すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

風穴は見つからぬままなれど

2008年12月31日 | 雑記帳
 風穴は見つかったのかと問われれば、「残念ながら」と応ずるしかない。

 陥穽ばかりが深く見えにくくなっているのだろうか。
 どっぷりとつかって思考停止になるような状態は避けたい、という一縷の思いで駄文を書き連ねているが、時々その意味付けを忘れていることも正直に告白しよう。

 さて、読書である。
 どうにか100冊クリアできたが、教育書を少し遠ざけている印象が益々強く、最後でなんとか辻褄を合わせようという見栄が、ミエミエである。反省。
 今年は、数は少ないが小説にはまった年であった。
 『悪人』『漂泊の牙』『邂逅の森』の三冊は最高ランクをつけた。どう展開していくのか心の高鳴りを感じたのは本当に久しぶりだった。
 経営的なものも含めて教育書も読むには読んだが、現在の情勢へ実務的に対応するためにという読み方は、もはや無理があるように思えた。それだけ現実は変化が速く、基本になる部分の鍛えになる書物の方が心に沁みた。

 仕事のことでいえば、東北大会での研究発表は印象的なことだったが、こうした形式の難しさも強く感じた。
 勤務校のブログを開始したことは、自分ではやはり大きい出来事だ。少し冒険的な部分もあるが、通信活動、資料蓄積活動としての可能性はかなり高いと見ているので、自分自身では満足のいくスタートである。
 また、教育雑誌等への原稿依頼が三ヶ月続いてきたことにも少し戸惑ったが、なんとか書けるもんだと一人納得できたことも少し嬉しい。

 以前書いたが自宅のネット環境を変更したこともあって、今までホームページにアップしたデータを、雑誌掲載原稿などと共に、久しぶりに集約「すぷりんぐ第5集」という形でどうにか編集した。
 2001年から2005年度までのものである。わずかの冊数しか印刷しなかったが結構な時間がかかり、まあそれなりに納得できた。
 多少の教育実践もあるので知り合いや若い方々に配ったが、喜んでもらっているようだ。

 変更以前のプロバイダーに2004年から続けてきた駄文ブログ(身辺雑記、少し教育、少し読書)があり、これもずいぶんの量だった。一緒に編集をと思ったがあまりの多さに苦慮し途中で断念した。
 しかし結局ほおっておけず?全データの三分の一ほどを集約した。
 先日、ようやく製本ができた。ただこちらは他の方に配って参考にしてもらうほどの中身ではないので、周りの方々にはあげていない。

 しかし実は、今のこのブログよりかなり訪問者数も多かっので、そちらからここへ移ってきた人もいるかもしれない…と考えて
 もし興味ある方がいらっしゃれば、下記まで連絡くだされば贈呈したい。

 h-numazawa★nifty.com (★を@に替えてください)

 年末大放出(といっても10冊程度)である。
 題名は、今となっては懐かしい『すぷりんぐ+α』である。

 今年の終わり方が、こんなんでいいのかな。

心棒を離さずにいるために

2008年12月30日 | 読書
 そもそも「教育再生」という言葉が怪しい。
 「教育は死んだ」などという表現も、ある特定の出来事に対して比喩的に用いられるのならともかく、公的な機関の名称としてそうした表現を用いることは、粗雑ではないのか。誰かが自説に有利な事象を拡大解釈しているに過ぎないのではないか。
 もっと緻密に現場を見、データを分析し解釈してみること、そのうえで効果的な方法を探り、手順を踏んで実行していく…こういった流れが教育には求められるのだ、というしごくもっともなことをこの本は語っていると思う。

 『教育再生の迷走』(苅谷剛彦著 筑摩書房)

 先々週、人間ドックに行ったときに読み始めたのだが、どうも読書モードに突入できず、今日ようやく読み終えた。
 題名のままに、この国の迷走ぶりがいつもながらの分析と明快な論理で語られている本である。
 政治と教育の関係について、教育をめぐる様々なデータを駆使しながら展開しているといっていいだろう。
 体調が万全でないまま読んでいると、なんだか行き先不安になってくる部分も確かにあるが、今の「改革」の何が問題なのかもはっきり見えてくる。
 個人的には、官僚主義や、反官僚主義によって台頭する政治主導に、教育がどう巻き込まれていくのか、といった点が興味深かった。まさにここ数ヶ月、そしてつい先日も「学力調査結果」を巡って本県で起こっている出来事にも合致する。

 しかし、著者自身があとがきで述べているように、あまりにも目まぐるしい変化によってわずかに二年前のことでも「過去」になってしまう現況がある。
 全国学力調査の導入や英語活動の必修化などに対して、疑問など呈している暇などなく、ひたすらに増え続けるリストをこなす現場教員の哀れな姿が思い浮かんでくるようだ。
 流れに対してどんな姿勢であるべきか常に問われるのだが、止まっていられないことだけは確かである。その時に、しっかりと離さずにいる心棒のようなものを見失ってはならないだろう。
 現場にいる私たちが時々忘れそうになることを著者はズバリと書いている。(自分だけの不明かもしれないが)

 教師にとって、仕事のやりがいは「今、ここ」にいる目の前の児童生徒たちとの関わりにおいて、どれだけ手応えや充実感を感じられるかである。

 そのために何が必要か。
 指折る数は結構多い。
 冷静な判断力とともに、あきらめずに数え組み立ててみるというねばり強さが基になることは確かである。

カゼに負けるな

2008年12月29日 | 雑記帳
 今年は体調をあまり崩さなかったのに、ここにきて酷い風邪に罹ってしまった。
 高熱や関節の痛みはないのだが、咽頭痛や頭痛がひどく、かかりつけの医院で処方してもらった薬を飲んで三日目でようやく回復の兆しが見えたというところである。

 そういう状態なのでベットで寝ているときはとても普通の本には手が伸びず、コミックや週刊誌ぐらいが関の山であった。ぼんやり眺めているという感じでめくっていたが、この文章のところで手が止まった。

 自分と対面している人間に無力感や恐怖感を植えつけることに大変長けている

 内田樹氏の文章だが、対象とされている人物はよくテレビに登場する某府知事と某首相である。
 この文章のタイトルはこうなっている。

「競争教育」では子供の危機は救えない

 現在この国にまたぞろ強まってきている競争原理による教育のあり方は、結局のところどういう人間を作り出そうとしているのか、という観点で語られている。
 そして、競争によって伸びるのは「学力」そのものではなく、相対優位だけが問題にされ、そのためには周囲に対する妨害こそが費用対効果がよいと述べている。つまりそういった能力に長けている人間が勝者になるということである。

 こういった考えがじわりと蔓延した世の中では、すでに多くの子どもが「逃亡」しているし、それはきっと都市部に象徴的に現われているだろう。全国学力調査が語っていることの一つはそれではないか、とも感ずる。

 と、ここまで書いて何を書きたかったのか…まだ頭がぼんやりしているので、あらぬ道筋をたどりそうだ。
 そうだ、無力感や恐怖感、劣等感を植え付けられないように、私たちはもっと語るべきだということを書きたかったんだ。
 知らぬ間に身動きがどれなくなる状況だけは避けねばならない。
 
 と、まだ身動きが少しおぼつかない状態で考えたことでした。
 

意識して軸を行き来させる

2008年12月24日 | 読書
 脳力を鍛える方法があるとすれば、子どもが「時間軸」と「空間軸」でものを考える習慣をつけられるように、大人が目配りしていくことではないでしょうか。

 教育雑誌に載っていた寺島実郎氏のインタビュー記事の中にある言葉である。

 脳力を『物事の本質を考え抜く力』と定義している寺島氏は、その力を高めるためには、歴史認識という意味の「時間軸」、そして文化や文明の多面性という「空間軸」の必要性を説く。
 しかし、もう少し基本的につまり低学年あたりを対象に育てようとするときも、「時間軸・空間軸」という考え方は必要ではないかと、考えた。

 今朝あなたは何をしたか。昨日なんと言ったか。1ヵ月前のあの出来事を振り返ってみよう…といったこと、
 学校の中の場所の名前を覚える、出かけた町で見たことを書く、家へ訪ねてきた親類の話を聞く…といったこと。
 厳密に時間、空間という区分けができないこともあるだろうが、あえて軸を設定して意識して軸を行き来させること。それはとても教育的なアプローチに思える。
その子が得意なこと、苦手なこともそういう視点でみれば、また新たな展開になるのかもしれない。

 どの軸上で子どもたちに問うているのか、座標のどの位置で指示しているのか、といったことの意識を積み重ねることは、もしかしたら自分自身の脳力を高める方法でもあるか。

ゆるやかに再生する

2008年12月21日 | 雑記帳
 秋田でもようやく上映されることになった『ぐるりのこと。』
 いそいそと出かけたが、初日というのにガラガラの観客席はないでしょ。
 このあたりが、地方都市でのレベルでしょうか…そんなぼやきはともかく。
 世相としての90年代を法廷シーンで描くこと以外は特に劇的な展開があるわけではないが、ゆるやかながらも心に沁みる作品だった。

 この映画の一つの視点は「見る」ということだと感じた。
 リリー・フランキー扮するカナオ(これがまたリリーそのもののように思えて)の仕事が法廷画家という設定なので、そう思わせるということだろうが、とにかく人物や対象物を「見る」場面が私にとっては印象的だ。
 これは、あまり饒舌でないカナオが見ることによって理解していく、深く感じようとしていることとつながる。そういう人間が、この世の中に少なからずいるし、私もある知人を思い浮かべることができた。
 例えば、仕事仲間にさりげなくその人が欲しがっていたものをプレゼントする場面など…到底自分にはできないなあ、そんな心の襞がないんだなあ、ハッと思わされる。

 橋口監督の作品は初めて観たが、その世界観はどんなものか確かめたくなった。
 私にとってはリリーの存在感ばかりが目立った映画ではあるが、さすがの木村多江と思う場面もあった。
 それは鬱から立ち直るきっかけとなる諍いの後に泣くシーンで、かつてテレビドラマ『白い巨塔』でガンに罹った悲しみを鼻水垂らしながら熱演した彼女そのものだった。アカデミー賞優秀主演女優賞に選ばれたそうな、めでたいことだ。

 エンドロールが終わって明るくなった観客席には、私と二組のペア。
 一組は二十代前半だろうか、もう一組は五十代以上。
 きっとこの映画を一番観てほしい年代を、外している人々ですね。
 それもまた地方の現状ではあるか…といっても、地方の再生よりも家族の再生、夫婦の再生が肝心と一人納得してみる。

拳魂にふれる

2008年12月19日 | 読書
 先月、二十数年ぶりに酒田にある土門拳記念館を訪ねた。

 出来上がった頃に一度行った記憶があったが、その当時は写真にあまり興味がなく、大きな仏像の写真に対しては「なんで、こんなの撮るのかねえ」という感じだったと思う。ただ、妙にメインホールに展示されてある場面だけは印象が強い。
 もしかしたら、それはやはり写真の力なのか、と考えるときもある。

 今回の展示は、風景写真であった。
 ホールいっぱいにその世界が拡がるようで、ああ素晴らしかった。
 自分自身が、素人写真として風景を撮っていることが多いからだと思うが、プロ、それも第一級の作品に触れることの楽しさを感ずることができた。

 売店で買い求めた一冊のハードカバー。 
 『拳魂』(土門拳著 世界文化社)
 内容は、昭和40年代のエッセイ等が中心である。
 写真論も多く、古さを感じさせない。また逆に当時の感覚がしみじみと伝わってくる生活場面が描かれている小文もあった。

 写真家の文章は数えるほどしか読んだことがないが、本質を鋭く語るという点では出色の書のような気がした。たとえば、次の表現はどうだ。私は唸らされた。

 動きがある。そして動きには必ず目標がある。写真は動きの目標を撮ることである。

辞書指導はどこから…

2008年12月15日 | 読書
 『なぜ辞書を引かせると子どもは伸びるか』(深谷圭助著  宝島社)を読んでいたら、この部分が少し気になった。

 学習指導要領上、辞書指導は、1948年の学習指導要領試案で最初に登場し、1951年の指導要領試案で4年生から指導する旨が記載されるようになりました。これは、輿水実という国語教育学者がアメリカの国語カリキュラムをモデルにしたもので、アメリカの辞書指導が4年生になっていたのを写したにすぎません。

 アメリカの辞書指導のことが48年段階でどの程度わが国に伝わっていたのか、そのあたりのところが興味深く思えたのだが、少し調べたら肝心のそれは未解決ながら、他に面白いことがあった。

 まず深谷氏がいうところの、指導要領上に辞書指導が4年に明示されたのは、48年51年ではない。そこでは5年生のところで出てきていて、4年生になるのはなんと77年告示である。従ってそれまではずっと高学年という扱いのようだ。
 最初の試案に出てきたとき、「辞書を利用しましょう」という5年生の指導計画例が出されていて、ずいぶんと時代を感じた。
 例えば「目標」として、次のような文言がある。

 6 辞書の利用によって起こる興味を利用して、学習を自発的なものにし、学級あるいはグループ学習のために奉仕し、協力するようにする。

 個人学習としてのとらえとは少し違った意味合いを感ずる。
 「グループに一冊はほしい」という文や、簡易的な「作製」がずいぶん強調されているところにも時代状況を感ずる。どの程度教材として供給できていたのか、想像できない点もある。

 さて、図書関係教材の現在の状況は当時とあまりに違いすぎるし、その違いにそった指導がもっとあるべきだと思う。
 その意味では深谷氏の実践、提案には賛同する。ただ、辞書指導についてもう少し歴史を整理してみると、もっと指導事項が明確になってくるかもしれない。
 辞書指導とくに国語辞典については私も興味が高いところなので、改めてもう少し突きつめてみたい気がした。

ハタハタの季節を取り戻した人

2008年12月13日 | 雑記帳
 娘が6年生のときの発表会だった。
 劇中の母親役になり、子ども役に夕飯は何かと尋ねられて答えたセリフが
 「ツケダ、ハタハタ、ダ」。
 会場からの笑いは、親世代以上がみんなそれを食して育ってきたことを物語っている。

 ちょうどその頃、秋田県ではハタハタの自主禁漁3年が終わり、この後どうなるかと行方を見守っていたころではなかったか。(獲れてはいたが、完全に高級魚だった)。
 あれから十余年が過ぎ、今また季節魚として食卓に上るようになった。

 他県の方からは想像できないほど、私たちのハタハタへの愛着は強い。
 獲れなくなったそしてまた獲れるようになったということは、実は様々な背景や尽力があると予想されるが、まさに一つのドラマのだなと、先日の話を聴いて感じた。

 秋田県水産振興センター所長の杉山秀樹氏の講演である。
 ハタハタ研究者として名高い氏は外国での講演経験もあるという。

 ハタハタは「鱩」と「鰰」という二つの書き方をする。この字源、語源も興味深かった。
 「雷」は県民なら承知していることだが、11月下旬からの雷が、ハタハタの押し寄せるサインになっていることと関連している。そもそも「雷」の古語は「ハタハタガミ(ハタタガミ)」であり、カミナリウオとはまさしくそうだろう。
 「神」の方は国字だが、正月前の民衆へ神のもたらす大量の海の恵み、という意味合いらしい。神という字を位置づけられた唯一の魚…いかにハタハタの存在が大きかったかを思い知らされる。

 禁漁を決断した漁師たちを盛んに称賛する氏だったが、おそらく絶えず情報を提供しつづけた氏ら研究関係者の熱意と尽力は見逃せない。
 そして、生物資源を守ると口で言うのは容易いが、継続されていくためには環境問題だけでなく、経済や政治の問題として目配りしなければならないことを今更のように思う。

権力を感じさせるとき

2008年12月11日 | 読書
 ノーベル賞を受賞した益川氏のスピーチの話題が、ずいぶんとテレビで報道されていた。
 英語でのスピーチという形を崩すことがどれほどの重みなのか判断はつかない。
 しかし、益川氏が自身の決断の影響力を慮って「論文の英語はすべて読めます」と話されたことは大事なことだと思った。
 いわば日本の知性の一人であろう方が、英語を使えないわけではないことはきちんと知らしめておかなければいけない。

 さて、英語の小学校導入が秒読み段階である。
 総合が導入されたときから予想はされていたし、当時は自分自身も積極的な構えでいたのだが、この頃は少し迷いが生じてきた。それがどこから来ているのか明確にたどれないのだが…。

 先日、会議へ行くためにのった電車のなかで、
『知に働けば、蔵が建つ』(内田樹著 文春文庫)を読みきった。
 理解できない箇所もあったが、たくさんの刺激をうけた。
 2003,4年頃のブログ記事がもとになっているようだが、「今」を理解するために私にとってはとても貴重な一冊といえる。

 外国語教育について書かれた項目もある。
 ここでの「読ませる教育」と「聴かせる教育」との違いは実に興味深い。
 確かに、コミュニケーションの場で何度も繰りかえすことのできる「読む」という行為と、それが簡単には許されないだろう「聴く」では、そこに心理的ないや構造的な問題が生ずる度合が全然違う。

 オーラル・コミュニケーションの権力性

 ここで「植民地主義的発想」という言葉を持ち出すとは、さすがの内田教授である。
 英語教育の推進がこのあとどう展開するか先行きの見えない部分もあるが、次の部分はううんと考えさせられるし、見失ってはいけないことだと思う。

 「英語話者の知的威信が構造的に担保され、ノン・ネイティブが常に劣等感を覚えるような教育システム」を採用していることの政治的な意味

甘い読書生活は続く

2008年12月10日 | 読書
 自分の読書記録を見直してみると、冊数は100近くになってきたが、やあイカン、イカン。
 最近は文庫まつり、新書まつり状態で教育書から遠ざかっているのが明らかだ。逃避か。

 と情けない感じがしたので、県都駅前のホテルで行われた会議終了後にダッシュして隣のJ書店へ。
 教育書コーナーへまっしぐら。
 わずか15分ほどで4冊を選び購入した。

 今、読みかけの分厚い本があるので96冊だから、これを読みきれば今年もめでたくノルマ終了ではないか。最後ぐらいは教育モードで締めてやるぞ!

 と勇んでみたけれど、帰宅途中に雑誌を買うため地元の書店に立ち寄ったら、伊集院静の新刊文庫本が目につき思わず手にとってしまった。

 『眺めのよい人』(ゴマ文庫)
 題名もしゃれてるね。おそらく一番に読むんだろうな。

 甘い読書生活は続く。たぶんこれからも、この先ずっと。(どこかにあったな、このフレーズ)