなりの人がその弱さを感じていることではないか。
日常の仕事のなかで無意識的にやっていることも多いだろうが
この三つのステップを改めて意識し、
何が足りないか、どのように定着させるか
そうした攻めを通じて、力を伸ばすことにもっと意識的でありたい。

欲望と社会性の妥協点を探るために

2006年02月20日 | 読書
自分の欲望は自己造りには必要不可欠である。教師のいうことや学校の決まりばかりを守る生活では、自己の欲望から生まれる自分造りは不可能になる。
高橋良臣「学校マネジメント 2006.3」(明治図書)


はみ出る子に対してどんな視線を投げかけるか
はみ出せない子に対してどの程度の後押しが妥当なのか
まず大雑把に考えていく必要がある。
欲望と社会性の妥協点を探るためには
常に子どもを見つめ続けていなければならない。

学習者の読書量を伸ばす条件

2006年02月14日 | 読書
読書指導のために教科書の外に出て教材を求める能力、余力、キャパシティをもつ教師の少ないことを痛感する。
学習者の読書量を伸ばす指導は、読書量、読書経験豊かな指導者のみ実践できる。

小田迪夫「国語教育 2006.2」(明治図書)


実践に取り掛かるためには、一冊の本、一行の文章があれば足りる。
しかし、その継続となったときは、それだけでは足りない。
指導者が実践の意味づけをし、吟味し、活用していく段階では
それを裏打ちする経験が必要である。
読書はそのためにもっとも必須なものと言っていいかもしれない。
自らの体験からも実感できることである。
子どもの「読書」をテーマにした指導も、当然含まれる。

「効果のある学校」の幹とは

2006年02月12日 | 読書
日本の「効果ある学校」は、何よりも仲間とのつながりを大事に考え、集団のなかでの切磋琢磨を通じた人間形成の筋道を探求してきた。
志水宏吉『学力を育てる』(岩波新書)


学校を少し外側から見てみると
「同一地域の子どもたち」が「希望するかしないかにかかわらず」
「同じ建物、敷地のなか」で「長時間を過ごす」
そういったかなり特殊な形態であることに気づく。
その特殊な形を作り上げ、維持し、効果が上がるようにするには
何が一番肝心なのか…
個々の学力保障をことさらに大きく見て
「幹」が弱ったり、腐ったりしていないか。

新河岸小研究会参観記…その3(了)

2006年02月09日 | 雑記帳
前向きな教師集団の実現は、学校づくりそのものである


大きな収穫は、授業公開や全校発表だけではなかった。
研究協議会の、シンプルさと明朗さは特筆してもよい。
準備不足であったのか、滑らかな運営とは言えなかったが、
それ自体も肩に力が入らないことの証しでもあっように思う。

昨年度好評?だったという「冬のヒナタ」と名づけられたパロディ風の実践骨子紹介に続き
今年はあのドラマがネタである。曰く「女王たちの教室」。
視聴率からすれば少し落ちるだろうし、会場の反応は今一歩だったような気もするが
「自分なら、あの印象的な台詞(「いい加減、目覚めなさい」)をもっと生かしたいなあ」
と、そんな下世話なことを思わせるほどの楽しさだった。

模擬授業、テーマ別説明も、テンポ良く明快であり、
そこに主張がはっきりと感じられるものだった。
何より担当した職員の表情が輝いて見えた。
そこでの内容がどういうレベルのものであろうと、
「教師とは学ぶ者」という意識があれば、
それはまさしく「学校」にふさわしいと思う。
その意味で、新河岸小の職員集団の素晴らしさに憧憬を感じた。

生越教授による講演は30分と限られたものであり、
内容に新鮮さは感じられなかったが、
新河岸小の実践を支える理論が
コンパクトにまとめられていたと言っていいだろう。

杉渕氏の研究会後のMMで、
テーマ別のあるコーナーに顔を出さなかったことについての説明があったが、
まさしく正解であったと思う。
目指すべきは、教師も子どもも「自立」である。


おまけ…1
研究集録に染谷校長先生が書かれていたこと。
「校長は、『教科書を教えなさい。』『(略)』という指導を続けました。」
研究説明で、杉渕先生が話したこと。
「全員が1回は公開授業をするようになりました。」
似たようなことがToss関係の情報でも時折言われていたが、
私の勤める田舎の学校では常識とも言えるそのようなことが、
簡単には実行されない都会の学校の難儀さを改めて感じた。


おまけ…2
杉渕先生が、研究説明の折に入れたTV番組の話。
NHK『プロフェッショナル』の確か3回目だったかと思うが、
私も視ていてあのパティシエの話には納得させられた。
同じ材料、同じレシピで作って味が違うわけ、
それは「当たり前のことを、当たり前にやっている」かどうかで決まる。
当たり前のことを当たり前にやっていれば、特別になる。
「多忙化」という言葉自体に振り回されているような教育現場が
今もっとも大切にしなければいけないことのように感じた。

今回も、厳寒の秋田から足を運んだ価値が十分にあった一日だった。

新河岸小研究会参観記…その2

2006年02月08日 | 雑記帳
スピードの要求は、身体化へ真っ直ぐに向けられている

6月の感想記のキーワードは
「スピード・バリエーション・イメージ」であったが、
この「スピード」に関してふと疑問が生じた瞬間があった。

それは「やまなし」の会話等を順番に読んでいく場面であった。
「ふだんからスピードを要求していくと、
表現しようとするときどうしても速くなり、
音読の工夫が足りなくなるのでは?」という問いである。
しかし、子どもたちの滑舌のいい言い回しを繰り返し聞いていると
杉渕氏の意図がわかるような気がした。

じっくりと考えて表現してみようと、
様々な要素を検討することに時間を割くより、
多量の多様の活動をさせて
「身体に沁みこませていく」ことが強調されているのだ。

「工夫をしよう」といったテーマで話し合ったり、
思考させたりする活動は、一見華やかではあるが
果たして全員の子どもの力を高めているのか、
自分自身の実践を振り返っても疑問が残る。
杉渕氏はそういった迷い?にとらわれることなく
実践を進めていると確信した。

6月の授業公開を見て考えた「量から質への変化」ということは、
長いスパンで考えられていて、揺るぎなく実行されている
…その強さに改めて脱帽した。

新河岸小研究会参観記…その1

2006年02月07日 | 雑記帳
6月の学校公開に続き、今年度二度目の参観となる。
断片的にはなるが、今回も印象に残ったことを記しておきたい。

杉渕実践における「鍛え」は、「耳」に向けられている

6月の学校公開で参観したときの印象と比較したとき、
「落ち着き」が感じられたことは言うまでもない。
一部を動画でとってあったので見直してみたが、間違いなかった。
今回は体育館での授業公開だったが、
杉渕氏の声量はそれを意識していないように感じた。
しかし、子どもたちはその声を確実に聞き取っていたし、
その点が一番鍛えられているという印象をもった。

「声を出せ、声を!」「テンポが命なんだよ」
…基礎のメニューが繰り返されるなかでそんな声がとんだ。
指導されているのは、声や言い方のように感じるが、
実はそれを聴き取る耳を鍛えているのではないかと思えてきた。
様々なバリエーションを使って読むことも、
その表現の仕方を支えていくのはやはり「聞く・聴く」ということだ。
書かせたことを読ませる行為も、
自分の声を自分で聴いていくことに他ならない。
その積み重ねが、
他の子どもの発表時にも集中力をきらさずに姿勢を保ち続けていること、
一斉読みでばらつきがあまり感じられないこと、に
見事に結びついているはずだ。

「耳を、様々な手法で鍛えよ」
…これは私が見た杉渕実践の一断面である

平尾氏のことばに学ぶ…その3

2006年02月05日 | 読書
情報のなかみに感動することはあるだろうが
それ以上に、伝え手の存在は大きいと感じることがある。
「結局伝わるのはエネルギー」という思いは
ここ数年の自分の結論めいたものにもなっている。
それは子どもをとりまく現場で、一層確信を持って響いてくる。

情報というのは、最後にタッチした人の熱の部分が加わらないと、相手には染みとおっていかなかったりするんですね。情熱とか、気迫とか、真剣さとか、それが情報に添えれることで、情報そのものが本当に生きてくるんじゃないのでしょうか。